民主主義未満

例えば、最近なら森友学園問題で刑事告発するのは政治戦略として良かったか悪かったか、吉祥寺で反天皇制デモを行なうのは有効か否か、野党が共謀罪に対抗するのに審議拒否をすべき・すべきでない、といった議論がありました。どれも、何が合理的な手法か、といったところで意見が近しい者同士で割れていました。

ですが、その3つだけ取ってさえ、全部の判断がきっちり同じになる市民の割合なんて少しずつで、みんなそれぞれ一個一個は違う判断なんですよ。

そういう手法の違いで相手をすぐに感情的に、または関係のない人格攻撃も含めて対立し合う、という、極めて荒んだ空気がずっと存在しています。

みんな、その現実を分かっているから、市民運動に参加しつつ、自分の意見は言わない、と決めている人が長い人でも結構います。あと、いつもどこか特定の政党や活動団体の判断について行く、とか、どうしても、そういう人の方が長く安定して幅広く活動しやすい空気があります。

でも、個人個人が自分の意思と判断で動いていかなければ、結局別の次元と枠組みで権力闘争や利権構造が生じるだけで、民主主義社会を求めていく根本が成り立たない。

手法の見解の相違はどうしても出てくるものです。
ただ、それをやられたらみんなが困る、というテーマは確かにあります。
民主主義社会なら反天皇制デモも含めていろんな意見があって然るべきで、そこを出した上で議論するのが筋です。
でも逆に吉祥寺の街の人に、地元と関係ないのに、右翼の街宣車や機動隊が集まってきて暴力的な空気になって怖かった、地元の活動団体は平和的に活動して親しみを持ってもらおうとしていたのが台無しになった、みたいな言葉を言うな、とはもっと言えない。仮にそう主張するとしたらそれも無理があるでしょう。

森友学園問題の刑事告発や国会の審議拒否は、高度に政治的で、法律や議会運営の知識・専門情報がないと、素人には即判断が付かなかったりします。ところが、それが支持している政党や仲のいい人物の激しい煽りがあると、微妙で複雑な判断であるはずの事で、もうバトルが始まって、お前はどっちなんだ、みたいに聞かれる。

日本人は合わせるのが得意ですが、個人の意見を尊重するという考えがまだ育っていないですよね。
個人が自分でしっかり考えていない割に、明らかに不釣り合いなほどの対立をすぐに始める。ここの意識を変えないと始まらないでしょう。
それ、そもそも社会運動の正常なスタンスでも民主主義の正道でもないから、と。

民主主義や個人の自由をもっと理解していかなければ、ただの言い争いで終わって勿体無いですよね。子供のケンカと同じで。
そういう雰囲気だと社会運動がますます非日常的になってしまいます。

共謀罪などのように民主主義社会を根底から揺るがしかねない、かなり重篤な危機が迫っているからこそ、みんな余計に意見対立する、というのもあるようですが、もっと身近な問題として誰もが参加できると良いのに残念に感じます。
本来は、自主的に考える勇気、間違える勇気があれば十分なはずです。
でも言えない社会があるから、そこから変わらないと日本人はロボットになってしまいますね。国の思い通りで、今の日本人は凄い危機なんだと思います。


別に思想信条の問題じゃなくて、左翼臭い毒々しさって実際にありますよね。右翼臭さでも政党臭でも一緒です。自民党はもとより野党でも政党臭さってあるじゃないですか、キナ臭い独特の。

いや、どんなスタイルだって自由なんですよ。でも、ただ税金払ってこんな社会制度じゃ嫌だとか、原発事故怖いからやめて欲しいとか、そういうシンプルで当然の権利である願いを普通の人が意思表示したかった時に、政治の世界はこういうものですから、って顔で、デーンと構えてね、かなり多くの人が嗅ぐのも苦痛な何ものかで待ち受けている、みたいな現実は事実あるんですよ。
それで、皆それぞれに「俺の所に参加しろ」と実質言っている。

なんか、それってフェアじゃないじゃん、詐欺みたいなもんじゃないの、と感じている人が大勢いるのに、「なんで声を上げないんだ、国民として、有権者として、民主主義社会に生きる一人の人間として無責任だ!」と来る。

他の喩えで言うならですね、ビジュアル系も入ったグラム・ロックとか、ヘヴィーメタルとかの音楽とド派手な格好が好きな人は、それが個人の趣味趣向だからそれでいいんですよ。
でも、それで、ヘッドバンキングしない奴は非国民だ!とか、意見があるなら大音量でヘヴィーメタルがかかった集会に来てギターもライトハンド奏法くらい出来なきゃ発言権はない、でも集会に来ない奴は民主主義社会の一員としての義務を放棄しているに等しいから、何をされても文句は言えないぞ!なんて言われたら、どうでしょう?
やっぱりそれって違うだろう、と多くの人が思うのは仕方ないでしょう?私はクラシック音楽が好きだし、収入が減っているのに勝手に増税されては困るから、当然の主張をしたいだけなのに、ライトハンド奏法の練習をする時間なんてないよ、と。

あと、動く奴が一番偉い、来ない奴は能書きだけ垂れるな、みたいな言葉が多い訳です。ですが、ここ最近ずっと癌闘病をしていた私からすると、はっきり言ってそれ、意図しなくとも相当な障害者差別・病人差別なんだよな、と感じる場面が多々ありました。

もちろん、そこも半分は分かるし、正当な主張である場合も多いんです。自分では何もしないで他人に文句ばかり言う、そういう無責任なマスに頑張っている人達が無益に疲弊させられる、という重大な弊害がありますから。

けれども、だから少ししか動けない人間は感じている事柄も口に出すな、というのでもやはり違うと思うんです。半分は同じ言葉と主張がある種の傲慢さである場合も多くて。
活動している人間が政治の主役、みたいなのって、忙しい人間や貧乏人も蔑視している、という、その程度の道理も分からない連中が人権とか民主主義とか言うのは矛盾じゃないか、と徐々に病状が悪化している最中にも行っていて何回感じたか分かりゃしませんよ。

だから、何かそういう次元でね、「政治の世界」の常識みたいなのが出来上がっていて、そこに乗るか反るかを前提に政治参加云々と言うのが少しおかしいし、今やっている人達が自分達の行動を広げていきたいなら、少なくとも後から来た人がこれって胡散臭い、とっつきにくい、と言っても怒っちゃダメだと思うんですよ。

結局、「オレ達のやり方に黙って付いて来い。でも、これが民主主義なんだ」なんておかしな理屈をずっと言っている面がある気がします。また、無責任に文句だけ言って主体性のない「お任せ民主主義」の風潮が、頑張っている人達をそういう所に自然と追いやってしまうという堂々巡り。
ここはやはり民主主義や個人の自由・尊厳が何なのか、一人一人が実質的に見つめて意識改革していかなければ、またそちらの方向に互いに声を掛け合って啓蒙し合わなければ、ずっと並行線のままなのが道理でしょう。

政治や運動に上も下もないはずで、それぞれの人がその人の身の丈なりに社会に関わり、各人の意見を言えるようにしていくのが民主主義の本来の姿なのではないですかね。

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# by catalyticmonk | 2017-06-19 01:29 | 希望社会 | Comments(0)

自由と命の爪跡

e0296801_02212372.jpg若い頃、よく旅をした。
知らない土地の風情や見知らぬ人々との出会いが、私に明るい解放感を運んできた。
ただ、自分が目にし体験して得たものを、思い出として語るだけでなく、誰かと共有したい、という気持ちにもなった。

それが普通の人なら故郷への望郷の念になったりするのだろう。
ところが、私には異国に何年も住んでも本当にその感情が起きなかった。懐かしく思い出せるほどの甘美な記憶がなかったからだし、目の前の暮らしが充実していたからだろう。
だけれど、喪った過去の日々に想いを寄せるのが望郷心の重要な要素であるのなら、似た感情は体験した記憶もある。

大阪で会社の夜逃げ倒産に遭った後、生活に困って仕方なく三重県の山奥に就職し暮らしていた頃、何年もただお金のために好きでもない事をして、しかも身動きが出来なくなっていた。楽しい事もなく、見知らぬ土地に一人であって、休日に緑豊かな湯の山温泉で絶景を眺めながら温泉に入り、食事をしていても、虚しさはちっとも消える事がなかった。
だから、鈴鹿山脈に沈む夕陽を見つめながら、世界中を自由に飛び回った若き日や東京での暮らしを思い出して、涙が出ないほど切ない気持ちになったのは、とても自然な事だった。

今の私は病気とは向き合っていかなければならないものの、あの頃に比べたらずっと幸福だ。
寂しい気分は、何か無念な気持ちが湧くと一層深くなるものだけれど、やはり社会的な動物である人間として、健康面も含めて社会に爪跡を残したい本能なのかな、と時折思う。

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# by catalyticmonk | 2017-06-19 00:11 | 忘れ物 | Comments(0)

市民共闘

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共産党支持者の多くは民進党なんて自民補完勢力だ、と思っているし、民進党も共産党には出しゃばらせたくない。
自由党や社民党は直近の都議選では大勝負がなく、無党派層でアンチ安倍政権寄りの人達も政党支持者同士の党派ごとにバチバチやっている感じに近寄りがたいものを感じて、白票を投じないまでも選挙応援を積極的にしにくい状況に置かれている。

党派対立が激しい局面で敢えて投票行為以上に能動的に選択する、ということは、その特定の党派に自身が組み込まれる形になるのだから、どっちにつくか、という空気は、結局最大多数派の無党派層を与党に対抗する勢力に取り込めなくする。
幅広い価値観の人々を緩やかに吸収出来なくなるのは自然な道理。

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私がこういう事を言うのは、自身の体験上の至って自然な実感がある。
私は去年から手術や入退院に明け暮れていて、選挙応援どころではなくなった。その前の年の2015年、戦争法案反対の抗議運動が終わった秋口くらいから具合が悪化したので、私があちこちの選挙運動に参加していたのはその前までだ。

その頃、私自身は何人かの特定政党候補の応援を末端でした。共産党候補の応援もしたし、同時に社民党や緑の党の候補の応援もした。
そういう事を現に多くの無党派市民層がしていたし、「野党共闘」という言葉が現実的な形を取り出す以前から、私が二度の都知事選挙で宇都宮健児さんの支持・応援をしていた事もあって、幅広い支持層と横のつながりが生まれた影響も大きかった。

宇都宮健児さんを支持した者同士が、互いにそれぞれ緑の党や共産党、社民党、生活者ネットワーク等々の候補者を応援し、宇都宮さんご自身も自分を都知事選で支持してくれた人々や野党の選挙応援に方々を回られていた。

ただ、実際にはその当時から政党間毎の様々な軋轢はあって、当初はその難局も緩やかな市民層のネットワークが互いを励まし合うような形で支え合っていたのだけれど、段々とその歪みが積み重なり大きくなっていく一方で、仲間であった人々がバラバラになり、あるいはどこか特定の政党の強固な支持者に収まっていく、という過程がどんどん進行していった。

SEALDsが野党共闘を呼び掛けて飛び回っている頃には、私はすでに手術台の上だった。
手術後間もなく少しだけ都知事選挙の街頭宣伝にも参加したが、野党統一候補をめぐって宇都宮健児さんが出馬を辞退される、という出来事が起きていて、以後、それでも宇都宮さんを支持し続ける人々と、かつては宇都宮さんを支持していたけれどどこか特定の野党についていく人との間に決定的な溝が生まれ、また宇都宮さんご自身も、以前のように野党共闘の看板としていろんな選挙に呼ばれる、といった機会がなくなっていったようだ。

私自身は宇都宮さんを都知事選挙で支持する事が市民運動参加の大きなきっかけとなった人間で、それ以前に311直後から反原発運動には度々参加していたものの、がん告知や諸々の個人的事情でそれどころでなくなっていた期間も長くて、あくまで病気の小康期に都知事選挙関連で徐々に広がっていった面が強い。

それでも独立独歩でものを考え行動する人間なので、自分を単なる宇都宮信者とか山本太郎信者みたいな分類に入れられる気はさらさらなくて、候補者や政党の支持もその時々の状況や具体的な政策を見て選んでいる。

ただ、この安倍政権が長らく高い支持率と議席率の中で盤石に続き、特定秘密保護法や安保法制、共謀罪といった重大な法案が数の力で強行採決されまくる難局の中で、そこに対抗している市民はまとまった力になるべきところを、ひたすら分裂していく一方だった。

e0296801_07542019.jpg何か結局のところ、ずっと昔から続く日本の市民運動の図式の流れそのものであって、それが変わるかも知れない、という空気が高まった時、311以降にも、特定秘密保護法や安保法制反対の頃にも、新しい積極的な政治参画層が一般社会から流入して、一部は既存の特定政治勢力に吸収され、大半は去り、ごく一部の人々がそれでも新しい流れを模索する、といった繰り返しが成されているのは間違いない。

だけれども、全体としては緩慢をつけながら弱体化する一方であったのも確かで、ただ昔から変わらない当然の流れだ、と受け入れていてもいけない気がする。
今、野党共闘という言葉は継続しているけれども、それが本当の意味での寛容な空気や多様な価値観・政治信条の融和性を示しているのだろうか。

