現代日本の若者事情とハイコンテクスト文化

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誉めるのでも貶すでもなく、昭和46年生まれの私が10代20代に感じる世代差の率直な感覚。
まず、言葉の違い。「は?」がやたら多い。
「ぶっひゃっひゃひゃ、マジですか、それー!もう勘弁して下さいよ」「マジ、それキモくね?」「マジでそれヤバく感じるんだけど」などと「マジ」とか「キモい/キモッ」も多用する。

ただ、私の世代以降二極化が強まったヤンキー系とオタク文化系のどちらかの流れと文脈で相手を判断する傾向は、中間型が認識されつつも、さらにその溝と対立が深まっている様子。

全体的に、昔の若者より腰が低く、従順。同時に恐らく私や私と同世代か、それ以上の年代のイメージするような若者らしい純粋さが薄く、ひねくれていて、にも関わらず若くしておじさん・おばさん臭くもある。


その世代ごとに既存文化や前の世代への反骨精神と言うか、権威主義への反動と発散として、スラングや俗語がどんどん生まれてくる事自体はおかしな話だと思わない。
ただ、一つの言葉が状況によりけりで指す意味が細かく違い、会話もハイコンテクストなこと極まりない。
「マジ卍」なんて言葉もある。要するに「マジ」から派生したようだが、「卍卍」だと「マジ?マジ?」と似たニュアンスになって「やったー!」、「マジ卍」だと「マジでマジで?」を一歩進めた意味で「あり得ない」くらいの意味合いになったりするらしい。
「ありよりのなし」とか。「あり得なくはないけれど、多分違う」と言わないで省略して凝縮した意味合いでポンポン言うのが彼らなりの粋のようだ(参考:https://www.youtube.com/watch?time_continue=192&v=mRK6nERZi3A)。

最近では、大人が読んでもいじめと分からないような、字面の言葉とはまるで違う意味で言葉を使う「反語」なる手法まで出てきてそうだ。これは、直接その世代の女性から聞いた話だ。
悪意が特定しにくいいじめの手法がどんどん進化しているっぽいのは感じていた。
だけれど、上の世代の人にはそうとほとんど分からない。直接に接して、自分が当事者になってみて、ようやく「あれ?何この訳の分からない感じ??」となるのだが、当然、年上の世代にはそのスキルを全面的には使用しないのだろうし、少しだけ使われて訳が分からないままけむに巻かれる年長者が大半なんだな、となんとなく感じなくもなくて。
私のように反応が早い相手には「ヤバい」となってサッと引っ込めて終わるから、そこでは相当な世代間ギャップが出来つつあるんじゃないか。

なお悪いパターンが容易に想像つくのであって、本来、いじめを受けた子供をサポートする立場の学校の教師やケースワーカー、医師らといった大人が、浅い理解しかしなくて、事態を軽く見なしがちなんじゃないか、と現に今どきのいじめの事例をたまに聞いていても思っていたところ、先述の女性から次のような証言を得る。一個人の視点だろうが、私より若い当事者の世代に証言されると説得力があったのも事実だ。

「上の世代に対して猫を被るのも異常に上手い子が多い世代なので、問題の深刻さがなかなか他世代には分かりにくいのがまた余計に深刻」「鋭く人を見極める方が相手だと上手く戦法を変える術も持っているので、いじめ等を見抜かねばならない教育の現場が立ち行かなくなる理由も分かる」。

「結局、親とかなんかが、自分の子どもがそんなハイコンテクストなコミュニケーションの問題の中で生きている複雑な生命体だと認めたくないがために、問題を軽く認識しがちなのも理由かな、と思います。
まあ、誰だって自分の子どもには単純で素直であっけらかんとした想像通りの“子ども”でいてほしいですもんね」

「それから、河元さんのご投稿にあるヤンキー系とオタク系に関しては(注:最初はFacebook上に同内容で投稿し、そのレスポンスで得た内容がこれだ)、地域や家庭の経済レベルに直結して、より貧困層(ヤンキー系)と富裕層(オタク系)に二分化している世代でもある気がしています。
塾やら通信教育やらと、教育にお金がかかる時代になり、経済の層が固定化されやすくなってしまったためかも知れません。
そんな背景もあってか、親の期待する範囲内で親に無理がかからない程度のレベルで自分の人生の道筋を決める子が尊いと言われる世代なので、反骨心が弱い代わりに燻らせているものも多く、こんな特徴が出てくるのかな、と感じます」


私が暮らしているエリア・府中を見ていると、家庭が中小の工事会社を経営していたり、管理職的な立場の人が親でそんなに貧乏でもない子供や大人、という設定の中間層が今でも多い。府中でお金を持っている人達もそれを地域社会に還元しようという気持ちが伝統的に強いので、柔軟性の高い庶民文化が保たれていると言うか。そうした事もあってか、文化的にも二極化されていない面を感じる。
でも、それは例外中の例外なパターンなのかも知れない。やはり府中にも経済差による二極化傾向は見え隠れしている気もする。

実際言われてみれば、渋谷のアパレル関係でド派手な格好の若者が案外貧乏だったりして、彼らの少なくない者が成金主義的な憧れを持っているのも、そこの反動と関連がありそうだ。
やはり、経済環境とヤンキー文化・オタク文化の二極化がかなり同期している部分は大きいのかも知れない。
そうだとすると、やはり政治的に社会の経済格差をなくしていく事と、人権教育、有機的な地域のつながり・交流、その辺が解決の鍵なのか。
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# by catalyticmonk | 2018-01-17 22:12 | ハイコンテクスト文化 | Comments(0)

ドロシー嬢を破滅させた銀幕魔界の話

映画「オズの魔法使」の3つの「ウソ」からわかるテクニカラーの歴史

1974年の「ゴッドファーザーPART2」の製作を最後に、Technicolorのプリント施設が閉鎖され、テクニカラーの時代が幕を閉じることとなった、って。そんな後までテクニカラーの時代があったんだなあ。

それはさておき、映画「オズの魔法使」でドロシーを演じた若き日のジュディ・ガーランドはまさに私のど真ん中で、それを語るいい機会なので、勝手に語り出す。
彼女くらい清純なイメージと乖離した破滅的な人生も珍しい。改めて調べてみてクラクラした。

「オズの魔法使」は、子供の頃はテレビでたまに再放送されていてもあまり興味が湧かなかった気がする。興味を持った理由は単純で、高校生の時にロック・バンドのレインボーのライブ盤のオープニングでドロシー嬢の声のサンプリングが使われており、それが数秒間なのに天使のように可愛らしく印象的で、映像を観たらもっと可愛いのでぶっ飛んだ、という流れだ。
でも往年のロックを一通りチェックした世代の男性なら、案外そういう人も珍しくないのではないか。

私は普通に音源で聴いたのが最初だが、そのレインボーのライブ映像があった。動画の26秒目くらいからジュディ・ガーランド演じるドロシー嬢の魔法のように魅力的な声のサンプリング音声が流れ出す。

オズの魔法使(The Wizard of Oz) - Part 1

ジュディ・ガーランドの人生は、もう戦前・戦後のアメリカのハリウッド映画界の乱れっぷりを濃縮反映したような猛烈なものだ。
娘の同じく女優であり歌手のライザ・ミネリによると、「母はハリウッドに殺された」のだそうで、13歳から薬漬けにされた美少女は徐々に精神を病み、FBIにもマークされるほどの薬物中毒に陥り、1969年、遂には睡眠薬の過剰摂取にてこの世を去る。

10代の娘にダイエットさせようと当時合法だった覚醒剤を勧めたり、そもそも1935年に大手映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約する時にも、プロデューサーのアーサー・フリードが当時13歳のジュディと性的関係を持っていたため、他の候補者を蹴って契約を結んだとか、もう無茶苦茶で(https://matome.naver.jp/odai/2141958289562043101)、娘を持つ親なら絶対に近付けてはいけない世界の典型な気がする。
今はそうでもない場合もあるのかも知れないが、芸術文化・音楽・芸能業界は古今東西問わず昔から乱れている方が通常運行だったよう。それにしてもハリウッドは酷過ぎる。

肝心の「オズの魔法使」の制作時の逸話も悪魔的。
ガーランドの元夫シド・ラフト氏が回想録「Judy and I: My Life with Judy Garland」の中で、ガーランドは性的嫌がらせを受けていたと告白している。
「オズの魔法使」で、ドロシーを黄色のレンガ道に案内するマンチキンを演じた俳優たち数人が、当時10代のガーランドに性的嫌がらせをしたと、ラフト氏は本の中で訴えている。見事に夢をぶち壊してくれるじゃないか。

雑誌『ピープル』の特集には、「彼らはセットの中で、ジュディのドレスの中に手を入れたんです。彼女の人生は台なしになってしまいました…マンチキンの男たちは40歳かそれ以上でした」と記されている。
「彼らは自分たちがとても小さいので、何も罪を問われないと思っていたんです」
本人も「彼らは毎晩襲ってきましたよ」と告白していた(http://www.huffingtonpost.jp/2017/02/09/judy-garland_n_14650996.html)。

なんと言うか、邪悪な世界そのもの、といった感じだ。それにぐしゃぐしゃに潰された波乱の人生。
それでも、こんなに魅力的な「オズの魔法使」でのジュディ・ガーランド。
薄幸にして劇的流転の人生の代表例と言うか。可愛い娘は虚飾の世界に入れると大変なことになるかも知れない。
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# by catalyticmonk | 2018-01-17 21:33 | ハリウッド | Comments(0)

ピンと来る

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成人病になりそうな人の食事内容とデキてるのを隠している男女同士の会話はすぐにピンと来る。
言わないが。

また、そこに気付かない人は、真面目かつ大概他の事でも鈍感、頭でっかちで的外れな意見を言う傾向にあり。
逆に察しがやたらいい人物は、物分かりがいい反面、早合点も増えると言うか、思い込みの強いタイプも増える。
大雑把な印象に過ぎないけどね。

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# by catalyticmonk | 2018-01-17 21:20 | 忘れ物 | Comments(0)

他者や異質なものへの興味・好奇心

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人を見ていて面白いなあ、と感じるのが、自分的に好きか嫌いか、趣味に合うか合わないか、と、それを元気で調子のいい状態と感じるか、病んでいたり衰弱した状態と感じるか、が必ずしも噛み合うのではないところ。