一般人が、例えば民進党候補や共産党候補を同時に積極的に応援しながら、複雑な党派対立に巻き込まれ後ずさりしないで済むような、そうした空気作りがないままならば、ますます与党と既成権力の看板の架け替えでしかない勢力が、庶民置き去りの横暴な政治を続けることは疑うべくもない。

e0296801_08061295.jpgだから、現実的には既に「野党共闘」という言葉もほころびを見せ始めているのだと思う。
「野党共闘」と言った場合、それが「市民共闘」の象徴として正しく機能するのであれば健全なのだけれど、実際にはそれの意味する「野党」とは、既存の「国政政党」である民進党、共産党、自由党、社民党の四つを指しているに過ぎない。国政参加を目指しているその他の政党支持層や独自の政治見解を持つ人々にも息苦しいものを感じさせる。

それがどんなに合理的な判断と思えても、異なる価値観の人々への過剰なごり押しは禁物だ。それは安倍政権に対抗する市民層の分裂を招くだけでなく、政府に不満を抱きつつ政治参加には消極的な層に連帯の輪を広げていく事を困難にする。

「野党共闘」という言葉で括られている各党の支持者は、当然元々自勢力の拡大を政治集団の原則として持っているのだから、「野党共闘」の大義と共に、どんどん謙虚さを失い、野党四党支持層以外の有権者に以前よりも声高にごり押しをしている面がある。「野党共闘」という言葉を使って自党への勧誘を必死でしていて、それでますます全体としては安倍政権に対抗する仲間を増やしていけなくなる負け試合に向かっている。

いや、各党が頑張ればいい。出来る事なら野党共闘も無党派層やその他の政治勢力の取り込みも行なえるような融和的な形で行なって、与党打倒後の受け皿を健全に模索していって欲しい。
だけれども肝心な目的は、たった四つの「野党」が連帯し合うところに焦点がある訳ではなく、市民が、有権者が共闘するところにあるのだ、という点を今一度忘れないでもらいたい、と願っているのは私一人だけなのだろうか。
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# by catalyticmonk | 2017-06-18 06:07 | 希望社会 | Comments(2)

私が病気をしてから日本の政治運動や社会運動について気付いた事柄

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単に病気になっていろんな所へ顔を頻繁に出せなくなり、市民運動も選挙活動も、物理的に遠ざからざるを得ない立場に長くなってみると、如何にそれが普通の人が関わり辛いものなのか、改めて障壁の大きさを痛感するところが増えていきます。
絶えず揉めて錯綜とした人間関係の市民運動界隈にたまに行くと、公平に振る舞っているだけのこちらが、ギクシャクしたイヤ〜な空気の緊張感を味わなければいけなかったり、どこの誰が選挙の候補者としていいのか、一般人にとって定かな情報は調べなければ伝わってこない状態なのに、こことそこを応援して!という段階からの勧めばかりが飛び交っていたり。
こんなのじゃ今関心のない外側の人達なら尚更関わりたくなくなるに決まっているし、広がらなくてむしろ当然だ、という決定的な印象を受けるのです。

じゃあ、代案を出せよ、ではなくて、それが外側の人の実感だ、という部分での話に恫喝したって始まらないでしょう。全体的に押し売り的な倒錯した論理の蔓延を感じてしまう。

例えば、デモだけやっていても政治は変わらない、選挙の時だけ野党に投票しようとだけ唱えていても都合が良過ぎる、もっと普段から地域のつながりを大切にして、選挙事務所とかでボランティアしたり、ビラ配りしろ、そういう横のつながりを自民党はしっかりやっているから勝つんだ、といった話も従来からどこの政党支持者でも熱心に主張するところで、全部正論なのですがね。
でも、そういう主張が出る団体や政党支持者は、大概同時に「こうしなければ無責任だ」くらいの強い調子の事までボロボロ発言しているところがあって。

そんなに押し売り的に二者択一でものを言ったら、「こちらは本心、政党はどこも言う事と立場がコロコロ変わるし、そこまで応援したいところなんかないんだよ」とその人なりな正当な理由があって積極的に支持する所がない人達を、端から侮辱しているのと変わらないですから、そういう事を言っている人達の活動全部に好意を抱けなくなるのも当然です。

いや、それでも、その時その場その状況で考えて具体的な候補者や一定枠内の政党を応援するのは大切だし、見ていても政治熱のある市民はすでにもうみんなガンガンそういう事をしている訳ですが、そこも点でしか関われない病人や、ニュースやネットもじっくり見ていられない忙しい人達は、それをしろと言われても正直ついていけないのです。

やはりどこの政党も運動も、それぞれに自分ところの活動を事業として大きくするといったところに熱心で、その引き入れを必死でするのですが、それに関われない立場の人が賛同しやすい姿勢ではないし、引き込むのに熱心過ぎて相手に傲慢になっている部分への無自覚が、さらに一般人を政治から遠ざけている、という視点が薄いままだと厳しい気がします。
相手のペースや立場も尊重しながら、その人が純粋な気持ちで意欲関心を持ったものを欲張って潰さないスマートさが必要なのだと思います。

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# by catalyticmonk | 2017-05-23 23:37 | 希望社会 | Comments(0)

忘れ物

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今の日本だと、みんなキャッチーなフックのある短い言葉だけに反応して、相手の言葉の奥を吟味するゆとりがどんどんなくなっている気がする。
情報過多だし、忙しい暮らしだから、必然的にそうなる、という要素も大きい気がするんだけど。

でも、理由や原因が何であれ、個人が自分の心と頭でしっかり物事を感じ取らなければ魂そのものが痩せ細っていってしまう、というのは強く感じていて、何でもかんでもコンパクトにキャッチーに、という文化が危ういとずっと感じているね。
IT文化の負の影響も絶大で、読書をしながらじっくり思索や想像力を膨らますよりも、ツイッターとか、音楽や映画業界が衰退しているのも異常。
なんか利便性が行き過ぎて、ちっとも合理的でない時代に入って来ている気がするんだけど、それが堕落した表現だと思われていたアールヌーボーがまた見直されたみたいに、欠けているものに気付く前触れだったらいいな。臨界点てのもあると思うんだよね。

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# by catalyticmonk | 2017-05-23 23:06 | 忘れ物 | Comments(0)

いいじゃんか、ちょっとふっくらしたくらい

別に好みの問題で浜崎あゆみの歌なんて、昔から一ミリも興味なかったけど、それでも公平に言って全然普通に綺麗だと思うんだけど。
なにさ、女子プロレスラーって。女子プロレスラーにも失礼でしょう。いつも思うのは、日本て美の基準が物凄く画一化されているなあ、と。

世界中、いろんな人種や文化、体形の人がいるから、その中で好まれるビジュアルやファッションも幅があるのに、日本だと狭いから、その基準が。
で、流行りが変われば、またどうせ一斉につい数年前まで持て囃していたものが廃れるんだ。

なんで男性も女性も顔や風貌が同じ系統ばっか持て囃されるんだよ。
ちょっと派手めだと「ケバくて頭悪そう」とか、髪の毛が長い中年男性はチンピラか卑しい(という偏見付きの)「貧乏人」だとか、ちょっとふくよかな女性はもう「激太り」だとか、なんだかな、って。
なんで、みんながほっそりして、彫の深い濃い顔じゃない童顔の子ばかり持て囃し、女性自身もそれを必死で追求しているんだか、私には意味不明です。

いや、自分もスラヴ系のほっそりとした顔の系統が好みだな、とか好ましく感じる個人的な傾向はあるんだけど、そういうものの幅って、もっと自由にあっていいじゃん。男が40代になったら、みんな厳つくしてなきゃいけない訳でもない。

インドの伝統的な基準だと、女性はこれくらいふくよかじゃないと魅力的でない、とされている場合が多い。
昔の浜崎あゆみと、この今の写真を並べてどっちがいいか、聞いてみたらいい。大概のインドの庶民は、今の顔の方が魅力的だ、と女性も含めて言うはず。

例えば、パンジャーブ地方はインド人の中でもアーリア人の血が濃くて、そういう血統で現代的なファッションの若者だと、もう何人だか分からない。で、そういうパンジャービーのギリシャ彫刻みたいな精悍な顔の青年が、日本の基準で行ったら純然たる肥満体形のコロンビア人の女の子見てメロメロになっているのを見た時があって。「あ~、やっぱり美の基準て広いなあ」と自分の感覚の限定性を痛感したもんね。

こっちは今抗がん剤治療で一日一食でも太っていくから、ダイエットしたくても空腹が酷くてね。運動しようにも動くと投与間もない期間は具合悪くなるから。薬はまた人工的な行為だから、自然治癒のように適度なバランスを保てる訳ではない。だから、意識的努力も必要となる。どちらにしても治すためなんだから我慢するしかないし。
そういう個人個人の事情があってそれぞれだから、取り敢えず太っていてはダメとか、痩せるのはダメとかいった変なプレッシャー抜きがいい、と言う話だよ。

浜崎さんは突発性難聴で、ステロイド投与をしているのなら副作用で太る場合もある。
結局個人個人の優先順位もある。浜崎さんが抗がん剤投与で太る私と同じようにステロイド投与で太っているのなら、なおのことそれは仕方ない話でしょう。

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# by catalyticmonk | 2017-05-23 22:37 | 忘れ物 | Comments(0)

手法の相違と大同団結

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うーん、今日、衆議院本会議で共謀罪法案が可決されたわけだけど、社民党や自由党本会議強硬に抗議欠席、共産党や民進党は出席して牛歩もしなかった、と一部から非難轟々だ。
森友告発プロジェクトが安倍昭恵夫人含めての刑事告発状を東京地検特捜部に提出した話でも、そんな事したら戦法としてダメだ、バーカ、とかまで言葉が飛び交っていて。

いや、手法として一番効果的な正しい判断を見極めていかなければいけないのは当然の話なのだけれど、手法の判断がいろんな意見が出るのは当然のことでしょう。
そこで、共謀罪成立を阻止させたい、森友問題などの疑惑がうやむやにされるのはおかしい、だから安倍政権を退陣させたい、と大筋では願うところが同じ人々が、憎悪も露わに罵倒し合うという行為が何につながるのか。

私なんて素人だから、そういう手法の是非の判断がつかない場合は多いし、私よりも現状日本の有権者の大半は選挙に行かないくらい政治への関心が薄い。
そこで、なんとなく、「え~、そんなものも自由に言えなくなる法案なんじゃないの?テロのためって本当?」とか素朴な疑問や関心を抱いた人が、自分よりも詳しくて先に行動している人同士で辛らつな激しい言葉の応酬で言い争っている市民運動の人達のやり取りを見ると、「なんか気になるんだけど、よく分からないのにどちらかにつかないといけない」みたいな様子に行き当たった時点で、大概は脱落しちゃうんだ。
そういうの、本当にもったいないよ。

実際、自分も病気してから、それでもずっとそういうトーンで激しくやり合う市民運動の世界にガチで関わり続けたら、もう体が持たない、と実感する瞬間が何度もあった。
命がなければ、自分たちの暮らしを続けていけれなければ、もう政治への関心以前だからね。
多くの人が、暮らしや健康を維持しながら、なおかつ自分達よりも全面的に関わっている人達の活動に関わっていける、という形でなければ、手法をめぐっていがみ合っても、本質的なところではもっと負けてしまうんだと思う。

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# by catalyticmonk | 2017-05-23 22:27 | 希望社会 | Comments(0)

差別意識と社会構造

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差別はやはり社会の構造から変わっていかないとなかなか無くならないと思います。
「このオカマ野郎!変態!」
「女々しい奴め!」
「お前、男だろう!」

どの言葉も差別意識に満ち満ちている言い回しなのですが、それが文化として根付いてしまっていると、男がどうのこうの、なんて言わなくても勇気を出せ、とか、メゲてばかりいても仕方ないじゃないか、という他の言い方があることすら分からなくなってしまいがちです。
そういう差別発言が、その人の生きた切実な感情や価値観とさえ結びついてしまうから、なかなか個人間でそういう相手の差別意識を諭そうとしても容易ではなくなるのです。

それでふと思い出すのは、元自衛官の年上の知人が、20年以上昔に若い私にこう言っていた話です。

「……俺たちは散々ソ連や東側諸国の核の脅威を言い聞かせられて来て、自衛隊はアメリカと日米同盟で手を結んで自国民を守っている崇高な使命を持っているんだ、とずっと教えられて来たんだ。
それが冷戦時代はあんなに悪魔のように言っていたのに、ソ連が崩壊した途端に勝った勝った、良かった良かった、だって?ロシアはまだ核を持っているのに!
共産主義のソ連がなくなったからもういいんだ、って。あれはたったそれだけのことのためにやっていたのか?そんな話だったのか!?」

素朴で真面目な彼だからこそ、でしょうが、ソ連がなくなった途端に冷戦に勝利した、とはしゃぐ西側諸国のニュースや自身の過去の同僚の姿を見て、イデオロギーの差で過剰に互いを危険視して煽り合い、軍事対立して来た冷戦の虚しさを痛感したのだそうです。
長年彼は共産主義者や社会主義者の日本人は国賊だ、と思い込むくらい忌み嫌うイデオロギー差別を持っていたのだそうですが、それが、周りの言うトーンが急変したものだから、貧乏労働者としてにわかに労働運動に関心が出てきた、と言っていました。

「もう、世の中、立場が変わると何が正しいか分からないもんだよ」
そうやって西新宿の飲み屋で彼が呟いていたのを思い出します。
彼のあの話は、まさに差別問題と社会構造の関係を、ズバリ20代の私に理解させてくれました。
人は環境によって簡単に差別意識や偏見、先入観を植え付けられてしまうけれど、社会全体の雰囲気が変わればそれもまた大きく変わるものなんだな、と。

差別意識と社会構造の関連で他にも大きなテーマとしてはLGBTへの差別問題も大きいでしょう。
「差別発言は、当事者の気持ちについて勉強しないと、悪気が無く出てきてしまうもの。教科書がLGBTに関する記述を一切しないと、差別発言に満ちた社会になってしまう」、そうやって私に言ってくださった方がいました。

また、ジェンダーに関わる差別問題は根が深いので、法律で制御しようとしたり文章を書いているくらいじゃ簡単には変わらない、という意見もあって、差別をなくすには早期の人権教育が重要だと私も思います。
LGBT問題に関心を持つ以前に、バッドボーイ・カルチャーやマッチョを志向していて、そもそも人権意識という発想自体が軟弱で嫌いだ、という人たちさえいます。

差別発言をなくしていくには教育が重要ですし、差別意識そのものをなくしていくには社会構造そのものが変わらなければなりません。個々人の自覚と文化発信や社会教育という意味も含めて、すべては教育と政治に行き着きます。

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# by catalyticmonk | 2017-05-19 12:43 | マイノリティー差別 | Comments(0)

死を忌み嫌うマナー

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5月14日付の朝日新聞の記事に「(声)喪服で飲食店はマナー違反?」と題されて、以下のような記事があった。

〈少し前のことになる。親族に不幸があり、私は愛知県東部の郷里を訪れた。告別式は正午前に終わった。空腹を感じたので、駅ビルの2階にあったすし店に立ち寄った。店長の異様な視線を感じたが、そのまま食事を済ませた。店の外に出た途端、店長が若い店員に怒鳴る声が聞こえた。「塩をまいておけ!」 

どうやら、私が喪服を着ていたのが気に入らなかったらしい。縁起でもないと思ったのか、ほかの客への配慮なのか。うかつだったかもしれないと思いつつ、それなら「申し訳ございませんが、ネクタイだけ外していただけないでしょうか」とひとこと言ってほしかったとも思った。 

以来、喪服で飲食店に入るときは黒ネクタイは外すことにしている。だが、一方で思う。電車やバスなどでは喪服の着用をとがめられたことはない。公共交通機関では許容されることが、なぜ飲食店では許されないのだろうか。 

誰でも、身内や知人の葬儀に駆けつけることはあるはずだ。喪服は、そこまで忌むべきものだろうか。〉


死を忌み嫌う民間風習故の塩まきの儀式だけれど、私の郷里でもある愛知県は全体的にそういう事柄に偏狭なところがある地域性なので、これに類似した変な出来事は多いかも知れない。
ただ、葬式を行なう仏教寺院側の解釈は、死者は仏の修行の旅に出る者だから、それを忌み嫌うのは仏を忌み嫌うことである、として、こうした解釈を取らないよう。あくまで、死を忌み嫌う民間の俗習であって、マナー違反ではない。

そもそもが死を忌み嫌うマナーなどといったもの自体が、死にゆく存在である人間の妄念ではないだろうか。
今、癌闘病の真っ最中の人間の入院先に見舞いに行くのに喪服姿で駆けつけるとか、確かに特定の状況下では非常識とも思える形になる場合もなくはないだろう。だから一定の他人の心情への配慮があってもいい気がするものの、本質的にそれが公共性のある合意として強く他者に強要され得る正当性を持つものとは思えない。

個々人によっても解釈が異なる心理的なものを「マナー」云々と主張して、地元の人同士でも揉めているパターンが愛知県では珍しくなかった。
そうした問題はマナー意識全般にあるような気がする。自分の価値観や感覚・信条を他者に押し付けるのに「マナー」である、という主張が過剰に使われがちなのだ。そして、元々閉鎖的だったり保守的だったりする土地柄や環境だと、こうした問題が多発しやすい、という理屈のようだ。
死を忌み嫌う民間の俗習自体は古くからあるものな訳だが、今の時代は、日本全体がそういう大らかでない方向に進みつつある気が私はしてならない。

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# by catalyticmonk | 2017-05-15 00:58 | 忘れ物 | Comments(0)

精神論の適用可能範囲

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先程の会話。
「大切なのは鈍感力!粘らないしなやかさ!」
「鈍感な人が鈍感力鍛えてもなあ。敏捷性はないし」
自分のことね。相手の感情をその場で読み取るのが遅い。

それを補うために相手の行動や発言をじっくり観察する癖がついた。ただし、それはその場その場で即発揮される臨機応変さではなく、事が起きてから物事を観察する非常に反応の遅い方法だ。
これをやらないと、私は人間としてほとんど機能しない。
鈍感力で上手くいくのはいいことだけれど、繊細だったり、掘り下げる性質の人も、それぞれの個性だからね。

私は虐待やいじめを受けて育ったんで、弱者やマイノリティーの人への世の人の差別や横暴って、よく考えていない軽はずみさからたいてい生じる、と感じている。
そこに何かをしっかり言って行こうとしたら、踏ん張って粘らないといけない面もある。

ただ、心が強ければ、その場その場で間隔を空けながらでも、繰り返し少しずつ粘っていけるだろう。
そういう、短絡的でない、地道なアプローチを古今東西の聖賢は語ってきていて、やはり一定の人間の知恵が帰結する道理はその辺りにバランスを見出しているのだとは思う。

でも、私の見てきた限り、人それぞれの持って生まれた性質の差は大きくて、まさに個性なんだな。
このやり方でやると上手く世渡り出来る、と言い切り過ぎても、結局、永遠にある種類の個性の人達の多様性が否定されたままの社会になる。

結局、両方必要なんだと思う。
踏ん張り過ぎたら折れるからしなやかさは大切だし、何かをしっかり言っていこうとしたら、踏ん張って粘らないといけない面もある。
お気楽で行こうとすると、そこをスルーしてしまいがちになる。
また、個人の内面が楽に生きる方法としては、生きている者は色々、欲や執着だから、そこから意識を切り替える軽やかさが肝心だろう。

そして、精神論は、絶えず限定的な仮定でしかない、という点も忘れてはならないと思う。
そうでないと、その人に合わない紋切り型の価値観を押し付けられてとても苦しむ人がいる、というのも私はよく知っている。
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# by catalyticmonk | 2017-05-14 01:41 | 忘れ物 | Comments(0)

いじめ社会

本当にそうだよな、と思わされるアメリカの学校で起きた出来事の動画を観ました。

SNS上の掲載なのでリンクは特に貼りませんが、ガンになった祖父を励ますために坊主頭にした11歳のジャクソン君を、同級生がそんな事情も知らないでいじめた問題に学校のティム校長先生がどう対処したか、という話です。
校長が生徒を集めていじめられた生徒に自らの髪をバリカンで刈らせて、いじめた生徒を一人も責め立てる事もなく、人の心や事情も知らないで笑い者にしたり悪口を言う行為の愚かしさを諌めたところ、後でいじめた側の生徒らがジャクソン君に謝りに来た、という内容でした。

でも、アメリカ人なら、直接知りもしない伝聞を根拠に誰かを冷たくあしらったり、悪意のある態度や行動を取るにせよ、まだしも相手がはっきり何をされたか目の前で分かる形でやるでしょう。
露骨と言えば露骨だけれども、だから、一応その気になれば本人が「なんだと、この野郎!」と言い返す事も簡単だし、決着がつくかつかないかは別として、個人で正面から議論を挑み、周囲に賛否を問いかける事も出来る。
ここが日本とは全く話の土台が同じにならない部分です。

日本人は堂々とやらないで裏から手を回しがちです。
相手がその場では即反論や弁明が出来ないような、遠回しな言い方で、相手にだけそうだと伝わるような嫌味を言ったりします。ただ自分との関係が近しいか・遠いかだけで、自身では確認もしていない伝聞の噂話や主張を取り入れる判断を簡単にしてしまう。
だから実際、そもそもはっきり言いようがないのです。雰囲気の中での忖度や恭順で誰かへの評価や判断をしてしまいやすい。
雰囲気の中での空気読みだから、表立った直接的な言い回しや態度を一生懸命に避けて、集団でじわじわと相手を締め上げていく。

これではどんなに勇気ある個人でも、正当な言い分がある人物でも、自分に起きている理不尽な扱いを上手く訴えていく事が難しくなります。
おまけに自分をそうやって吊るし上げている者の大半の顔ははっきり見えないし、やっている側も自分が全体としてはどんなプロセスに関わっているか認識出来ないまま。
結果として、表面的には品行方正な普通のいい人達が多く関わる群衆心理的な状況が発生しやすいので、冒頭に書いたアメリカの校長のような清廉潔白な人の行動がストレートに響く設定は、とても限られている気がします。
日本ではちょっと粗暴だったり、露骨な悪態をつくタイプの人間の方が、まだずっと裏がないくらいです。

私がヨーロッパ人の人達と口論した時に感動したのはそこです。
自分に露骨な悪意ある態度や失礼な真似をした相手に、直接「どうして、そんな不当な態度を取るのか私は納得出来ない」と詰め寄ると、日本の文化で育った者からするとびっくりするくらい率直な返事が返ってきて、お互いのわだかまりが溶ける、という体験を何度もしました。
そんな体験は自分の生まれ育った国ではまずなかったので、私は涙が出るくらいに嬉しく思ったものです。
日本人とでも極親しい間柄ではそういう事もなくはないですが、社会的には大概はまず通用しません。せいぜいが、その場だけヘコヘコと恐縮したり笑顔を見せて、後から全然表面的な態度でしかなかった、と気付かされる場合が多い。

大の大人でも子供みたいないじめをする社会。
そこを自分達に言い訳する材料が、協調性の美徳だとか、忍耐や謙遜だとか、周囲の多くがそうしている現実とか、山のように用意されています。
もし、その人が卑怯者で、他人を都合良く利用出来ればそれでいい、という人達なら、私にはもう何も言う言葉がありません。
だけれど、もしも人としての真っ直ぐな心があるのなら、我々自身の判断と勇気がいつも試されているのだと思います。
どんなに親しい人の言葉でも、周りの空気がどうであっても、そこが受け身なままでは、自立した「自分自身の」良心が活かされて、清々しい思いで人生を送る日は永久に来ないでしょう。
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# by catalyticmonk | 2017-05-12 00:18 | 忘れ物 | Comments(0)

手術前日の夢

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自分が今年の1月終わり頃に手術を受ける直前に書いた夢日記を再発見。読んでみて大ウケ。
私自身はテンションの高い際中に勢いで書き残しているので、あまり覚えていなかった。実際、いつこんな事を考えていたんだろう、と不思議に思うような記事までブログには残っている。

今、読み返すと、やっぱり正直心細かったんだろうな、救いを必死で求めていたんだろうな、なんて自身で思わないでもない。
たとえ夢であっても、こういう時の体験は、現実並に心に滋養を与えてくれるものだ。

何が救いを与えてくれるのか。自分自身のための創造行為を無意識が行なっている、とも言えるだろうが、私はそれを神の恩恵と呼ぶ。
そして、ここに出てきた女性は、私の女性的側面の投影・アニマなのだろう。

以下がその記録。


夢。
私は都市郊外の南北に走る幹線道路近くの、木造平屋建ての粗末な長屋に住んでいる。
イメージとしては、私の育った時代の愛知県尾張地方にある尾張中央道周辺の、片田舎に住宅街やスーパーマーケット、飲食店が点在する環境に似ている。
その狭くて暗い長屋に、彼女と同棲しているが、その女性を夢の中では私は昔からよく知っている気でいる。どうもとても危険な女性らしい。

私は毎日の暮らしと環境にとても辟易している。
女性と転居することになる。何か不穏な事情付きで。
今度は、東西に走る幹線道路が平屋の北側を走っている。この道路もおそらく国道1号線が愛知県海部郡の弥富辺りを通っているイメージだ。私はその辺りに住んでいたことはないし、周辺の木々や植物、日の光の感じが現実より随分熱帯地方っぽい。平屋もなんだかオレンジ色の壁で南国風だ。

建物を挟んで幹線道路に面している所とは反対側の庭に出る。
南側は次の住宅地まで広々とした水田が敷地のやや下に開けていて、日当たりも良く開放的な雰囲気に、私の気分は晴れ晴れとしてくる。
小さくても庭木が周囲を囲んでいて、もっと色々植えたなら素敵な和む空間になりそうだ。まだ敷地には芝生も植えていなくて、壁も地面も、目の前にある南インドみたいな家の古井戸も、なんだか全部オレンジ色がかっている。