元気そうでも、それが傲慢で鼻持ちならなく感じる相手もいれば、意気消沈していても心清らかに感じる人もいる。

一つ一つの主張はそんなに異論もない範疇なのに、何故かその人の言う話には関心持てない、荒んだ嫌な何かを感じてしまう、或いは何かの機会に急にそのような気配を察知してしまう、という事も度々ある。
そういうのは表立って言えない理由なので色々とやりにくくなるが、私はその勘には毎回従う事にしている。
単にそれが私のわがままだったり、その時点での自分の限界だったりする場合も当然あるのだろう。

その逆もある。表面的には、どうにもこれまでの私の趣味や考えと違うが、何故かこの人からは良い空気や親しみを感じる、というものだ。
これも功罪が半々で、自分と何かしら共通項があるのを察知して親しみを感じているのだったり、相手の表面的な愛想の良さに乗せられかけているのだったり、といった事があるので、親しみや好感を感じるからと言って判断は慎重にしないといけない。

それでもまた、それが、現時点で自分で思い込んでいる趣味や考えとは違っても、また別の外側の新しいアイデアや可能性である場合もあるから、私はその可能性に大概は賭けてみたくなる。取り敢えず好奇心や興味が持てない事には、なかなか間口や見識を広げる事は出来ないのだから。
事務的に淡々と「これが正しい理屈で順当な手段なのだから」とやっていても、どんどん閉鎖的で偏狭な「正しくもなければ楽しくもない何か」に変質していくのが世の理な気がする。

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# by catalyticmonk | 2018-01-14 01:23 | 忘れ物 | Comments(0)

日本人の個人の自由に対する観念への果たし状

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インドで、パソコンのデスクトップ画像を、自分がどこかで盛り上がっている時の記念写真にしていたイスラエル人女性がいて、日本人女性が「なぜ、あなたの写真を飾っているの?」と笑いながら訊いているのを耳にした事がある。
イスラエル人女性の答え。「それは、このラップトップが私のものだからよ」。怒らずフラットに返事しただけ立派だと思ったね、その時。

日本人だったら、こういう言葉を子供の頃からずっと聞いてきているので、そこで少しプレッシャーを感じるだろう。
でも、本当は、そんな事は自嘲気味に言う必要もない話で、自分の子供や恋人の写真がオンパレードで飾られていても構わないはずだ。

自撮りどころか、自分の恋人や子供の写真に至るまで濃淡はあれど、それを前提条件として「かまってちゃんだから」「目立ちたがりだから」、という次元の理由で、社会的な体裁は自分達の側にあるかのように非難がましく言う。何か批判する道徳的根拠があるみたいに。でも、そんなものはない訳だ。

だって、西洋人なり韓国人なり、インド人でも中国人でも、そうやって互いに楽しんでいるからね。それを何故もっともらしい理由をつけて揶揄したがるのか、意味が分からない。
問題なのは「こうじゃなきゃいけない」という同調圧力がこの社会で色濃い部分だ。
子供同士の喧嘩でも、そういうどうでもいい理由で不器用めな子に因縁をつけては集団で吊し上げ、いじめる。どうもニュースの記事などを色々と読んでいると、そういうところも私の子供時代と未だに変わっていないようだ。
だから、これは、私から日本社会への40年越しの果たし状だ。

「そんなの知らないわ、私は私の好きにするの」という次元で、昔の世代は感じないはずのないストレスを自分の内側に抱え込んで、ちょっとはねっかえりめな生き方を選択してきたし、今なお少なくない数の若者がそうしている。悲壮な思いを胸に秘め、私は私で好きにしているからいいんだ、と意地を張りながらね。
しかし、そんな社会は個人を尊重した上での自由があるとは言えない。

さらに、そういうある種の無頼派みたいな選択をさせる事で、そういう人の中の少なくない数の人を人権問題や社会問題に対して無関心な人間にもさせている。
社会問題に関心を抱いたとしても、ベーシックな部分で自分自身の自我が実体験しているストレスや違和感を正面から捉えようとしていないものだから、特定の事柄では思考が停止して歪んでいるのが分かる。いわゆるコンプレックス、「心のしこり」として。

ストレートに「何故そんな事を言われなければいけないんだ!」という形の反発にならないのは、日本社会で伝統的に吹聴されてきた様々な「精神論」が、そういった自由に生きたい願望を持つ個々人の中にも内面化されていて、邪魔をしているからに他ならない。

「空気を読んで」「忖度で」「協調性を重んじて」「自分は我慢して」「根性で」みんなのためになる事をしているんだ、という意識。また、そういう刷り込み。
それらが「人間はまず自分の意見や感じている事を言うところからしか、互いの妥協点を合議しようもない」という道理を抑圧している。


アンドリュー・キーンの本を読んでいたら、イギリスの14歳から21歳までの若者がインスタグラムに投稿する写真のほぼ50%が自撮りだそう。別にたまたまあるデータがイギリスなだけで、西洋社会で自撮りは普通らしい。
私がインスタ投稿の半分を自撮りにしたら総スカンだな。

日本人が如何に自己アピールには消極的で、妬みの心に満ちているか、改めて痛感させられる話に感じた。
多分、普通の日本人の多くはそういう話を聞いても「イギリス人や西洋人て、なんて自惚れ屋さんなんだ」と笑うくらいな話なんじゃないか。

もちろん、写真自体に凝っている人なら自撮りが一番のテーマになる訳ない。
でも、そうでもない一般人がスマホや簡易カメラを使って写真SNSに投稿する第一が「やあ、僕だよ!」になるのはとても自然な事だと思う。
それを日本人だと、いろんなプレッシャーが働いて素直に出来ないんだろう。

私は少なくとも投稿の半分を自撮りにするには相当な努力が必要なレベルだ、とは断言出来るので、自撮りなんて実際大してしていないのだが、たまにやったら意外な人々から反応があったので、以前よりは増やした程度の事だ。
モデルの20代の女の子や人生を謳歌していそうなムキムキの海好きの青年からメッセージをもらうなんて、私が長い間ブログを書いていても全くなかった現象で、単純にそれが嬉しかった。

でも、そこで自分でも少なからず抵抗感があったし、日本じゃなければこんなプレッシャーを感じない、というのは経験上はっきり分かっているので、改めて「これはなんだ?!」と考え出した訳だ。
もっと、根底にある文化的な部分への疑問や追及が何故これほどまでに少なくてスルーされがちなのか。そこの部分は私が子供時代から一貫して抱いている、この社会への疑問に通底する。


別に西洋人じゃなくても、例えば韓国人の若い子でも友達同士で撮りあっこしているのを眺めていると、「私ってどう?」的なキメのモデルポーズを作る。
日本人は、今でもそういうの自体を一々笑い物にする傾向が強い。本当は自分でもカッコつけたいし、他人を見下す気持ちと同じ分だけ優越感を感じたい競争心もあったりするのに。平均的な基準からして歪んでいると感じる。
それは「謙虚な文化だから」という次元の話では済まない。他人に干渉しているからだ。

ただ、西洋人でも結局若い世代の自撮り投稿の方が多いらしい。つまり、やはり相対的に若くて輝いている時の自分を積極的にアピールするか、しないかの違いみたいだ。
でも、私みたいに中年のくたびれたおじさんの写真でもインスタグラムへアップしていると、私よりずっと若い世代のモデルの子とかが真っ先にいいね!とかフォローとかしてきて、彼ら彼女らの投稿写真を見てみると、世間的な美醜の基準なんか関係なく、自身の人生を謳歌し、愛している人々だと伝わってくる。

そういう若者にとっても、この社会のプレッシャーは脅威で苛立ちでストレスフルなんだと思うんだね。でも、冴えないおじさんもまだまだ自分を写している。若いうちだけで萎縮しなくてもいいんだ、多分そういう気持ちも含めて反応してくれるんだと思う。直接そんな感じの話をしてくれた若者もいた。

結局、好みは人それぞれ、美醜の基準もまちまちな中で、自分の憎悪や妬みを、他人に強要するかしないか、の違いなんだ。
でも、そういう形の同調圧力を個人にかけている社会のあり方が無罪放免になったままで、個人がそれを引き受けるような精神論に持っていくのも根の深いねじれを感じる。
私が問題にしているのはそこだ。


多分、日本人の多くは、未だに本気で個人が自身の尊厳に基づいて自由に生きていいんだ、と堂々と主張出来ないんだと思う。
大きな社会的大義がありそうであれば、それを「みんなのためになる事だから」「私の私心で主張行動しているのではないから」と言って自己を正当化し、他者にもその正義を「従わなければいけないもの」として声高に主張し出すのだけれど、ここが私からすると全くのナンセンスで、日本の左翼や市民運動の文化的トーンの多くにも共感出来ない部分。

「みんなのためになる」と誰の主観や実感情があった上で、それに恭順しているのか?
私・本人だ。
その人が好ましいと感じ思う事があって、それを他の人も一定数同じように感じていると分かったので、それに同調する事が出来ただけだ。

他の人に「こうした方がいい」と主張する時にも、それは絶対的正義なんかじゃない。なんかその辺りが激しく混乱したままで社会の公正とか民主主義とか言っているから、やはりそういう特殊な人種がいる、という扱いで終わりがちになる。
自由ってなんなんだ、という根本的な問いかけ、今ある常識とされているものへの筋道立てた反論、というものも重要だと感じる。

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# by catalyticmonk | 2018-01-05 01:44 | 表現の自由 | Comments(0)

忖度と主体性

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「角の立つ言葉を言わない」「穏やかな言葉と態度で語る(正語)」「察し合いの心」が仏教の美徳な訳だ。そして、これが長年の日本社会に根付いた美徳でもあった。

しかし、実際は人間はそこまで優れていない。表立って言わない代わりに強い者に流され忖度し、疑心暗鬼になって、憶測から変わった人、少数派だったり弱い立場の人を陰口を叩いて揶揄し合ったりして、強くなった気分になったり、安心感を得ようとしてしまう。

そうならないためには、忖度し合っているうちに、横暴な権力者や強い者の腰巾着になったり、やられたい放題なのに手をこまねかないためには、やはり思っている事を言葉に出して、意思確認をし合い、その上でどうするのか、空気で動くのではなく、想像していなかったようなレベルのところまで頭で考えて話し合い、具体的に発展させていかなければ上手くいかない。

ところが、その前の段階で、そんな事をわざわざ口にするから、面倒な事になるんだ、あいつはゲスな奴だ、といつまで経ってもそういう水面下の心理から、発言する個人を他の理由を付けては邪険にしたり、自らがそんな立場にならないように保身的なうわべだけの笑顔を見せてしまいがちなのが日本人。
大丈夫と思っていない事に流され、こうした方がいいと感じている言葉を噤んで、そうでない事に従っていく。他の賢くて偉い誰かが、きちんと妥当なアイデアを出してくれるだろう、私の感じている疑問なんて小さな事に違いない、と主体性を持とうとしない。