私は、もう覚悟を決めなければいけないと思って、古井戸の前で彼い女の手を握り、共にずっと暮らしていく決意を伝える。
どうも夢の世界でも私は暗い過去を持ち、そういうことに慎重な男であるようだ。でも、ここまで来たら引き下がれない、言うべきことは言わないと、なんて考えるあたりも現実の私の発想そのまま。
不器用ながら単刀直入な愛の言葉を告げ、彼女と手をつなぎ合う。彼女の方はそれに驚く様子もなく、当然だ、といった感じで淡々と受け止めていて、私はホッとしたが、内心少し物足りなくもない。

彼女は唐突に庭に木を植えようと言い出す。
すぐに彼女に握り合った手をそのまま引かれて、家の西側の細長い通路を抜けて幹線道路沿いの北側の庭に連れて行かれる。
私はこんな場所より南側の井戸の前がいいんじゃないか、と提案するも、彼女は強く確信に満ちた表情で「ううん、ここでいいのよ」 と言う。

見渡せば北側にも庭木はすでにいくらかあって、白いテーブルと椅子もある。そして、懸念事項である幹線道路側も、家の柵の上から見えてくる景色は熱帯地方の明るい雰囲気が満ちていて、ここもまんざらでもない寛ぎの空間になり得そうだ。
道を渡った先には工場か何かの境界木なのか、15メートルほどありそうな立派な木立ちが燦々と緑豊かに輝いて、葉で日光を受けながら聳え立っている。

そうか。私たちは、ここで植えた苗があの木のように大きく育つまで末永く健やかに暮らすんだ。
北側なら植えた木が大きく育ち過ぎて南側の日差しを遮ることもない。そして、そうなるまで長らく健やかに私と暮らすつもりでいる、彼女の静かな強い意志と、意外と慎ましやかな願いがゆっくりと伝わってくる。

なんて調子のいい夢を見た朝に家を出て、明日の手術に向け入院する。
結構素直に感動したので、ただの願望投影以上に内的癒やしがある夢だった気がする。
去年から4回目の入院で、付き添いは毎回誰もいない独り者なんだから、このくらい虫のいい夢を見ても許されるだろう。

天気が良くて、窓から富士山が見える。病棟の中は相変わらずシャツ一枚になっても汗が出てくるほど暖かい。
春にも夏にも秋にも入院したが、これでオールシーズンを通して徹底した温熱療法が、ガン病棟の基本としてあるのが実感できた。
夢の中で見た大木のように、日光をたくさん浴びて葉を実らせたい。
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# by catalyticmonk | 2017-05-10 00:34 | 忘れ物 | Comments(0)

外づらのいい日本人と共生社会

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市民運動関係者から何やらどこかから排除された、とか、吊るし上げられた、なんて話は定期的に耳にします。
まー、各人と運動体・組織毎の思惑はありますからね。そこが合わなければ考えが違うんだという事でしょう。

そういうのは、大概当人達から直接聞くと、どっちの話も「なるほど、そんな感じだったのか」となる場合が多いし、一番重要なポイントが当事者同士しか確認しようのない話だったりもするので、私は八方美人とかでもなく、簡単にどちらか一方だけの肩を持つという判断はしないようにしています。安易な決めつけや思い込みこそが、最も理不尽に相手を苦しめる事だ、というのも痛感しているからです。
でも、そこも自分との付き合いの浅い・深いだけで安易に決めてしまう人がとても多い気がします。それでは理不尽な差別や偏見は一向に減らないのも道理なのですが。

悔しい事も多いでしょうがね。例えば私も本人に許可を得て撮った写真を他の人達から削除しろ、と言われて、最初「構わない」と再度言っていた相手が、後から「色々と考えるところがあったから、過去のものも遡れる範囲でいいから消してくれ」と言われたり。そんなの、当人に頼まれたら消しますけどね、裏で圧力をかけたのが分かり切っているじゃないですか。
あれは胸が抉られるくらいに悔しかったなあ。何日間も、夜も眠れなくなるほど他人から集団で絡まれて筋を通すために粘っていたのに、そんな卑怯な手を使われたら、こっちが何も表立って反論出来ないまま、「あいつはトラブルメイカーだ」なんて形になって、不愉快な反響が後々まで続く。でも、そうと分かっていても、一回一回「待ってくれ、実はこういう話なんだ」なんて言う訳にも行きませんから強力な重圧です。

もっと露骨にデマを吹聴する人間もいますしね。
でも、びっくりするのは、そういう行為を結構評判のいい人物がしている、という現実に度々遭遇する事です。評判がいいからこそ、そういう思い切った事も出来るし、自分のメンツを守るのに必死だからデマでも言ってしまう、という話なのかも知れませんね。

だから、楽にやりたければ目立っちゃいけない。昔から左翼やリベラル派と日本で呼ばれている人達の世界は、集団主義の恫喝集団みたいな負の側面があるようです。
特殊なクレイマーだけの話ではなくて、大きな組織や運動体ほどそういう事が増えがちなんです、日本の市民運動の傾向として。
自分が「これではいけない」「こういう願いを叶えたい」と純粋な動機で関わったのに、そんな事ばかりで疲弊していたら願いや希望以前のところで空回りする訳ですから、馬鹿馬鹿しくなって消えていく人が多いのも無理ないんです。実際、そういう風になったら意味が薄れていきますからね。

また、その中で上手く立ち回って行こうとポジション確保に囚われていく人も多い。政治の世界が汚い、と言うのも、目の前にある現実なりに生き残っていけるように妥協や権謀術数を重ねるからでしょう。

そういう事にほとんど遭遇しない人もいます。
でも、私が見てきた限りでは、自分自身の判断で行動したり、意見をはっきり言う人ほど、かなり明白にそういう酷い目に始終遭っています。
何が違うのでしょうね?
みんな、自分のところのイエスマンを欲しているのですよ。余計な事を言わないで、裏方を黙々としてくれるか、自分達の活動をひたすら礼賛してくれる人だけが欲しい。活動が大きくなるほど、その傾向が集団の中で高まっていく。

日本人は元々、違う意見を言う相手ともゆるくまとまっていく、という事が苦手なんです。違う宗教や民族の人達と、同じ生活空間で日常的に暮らしている、という環境が薄かったからこそ、意見や価値観の異なる人達と互いの多様性を認め合ってマネージしていくという行為が上手く出来ない。
むしろ阿吽の呼吸とか忖度、「だよね」の精神で、みんなで空気を乱さないようにしていくのが社会と人間としての美徳だと思い込んでいる。

だから、実際、日本人が他文化の環境へ行くと酷く自信なさげにオドオドして、よく分からない相手と話し合っていくよりも、ニコニコと愛想笑いを絶やさす礼儀正しい日本人を演じて好かれようとする。
これで騙されて「日本人は素晴らしい理想の国民だ!」とある意味憧れて、日本に来てから「外で会った時の日本人はあんなにいい人ばかりだったのに、日本にいる日本人は全然違う。どうしてなんだ!」と言う外国人にいったい何人出会ったんだか。

でも、その集団毎の、事業的な部分に賛同してくれる人ばかりを求めがちになると、総体的な部分では多様性を認め合った寛容な共生社会に近付いて行きません。
そうした非民主主義的な性質が改まらないと、いつでも経っても同じ事を繰り返すのだろう、と私なんかは思っていますよ。
どちらを多くの人が望むか次第なのですが、集団の忖度で和やかな世界が実現出来るか、と言ったら、実際には権力を手にした人達の腐敗をまるで止めていけないので、社会の大部分の人達がますます横暴に耐え殺伐としていくばかりなのは間違いない気がします。
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# by catalyticmonk | 2017-05-09 00:07 | 希望社会 | Comments(0)

個人の自由と公共性の間にあるもの

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私の友人の知り合いが、ゴールデンウィークの家族との休暇をFacebookに投稿したら、「休み取れて羨ましい」とか「自分は仕事」みたいな、なんとなく感じが悪いコメントがあって、「人の楽しい姿や、充実してる様子って見たくない」感がコメントから伝わってきてげんなりした、という話を聞いた。そして、その後、知り合いの人も休んで申し訳ないようなコメントを返していたという。

e0296801_10553957.jpgよくある話だ。
「リア充」という言葉にもつながるところで、要するに日本人はひがみや妬みが多い。それこそ恥ずべき事だ、という意識が不思議なほど弱い。
楽しそうにしておいた方が他人は関心持つものなのだけれど、同時に妬みも付いてくる、と。

そういう変な批判は政治家の豪遊にでもぶつければいいところだが、結局、政治家は遠い存在だと思って免罪にしているんだろう。
また、前述の例なら、SNSの性質の問題もあって、本当に気の合う人とだけのSNSにしたいのが本心であっても、そうすると不特定多数から情報を集められないので、広く開かれた世界への窓口、というSNSの利点が失われてしまう。千の無為の中から一の中身を取るのがSNSだ。

e0296801_11213830.jpgだから、例えば私なら、お金と異性関係に関しては言葉が重くなる。
それを個人名で知られると相手に迷惑がかかるかも知れない話や、セキュリティー上の問題が生じる事情は、あまり具体的に話したくないのだけれど、「ちょっとくらいいいじゃないか、水臭いな」なんて食い下がられて教えた結果、物凄く大変な目に遭った経験が何度もある。他人の事を訊かれて話したら、回り回ってその人の耳に入った時には全く違う話にもなっていたりもする。
そこで怒ったところで、たいてい相手は構わないし、何が不可抗力でそうなるかも極めて雑にしか理解していない場合が大半なので、自分自身で事前に厳格な線を引くしかない。
プライバシーとは、気分の問題だけではなくて、現実的にはそういう問題であったりもする。だけれど、特定の共同体の中でどっぷり生きている人間ほど、こうした事情に疎かったりするので、余計に自分とは異なる相手への想像力が乏しくなる。

私個人は瞑想センターなどインドで、同じベッドに男3人でゴロ寝していたくらい超の付く集団生活も経験してきたので、別に閉鎖的な風でもない。だけれど、日本だと何かと用心深くならざるを得ない面がある。反面、本来の性質は開放的なので、機会があると無造作に話しかけるから、結構謎の人扱いかも知れない。

e0296801_10524850.jpg結局、みんな、それぞれのゲームのルールに則って行なっている訳だ。サラリーマンならサラリーマンの、政治家なら政治家の、学者なら学者、医者なら医者、政党関係者なら政党関係者の、それぞれのネットワークの中の常識で測ってやっている。
そして、他のゲームのルールが存在してそうなネットワークへは滅多に越境していかない。記号表意作用のようなもので、「必然性がないにもかかわらず、それが了解される体系の中では必然とされているもの」に強く依拠して日本人は暮らしている。

だから、自分の周りに仲間が大勢いて、そこの流れに乗ってやっている分には楽だとも言えるし、ネットワークの中のルールには合わせていかなければ嫌味を言われたり、吊し上げられる恐怖を気にしなければいけなかったりもする。
そういう人目を気にしないといけない、個人主義的でない不自由さが、日本には色濃くついて回る。

e0296801_10583046.jpg個人行動で、あまり仲間を引き連れないで動いているタイプの人物は、いろんな憶測の的になるし、守られるクッションの役割を果たすものが少ないから、非常にこの社会では生き辛い。必然的に一人では対処し切れなくなって、ますます影のようにひっそりと行動せざるを得なくなる。
じゃあ、仲間をたくさん作ればいい、となった時に、すぐに出来上がったネットワークの中で非個人主義的な過干渉の日本文化が顕在化してしまうので、ずっとそことの兼ね合い・都合の話になる。

e0296801_21194176.jpg従来の日本的な妬み文化と過干渉な社会関係のあり方は、個人個人がその人の個性と能力を最大限にのびやかに活かしながら、幸福に、そして建設的にゆるやかに広い社会とつながっていく上でとても不都合だ。
ありもしない、緊密に他人と自分が同じ価値観や感覚だという前提を、みんなが「普通」に合わせて忖度し合っていく「普通教」という日本型カルト信仰の中に築いて、自分とは異なる人々と社会の中で共生していく不安感を日本人は払拭しようと必死でいるようだ。最近なら、「私、日本人でよかった」とかいうポスターを街中に貼りまくって、なんだか排他的な優越感込みのナショナリズム精神の鼓舞という形でそこを煽ろうとする動きが強まっている。

だけれど、それはいつか来た道、全体主義の、ファシズムへの袋小路に他ならない。
やはり人間が自由で平等に生き生きと人生を謳歌し、真の意味で建設的な社会で暮らしていきたいのであれば、個人主義を受け入れつつも、自己を確立してゆるやかに他の多様な人々とつながっていくという、多様性を受容した共生社会、民主主義の世界という方向に脱皮せざるを得ないのだと思う。

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# by catalyticmonk | 2017-05-04 10:38 | 希望社会 | Comments(0)

「ファム・ファタール」が表す社会的倒錯の実体と人権の後進性について

「ファム・ファタール」という言葉は、意味合い的には男を破滅させる魔性の女、というドラマティックなイメージを指していて、だから芸術絵画や小説の題材にもよくなるのだけれど、そこでまず想起される典型的な例はマタ・ハリだ。

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彼女は第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランスに捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された。
だけれど、資料を読んでみると、要するに裕福な家の少女が没落して、踊り子やストリッパーをやっているうちに高級娼婦になって、敵味方に分かれていた多数のフランス軍将校やドイツ軍将校とベッドを共にしていた、という社会背景・時代背景が騒動の根幹にある。
だから、彼女が独仏どちらの陣営に対しても意味のある情報をもたらした証拠は一つもないのに、フランス政府にとって不利な戦況の中で軍事上の失敗をマタ・ハリの責に帰することは大変好都合だったので銃殺されてしまった、という世の非情そのものの物語だ。

生きていくのも精一杯で、男どもに弄ばれているうちに、厄介払いと責任のなすり付けで殺されてしまった悲運の女性を、魔性の女だ、と伝説化して有名にしただけなのだ。
こうした経緯は、マタ・ハリも実際にいくらかスパイ行為をしていたのだろうけれども、本質は非力な没落した境遇の女性にいろんな思惑の悪党どもが絡んでいき利用していた、という話であって、「男ども、とんでもいないな」という、シンプルかつ公平に捉える視点がまず当然必須だ。

これは、結構ファム・ファタールの本質も表していて、確かに性的な誘惑で男性を手玉に取る女性は世に存在する。
でも、それで彼女達が大金持ちになって社会的にも成功してめでたしめでたし、という話だとファム・ファタールの従来のイメージとは離れていくから、やはり彼女達自身が自滅していく、というテーマも表している。
つまり、そこには女性の性的な魅力を武器に使いながらも男性優位社会に押し潰されて破滅していく、社会が開明的でないからこそ生じる悲劇の一定のお決まりパターンが存在する。それを「ファム・ファタール」と呼んだ、という側面がある訳だ。

あと、大きいと感じる要素は、心理学的に言うところの人格障害の問題ではないだろうか。
他人を意識・無意識に振り回すという。
それは、男性であれ女性であれ、性別やジェンダーの別関係なく正当化出来る話でもなくて、たまたまそうした人物が女性だった、というだけの話だ。

そこに女性性がついてくると奔放な性生活というのも起きてきて、それもただの自由恋愛なら騙された男性も自業自得なんではないか、と思うけれど、人格障害はもっと深く病んだ自己愛の闇があって、関わる人を強力に掻き乱して不幸にする。むしろそういうタイプだと女性である事を隠れ蓑に使って、犯罪レベルの騒ぎに至る問題まで起こし得るのでシャレにならない。
でも、それにしたところで、その人物が「女性である事」自体に特別な罪深さがある訳ではない。
男尊女卑の世界だからこそ、そういう過激なサバイバルを一定の性質の人達が一層選択しやすくなる、という構造も間違いなくある。

性的威力を使うというのは、当人達自身も不幸になる事だ、という部分が絶えずついて回る。純粋に詐欺商法で他人を破滅させて自分だけ儲かった、といった話とはズレてくる確率が高くなるからだ。
そして、一旦女性が世間的に「悪女」と認識されると、まさに血も涙もない制裁を受けて、ボロ屑のように人生を蹂躙されて終わるという、野蛮で残酷な世の愚かしさの定番的な悪弊でもある。

社会に元から存在する差別や偏見と、個人の行動の重みが、どうにも整理されていない形で混同されて、フェアでない話になっているケースは未だに多いだろう。
「ファム・ファタール」という一連のイメージが社会的には何を表していたか考える行為は、根深い人間社会の歪みや非理性的なままの問題点を照らし出す一つの切り口だと感じる。
芸術作品や小説などで大量に扱われてきたテーマだから、考えるきっかけを得やすい、というのもある。

また、今でもそれは「ファム・ファタール」なんて言葉を持ち出すまでもなく世に満ち溢れていて、整理されないまま放置されてその辺に転がっている、社会関係混乱の一典型的パターンなのだろう。

ただ、念を押して言うなら、これは「女性の問題」ではない。
それは、女性性や男性性は傾向としてあるだろうが、もっと社会環境的なものとの複合で、混乱した認識が発生している、という意味で、これは女性の話と言うよりも、そういうイメージをドラマ化して捉える人間社会全体のテーマだと私は思っていて、本来は特に小難しい話ですらない。
未だに社会通念が大きく歪んでいるので、そこを公正に捉えるのに手間がかかる、というだけだ。

中世ヨーロッパや江戸時代に、「人間は平等だ、個人の自由と人権は尊重されるべきで、それは宗教も冒せない」と言ったら、間違いなく狂人扱いになるはずだ。
今、目の前にある社会の中で、倒錯している観念や現象を、真っ当に捉え直す作業なしには、民主主義も自由も平等もあり得なかった。その歩みを止めてはいけない。

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# by catalyticmonk | 2017-05-01 23:27 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

ワイドショー的な文化


こういう話こそ、色眼鏡を抜きに考える訓練をした方がいい、とよく思う。

この人は詐欺行為を働いたからこそ、注目を浴びて、なおかつその姿形を悪意に満ちた冷笑の攻撃ポイントとされたのだろう。
確かにタイ人の交際相手に詐欺で集めたお金で豪邸を建てたとかいうところは、被害者からしても腹立たしい部分かも知れないし、交際男性に年齢を大幅に偽っていたというのも下世話な関心は呼ぶ。

だけれど、女性が「若作り」しようが、誰がどういうファッションの嗜好だろうが、それはあくまで自由だ。そこを犯した罪と混ぜて考えてはいけない。
そうやって罪にまぶして笑いものにする人達は、実は高齢の女性が若作りしていると馬鹿にしていい、という価値観を持っている。
犯罪者だから、普段は隠しているそうした考えを、大っぴらに出して笑いものにしましょう!とこのような記事は呼び掛けている形になるので、話題にもなる。でも、そうやって笑う事は、他人のファッションや姿形を自分の基準で嘲笑してもいい、という考え方を確実に助長する。

たとえ笑われた対象が、特定の犯罪者であったとしても、同じように50代60代の女性が、或いは男性やジェンダー観が少数者の人が、自分がしたいような格好をしたい、若しくは現にしている事に対して、そうしているだけで非難されたり嘲笑されるかも知れない、という重圧を抱く事になる。

今の時代、50歳の女性でも本当に無理なく若々しい魅力を持っていたりするし、年なりのオシャレがいいと思う人もいれば他の趣味や考えの人間もいて、それはすべて個人の自由だ。
なぜ、こうでなければ他人から笑われる、というプレッシャーや価値観の押しつけ、集団圧力といったものを、個人が他人や社会から受けなければならないのか。

ワイドショー的な文化と言うか、実際、そういったトーンで芸能人や政治家、有名人のゴシップでも、犯罪に付随したその人の私生活でも口汚く笑いものにされて、それが公共の放送から職場、生活環境に溢れているから、私はそれにいつも辟易している。下賤なワイドショー的な文化こそ、私達はもっと恥ずかしく思うべきなのではないか。
その意味では、日本の市民運動や野党の意識レベルも、大概は落第点で、未だに話にならないほど幼稚だと感じている。

補足すると、私が呆れているのは「男はこういう格好やスタイルでなければいけない」という固定観念や、LGBTの方や単に貧乏である事を笑いのネタにしようとする文化等も含めて全部だ。
とにかく、それが何か他の攻撃材料と抱き合わせになると、普段人権がどうこうと言っている市民運動系の人達や野党系の人々でも堂々とそういう不当な個人叩きを安易に始める。そこが根の深いところだと感じる。

正直、いくら緩やかに多様な価値観の人とつながる事が大切だと分かっていて、他で同じ目的意識を共有出来ている人々だったとしても、そこは共感出来ない。なぜなら、こうした種類の偏見は多様性の否定そのものだから、曖昧なまま流していていい性質の事柄でもないと私は感じるからだ。

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# by catalyticmonk | 2017-05-01 02:25 | 忘れ物 | Comments(0)

陰謀論と社会運動

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「小沢一郎前幹事長は、原子力潜水艦でやってきたマイケル・ジョナサン・グリーンに米国債購入を懇願された」とか書くガセネタを有料でばらまく稀代の詐欺師とさえ呼ばれた板垣英憲氏が、今さら最近またたまにSNS上で持て囃されていて、ちょっと気になります。

ガセネタ連発している人の情報でも、結構市民派の人が反応しているんで、あまりにも真偽不明のものを内容の刺激性から持て囃す姿勢には、もっと慎重になっていいと思うんですよね。
もちろん、私も知り得ない事柄は山ほどあり、驚くような内容が真実である場合も世の中にはたくさんあります。そして、いつも正しい判断なんて人間は誰も出来ないのです。
ですが、期待と情報の確証性、そこはきちんと分けて考えないと、社会的なメッセージそのものが信頼度の薄いものになるリスクがあります。

板垣英憲氏に限らず、確認可能な情報だけでも明白にデタラメを垂れ流し続けて、それが持て囃される人種というのが結構います。それでは、何か人の注目を集められるようなデマを発信して、なんでも言った者勝ちという事になります。
反面、原発は危険であるとか、内部被ばくのリスクとか、公正に危険性が明らかにされなければいけない情報や、安倍政権の税制がどういう風に一般人にとって負担増となるか、といった訴えが、雑な情報を多用する事により、今現在関心を抱いていない人にとって混ぜて語られているメッセージ全体が「怪しいもの」と捉えられがちになります。

実際、言う事の大半がいつもデマだったり、的外れな見識である人があなたのそばにいたら、その人の意見を話半分にしか聞かないでしょう?
それは当然の反応なんです。だいたいが、すべての人の意見を公平に聞こうにも、誰しも時間にも気力にも限度があります。
何か耳慣れない変わった主張ばかりする、というような印象だった人でも、言っていた内容が事実に裏付けられたものだった、現実的に参考になる頻度が高い、と感じられる人の意見は徐々に信頼するようになるでしょう。

人はコマーシャルな耳障りの良さや態度に引き寄せられやすくて、それは必要な場合もあります。
ですが、特に今自分とは異なる意見の相手の人に、「安倍政権はこれまでの歴代自民党とは違うんだ」とか「男女の役割分担と簡単に言っても、人間は千差万別なのだから、それを個人が自由に選択していけるようにすべきだ」などといった主張を伝えていく時には、面白おかしいだけではない中身のある「信頼性」といったものが重要になってきます。

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# by catalyticmonk | 2017-05-01 00:38 | 希望社会 | Comments(0)

多様性と共生社会

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パリの家にはカーテンがない、とか、知らない人と話す事が多様性を認め合う社会になる、みたいな内容の記事があり、SNS上でシェアしたら、いろんな意見が出ていて。
ただ、それらがかなり微妙な話である気もして、私自身がフランス通な訳でもないのですが、現代の日本人の他人との距離を俯瞰する上でも、あまりいい加減なコメントはしない方がいいな、と思ったので、別途、いくらか書いてみようと思った次第です。

他の方も書いておられましたが、海外に行くと気軽に挨拶されるのでほっとします。これは、翻って今の日本の、特に都会の事情をよく表している気がします。
逆に、日本のように表面上の愛想を重んじる社会も少ない。もちろん、一定の社交辞令や礼儀は存在するのだけれど、それを日本人ほど強い意識で維持しようとする世界は極めて稀です。

気に入らない相手には挨拶されても堂々と無視するような距離感は日本では珍しい訳ですが、そうすれば無視された側は無理しなくても、そういうところには近づかない方が無難だと知るサインにもなります。インドでも西洋社会でも、基本、多種多様な価値観や異なる人種、共同体の人がいますからね、日本みたいに一々相手に頑張って合わせようとする方が無理なんです。だから、その分、もっと割り切った面も大きくなる。

相手側の多様性を認めつつも、同じ空間に共生している、という、程々の距離が気持ちいい訳ですが、これは相手も自分と大きくは異らず、互いに気遣ったり忖度で協調性を図っていこうとする文化が根強い日本人には、体験しないとなかなか理解出来ない感覚かも知れません。

私が垣間見て知っただけでも、フランス人は相当特殊かつ複雑で、矛盾に満ちた興味深い人々でした。アジア的な共生社会の尺度とはまるで違うので簡単には言えないでしょうね。
私がフランス語が全く話せないのに、フランス人の彼女がいただけで超仲間扱いされたり、その私よりもドイツ語圏の人間を毛嫌いしていたり。複雑かと思えばアイコンタクトや微妙な動作だけでテレパティックに自分の感情や意思を伝える能力に長けていたり。

シャンペン職人のおじさんとも仲良くなりましたが、彼がなぜインドやムスリム圏が好きなのかという理由が「ムスリムの人達はとても親切で礼儀正しく温かい。インドでも年長者だというだけで、みんなホスピタリティが高くて丁寧に扱ってくれるし、気さくだ。でも、もし君がフランスにいたら、誰も君を助けてくれないだろうよ!」という事でした。
他の仲良くなった体育教師の夫婦も同じような事を言っていて、「フランス人は何かを信じているんだよ。もし、俺の庭をかき乱したら、俺はお前をぶっ殺す、うん、これだな!」と言っていました。