それで、どうやって悪賢くて今既に力を持っている人々や、「法人」「経済」といった反省する人格も無しに自動的に自己利益優先で暴走していってしまう仕組みから、人権や個人の尊厳・自由、生命といったものを守っていけるのだろう。そんな事は不可能な訳だ。

例えば兵器を売って儲ける機関として作られた多国籍企業であれば、そこには巨大な資力と権益が集まる一方で、目先の儲け以上に損なわれる人命や国際社会の不安定化などといったものには目もくれない。個人個人の主体的意思を持った人間の、抑止力を以ってしか止められない。
経済というのは、そのように本質的に人間の人格や幸福追求の意志を超えて、暴走していってしまう性質があるので、野放しではいけない最たるものだ。
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# by catalyticmonk | 2017-12-22 22:31 | 人間の尊厳 | Comments(0)

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

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親しく語り合っていたつもりの相手が、短期間に「どうしてそんなに変わっちゃったの?」と驚くくらい反応が変わっていて困惑する事が時折ある。
あんなに相談に乗ってあげたのに、なんだよ、急にそのつれない態度は、と内心思ったりね。

だけれど、人生というのは送っている中身次第で様々だ。私も病気をする前と今ではまるで同じではないし、昔の友達からすると政治的な発言をよくするので、まさに「どうしちゃったの?」状態になっているらしい事は、相手の反応を見ていて何度か感じた。

だから、仕方のない事なのだろうけど、なんだろうな。大勢と関わっている時は色々あるから簡単に流せるし、正直そうでもない時期には一人二人の事で随分と気分が左右されたりする。
それだな。

私も多くの人と関わって、大きな変化の最中には少し前の知り合いの反応なんて構っていなかったし、構っていられなかった気がする。
変化のスピードが激しい最中は、一人一人の相手の反応に無頓着なものなんだよ。

だけれど、これまで通り穏やかに暮らしている人にとっては、そういう人の変化についていけないし、心の準備も出来ていない。こうやって話せば伝わるだろう、と思って言った言葉が悉く噛み合わなくて呆気に取られたりする。
きっと、巣立って行く子供から育てた後に取り残される親や祖父母の気持ちもそんなものなんだろう。

若くて元気なうちは無自覚に多くの人を傷付けがちなのだろうし、年老いて行動が制約され、付き合う人数も減ると意気消沈してしまう人が多いのは、そこら辺が原因なんだな。
家族や心を許し合える親しい相手が、年を重ねる毎に重要になっていくのはそうしたところなのだろう。
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# by catalyticmonk | 2017-12-21 23:09 | 忘れ物 | Comments(0)

卑怯者の王国

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「怒らせるようなことを言うんじゃない!」って、人の話を勝手に曲解して怒ったの、あんたじゃないか!!ってありがち。
自分達が普通と思っている人達ほどそういう倒錯した論理で威張るね。世界の警察気取りのアメリカとか、貧しい人の服装を笑いものにする人とか。

「大量破壊兵器があるから攻撃する(え?自分はどれだけ持ってるの??)」→やっぱりありませんでした。→「そんな疑われるような非人道的な政府の振る舞いだから悪い」みたいな。

そういうレベルの横暴、個人間でも横行しているから。意味のない毒吐きや皮肉、当てこすり、自分が気に入らないから、相手の事が理解出来なくて目障りだから、という発想や動機で罪の意識もなくやる人が多い故に、戦争がなくならないし、いじめ社会なんだよ。

「いじめられる子にも原因がある」、そんなことを言う前にいじめを止めたら?
「喧嘩両成敗」、なんとなく気に入らないからって引っ叩かれたり、教室の席に画鋲を置かれたり毎日されていた子が本気で怒ったら、立場が弱いから表沙汰になった反撃の部分だけ捉えてあべこべに停学とかね。「お互いに謝りましょう」って深く話も聞かないで教師や大人が表面的な仲直りなんてさせたら、それこそその後もいじめる連中はその子をいじめても「バレない」と思って、もっとエスカレートする。

結構、本当の犯罪者の人とも日本でもインドでも接したけど、意外と根は素直で純粋で不器用な人が多かったね。つまり、そうやってつまはじきにされているうちにどこかでキレちゃったりグレて、マフィアやチンピラになっちゃった、って系統の人間がかなりいるんだと思うよ。
いわゆる平凡に人生を送っている人以上に純粋な人物に遭遇する比率が高かったな。本当に人間がぶっ壊れちゃっているのも大勢いる訳だけど。

うわべだけの綺麗事や事なかれ主義じゃ、平等にも平和にもならないんだって。強い者、要領のいい奴だけが得をする世界を、社会が後押ししていたら話にならないんだよ。
卑怯者の王国を一人一人が終わりにしようと目指さなければ、堂々巡りが千年でも続くのさ。


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# by catalyticmonk | 2017-12-21 00:57 | 人間の尊厳 | Comments(0)

信頼と願い

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よく心理学の通説として、虐待家庭で育った児童は自己を愛せない、自己評価が低いとか言われている。
私はまさに虐待家庭育ちだ。でも、自分大好きだし、自己評価も低くなんかないぞ、ってずっと思ってきた。
「何が何でも生き延びてやる」みたいなガッツと言うか執念も凄いし、それ故に悲しい・辛いという気持ちは人並みに感じても必ず生き延びるのが前提になっているから、鬱で生きる意欲をなくすなんて状態とも無縁だったしね。

e0296801_23511446.jpgしかし、ふと思い当たった。親に愛されていないから、どうしても自分が人から受け入れられたり、好まれる人間だと無条件に感じれない。この感覚の事か?

理屈抜きに植え付けられた感覚だから、「信じる事です」「受け入れなさい」とか言われる方が困る。
これを自己評価が低いなんて言われても、別に自分の意思や努力で変われる次元の事柄じゃないから、そんな上から目線で憐れむように語られると「あんたらにこの感覚が分かるのかよ?」ってカチンとくるもんね。根性が腐っている的な解釈で来る相手なんて何様だよ、と思う。

理屈抜きに自分を認めて愛してくれる存在感というのが出発点でないから、その分、自分が自分の応援団なだけなんだけどな。
別にそういう自分の自然状態を儚んだり、嘆く気もなくて、きちんと自分で穴埋めして解決しようとしているんだから、違うからって貶すようなことを言われたくないだけだし、こちらの尊厳を軽んじる相手と戦う闘志はいつでも持っているよ。

だから、単純に「自己を愛せない」ではなくて、「他者に愛される存在として無意識に自分のことを信じている」という感覚がないんだろうな。

それと、これは私個人の捉え方で、他人に押し付ける気はないんだけど、「信じる」というのは相手に無意識に見返りを求める気持ちも含んでいると思うんだよね。
相手が自分の期待に沿うような善人だったり、信頼関係を守ってくれる相手かは、「そうである事もあれば、ない事もある」絶えず揺らいでいてどちらでもないもの、として捉えている。

「これはあなたへの愛だ」とか「信じているんだ」などと宣言した時点で、少なからず相手に何かを押し付けている感じがするんだよ。虐待を受けた者として他者の「支配」みたいな空気に敏感なんで、特にそこに引っ掛かるというのもあるんだろうけど。
だから、そういう甘っちょろい感じにまぶした演出が私個人は不誠実なやり方に感じてしまうから、それぞれの「願い」があるだけだ、と思っている。

相手がどう反応するかは、神でない我々人間同士の間に確かな保証はどこにもない。
だけれど、例えば自分も経験したような辛い思いを相手にしてもらいたくない、とか、そういう「願い」は確かにある訳だよ。
その「願い」と「願い」がぶつかって人は争うのだけれど、人間の生み出す素晴らしい何かも、その「願い」の中身に掛かっている気がする。
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# by catalyticmonk | 2017-12-09 23:59 | 忘れ物 | Comments(0)

平穏とドラマ

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舞台人は各会館の搬入口に始まりと終わりの郷愁だか叙情を感じるらしい。
旅が始まり、旅が終わる、みたいな感覚に似ているのかね。ドラマを感じるからね、ああいう瞬間て。店を始めて店を畳む時とか。選挙も手術も、そういうドラマがあるな。
生きている中で、そういうドラマを感じる瞬間て、どれだけあるのかね。

e0296801_02160260.jpgあまり抑揚のない生き方でも人の痛みの分からない浅ましい人間になりそうだし、ハラハラするドラマの連続でもさ、ほのぼのした温もりの少ない人生になり兼ねない。
まあ、ドラマティックに人のパッションを煽るのは絶妙でも人でなし、ってタイプもいるしな(笑)。


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# by catalyticmonk | 2017-12-07 01:14 | 忘れ物 | Comments(0)

持たざる者の誇り

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辛い時や悲しい時に、心の中で呟くだけでもいいから「お母さん、苦しいよ」と言える存在が居たらどれだけ救われるだろう。
甘えられる母を子供の頃に持っていた人は、目に見えない財産を一生持っているのだと思う。
だが、それを生まれつき持たなかった者にも別の誇りと尊厳がある。だから、私はどんなに辛い時でも誰かにひれ伏そうと考えた事がない。
世にある権威やステイタスなんてものが大嫌いだし、支配されるのも受け付けない。
私が素直に敬えるものは人智を超えた存在だけだ。

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# by catalyticmonk | 2017-12-07 00:39 | 忘れ物 | Comments(0)

がん治療への偏見と問題:放置療法の危険

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「抗がん剤は効かないからやめた方がいい」「今すぐやめなさい」なんて、相手がどこの部位のがんで、どんな症状の、どの段階か、どの薬の種類を使用しているかも確認しないうちから断定的に言う人が結構います。

これは完全な間違いです。少なくとも、そんな大雑把に何かを決めつけられるものではない。治る可能性があるものまで手遅れにしてしまう可能性もあるので、大変罪深い態度です。絶対にやらないでください。
がん宣告を受けると患者は、患者だけでなく周りの家族も心配して、とても不安な気持ちになっています。そういう状態にある人にそういう事を中途半端に入れ知恵すると、よく吟味・調査しないうちに、素人考えで信じてしまう事があります。