多分、それぞれのプライバシーを守る、自分達の家の空間を大切にする、というところを重視しているみたいなんですね。その代わり、その生活圏内部の同胞にはムチャクチャ開放的だし、気が利いている、といった感じで、日本人とまるで違う物差しな気がします。

でも、私もそれに近いところはあります。まず、知らない相手に話しかけるのは平気。ただ、気取ったよそよそしい雰囲気の連中とは、もう5分と一緒に居たくない気分になります。
ずっと一人暮らしだし、日本の学校が大嫌いだったので、集団生活は苦手なんだろう、と思っていたら、インドの瞑想センターとか、韓国人のルームメイトと共同生活する前にも韓国人集団の中に紛れ込むとか、病院生活が結構快適とか、どうにも毎回人一倍集団生活に順応が早くて。

なんでかなあ、と不思議だったんですが、よくよく思い返してみると、まず私は最初に母の実家の農家で育っていて、そこが大家族で、人の出入りが多く、私には自分の部屋がなかった。その影響は絶大な気がします。
反面、母の実家にもきちんと所属していない外孫という居候の立場、と位置付けられていて、そこに根を張って生きられない、というのも分かっていました。
また母の実家自体が蔵や納屋、田んぼや畑、川が周辺に並んでいるかなり独立した空間で、母の実家が一族の本家である旧家だったので親戚は大勢出入りする一方で、隣の別の農家とは長年仲が悪くて行き来がない、といった感じで、家風としてもまさにフランス人の「もし俺の庭をかき乱したら、俺はお前をぶっ殺す」の精神に近かったのかも知れません。

多様性と共生のバランスは国や地域だけでなく、一つの社会の中でも家庭環境や成育環境毎にも多種多様だ、というところでしょう。ですが程よい距離と緩やかな共存・協力関係を築く、という綱渡りを人間社会は模索するより他ないのではないでしょうか。


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# by catalyticmonk | 2017-04-24 12:53 | ゲマインシャフト | Comments(0)

民主社会と内輪ノリ

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なんか、みんなの代弁者として頑張ってくれそうな人を議会に送るために応援するのはいいんだけど、基本的に政治家が偉いとか1ミリたりとも思っていないんで、「議員さん、スゴイ!!」みたいに持ち上げる世界が、どうにも生理的に受け付けない。
どうもフランクな感じじゃないとね、芸能人スゴイ!とか学者先生スゴイ!とか、どうしてもわざとらしい虚飾の世界に見えちゃうんだな。

それをやっている人をダメだ、なんて言う気はないけど、政治的に何か希望があって行動に参加する人が、イヤイヤ好きでもないノリに合わせていかないと、イコール政治や社会問題に無関心だ、と決めつけるに等しい態度や行動の人がたくさんいる。
別に人気者がいて、みんなで盛り上がり楽しみながらやっていくのも全然いいと思うんだけど、築いたり訴えたりしていく中身が大切なんであって、そういうノリが苦手な人も結構世の中にたくさんいるのに、そこまで巻き込んでいくつもりはあるのかな、とはよく疑問に感じている。

生活に関するテーマ、消費増税とか年金問題とかに関心があって、戦争は嫌だ、大企業や一部の特権層ばかりが得する世の中はおかしいじゃないか、と思っている人は普通にそこらじゅうにいるんだよ。
その辺の飲み屋や公園で知らない人と話し込むのは露天商なんかもしていたから得意な方なんだけど、日本人が何も考えていない訳でもないの。
だけど、ある意味まともな感覚があるからこそ、政治や市民運動のわざとらしさや権威ぶったところ、毒々しさや特異な専門家達の流儀・雰囲気のある世界には、そこを察知して近付かないんだな。
それで、選挙とかデモとかに参加するのは冗談じゃない、知った事じゃない、遠くの特殊な世界だ、と思って何も行動を起こさないから、結局、踏み込んだ情報にも疎いままになって、棄権したり自民党になんとなく投票する人が大勢いるようなんだ。

いや、スゴイ人はいっぱいいるよ。尊敬したくなる人もたくさんいる。で、みんなで盛り上がるのが好きな人もいる。でも、いつも無理に持ち上げなきゃいけない話でもないし、それを民主主義の拡大と同質に見做すのはまた話が違う。

それが票田を固めなければいけない政治家や議員を志す者、政党にとっては現状必須なのも分かるよ。それでも、そんなのが趣味じゃない、って感覚の人達がまるっきり馬鹿な訳でも愚かな訳でもなく、彼らなりの正当な理由や仕方のない事情があるんだな、と最近ますます痛感している。
それをザックリ無関心だとか、なんでこっちに参加してくれないんだ、という視点の論調で言っていても、時として有害ですらある、という話。
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# by catalyticmonk | 2017-04-24 01:43 | 希望社会 | Comments(1)

便利で華やかな貧しさについて

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どんな表現でも言える事だと思うんだけど、雄弁な脚色は、かえって想像力の範囲を小さくしてしまう気がして、例えば往年の名曲に、妙にきらびやかで豪華な演出の映像を添えてアップロードされている動画を観ると、よく首を捻りたくなる事がある。
また、活字の読書よりもスマホでインターネット上の情報を追う方が標準化している今の時代が、便利な反面、心豊かとも言い難い方向に向かってきてはいないか、と度々考えさせられる。

それでも人間は、一旦手にした便利さを簡単には手放さない。フィルム式カメラがどんなに味わい深くても、バッテリーが続く限り何度でも撮影出来て現像費用も要らないデジタルカメラが手離せなくなる。
でも、文化・技術や文明の進歩が、人間の想像力を奪っていったとしたら、それは文明の袋小路、衰退にしか結びつかないのは明白だと思う。多少不便でも、想像力の豊かさと心の幸福が優先される時代に人間社会が進むように願っている。

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# by catalyticmonk | 2017-04-24 01:30 | 忘れ物 | Comments(2)

バンコクの屋台排除の動きとグローバリズム・新自由主義・貧困格差

タイの首都バンコクは衛生面や町の美化を理由に、2017年内にもバンコクの路上からすべての屋台を撤去させる計画なのだそうです。


これ、国際的な流れとして見ても、アジアの一部地域の限定的事情にとどまらない大変危険なサインだと思っています。

まず、バンコクのストリートの屋台は、非常に安価においしい食べ物が買えることから、世界中の観光客から人気を集めているのみならず、地元の住民にも利用される「庶民の味」として支持されており、バンコクの町には部屋にキッチンがない所も多いと聞くので、現状、そもそも基本的なライフラインなのです。

それをバンコクのスワンディー・ワンロップ知事は、2017年4月18日に地元紙The Nationに対して「バンコクにある50地区すべての路上販売者を除去し、道路を歩行者に取り戻すよう取り組んでいます」と述べ、2017年内に路上のすべての屋台を排除する予定であることを明らかにしました。

バンコクの屋台は許可を得ることなく少ない元手で始められる商売で、地方からバンコクに出てきた貧しい人達が一番最初に始めるビジネスだ、とも言われています。バンコク当局は、許可なく通りを占拠する屋台には店舗へ移動するように働きかけていますが、家賃を払えないため事実上、店舗に移行できない実情です。

屋台はタイ経済の15%を占めるという統計もあるそうで、それを破壊したい理由を真剣に見つめる必要があります。

私は26年前からバンコクの屋台は利用しています。単純に1991年にバンコクのチャイナタウンやカオサンの屋台で食べた味と、2010年くらいのバンコク各エリアで食べた屋台の味のアベレージは、随分違う印象があるのは事実です。残念ながら、以前の方が繊細なタイ料理の味わいが屋台でも多分に味わえ、質が高かったのです。

その26年の間にタイの経済規模は大きく拡大しました。数が増えて、商業規模と回転する金額が大きくなったので、より素人でも屋台を始めやすい環境にはなっていったのかも知れません。

1993〜4年頃に私が訪れた時にはアジアの秘島だったタオ島やナンユアン島が、今ではバンコクで直通便の広告が並び、日本の旅行代理店のスキューバダイビング資格取得のためのツアー広告がインターネットでも数多く躍り、ナンユアン島に至っては世界の絶景100選に選ばれてしまうくらいリゾート地としての知名度を上げました。

開発、って何なのでしょうね。
バンコクでもマクドナルドやコンビニが近年やたら増えていましたが、それも外資が地域経済を侵食し始めるサインだった訳です。昔より若干まともに冷えたビールを飲めるようになったくらいなもので、それが地域の人々の暮らしを本当に豊かにし、観光産業の魅力をアップさせたとも思えません。
より大きなお金が回り、設備投資が為され経済開発が進みましたが、その一方でさらに貧富の差が広がり、富める者の懐にはより多く転がり込み、貧しい者はより貧しくなったのです。
なんか日本で起きている事ともそっくり同じ構造だと思いませんか?

屋台はせっかくの観光の売りなんだから、一掃とかではなくて、きちんとした料理を提供してるのか内容を規制する方向に動けばいいのに、という声もありましたが、そういう手間と人件費をかける気は毛頭ない気がします。こんな強硬な手法を取ろうとしているのですからね。

それにしても、なんか庶民的な風情のある文化が世界中で排除されていく一方なのが、とても気がかりです。
そう、こうした現象が暴力的なまでの強引さで、世界中で起きているのです。

まあ、いくら忙しく働いていて自炊する時間的余裕がなく、部屋にキッチンもない貧困層でも、例えばチャイナタウンの食堂とかなら屋台と大差ない値段の所もありますから、いきなり食生活がコンビニに全移行する訳でもないでしょう。
ですが、それでも必然的に屋台がなくなった分だけ、高めのレストランや大資本のコンビニ・商業施設は今よりも潤う訳です。

そこをもっと儲けさせたいし、そうすれば外資ももっと入ってきて既得権益のマージンが増えたり、政財界が喜ぶ、イコール発展だ、と勘違いしているのでしょうね。結果、もっと生活が苦しくなる人々が増え、本質的な観光資源も失われていくのに。

つまり、それが新自由主義の、グローバリズムの、多国籍企業と金融業界が支配する世界の、罠。

経済的な数字の物差しだけで計っていれば、そこに人間の実際的な生活上の都合や環境への負荷などが度外視されていきますから、必然的にどんどん本末顛倒な事態になっていく訳です。
そして多国籍企業は法人です。法人の利益が増えていけばいいし、その理念で全体として動く仕組みなので、個人個人の人間の良心や節度、感情とも無関係なのです。

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# by catalyticmonk | 2017-04-24 01:16 | 支配構造 | Comments(0)

カルトとマイノリティー

ロシア最高裁判所は4月20日、キリスト教団体「エホバの証人(Jehovah's Witnesses)」の活動を禁止し、資産を押収する判決を下したそうです。最高裁は、ロシアは「エホバの証人の本部と傘下の地方組織」の閉鎖と「資産の没収」を決めたとしました。

「資産の没収」って、普通なら大規模な宗教弾圧そのものですが、まあ、カルトなのは事実だし、でもカルトなら弾圧してもいいのか、という問題でもあります。
実際にはどのような実態で、どれだけのパブリックへの悪影響があったか、については、目にした短いニュースの文面の中ではなかったのですが、やはりカルトなので制裁は仕方ない、という感想は日本でもあるようです。

そういう断定性に対してエホバの証人を擁護したい訳ではないのですが、私にとっては、そんなに簡単に白か黒かを断定的に言って済ましていい問題のように思えません。
カルトに巻き込まれた被害者だ、と感じる立場の人の気持ちも分かる反面、思想信条や信仰の自由に社会が公共の装いを纏ってどこまで干渉していいかは、やはり個別に慎重な姿勢で吟味する必要のある話だと思います。

前にも書いているのですが、私の幼い頃、実母はエホバの証人に一時期入信していました。近所にエホバのコミューンがあって、その影響と、実母自身が膠原病という免疫不全の病気だったためです。
私が覚えているのは、そのコミューンの古い日本家屋で、聖書の物語を紙芝居で教えられた事くらいで、周囲の大人を変な人達だと特に感じる事もありませんでした。優し気な人達しかいない印象でしたが、それは小さい子どもにとっての話ですから、全然定かではないでしょう。
ま、私が宗教と聞くと仏教ではなくて、まず神がいて、という発想を当然のものとして連想して、仏教の観念は総じてピンと来ないのは確かに影響があったかも知れないけれど、それ以上のものでもないのです。

ただ、私の母が勧誘した事で母以上に熱心な信者になった人物に私の幼なじみの女児である「かよちゃん」の母親である「かよママ」がいたのですが、その彼女がバイク事故を起こした際に、教団の輸血拒否の教義に従って大変だった、という話は当時も聞きました。
彼女は一命は取り留めたものの、やはり信仰の問題も手伝い夫婦の仲が難しくなって夫と離婚し、私が小学校に入る前に同い年のかよちゃんを連れて隣接する名古屋市に引っ越して行きました。

エホバの証人が一般社会の常識から逸脱していると扱われる場面が多い理由は、ある意味、特異で原理主義的でもある聖書解釈や進化論さえ否定する独自の世界観の影響が大きいのですが、その中の一つとして有名な輸血拒否も、それほど珍しい事例ではなく、頻繁に発生している、という現実だったのでしょう。
個々人の内面的な信仰の自由と見做すか、カルトであるとして、輸血拒否などの判断をする集団に圧力をかけるかは、実は境界線の曖昧な難しい問題でもあります。

母にそれほど決然とした宗教的覚悟があったとはまるで思えません。ちょっと東京などの都会の感覚では理解しにくいかも知れないのですが、なんか田舎社会の、とんでもなくゆるい宗教感覚だったのだと思います。
母がその時期に私の養育を大部分任せていたのは、地元の地主農家で、浄土宗である母の実家だったのですが、そこと母の間で、宗教的な事柄で対立している空気なんて一切ありませんでした。
母は私が小学校に入る前にエホバをあっさり止めているので、本当のところは分かりませんが、まず父も母も宗教道徳云々なんて真摯なモラルを持ち合わせている部類の人種では到底なかったのです。
父は、右翼的な折衷主義の宗教観の持ち主で、でも結局のところ選民思想と言ってもいいくらいに極端な先祖崇拝を自身のプライドに結びつけている感じでしたから、もっとなんだかよく分かりませんでした。

そういう精神性の茫洋とした人達の現世利益的な願望を吸い寄せやすい宗教というのはある気がします。コアな人達はかなり本気で信仰していたとしても、です。
例えば、チベット仏教のお坊さんとか、プロテスタントの学者の方とか、自身の信仰心と乖離しない精神で物凄く高度で緻密な思弁を繰り広げたりする方が大勢いらっしゃいますが、同時に日本の明治維新以降の新宗教系の家庭に育った人が、私から見て極端な主張や飛躍した発想に聞こえるニューエイジ思想・ヒッピー文化に傾倒する例もたくさん見てきていて、明らかに通常以上の比率なんですよね。
どちらが上か下かという話ではなくて、社会的に安定した地位を自身の所属する宗教共同体が占めていない場合、そうしたバックボーンが出発点にある人は多かれ少なかれ、独自な思索や発想を持つようになるパターンも多い気がします。
なんかぶっ壊れている人物が多い印象は否めないのですが。

現在の日本の新宗教の大教団の多くは1920年から1950年に成立し、それなりの共同体の規模と歴史がある訳ですが、独自の世界を持っているからこそ、そこの中の成員はマイノリティーとして育つ、という現実が、自ずとそういう結果に繋がっていくのでしょう。

元々安定していない家庭が特にカルト的なものにも抵抗薄く近づいていきやすいのも事実なんですね。
平凡という名の既定路線から一旦外れると、一定の家族の間ではとことんアブノーマルな要素が高密度で折り重なっていく、というね。
ある種、ユダヤ人もそんなものだと思うのです。だから、彼らは独創的な才能を持つ人材をその緊張感の中で高い頻度で輩出したし、反面、精神疾患の発症率が高い事でも知られています。
それは遺伝なんて優生学的な事象ではなく、社会学的・心理学的次元の要因が大きい話です。

カルトなら社会的制裁を加えていいのだとしたら、その線引きや程度はどこにあるのか。誰が決められるのか。
とても難しいテーマだと思ったからこそ、全体としては私の実体験や見聞きしてきた具体的な現実から感じたものを軸にして、いくらか書き出してみました。
答えは一人一人の方に考えてみて頂きたいところです。

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# by catalyticmonk | 2017-04-22 03:49 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

今、死にたい人達へ

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死にたい、って言っている人に死ぬな、なんて他人が簡単に言えないけどね。でも、SNSのタイムラインを見ていると同時進行で何人も「もう死にたい」って毎日書いてあるからさ。だから、そんな気分だったり、心のどこかにそういう思いがある人に向けて書くんだけど。

今、そこそこ調子良く健闘出来ている人達は、ここに書く事を別に読んでくれなくていい。
でも、死にたい、死にたい、ってSNSに書いている人達がゴロゴロいる世の中って、やっぱりその人達個人以上の何かがあるんだとも思う。

ぶっちゃけね、こう思うんだ。
去年から3回癌の手術をして5回入院して見舞い客は一人も来ず、それでも何ら具体的な中身のない憶測や事柄ですぐにボロボロ叩かれて、ある意味、子供の頃から一貫していじめられっ子のままで生きているような私が、絶望する事もなくまだしぶとく生きるつもりなんだよ。
だから、みんな色々悩みはあるだろうけど、自信持って生きていていいと思うな。

もうすぐ6度目の入院もする私から、救いの手を差し伸べてあげる事も出来ないし、もちろん、そんな、悩むな、って一言呪文を唱えたら悩みが消えてなくなるものだとも思ってないよ。自分が強いんだ、って言いたい訳でもない。
この世には辛い事や、あまりにも理不尽と思う出来事がたくさんさ。さらに、それを人に言えなかったり、理解されなかったりさえする。本当に汚ない、卑劣で無慈悲な事だらけだよ。

なのに、人間関係も、社会的成功も、結果がすべてみたいに言われがちだから、余計にやる気を失くすんだよね。そんな、誰と結婚して、たまたま入った会社で出世するかリストラされるか、なんて紙一重の運なのにね。
そんなにみんながたまたま出会ってときめいた異性の内実や、将来の希望を賭け、生きていくためにすったもんだして、どうにか潜り込んだ進学先や就職先で起きてくる事柄を、堅実に想定出来ているのかね。誰にとっても、ほとんどギャンブルみたいなものなのでは。

そりゃあ、その人その人の努力の成果もあるから頑張りたいだけ頑張ればいいんだけどさ。
結果はいつもたまたまの巡り合わせと時の運でね、必ず上手くいく方法なんて何もない。国家のトップになった人でさえ、最後は収賄事件で失脚したり牢屋に入ったり、暗殺されてしまう事すらある。

だから、たまたま今のところ恵まれていて順調な人が、「あいつはダメ人間だ」なんて簡単に他人を決めつける方がおかしいんだからね。
そんな、仮にそうだったとしても、弱り目の人間に言っても仕方のない誹謗中傷を偉そうに言っている人物を見ると、「この人は心底人間として残念な人だなあ」と私なら感じるだけで。

人の不幸は蜜の味なんだよ。
でも、今死にたい程苦しんでいるあなたは、決して他人の事をそう思わないはずだ。その時点で、あなたはあなたを嘲笑う人々より確実に人間として素晴らしい。
だから、そこで傷付いたとしても、実際、傷付かなくてもいいのさ。

プライドがあるのに、自分が大悪人みたいに言われて吊るし上げられたり無視されているから、言い分はあるのに、それをまともに聞いてももらえなかったりするから、一人で切羽詰まったり、悔しくなって死にたくなるんだよね。

不器用な人だと、特に不器用じゃなくても運や相手次第で、相手に何をされて、どういう経過でそうなったか、なんて一々申し開きしないうちに、すっかり孤立してしまって、自分でその相手に尽くしたり信頼していたりしていたならいた程に、その事に骨身を削って打ち込んで頑張っていたらいた程に、深い失望を覚える、ってのはさ、自分も苦い経験が過去にあったからよく分かるんだよ。

でも、その失望したものの外にも世界はあって、別の人生の時間と新しい出会いの可能性があるんだよね。
失望し続けているとしたら、そこにまだ忘れられない程の希望を抱いているという事だろうけど、少なくともそれで自分が幸せになっちゃいけない理由にはならない。
特にヤケになって死にたくなるくらいならね。死んだつもりになって一からやり直せばいいのさ。自分で、幸せになればいい。
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# by catalyticmonk | 2017-04-16 17:34 | 忘れ物 | Comments(0)

世の中は偉い人が治めてくれる

以前、どこかの飲食店でこんな会話をしているスーツ姿のおじさんがいました。
「仮にもこの日本国の代表を務められている、賢くて家柄もいい紳士の方々を、けちょんけちょんにマスコミ如きがいい加減な噂で書き立てるなんて、とんでもない話だ。
あの人たちは、いわば日本国の社長様であり、重役なんだから。ヒラ社員が自社の重役を外に向けて小馬鹿にするんじゃなくて、一丸となって頑張る事が社会には大切な事なんだ」
この人は何を言っているんだ、と呆気に取られましたが、仲間の人たちも特に違和感なく会話を続けている様子でした。

議会制民主主義の意味を全く理解していない、封建時代さながらの価値観ではないですか。ですが、似通ったトーンの言説を耳にしたのは一度二度の話じゃありません。
これが石原元都知事が暴言を吐きまくり、国が年金を蒸発させちゃったり、原発事故の後に計画停電を電気は足りているのにパフォーマンスで強行して、それでも大企業や政府・行政の内実が徹底糾弾されない、この国の大衆意識の実態です。最初から腰砕けでいるんですね。
ちょっと批判する以上にやってはいけなくて、自分たちは既存の社会に、親や学校の延長で居場所を与えられ、暮らしを多分に受け身で貰っている社員か従僕のつもりでいる。

だから、お茶の間の話題的に森友学園問題のように民間人を叩くのは盛り上がっても、なぜ検察は政府内部の関係者をもっと追及しないんだ、と国民の声が自発的に高まっていく事もない。
このメンタリティが大きく変わらない限りは、世論の流れも簡単に操作され続けます。マスコミなどが大々的に叩いて、具体的な動きが出てきたら、乗り遅れないように一斉に同じ方向を向くだけ。
そんな、いつまでも従順な考えでいては、やられたい放題です。目を覚まさなければ、何も守れない。
ですが私たちは主権者として、この場所に存在する者として、主体的に自らの希望を建設していけるのです。
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# by catalyticmonk | 2017-04-12 01:31 | 希望社会 | Comments(2)

先祖供養と強迫観念

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別にいろんな宗教思想や信仰の形・価値観があっていいと思っているので、相手が自分のそれを語るのも自由だと考えているのです。ですが、こういう風に信じなさい、とか言われると、自分の宗教観・信念が相手より優っているという前提が言外にある訳です。だから、もうお互いの多様性を認め合う事にならない。
そういう次元の視点が、日本人の宗教家は幼い人が多い気がします。

一般人でも、特に仏教系の先祖崇拝を信じている人などにそういう価値観の押しつけをする人が多いです。墓供養とかしないから病気になるんだ、とかね。
そんな家庭の事情はまちまちなんだから、信仰にしても一律に他人の病気に対してそういうこと言うのは失礼でしょう。

あなたがガンやてんかんになったのは祖先に罪を犯した人がいるから、とかいう論旨も、世界中の先祖信仰で見られますが、儒教道徳の根強い東アジアにおいて特に強い発想です。

輪廻転生を信じるインドでは、実は一部の特殊な層や地域信仰を除き、基本はお墓を作りません。死んだら火葬して灰を川に流すのです。
生きとし生ける者はつながっていて、来世で何に転生してもおかしくないので、現世での家族が絶対的な絆なのではなくて、それを司っている宇宙の理法を重んじる。

だから、日本の葬式仏教というのは、仏教や輪廻転生信仰の源流からも外れていて、また多分に途中の中国や日本自体に古来からある祖先信仰の影響を受けたミックスなのです。
それも、純粋に亡くなった近親者に思いを込めて敬虔な気持ちで向き合う人々の心情も存在する訳ですから、否定も非難もする気はありません。

ですが少なくとも、そうした価値観で自分の家族の罪を償わなければいけない、なんてプレッシャーや強迫観念を個人が感じる必要は全くないし、そうした価値観を他者に強要するのは近代民主主義社会においては無しです。
それだけは信仰云々以前に、人権や個人の尊厳の見地から明言しておきたいですね。

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# by catalyticmonk | 2017-04-12 01:28 | 宗教の救済性と排他性 | Comments(0)

世知辛き時代

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最近、園児がうるさいから近所に保育園を作るな、とか、地元の小学校で運動会の音楽禁止になった、なんて類いの過剰な社会の管理体制が激化しているようです。卒業式後に校門付近で皆が写真撮ったりして別れを惜しむのも禁止、在校生と先生達が卒業生を拍手で送り出す伝統も廃止、年一の行事に伴う音やひとの声さえ騒音扱いして得られる静寂、それがどれほどありがたいんだか。
そう言って怒っている人のツイッターの投稿が話題になっていたそうですが、まったくです。
全部うるさいという苦情への配慮からだと言いますが、うるさいと苦情を入れた人は、学生時代にこのような行事ごとをやって来なかったのか、自分が無邪気に騒ぐ子供時代がなかったのか、本当によくそんな事が言えたものだと感じます。

このような小学校への苦情は、全国的に広がりを見せているらしく、ある小学校では、授業の開始や終業を知らせるためのチャイムを、うるさいという理由で鳴らせなくなった、とか、何かの冗談か、という印象です。もう私には狂っているとしか思えないのですが。
常に時計を見て動く癖はついたとしても、非常に不便だし、理不尽です。