私の実体験なのです。
私ががん告知を受けた時も、当時の妻が手術直前になって、近藤誠という慶応大学病院の医師で、放置療法を推奨する人の外来専門クリニックを見つけて私を連れて行き、近藤医師に慈恵医大病院で撮ったCT検査のデータだけ見られて、「あなたは治療しなくても大丈夫」と根拠もなく断定されました。
e0296801_12461425.jpg「おかしいなあ」とは思ったのですが、「ほとんどのがんはがんもどき。早期発見などで慌てて切るとロクなことはない。生活に支障なく元気ならば様子を見る、放置する、余命3カ月と言われた患者さんも、無駄な治療をせず放置して、何年も長生きしたケースを見てきた」なんて著書通りの言い分だったと思います。

高名な医師の方がそこまで断言するのだから、手術はやはり嫌だし、「QOL(生活の質)が下がらない限り、様子見していればいい。がんもどきかも知れない」なんて専門家らしい事も言うので、それで済むなら様子を見るか、と考えました。
診察室まで同伴した当時の妻も「もう、あなたはがんでは死なないだって!」と嬉々として言うし、その直後に既に新しい男がいたらしかった彼女と(本人が離婚後に告白)離婚して、あまりに立て続きに起きたのでさらに詳しく調べる気力もなくなって、そのまま数年間を近所の病院に行く以外は放置する状況が続きました。
全部私自身の馬鹿さ加減なのです。結果、重症化して、がん治療について自分で再度学び直す事となりました。

現在の主治医が言うには、「そんな細胞診で悪性腫瘍と診断も出ていたのに放置していていい訳がない。責任ある医者がそんな事を患者に言うなんて犯罪行為に等しい。牢屋にぶち込むべきくらいな話だ!」とカンカンで、告知後1年以内くらいで手術していればこんな大事にならなかった、と言う訳です。

変な話ですが、同時期に同じ医師の同じクリニックに女優の川島なおみさんも来られていたようで、彼女が近藤医師のいい加減な診察の影響で治療が手遅れになり、2015年9月末に54歳の若さで胆管がんで亡くなったのは有名な話です。
そして、私の病状が悪化してきたのはまさにその頃で、翌年から本格闘病に入ることになります。
ゾッとする話でしょう。でも、これは私が現実に体験した話なんです。

e0296801_12501340.jpgがん治療は、未だ現代医療が未解決で手探りな最先端の分野であり、そのために専門家の間でも病気の診断や治療法の見解が様々に異なっています。
そうした判然としない不確定な中で、適切でない抗がん剤投与や切除手術が行われて、無駄に縮命してしまう事は現実にあって、そこに病院や医師によっては研究材料として使ったとか製薬会社の功利主義とか様々な問題が入り込んでいて、正規の治療法に疑問が持たれ、逆に根拠の怪しい民間療法が法外な治療費を取って儲ける、という混乱が助長されているのです。

私の現在の主治医は日本の医学界でとても高い地位の人物です。がん治療の専門機関は大規模な施設が必要となるために国公立の病院主体であり、国公立の病院は人材の行き来や交流、横のつながりがあるため、公然と他の病院やその関係者の批判をし辛い、という現実があります。
だから、こういう医療告発的な事柄を書いている私は、今の病院には感謝しているし信頼をしていても、名前は明かせません。
ですが、その私の主治医ですら、こう述べていました。
「近藤誠医師の言っていることも6割くらいは本当なんだよ。
だけど、人の生き死にを分ける重要な事柄まで、自分の専門分野でもないことまでいい加減な事を言って脚光を浴びているから、問題なんだよ」と。

例えば、固形がんのある人が、ビタミン注射や玄米食の食事療法を取り入れたって、それで免疫力や解毒作用が上がって進行を遅らせる事は出来るかも知れませんが、それで元の腫瘍を放置しておいたら成長して手遅れにもなり兼ねません。
もしかしたら、そうしたものの効果で消えたり小さくなるケースもゼロではないでしょうが、やはり他に手が残されていない場合や、受けているメインの治療の補助として考えるべきだと思います。

e0296801_12415348.jpg私も、切除手術も抗がん剤治療もとても苦しかったので、やらないで済むならやりたくない気持ちは分かります。しかし、最初に長らく放置して事態を悪化させてしまった経緯もあるので、後は辛い・痛いも全部覚悟して治療に臨み、現在がん腫瘍は消えました。
ですが、がんは肉眼で確認出来ないミクロレベルで隠れている事もあるので、それで転移したり再発もするのですから、本当に消えたかどうかは、長い時間をかけて経過観察した上でしか精度の高い結論は出せません。
だから、がんには「治癒」はなく「寛解」という多分治っているだろうという可能性を表す尺度しかないのです。

それでも、ここまでで4年半、がん闘病は私の人生をすっかり激変させました。その中で気付いた事、感じている重要度の高いと思われる実体験からの印象は大きいので、こうして文章にしてみた次第です。
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# by catalyticmonk | 2017-12-06 00:35 | 医療問題 | Comments(0)

副交感神経の刺激と排泄の関係性

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病気の治療法や見解は、私も専門家ではないし、当事者個人個人に選択の権利があるものだと思っています。
なので、思う事があっても、どこまで自分自身の個人的な考えや体験を言っていいか迷うところがあります。

e0296801_12251220.jpgまた、私自身の経験から、いろんな人に厚意で勧められた治療法が、それぞれ方向性や見解が矛盾していたり、実際に結果としてやらなくて良かった、と思うものも多いものですから、そういう責任もあるし、下手をすると親切心が相手を精神的にも肉体的な病気の治療の上でも困らせてしまう事が多々ある、と実感しています。
ですから、私の経験が参考になるかどうかは、読む方々の自由にしてください。私自身にも、どこまで同じ話かなんて簡単に判別出来ないからです。

最近、他の知り合いの方にも症状を訴えている人がいて気になったのは、歩いているとすぐにトイレに行きたくなるのに、行くとなかなか出なかったり、少量だったりする現象。これ、私もあって、長い間、非常に生活に困らされました。
私の場合は、ですが、副交感神経の刺激に原因があったようです。

e0296801_12250446.jpg病気として尿路上皮がんで膀胱や前立腺などに腫瘍が出来て、それが不純物が通る経路を妨げて結石化して、激痛に悶絶する、というのもありましたし、手術すると、今度は内臓の中で切れていて、出血したりする訳です。
膀胱や腸などの臓器は、感覚が原始的で、そこで感じている刺激が排尿や排便を催している刺激なのか、痛みなのか、脳がはっきり判別出来ないそうです。なので、脳に信号が送られた時に、その刺激でトイレに行きたくなってしまう。

錯覚なら我慢すればいいじゃないか、と思うかも知れませんが、実際、冷や汗が出て震えるくらいに苦しいのです。普通に動けなくなるのは一緒です。それで血管迷走神経反射性失神という症状で意識を失い倒れた事もあります。
だから鎮痛剤などでそれを抑えたりもするのですが、そうすると頭は回らなくて駅の改札で切符を取り忘れるようなレベルで、用事があって出掛けている時にはお話になりません。
夜、眠る時に睡眠薬などを飲んで寝てしまうのも漏らしてしまう可能性があります。なので、短時間毎の断続的な睡眠を取る、という生活を1年以上も続けていました。当然、いつも疲労困憊です。

副交感神経の障害自体は今も多少残っていて、胃腸は健康なので食欲はあるのですが、時折腹痛に悩まされます。
しかし、臓器の中に腫瘍もなく、投薬もやめて薬が抜けてきているので、総体的にはトイレにすぐ行きたくなる病は穏やかになりました。
他に同じ症状の人がいたとしたら、それはまだ気付かない排便や排尿に関する臓器の障害の可能性を疑って病院で検査した方がいいのではないか、と私は自分の体験上、気にはなる、という話です。
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# by catalyticmonk | 2017-12-06 00:11 | 医療問題 | Comments(0)

異端者の風貌

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昔、元赤坂のナンバーワンホストだった男性と仲良くなった事がある。彼は傷害罪だの詐欺罪だので逮捕歴が多かった。だけれど、親しくなると全く真面目な悪どいところのない性格で、どうしてそんな人生だったのだろう、と不思議だった。
ただ、互いに似た者同士な何かの空気を感じていた。
彼は私より年上だったが、30代になってもパッと見ると10代の少年のように見えた。

聞くと、それで幼い頃からなめられて馬鹿にされ、喧嘩ばかりしていて不良少年となり、少年院にも行き、流れ者のような人生の中でホストやキャバクラのマネージャーをするようになったのだと言う。
「こんな、なめられやすい顔に生まれなかったら、また全然違う人生だったろうけどねえ」
そうやって呟いた彼の言葉を忘れられない。

e0296801_11385565.jpeg私は昔から自己愛は強いナルシストであったが、地味に目立たないようにいたいという願いも半分では持っている。目立つと、赤の他人が勝手に自分の世界を乱しに来るからだ。
先日も電車から降りる時に扉のそばにいた若い女性に通り掛けざまに「ワッ、キモい」と吐き捨てるように言われた。思い違いではない。私には頻繁にそういう事があるのだ。
繁華街で見知らぬ若造に絡まれる、なんて事も未だにあって、その話をSNSに書いたところ、ある人に「今時、繁華街で絡まれるなんてあるの?」と言われた。別に相手に罪はないので腹は立たなかったが、「普通の人はそんな事が滅多にないのか」と私の方が改めて軽い寂しさ混じりのショックを覚えた。

そんな髪の長い目立つ風貌をしているからじゃないのか、と言われる事もある。ところが、私が髪を短くしてスーツ姿なんかだったりすると、何故かもっと絡まれたり不愉快な出来事に遭遇する。これも本当だ。
だから、どうせなら自分のしたい姿格好でいよう、と反骨精神混じりに感じて、今のようなスタイルになった。

だいたい、人を見掛けだけで、知りもしない赤の他人に向かって「キモい」とはなんだ。
いやいや、そんな事を気にしていても始まらないよ、と簡単に言う人は、大概あまりそういう目に遭っていない。長年観察してきて確信しているんだが、そういう人こそ、私がしょっちゅう経験している事柄の十分の一くらいの話でカンカンになって怒り出したりする。
そして、その一個二個の出来事をいろんな話に使っていたりするので、彼の崇高な精神論が如何に経験に基づかない頭の中の思考実験であり、自己満足に過ぎないものを他人に押し付けている傲慢さだったか痛感する事となる。

あなたやあなたや、そして私自身の話を言っているんですよ!
人間はかくも愚かな存在、という深い謙虚な目線は、ソクラテスが「無知の知」を言った大昔から肝に命ずるべき真理だと思う。