でも、こういう流れが日本では長い間ずっと続いている気がします。
私が主に育った母の実家も、愛知県尾張地方南部に古くからある農家で、でも名古屋市の隣町にあったものですから、名古屋市内の湾岸部の工場に土地を貸して経済面では得するところもあったようですが、高度経済成長期以降、特に70年代後半に大規模な開発があって、その影響を被るようになりました。
名古屋市の工場などで働く労働者の家族が大量に流入してきて新興の団地なんかに住んでいて、数の上では昔から地元に住む農家の家庭の子息の方が少数派で、数の力に押されて地域の伝統文化がズタズタにされていく過程を目にしていました。
団地の子供たちは粗野な子が多かったし、その割に親は塾だ町内会の仕切りだ、と何かと声高な人たちが多くて、一言で言うとあまりにも著しく「嫌な感じ」でした。

別に流入者もそれで糧を得ようと必死だった訳ですから、彼ら自身を悪く言うつもりはありませんが、構造の問題ですよね。文化意識も何もなく、お金だけの物差しで開発主義で野放図な開発主義をやるから、それでいろんな歪みが生じるんです。
結局はどちらも俗な欲望に基づいた屈折と軋轢、対立なのでしょう。
自分たちが何かの利権と結びついてただお金が儲かればいい、有利に便宜を図ってもらうために裏で談合する、対して労働者の立場で組合だ、学界の叡智によって優れた社会を築くんだ、と鼻息が荒い人たちも、そういう狭い身内主義や日本的な集団主義の原理で動いている部分が現実的には大きいので、一人一人の人権とか地域毎の文化と多様性の尊重なんて本気では考えていなくて、堂々巡りな騒動が継続してしまうのです。

彼ら・彼女らの親や、そうやって流動化して不安定化した地域社会全体が、新しい秩序を求めて、愛知県で全国に先駆けた管理教育を始めて、正直、今の安倍政権級に横暴で管理主義的な指導を私たちの義務教育期に押し付けてきました。
だから、なんだか学校の先生も同級生の親も、大人はみんなクソッタレだ、というのが少年時代の私の感覚でしたね。
そういう社会の正義や大人たちの言い分は信じられないのだけれど、力でいつも圧倒される成長期だった管理教育を受けて育った私と同じ団塊ジュニアの世代には、その場限りで上手く立ち回ればいい、という感覚の人間が多いのですが、そうなった理由も、なんとなくは分かる気がします。
私は今でもその少年時代に団地の流入者家族から察知した「嫌な感じ」と同じトーンを市民運動層の空気に感じる時があって、正直不快な時が度々あります。でも、表立った主張とは別の、人間的な振る舞いの実際の部分の話だから、なかなか言いにくかったりするのですが。

祖父母はいい人たちでしたが、私が団地の同級生を家に連れて来るのを嫌がりました。私も学校が嫌いだったから、小学校の夏休みなんか、ずっと同世代の子供たちと会わずに母の実家の親類縁者といった大人としか会話しなかったりしました。
私も、ある種、そうした形でナショナリズムの土台になるものが少し感覚的に分かる部分があるのです。

そして、利己的な経済競争と嘘くさいコマーシャリズム、プロパガンダ、腐敗や欺瞞だらけの姿で叫ばれる正義の言葉の狭間で、その両方に冷めて無関心になってしまう人たちも大勢います。
彼らは、乗りたくても乗り切れないもどかしさを感じるだけの感性を持つ、本来一番冷静で理知的に物事を眺めている人々であったりもします。
ですが、双方の軋轢と弊害があまりにも高く、あまりにも数が多いので、その人たち自身の疑問や違和感が独自の声に育ち、具体的な動きになる前に潰されていく、こういう一連の図式が日本の社会的な悪循環と政治の麻痺状態へと繋がっています。
了見が狭く世知辛い監視社会、全体主義的な管理国家、そういった形態になればなるほど自分たちの首を絞めるだけなのだ、とどうしたら日本人は気付けるのでしょうか。
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# by catalyticmonk | 2017-04-12 01:24 | 希望社会 | Comments(0)

忖度

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LINEとかってチャット式SNSは、グループページとかで活用するものなんでしょ、どちらかと言うと。
それがよく分からないし、プライバシーの範囲とかの設定も知らないままだから、どうも深入り出来ずにいる。

尻込みし続けている理由として、以前にゾッとする体験があったのも大きい。
ずっと前に、頼まれてある候補者のボランティアをしたら、そこがうちうちでLINEグループを作ってやり取りしていて、私はその存在を知りもしなかった。
それ自体は当事者で範囲を決める事だからいいんだけど、問題は他の面識なかった支援者から自己紹介して名乗るなりせせら笑われて、「ああ、あなたが河元さんね。LINEグループのチャットで話題に上るから知ってますよ」と言われた事。
そんな、陰で話題にして、こっちは顔も見た事もなかった初対面の相手から鼻で笑われる、ってどうなのよ。しかも、こっちは無償のボランティアを頼まれてやっていた身だよ。
最高に気分悪かったけど、何言われているか分からないんじゃどうしようもないもんね。

モヤモヤするのに表立って言い返せないというやり口が、最強に卑怯だ、どんだけサイコな世界なの、って思ったけど、他の人の話を小耳に挟んでいても、なんかそういう陰湿な吊るし上げっぽい事が多いんだよね。
そんなふうにならないように、みんなに気に入られるようにあなたが努力しなければならないんですよ、と日本人は幼い頃から家庭や学校で教えられて育つんだけどさ。それがまさに森友学園問題でも話題になった「忖度」だ。

でも、それでは人の顔色を窺いながらしか意見を言えなくなって主体性なんて持てないし、結局最初からある既定の規律ばかりが権威を持って、自浄作用も民主主義もない。様々な全体主義のバリエーションが並ぶだけでね。

よく考えてみて欲しい。相手に対して思いやりを持つのは人間社会の基本なのだけれど、日本社会の場合は、そこに「相手が気に入るような意見や言葉・態度を推定でしていかなければならないし、それを上手くやるように他人に要求する権利が社会道徳として成立している」といったニュアンスが含まれている。
それは「思いやり」ではなく別の形の押しつけがましさであり、他者への不寛容と利己主義・身内主義といった狭量な排他性ともつながってしまう。

これでは、日本が弱者や少数者への偏見・差別が一向に減らないのも当然の成り行きだと言える。多様性を認め合った寛容さや相互理解といったスムーズな共生は、まず互いに自由にものが言える風通しの良さがあってこそ成立・進展する。そこを抜かして表面的に協調性を他人に期待して、「和の精神」を尊んでいるんだ、などと言うのは詭弁そのものだし、日本人が封建社会の風土からきちんと脱却出来ない要因となっている思考様式の倒錯もまさにそこにある。
陰湿だから揉め事が絶えないし、水面下の緊張が高まる、という図式なのは明らか。
なのに、際限なくそういう行為を繰り返して、サル山のサルみたいに、数の力や根回しで勝ち残った奴が正義、それを上手く画策するのが人間としての技量と政治力、みたいな方向の論旨で本気で考えているふうさえある。

世間的にはすごく評判のいい人達でも、裏ではそういう事が絶えないみたいで、そりゃゲンナリするさ。表向き共有出来るテーマがあっても、その人達のデザイングッズを身につけたいか、と言ったらそこまで盛り上がれない、と当然なるだろうからね。

そこを正々堂々とやりましょう、と本気で唱えた宇都宮けんじさんみたいな人や、保守政治家だけど本気で日米同盟を通したアメリカの支配構造に対抗しようとした小沢一郎さんみたいな人は、選挙の度に面白いくらい器用にケチがつき、無実の罪でも疑惑だけで梯子を外され政治的な影響力を封殺されていく。

そんな事が容易に可能になっちゃうのも、「忖度」の精神文化土壌が日本に色濃いからだよね。
はっきり議論や確証をもって計っていくべきところで、暗黙の了解や言葉にしない雰囲気・印象の段階で態度を決めてしまう社会風土だから、印象操作を上手く出来る器用さと数や力が既にある権力・組織・強者ばかりに都合のいい世の中になる。
そんなの、もうたくさん、て思わない、みんな?

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# by catalyticmonk | 2017-04-12 00:59 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

遠慮し合う前提か、シェアし合う前提か

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別にこの女の子たちが撮りたかったのではない。昨日の井の頭公園で夕暮れの桜を撮っていたら、一番いいロケーションの場所を集団で囲んで動かなかったのだ。
夕暮れの一番いい時間帯だったので他の花見客も撮りたそうにしていたけれど、どうやらアジア人の若者のグループのようで、ナイーブな日本人は引いている様子だった。

私は、自分自身も日本人マインドではないので、ずかずかこの子たちの占拠している場所に突進して撮った。
それでも一切動じないから、やはり日本人の女の子たちとは全然違う。お互い様だと思っているから、特に傍若無人に振るまっているつもりもないのだろう、というところは、馴染みのあるインド人の感覚を思い返すと想像が付く。

このあたりの行動様式の違いが、日本人の隣国のアジア人嫌悪の一因なのだろうが、私からすると西洋人も相当厚かましい。ただ、もうちょっと個人個人バラバラで動いているので、アジア人よりは目立たない面はある。

こうした場面の記憶を後から取り上げて「日本に来ているのだから、もっと日本の文化の流儀に合わせろよ」というような陰口をアジア人に対してはよく言うのに、西洋人にはそれほど言わない。だから、その辺に白人コンプレックスや人種差別意識をどうしても感じてしまう。

で、私的にはこういう感じの方が気が疲れなくて好きだったりする。
自分たちのやりたいように行動しながら、同じ空間をシェアし合っているんだ、という部分をわきまえているのなら、そちらの方がよっぽど人間味があってストレスが少ないではないか。


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# by catalyticmonk | 2017-04-12 00:23 | 忘れ物 | Comments(0)

公共と個人の幸福

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いきなり急に赤の他人のために尽くしたい、なんて思う訳ないんだよ、誰でも。自分の心に感じている幸福への感謝の気持ちや、同じように辛い思いをしている存在への同情から、本当の公共の精神て生まれるんだし、それ以上は強制しても意味ないんだよ。

ま、人間はみんなこの世に生まれてきた時点で深い孤独と悲しみを抱えているからさ。自分て存在が他の人や存在から分離して存在して、それでも自身はなんとか生き永らえたいんだから、心が引き裂かれるんだよ。
だから、心に穴が空いているから相手のために頑張ることで自分も救われる、という状態もある。みんな、そういう実験を友人や家族、恋人たちとしているのさ。

でも、それは、まだ不確かなギャンブルで、それが裏切りに遭ったりするとやはり深い葛藤や人間不信につながる。
自分自身の幸福を高めていく、って基本が必要な部分でさ。

だけれど、そこに狭い自我への枠のこだわりが強過ぎると、また別の苦しみが生じる訳さ。
その理由は簡単で、人間てどこまで行っても社会的な満足を求める生き物だからさ。どんなに利己的に振る舞おうとしても愛が欲しいし、孤独じゃ嫌なんだよ。

自分自身の健やかな気持ちを求めつつも、狭苦しくも浅ましいエゴの泥沼にはまらないところに、神への想いが存在する。それは、そのように自分を形作った本質であるからだ。
神、と言ってピンと来ない人に向けて言い換えるなら、人間社会の煩わしさに心をさらわれないで、尚且つ寒々とした心持ちにならないよう人間らしく生きる道の中にこそ、形骸化しない公共の精神があるのではないか、と問うておきたい。
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# by catalyticmonk | 2017-04-08 00:33 | 希望社会 | Comments(1)

カルト的経済大国ニッポン

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日本の企業って、大きなところは大概凄くカルト宗教っぽいよ。総体的な雰囲気として、そういうのが常識になっちゃっている部分がある。
自社営業マンを育てるために社員旅行先で狂ったように哄笑する練習をさせたり、「内観」と称して部下一人に上司10人くらいで取り囲んで、それまでの自分の人生すべてを自己否定的に反省する誘導をしたり、そりゃ、やられる側は自我が押し潰されるから、その時に会社への忠誠心を吹き込まれたら、みんな心の逃げ場を求めてそこにすっぽりハマる訳だよ。

あんな強烈な洗脳方法、下地に宗教があって開発されてきたとしか思えない。それもカルト的なね。
でも、カルトは基本的に他人を利用しようとする・操る手法だから、経済利益優先主義とも相性がいいのさ。

創価学会は、宗教と言うよりも、日本最大級のブラック企業のようなものだと思っている。
そこが利権集団として幅を利かせているから、そのアレンジで自己啓発セミナーみたいな社員教育で企業戦士を洗脳して育てる企業とか、いろんな亜流がバンバン生まれてくる下地が広範に形成されてしまう。

AKB商法みたいな消費者を丸囲みする自己増殖的なマーケティングの器用さも、結構カルトっぽいと感じている。
日本人が、個人で主体性を持って考える作業には物凄く稚拙なのに、どうしてこんなに高度な心理戦は展開出来るのだろう、というところが一見不自然に感じるのだけれど、そこは背景にカルト的な文化があって、多くの人たちが個人として考える前に、もうそこに集団心理的に「入信」済みなんだ、と想定するとすんなり納得が行く。

だから、日本は元々カルト的な封建社会が、文化の底流でずっと続いている国だった。それが日本会議の連中や創価学会が政権を握る、という一番露骨な形で表れ出したのは、ずっと続いてきた内実がとうとう表面化してきただけなんだと思う。
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# by catalyticmonk | 2017-04-07 02:06 | 支配構造 | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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