で、いきなりポーズだけの謙虚さなんて無意味だという反骨精神で本当の話をすると、私は若い頃は美少年というのが定評だった。見掛けだけで親切と言うか好意的に接してくれる人達が一定数いた。
その反面で、やっぱり当時から風貌で小馬鹿にされたり侮辱される事が多かったし、もっと言うと子供時代は随分いじめられていたから、少林寺拳法や肉体労働で体を鍛えて、喧嘩して負けないようになろう、と必死だった。先述の元ホストの男性と、キャバクラや水商売関係には一切興味のない私が何故意気投合したか、ここまで話せばなんとなく想像してもらえるのではないだろうか。
彼はアウトローになったが、私はたまたま高校を出て放浪の旅に出るという脱社会化をして、犯罪社会に行かなかっただけだ。

つまり、それらの事実を総合して考えると、やはり私は気持ち悪くなんてないのだと思う。
恐らくは、異形のオーラを放っていて、勝手に目立つので、その「えっ」というような違和感が、見知らぬ相手に警戒心を抱かせ何かしらの敵意や嘲笑といった反応を喚起したり、その逆に個性的で興味や好感を持たれる対象になったり、揺れ動いてチグハグな反応を招くのだろう。

なんか、その人のキャラクターごとに呼び寄せやすい災難というのもあるみたいなんだけどね。
北九州市出身でロンドン帰りの、テキヤ時代に自分の相棒でもあった女の子なんて、道端を歩いていていきなり見知らぬ男に殴りかかられる事が何度もあった、と言っていて、本人も不思議がっていた。
あと、私が京都から広域暴力団を抜けて逃げてきた児童養護施設育ちの元ヤクザを匿っていた時も、彼と歩いていると、実際に彼は因縁なんて全くつけていないのに、普段私が遭遇しないような暴力的なトラブルが近付いてきて、世の中こういう何かが本当にあるんだな、と思った。

私には刺青は入っていないのだけれど、ヘナタトゥーという二週間くらいで自然に消えるインドの伝統的なタトゥーがあって、それのモデルを頼まれて何度か腕などに描いてもらった時があって、その時も電車などに乗ると隣にいつもは全く遭遇しないようなヤクザ者が近寄ってくる訳だ。
つまり、悪霊とか祟りとかいった次元の話でもなく、現実的な何かしらほんのちょっとの要素で大きく変わる部分が本当にある、ということなのだろう。世の中、面白いものだな、と痛感した。

それでもやっぱり何もしていない女性を襲う暴漢のおっさんや、道端を歩いているだけで絡んでくるチンピラに、ただ歩いている人間の方がそんなオーラを発しているから落ち度があった、とは言えないし、言ってはいけないと思う。
いじめられっ子は、一生いじめられっ子のままなんだ、と私に言った奴がいるが、いじめられる人間が悪い、いじめは人間社会からなくせないんだ、と言ってもいけない。いじめや、暴漢や、通り魔の痴漢や殺人鬼は、やっぱりどうにかして好き勝手出来ないようにしなきゃならない。

それは、みんなが見て見ぬふりをしない事だし、社会が弱い者や変わった人々をつまはじきにして追い詰めない、助け合いと寛容の両方の精神が文化・教育・社会制度の各面から補強されていく必要がある、という事だ。そうしていかなければ、私達自身が困っていく事なんだと思う。

国のトップにある政治家や官僚からして、悪いことでも集団で行えばチャラになっちゃうような世の中だ、と日本全体に大公報してしまっているからね。ましてや、大手のマスコミ、新聞・雑誌、芸能タレントまでそういう風潮を後押しするようなもっともらしい容認発言や応援メッセージ、黙認や太鼓持ちを現にしている。
そうした事でも社会全体の風潮って変わってきてしまう。

人を見た目で判断し、尚且つ異質なものは排除しよう、という了見の狭さが改まるのは、人間社会の人権意識が高まって、個人の尊厳や他者の多様性を許容出来る成熟した文化が育つ、遥か未来の事なんだろう。
だけれど、それを夢見て目指さなければ、近付いていく事もないのだろうとも思っている。
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# by catalyticmonk | 2017-11-28 00:28 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

野次馬狂想曲

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SNSでの政治的発言の投稿量が多くて精力的だったり、国会前や都心部での活動もバンバンして目立つ活動家、何かの運動体の主催者や司会者は、半分、タレントか公人扱い。

日本人はそういう相手にはテレビ番組のワイドショーでゴシップのネタにされる有名人と同じ扱いでいいような錯覚を抱きがち。だから、そこでぐしゃぐしゃになりやすい。

それからして橋下徹が持て囃されたみたく行き過ぎたポピュリズムのおかしな部分なのだけれど、前の選挙で菅直人元首相の街頭演説会を撮影した時も、通りすがりの人の罵倒が共産党やその他の野党や無所属候補でも聞いた事もないようなレベルで、びっくりした。しかも、野次る内容のレベルが低い。

つまり、有名人だと見なされるほど、普段政治に関心が薄い人までつい何かを言いたくなっちゃうみたいなんだ。
特に不特定多数の大衆を相手にやり取りするSNSなんて、知名度が上がれば上がるほど厄介になるし、実際の街頭での市民活動や選挙運動でもそうした事は増える一方だと思う。

少しブログで政治と言うより社会論的な記事を書いて、たまに都心部のデモや集会に参加して選挙運動に関わった程度の自分でさえ、なんだか分からない馬鹿みたいな感じの人に時折つきまとわれるようになって、そんな人とやり取りして気力を使うのがバカバカしいものだから、病気の治療を境にどんどん大きな運動から距離を置くようになった。
こっちがどんな余裕のない状態でも、そういう運動や政治的なつながりで知り合ってしまった相手はお構い無しで来るものだから、自分からシャットアウトせざるを得なくなる。本当に酷かったよ。

そのバカバカしさにも大きく分けて二種類あって、見識の浅い人が野次っていくような種類のものもあれば、逆に妙に古い左翼の人みたいにエキセントリックで小難しい主義主張を押し付けてくるものもある。で、それでドタバタと揉めている場所に行って巻き込まれると、今度は自分自身がそのどちらか側の存在のようにもっともらしく批判されたり、という堂々巡りで、本当に泥沼なんだよね。

なんか、どこか変な距離感で近寄ってくる相手に目をつけられて、手術当日まで煩わされるなんてのもあったし、世の中狭いから入院先の病院にも伝があるから、って干渉されそうになったり、身の危険を感じた。
あそこまで行くと、ある種究極だよ。だって、こっちは命がけな最中にまでそんな事がついてくるんだもん。

だから、何かしらの社会的な活動を長くやってある程度表舞台に立つ人だと、福島瑞穂さんみたいに、気さくながらもざっと他人と一線引くポーカーフェイスぶりが強くならざるを得ないんだろうね。そこは日本の民度が変わる事があっても時間のかかる話な気がする。
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# by catalyticmonk | 2017-11-27 23:03 | メディアリテラシー | Comments(0)

デートドラッグ

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もう、卑劣としか言いようがない。
だけれど、こうした事件は、日本社会ではそこかしこに満ち溢れているのだ、という確信が私にはあります。「日本でも5%のレイプ事件も報告されないほどスティグマとタブーというのはとても強い」と言う詩織さんの言葉は真摯に受け止めるべきテーマです。

NHKあさイチの性暴力特集のNHKネットクラブアンケートによると「『性行為の合意があった』と思われても仕方がないと思うもの(複数回答)」を回答者に選ばせたところ、「二人きりで飲酒」がそれに該当するという回答が27%に対して、「泥酔している」が該当するという回答が35%にものぼったという結果が紹介されたそうです。
35%もの日本人男性が、相手が「泥酔している」最も意思表示できない状況を「合意」だと思っている、というデータが出ている訳です。私は気軽に女性と飲みに行ったりもする人間なので、こういう話を聞くと相手に警戒されても仕方ない事を簡単にしているのだな、と冷や汗が出てきます。

私個人は、恋愛は「慕う心」が互いを幸福にするのでする、不倫は結婚生活にそれが欠乏すると避けがたくなる、という視点で、競い合ったり刺激を求めたり、というのはもっとその劣化バージョンのようなもの、と捉えています。
それはさておき、取り敢えず女性は騙して陥れればいいとは全く考えない価値観です。

ところが、私の知るところでは、日本人男性は大勢で集まった時の通念を聞く限り、本当に泥酔した女性は襲っていい、と普通に深く考えないで思っている人が相当な割合で存在する様子で、個々人がそれをするだけの行動力があるかどうかは別として、それが悪いと捉えているなら絶対に出来ない告白と言うか自慢をよくします。上述のアンケート結果は、まず間違いなく現実の日本人男性意識の実態を正確に反映していると思われます。

最近は男性同士で飲みに行く機会も少ないし、年齢的にもあまり聞かなくなりましたが、若い頃に酒の席で聞いた自慢は話半分で聞くにしても犯罪そのものな内容のオンパレードでした。

江東区かどこだかの先にボートで渡る島があって、釣り客が行くのだけれど、たまに最終ボートの時刻に間に合わず帰れなくなった小学校高学年くらいの女の子がいて、無防備だからテントに連れ込んで助けてしてやる風にして襲ったとか、下北沢近くに住んでいた頃に劇団が多くて、その関係者から聞いた話も最低で。
まさに詩織さんと同じ話で、デートドラッグ使って同僚の劇団員女優を眠らせた後、集団で強姦し、それを撮影するのが「趣味だ」と平然と語られた時の衝撃と言ったら、20年経っても忘れられません。

ですから、残念ながら自分はとんでもない人権後進国にいる、というのが、私の若い頃から揺るがない認識なのです。
それを前提にしていないと、女性だけでなく、自分の家族や親しい立場の人間を守る上でも非常に危ういと感じてもいます。

品の悪いとされる男性は、実は女性の前でも本音を漏らすうっかり者である故に目立つだけであって、教養や社会的地位のある男性でも、機会があって会話していると、そこでそんなに内実の開きがあるのだろうか、と疑いたくなる時があります。
とことん善良で真面目な男性も大勢いますがね。ですが、そういう男性は何故か知っている世界が狭い傾向にあって、良識のボトムラインとして彼らの語る男性社会の常識は、あまり当てにならない面があります。
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# by catalyticmonk | 2017-10-25 16:20 | 人権 | Comments(0)

意識高い系の人々

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ある政治家の人は、自分が在日朝鮮人であるかのように石原慎太郎に吹聴されて事実と異なる、名誉毀損だ、と怒った。当然だと思うのだが、そう言ったら在日朝鮮人のタレントから「お前と私は別だ、と差別されたように感じた」と批判されてしまった。
いや、そういう次元とはまた違うんだ、とこの手の問題に対してよく思う。

「お前の母ちゃん、でーべーそ」と言われたら、社会慣習的な常識判断として相手が自分を嘲笑したくて悪意をもってそう言っているのは分かる。それに対して抵抗・反撃しなければ、自身の尊厳と安心が脅かされるのに、「それに対して怒るのは、世にいる出べその人達を軽んじ、侮辱しているのに等しい。自己総括せよ!」なんて言われたらやっていられない。
なんで、自分で自分や自分の仲間を守る行為を我慢せよ、と赤の他人から強要されなければならないのか。

そういう感じで、社会正義を唱えながら、実は他人の人権への越権行為をしている、というパターンが多いのが日本の市民運動や左翼、意識高い系の人々。個人主義が社会的に根付いていなくて、集団圧力が強い事情が背景にある。
ところがそれは社会全般に見られる現象なので、例えば「震災ポルノ」とインターネット検索して、ネトウヨと言う事もなく世間に流布する広い言説に触れてみると、その弱い者いじめの加虐的な発想・視点のもっともらしい正当化のオンパレードに、半ば日本人をやめたくなる。

意識高い系の人々の、おおらかさを欠いた独善的で押し付けがましい論調は、この社会のあまりにも殺伐とした強者の論理と非人道性に比例した憤慨の激しさでもあるし、この社会のねじれをそのまま反映してもいる。それらの緊張を内に抱え込んだミックスに他ならない。

だから、私自身は個人の自由と尊厳を重んじるリベラリストなので、この国の意識高い系の人々を、アジア的な封建秩序の燃えカスの中で呼吸する発育不全集団だと捉えているが、同時に社会の苛烈な非人道性を抑止する目的上、現状では必要悪的な存在なのだろう、と達観してもいる。
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# by catalyticmonk | 2017-10-24 23:51 | 人権 | Comments(0)

慕い合う心

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子供でも動物でも、慕ってくれるから心の滋養や薬になるんだよな。
恋愛でもそうだけど、結婚して子育てとか惰性や社会的義務になってくると相手を慕わなくなるから愛が冷めるんだよ。義務や責任が実は愛情を奪うというね。
仲のいい家族は相手に素直な感謝の気持ちがあるな。

不倫しちゃう人達もさ、単に性欲とかいう場合もあるんだろうけど、その慕ってもらえる気持ちをまた味わいたいから、ついしちゃう、というのがあるんだと思う。
だけど、結婚して子供がいたり、一緒に暮らしていて家のローンとか社会的な体裁があると、じゃあ、簡単にそういった生活を全部清算してから始める、なんて難しいじゃない?
だから、不倫て起きちゃうんだよね。

冷めた惰性の家族の絆でも、やはりそこには互いの長年共有してきた思い出や共通の知人、信頼関係なんかがあるから、それを裏切られたら自分の家族も含めて傷付く人も多い訳で、褒められたものでもないんだけどね。
でも、大切に愛されている、という実感がない寂しい人からしたら、誰かに慕われ必要とされたい、という衝動に駆られる事自体は自然な話だし、そこが混線しないで済むかどうかでまた人の一生って大きく変わってくるよね。

慕い合いが信頼関係の基礎にあるという視点からしたら、古い家父長制度みたいに、「俺が食わしてやってんだぞお!」みたいに威張り散らすオヤジは最悪だよね。
確かにそこに経済的・社会制度的な一定の庇護は生まれているのだけれど、お互いを喜ばせ労り合うような感情は育まれないから、そういう家庭で育つと打算で人を利己的に振り回したり操っても構わない、という姿勢につながりがち。
満たされた幸福感が薄くてアルコール中毒や薬物中毒、性的放埒とか色々なものの依存症になりやすくなったり、メランコリックになったり、と、世にある不幸や災いの源になる。

だから逆に、気さくだったり人懐っこい人は好かれるんだよ。その、慕い合いという幸福の源を周囲に振り撒いているから。
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# by catalyticmonk | 2017-10-24 00:10 | 忘れ物 | Comments(0)

もののはっきり言えない日本人

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日本人の生きにくい性格は、その場で話を解決させない、感情や考えを言えないことが一番の問題な気がする。
それが、無用な憶測や疑心暗鬼、ストレスを生み、根拠のない軋轢をこの社会の中で増やしている。

協調性の美徳が忖度や付和雷同といった変な方向に進んでいってしまっている風潮や文化・教育なままである点が、やはり大きな問題なのだと思う。

その場で話を解決させない、感情や考えを言えないから、そういった事を、別の場で盛り上げ同調させて、話を大きくしたり、ただの勘違いや愚痴みたいな話が社会問題になってしまったりする。
「小学生の女子みたいに、トイレに行くのも誰かと一緒で、一人で物事を考えないまま、行動しないまま大人になっているような社会だ」と私に言った友人女性もいる。

みんな、それで空回りしたり徒労感を味わって、自殺率も高かったりするストレス社会で変だなとは感じているのだろう。
だけれど、なんかいつまでたっても島国、井の中の蛙のような考え方が続いているのが不思議だ。一つの話題だけで盛り上げようとする情報番組の質の低さも、それを普通だと思っちゃう大人も。

イジメがなくならないのも、そんな狭い考え方で大人が子供にちゃんと注意出来なかったりするからなのではないのか。

ちょっと社会全体の閉塞感が凄くて、インド、特に市民社会の公平化も進んでいる3400万人が住んでいる南インドの自治州ケーララなんかが好きで、緩やかな共生社会みたいなのが理想像の自分からすると、おかしな方向に進んでいるな、と日本人は損をしている気がして、逆に可哀想だなって思ってしまう。
もっと自分のやりたいように、周囲を気にしないで生きれたら楽なのに。
なんか日本人や日本の文化って、もっとその辺を自身で掘り下げて整理して、行動や思考様式を根本からアナライズした方がいいと思う。

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「人権問題」や「公共社会の公平性」に敏感なはずの人々も、大半は日本的な錯覚の内側に飲まれている。
自分の価値基準や好みと違うもの全てを否定的に捉えて正当化する変な風潮が異常発達している印象を受ける。

例えば最近の流行りの言葉に「マウンティング」というのがあって、男性が女性に自慢話や押しつけがましい教える行為をしたがる、というものだ。
そういうのは、男性優位の傾向が顕著で人権後進社会の日本ではたくさんあったと思うし、公平でないものは平等にしたいし、失礼なものは失礼と言い、また互いの意識差を話し合って解決していかなければならない。

でも、そういうのでも、何かおかしな方向に話が進んでいく。
ある種の流行りの見方になった途端、拡大解釈でなんでもかんでも「マウンティング」扱いして、ただ、その人自身が内気だったり人間不信・男性不信だったりするのを、そうやって被害妄想的に捉えているだけなんじゃないか、って話が急に激増して。

別にマウンティングに関しては私個人はまだ直接言われた事がないけれど、日常の話題で出されている使われ方を聞いていると、ゾッとするような内容も増えていて。中には「憶測に基づく誤爆」「被害妄想」だったりする場合も多々あるんじゃないか、と。

それはマウンティングじゃなくて、たまたま知っている相手と鉢合わせした時に会話の潤滑油として自分の持ちネタの話題をしただけだったかも知れない。
話題や興味の対象が違って相手の知らない事だったりした場合に、全部自慢だとか、マウンティングだとか悪意に捉えているだけかも知れない。

でも、そのあたりを問い質してみると、「私が」そういうふうに不快に感じた事なら、すべて被害実態がある、「相手がどういうつもりだったか」は人権問題に関係ない、被害実態に対する見識があなたは甘過ぎる、もっと勉強し直しなさい、くらいな事を言うのが日本風の「意識高い系」の人々にありがちな言説で、そこに物凄く歪んだバイアスを私は感じてしまう。

不思議なところは他にも諸々ある。
盗撮が、女性車両が、と言うのはそれだけの危険もあるからだろう。だけれど、普通に道を聞いただけでも女性に身構えられてショックだった、と言っている中年男性の話もよく聞く。
その割に多摩地方の駅だと毎年若い女の子が夏の暑い日にホームでパンツ丸出しで向かいホームでずらっと並んで座り込んでいたり、どこに基準があるの??と、よくなる。

別に男性の側だって「見ず知らずの女性のそんなもの見たくない」若しくは「目のやり場に困るけど、目を逸らさないでいて、たまたま目が合うと騒がれるのは理不尽だ」等々といった様々なパターンの感性、不満もあると思う。

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女性の被害が多かったら、そうやって悪意のない相手にまで世知辛い思いにさせる部分に対して、「仕方ない」で済ませていたら、人権なんて他人に主張する根拠や正当性を失ってしまって、ただの抑圧や脅迫行為になるだけだ。
ばっさり「自分が不快に感じた事なら、すべて被害実態がある、相手がどういうつもりだったか、は人権問題に関係ない」と言って切り捨ててしまうと、また別の差別や偏見が再生産されるのだし、論理的に矛盾している。
気にするべきところでユルくて、明らかに必要ないところで疑心暗鬼に過剰になっている、という現象が、普通の会話なんかの次元でもよくある。

例えばアメリカ人なら、マウンティングや痴漢の問題も、女の子がパンツ丸見えで座っているのも、その場で自分が不快だったり、不愉快だったりしたら、多分、アメリカ人は年齢や性別関係なく声に出して気持ちを伝えられるし、分からないことに対しハッキリさせようとするんじゃないかな、と思う。
そういうのは、実のところ、日本以外、大概の国で当たり前の事だ。アメリカよりは伝統文化の影響もあるヨーロッパでも大概はそうだろうし、ロシア人でもインド人でも韓国人でも中国人でも、大体はそうだった。

いくらお互いに気持ちを察し合う気配りの精神が発達している文化だからと言って、時代はどんどん多様化してきているし、察し合えるのはある程度似た者同士の間だけだから、どうしても自分達と違う者の多様性の排除、主張する力の弱い者への冷遇、といったところに向かってしまう。

私達は人間だ。人間は言葉がなければ分からない。
言っても分かり合えない事もたくさんあるけれど、その違いを冷静に見極めて、事前に無用な軋轢を減らしていくより他ない。
気持ちや考えを相手に直接伝え合える文化の創生が必要とされている。
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# by catalyticmonk | 2017-09-23 05:36 | 意思疎通 | Comments(0)

癒着と平等

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ありきたりな癒着と平等、ってことを改めて整理して言ってみたいんだけどね。ま、そこは現実、結構難しいわけだよ。
貧乏だと餌には弱いし、孤独なら優しい言葉に弱いし。信念を持ったつもりでも子供の学費とか家族の病気とか、目の前の何を優先するかって段になったら搾取される側は何かと脆いよね。

状況にもよるけれど、私は信念のために子供を病死させる親と、子供のいのちのために信念を捨てる親、どっちが立派かさえ決めれない。
特権階級同士の癒着ってのも多いわけだけど、数の上で言えば、財や権力、豊富な人脈、コネなど自身は多くのものを持っていない一般人が、段違いな有利な条件下で生きている人達に飼い慣らされている現実がほとんどでしょう。

労働者の社会で見ても面倒見のいい水道屋の社長が右翼寄りだったら、十分な教育の機会や思想的なことを考える余裕もなく目の前の暮らしだけ追ってきた底辺の人々は、簡単に太鼓持ちになるし、気前のいい親分の受け売りをそのまましがちなもの。
癒着記者たちが生きるか死ぬかの瀬戸際で暮らしているとは別に思わないものの、記者の彼女いたこともあるけど、貧乏だったしね。

人間なんてみんな同じだからね。条件が違うだけ。
貧しくとも互いに支え合って生きている人達もいるけれど、それもそうした環境を必ずしも誰もが自分の意思で100%選べるわけじゃない。

生活保護基準以下の収入で働いてお母さん過労死しちゃった、って家の子に個人的に非行に走らない指導をするより、格差のある分断された社会のあり方をどうにかした方が本質的な解決が早いに決まっているでしょ。労働者だろうが自営業者だろうが、税金払って収入を得ている人間が自殺行為に等しい暮らしをして、その家庭の子がボロボロの服を着ていたら別世界のこと過ぎて理解も出来ず嘲笑っちゃう人達が出てくるような世の中が変わらなかったら、非行なんて減るもんか。
一個や二個の特例を盛んに取り上げて、個人的努力による平等な成功の可能性を喧伝していても、そんなのは本末転倒、構造上の問題なんだよ。

みんなが平等な世の中になればいいんだよ。
努力した人が報われる社会、って言うけど、そんなの一人の人間が十人分の腕力があるわけでも知能があるわけでもなくて、その人がある人の千倍万倍儲けていて、地球の裏側のほとんどの人間が知らない情報に精通していたとしても、それは人間の巨大な社会構造上の恩恵が特定の人々に集中しているから起きる差であって、本質的には個人に帰する才能でもないわけだ。

だから本来なら貧富の差もせいぜい十対一くらいで十分、たまに家族が大勢いて養うのが大変とかいう人で一般の庶民の二十倍の財産を持ってよし、とかね。単純に言えばそんなことだよ。
私は馬鹿だからこんなふうにしか言えないわけだけど、何が本当に大切なのかを繰り返し何度でも分かりやすい言葉で叫んで、力の弱くとも無数の人々が励まし合っていけるよう、声を上げ続けていくことは大切だと思う。

二つの国の中で同じ量の資源や文化的財産があったとして、それを一部の限られたエリートだけがほとんど保持している社会と、みんながある程度公平に支え合いながら暮らしている社会を想定したら、どっちの方が豊かか?

ある一人の人が百億円の資産を持っていても使い切れないんだよ。
みんなが百万円ずつ持っていて、十円で買える小さなお菓子を喜んでいる社会、誰かが病気になったらみんなで助けてあげれるようにちょっとずつ貯金をしておいて、隣近所だけじゃ助けれない時にもなんとか出来る仕組みを社会で作っておいて、競争もないから自分の家の醤油が今日切れたら隣の家から借りれるような、そんな社会を豊かって言うんだと思うな。

安倍首相や大金持ちの財界人・高級官僚の一回の食事分の病院代、真冬の光熱費が払えなくて一家心中したり、病気で働けないのに食費もストーブ代もなくて孤独死したり、そんな人生は嫌だからって若い娘が身を売ったり、底辺の肉体労働だけでは夢も希望もないから犯罪に走る若者がいるような、そんな世界自体を憎んで闘うべきなんだよ。

貧乏も辛いし、差別されるのも辛い、社会から見捨てられるのはもっと辛い。
そんな現実を知ろうともしない連中に騙されてついていってはダメだし、引き摺り下ろさなきゃいけないって、ただそれだけだよね。
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# by catalyticmonk | 2017-09-07 00:12 | 希望社会 | Comments(0)

女は怖い

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女性は結局、男の本心なんて簡単に見透かせちゃったりする場合が多いから、見栄っ張りな男はそれが怖い訳だ。浅慮ながら悟られまいとして動いているつもりだから、うろたえるというかね。
「最近府中の写真や日常の光景を沢山投稿していらっしゃるのには、色々な想いがあ」りますね、ハイ。全部バレている感たっぷりです(笑)。
ありがとうございます。

まー、ぶっちゃけ、夏なんで、みんなが里帰りする故郷があったり、海や山へ、恋人と温泉旅行へ行ったりって写真が毎日大量にSNSで見られてね、羨ましい訳ですよ(笑)。
病身でどこにも行けないし、一人きりでみじめだ、という気分になりたくないから、それを打ち消すべく近所を積極的に満喫、府中は素晴らしいところよ、みんな優しいよ、というのは、本当なんだけど、反面では、自分でそう思いたいから、そういう自身の願いの強さが出会いを作るのかな、と感じる面もあったり。

そこは言っても、わざわざ弱みの部分に注目される分だけ、前向きに頑張っているものが後ろ向きな気持ちに引き戻されちゃったりしかねないし、「なんだ、しみったれてやがんな」なんて言われてもつまらないから、極力黙っているんだけど。

でもモロに見透かされると、正直に白旗上げて認めるしかなくなるんだね。つまらない意地を張っても自分で自分の首を絞めるだけだから。
そこでもまたさらにムキになって、「いや、そんな事は断じてない!」とか意地を張る男性は多いんだけど、あれはかえってみっともないから本当にやめた方がいいね。一般的に男性には少し勇気が要る局面ではある。

でも、自分に可能な範囲で、極力前向きにしていれば、幸福は必ず手に入る、そう信じているね。
そう信じることが幸福を作るのだと思う。
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# by catalyticmonk | 2017-08-21 00:29 | 忘れ物 | Comments(0)

秘訣は変わる

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自分から動かないと、というのはよく分かる一般論だね。
動いて地雷を踏む事もあるから、スタミナや運の問題もあって、健康でないと、もっとこうしたい、と思っているところに及ばなくて焦れったくなる時もあるけどね。

ただ、多くの人は店舗や与えられた自分の持ち場に帰属して、その居場所の中で対処、キャパシティを計る、といった部分も大きい気がする。
私はそういうのが上手くないんで、いつも自分から動く、考えながら動いている時に自分の手の内を不特定多数に絶対明かさない、みたいなのが不器用なりに生きていく秘訣になっていった気がする。

猫もね、最期死ぬ時は消える、とよく言われている。
でも、あれは野生の動物の本能として鷲とかカラスとか、獰猛な人間の子供とか、身が弱っていたら防ぎ切れない対象の衆目の目につかないところに身を隠して、快復するまで安静にしていようとしているだけらしい。
つまり、生きるつもりだから、身を隠す。自分の手の内を悟られないように動く。

でも、元気なら、不測の事態にもある程度対応出来る許容範囲が広がるし、ちょっときつくてもね、頑張るとさらにいい方向に循環する流れにぶち当たる時がある。
だから、人間の対処法、処世術は、健康状態や年齢、自分で選択した環境、社会情勢などでまた折々変わっていく話なんだよね。

でもね、若いうちほど結構短いスパンで、こうやるのが自分のポリシー、とか必要以上に決めちゃいがちだったりする。何かの秘訣を見つけて、自分の経験や能力の不確かさを補おうとするんだな。
ただ、その状況が変わってきて固定観念に縛られ過ぎていて困る場合もあるし、逆に思いもかけない巡り合わせや幸運に救われる事もある。

すべての生きとし生ける者に、幸運があらん事を。
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# by catalyticmonk | 2017-08-21 00:17 | 忘れ物 | Comments(0)

気が遠くなる幸せ

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本当の幸せに触れた瞬間はね、とにかく毎回気が遠くなるものだと思っている。
美味しい料理、魅惑的な自然の光景、荘厳な人々の祈りの姿、愛する人の慈悲深い言葉。色々あるだろうけどね、本物は気が遠くなる。
それさえあれば人間は生の生命力を思い出してやっていけるんだよ。

逆に、そこに触れないなら表面的にグルメとか、地位や富を追求していても意味ないんだよ。
高級ワインを冷房のきいた場所で飲むよりも、砂漠の中で渇いた喉を一杯の水が潤す方が、間違いなく幸福なんだよ。

だから、「贅沢な人」とは、実は単にわがままな人ではない。本当の幸福に触れられていない気の毒な人達だ。多くを手にしながら、飢餓状態なんだ。

ただ、本当に飢えている人々から、自らの葛藤故にさらに搾り取ろうとするから、戦わざるを得なくなる。
万物の母は、それを嘆きながら見守っている。
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# by catalyticmonk | 2017-08-21 00:02 | 忘れ物 | Comments(0)

「神」という呼び方についての私見

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たまに、人から神なんか信じて何になる、みんな病気になるし、世界中の人々は憎み合って戦争し続けているじゃないか、などと言われるんだけど、別に端からそんな次元の話じゃないんだよな。

神を信じている、という事は、一言で言うなら「目に見えない価値を信じている」という事だ。政治的な次元とは一緒に出来ないけれど、各々の心の内面のあり方としては重要になってくる。

それは有難くて愛や感謝の気持ちも含まれた「何か」なんだけれど、形がなくて掴みようがない。
一々議論を挑まれてもね、最初からそんな性質や対象のものですらないんだな。
だから、頭でしか捉えていない人は極力放っておいて欲しい、と感じるよ。

そりゃ、癌とかなったら死にたくない、と思うし、逆に理不尽な事柄が解決されずに山積していたりすると、正直、もうしんどいから楽になりたいと感じる事もある。
だけど、なんだろう、基調は楽観主義者みたいで、本当の絶望というものがない。

でも、ただ図太くて不安を感じない訳でもない。やっぱり世界には、最後のところでは目に見えない、自分の人生の視点からだけでは計れない価値が存在していると信じているんだよね。
それは理屈じゃない。

その根拠となるような体験は時折訪れるけど、他に言葉に形容しようがないから、一先ず人間社会にある「神」という表現を当てはめているだけなんだな。
頭で考えたって始まらない、感じるしかない何かがある。
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# by catalyticmonk | 2017-08-16 00:33 | 忘れ物 | Comments(0)

従順な冷酷

e0296801_08104602.jpg凄い。この社会の根本的欠陥をたった一枚の写真で明示している(出典:https://matome.naver.jp/odai/2150227854541182801/2150262532309655203)。
甲子園の開会式で熱中症で倒れる生徒がいても全員無関心。

情けや自己判断より、与えられた命令に従う事を最優先。自分の役割の外の事柄には傍観視で極力関わりたくない従順で姑息なロボットの大群。
これらの特徴は、広く一般社会に見受けられる現象なので、この高校生達は社会の空気に準じているだけだろう。

◆こうした脈絡の日本社会の通常運行として他にも顕著な点

①みんなで一斉に賛同したり罵倒する機会を待っている。集団で大喜びしたり、憤激したりする熱狂が大好き。と言うか、そういう機会がないとなかなか羽を伸ばせないので、その際に一気に爆発しやすい。
②独自の意見や行動の人へはどう反応していいか迷い、その存在が不安を与えるので目障りに感じがちで、ついついいじめたくなる習性もあり。

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# by catalyticmonk | 2017-08-15 21:09 | 忘れ物 | Comments(2)

アイドル文化について

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府中の商工まつりに「仮面女子」なるアイドル・グループが来ていた。
元来、アイドルに興味のない私も、無料で見られるので、異文化を見るが如く観察した。

見ていると、ショーの最中、全員が汗でびしょ濡れ。衣装も舞台の上の照明も相当な暑さなのだろうか。
飛んだり跳ねたり、動きも可愛い云々以前に私にはとにかく必死さが伝わってきて、大変だなあ、というのが率直な感想だった。

あと、アイドルの振り付けというものが「萌え文化」とでも言うのだろうか、昭和の時代よりさらに気恥ずかしいまでの幼児的演出がパワーアップしているのだな、と感じた。市場として確立されているので、どんどん異形化が進んでいるのだろう。
追っかけファンと思われる大人達の奇声の声援も、そうした文化に縁のない私には正直ぎょっとするものだった。

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別に可愛さと芸をセットにして売る、という発想が生まれるのは分かるけど、それは脚光を浴びる当人達が主体的に作り上げるものではなく、プロダクションがあって、大概は男性が色々アイデアも考えて、それに従って主に若い女性が、その存在を「商品として」売るというね。
やはり極端に商業主義的になりやすいし、本人達が必死でビジュアルや歌、芸に磨きをかけている努力は笑いものにするものでもないと思うけれど、やはりファンとの関係一つ取っても虚飾そのものの世界な訳で、当人達の尊厳の観点からも「操り人形」みたいな立場になる仕組みを文化的に推奨していて好ましいと言えるのだろうか、という疑問も湧く。

1970~1980年代のアイドルは一体なんだったのか、と某社会学者の方が疑問を投げかけられていた。要するに「昭和のアイドル像」みたいな話なのだろう。
ルックスやスタイルなら今の普通の若い女性たちのほうが全然いいし、歌唱力たるやジャイ子のそれを大きく上回るものではなかった、なんであんなものにみんな熱をあげていたのか、と大胆な事を述べらていた。

それはそれであるだろうし、確かにビジュアルや芸達者さで言えば、今時の国内文化は随分洗練されているのだろう。
しかし、ビジュアルや芸達者さよりも、現代の日本のアイドル文化は、文化的により軽薄で、使い捨て的な消費商品の枠組みになった気がする。

結局のところ、英国の社会学者タウンゼントが、準拠集団との関わりの中で論じた概念である「相対的剥奪」そのものだ、という説が議論の中では優勢だった。
人が抱く不満は、その人の置かれる境遇の絶対的な劣悪さによるのではなく、主観的な期待水準と現実的な達成水準との格差による、という。要するに、周り中でレベルが高くとも低くとも、その中で相対的に物事の良し悪しを人は感じ取るという事だ。

逆に、本来的に一過性の幻想的な仮の刺激に過ぎないものに、消費者とアイドルに身を投ずる若者が、多くのものを捧げ過ぎると、幻想である故の歪みを生じさせやすくする、といったところだろうか。
当人もファンも、その一過性の幻想を、ファッションを楽しむが如く自由にエンジョイしつつ、人間的な尊厳を倒錯させないのなら何も問題ないのだろうが。
でも、そういうのは難しそうだな、とは思う。だいたいがアイドルのファンて熱狂的で、すぐに感情的に興奮するじゃないか。


正直、比較的貧しい家庭の子達がアイドル文化に惹かれているような気配も感じている。つまり、AKB48のように集団ウリになって、逆に相対的に「普通の子」っぽい庶民層の子でも手に届く夢のように感じる部分もあるのかな、と。実際は簡単に手にも届かないかも知れないが、親近感は湧くかも知れない。モー娘以降、前より身近になったというか。

でも、それが商業的に食い物にされる搾取構造でもあるし、またアイドルグループは結構安倍政権が大衆文化を味方につける道具にも使われた面がある。貧困な家の子が、逆に安倍政権の応援をするネトウヨになったりするのと同じような類似性も感じるところ。
大衆文化が、権力者にとって利用しやすい搾取構造的な度合いを高めている事と、現在の日本の政治状況はダイレクトにつながっているのだろうと思う。

だから、搾取的な文化構造とか、ネトウヨ予備軍だったり尊厳軽視の気配がある枠組みとかいった色が付いていないで、純粋にこのデザインや色合いが面白い、若者のこの表情やこの動きが絵になっている、という次元でだけ扱えたらいいのに、というのが、私にとっての正直な感覚だ。

日本の中で生活していると街中の巨大広告看板一つ取っても周囲の街の景色をぶち壊すような趣味の悪いものがドカーンと設置されていたりするし、じゃあ、混沌とした世界として俯瞰的に楽しもうとしても、中途半端に洗練されたタレントの笑顔とイタイキャッチコピーにドン引きしたり、変な方向に意識を持っていかれる濃縮された商業的情報装置が溢れ過ぎている社会だ、というむず痒さ・ジレンマがずっとあるね。

それがあるから、私個人は日本の大衆文化に、距離感を感じたままでいる、というのがあって、ずっと文化的な孤立感を感じてはいる。
なので逆に、国のトップも賞賛しているももクロとか、社会的・商業的にみんなが絶賛する既存の媒体に同調して盛り上がる空間を与えられる、というのは、それが実は搾取構造であっても目が眩まされてしまうほどの強力な誘惑装置なんだろうなあ、と。

やはり、今の日本の歪んだ格差社会や搾取構造は道理としてだけ何が正しいのか説いても、そこの装置が機能したままでは簡単には変えられない。
何を誰がどうやったところで難しいのだろうが、大衆文化の既存のあり方が、既得権益にとって最大の強みなのだから、それを無批判に現状肯定する事もやはり出来ない、という感想を強く持つ。
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# by catalyticmonk | 2017-08-08 02:04 | アイドル | Comments(0)

既存の左翼文化・自称リベラル派は本当にリベラルなのか

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テレビ報道で、10代の子どもたちほどお墓参りに行くべきと答える傾向があり、その理由としては「義務を果たすべき」と思っている人が多いという結果だったそうです。
それに対して、「若者の保守化の現れ」「右傾化は貧困の現れ」等の言説が報道番組内やSNS上の論議であるようですが、それは一面的で完全に間違っています。

何より社会の中の共同体が破壊され、殺伐とした世界が広がっているから、伝統的な絆に回帰したい庶民感情が発生するのです。そうした性向自体は、卑しい誤った感覚であるかのように唾棄すべきでなく、そう感じる人々の実態に即して何を訴えかけていけるかこそが大切な点であるはずです。

そもそも「お墓参り」なんて、個々の宗教観・信奉する信仰形態によっても差が生まれる箇所で、そこで以てして保守化や右傾化を論じてはいけないのです。個人の価値観毎の好悪の差は出るものでしょうが、社会的公論として主張すべき話ではない。
こうした反応が時折起きる事からも、私は既存の左翼の人々が、本当に思想信条や信教の自由、といったものの重要性を理解しているのかなあ、と甚だ疑問に感じるところです。

10代の子どもたちほどお墓参りへの親近感を増幅させた背景に、市場主義が家族や地域共同体の枠組みを駆逐してきた帰結があるにせよ、だからと言って左翼的政治観歴史観で現実を二極化して捉え、独善的な傲慢さで大衆の自然な感覚を一刀両断する硬直性が改まらない限り、そのような認識と姿勢を維持・助長するような形での左翼文化は滅ぶべきだと感じます。

もちろん、本来的な左翼思想はそのようなものでない、という見方も可能ですが、従来的な右翼・左翼といった対立項の概念はもはや完全に時代遅れだ、と私が強く感じる理由はこの辺りにあります。
市民運動や「意識高い系」の人々の底無し沼のような愚挙と横暴の数々を現実に見てくると、こうした発想的な独善性の毒の程を実感するのです。

もう右翼か左翼か、などといった冷戦時代の対立項のイメージで捉えていると不正確で、時代にそぐわなくなっているのだと思います。共生社会か搾取構造か、といったところにこそより本質があるのであって、そこを現実に即していない形で分断する意識でしかないなら、そんな看板にこだわる事自体考え直した方がいい。
既存の「リベラル」とされる人たちの、従来的な「伝統」がそのような狭量な思い込みを発生させるのならば、いったい何が「リベラル」なのか。自由と民主主義を守らない「自由民主党」という名前の政党と何が違うのか。

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# by catalyticmonk | 2017-08-08 00:40 | 希望社会 | Comments(0)

他人の不幸は蜜の味、という言葉の実際

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ま、日本社会の病んでいる加減と言うか、ホスピタリティの低さを実感する機会は残念ながら多い。人が具合悪くて冷や汗だくだくで歩いている時に限って、見知らぬ他人から意味不明の小馬鹿にされた扱いを受ける。お腹が苦しくて身を捩りながら必死で外を歩いている時に、すれ違いざまに若い女性二人組に大げさに形態模写されて笑われる、とかね。
具合の悪そうな人間=どこか様子が奇妙で滑稽な馬鹿にしたい存在、という認識と思われる。競争社会に毒され過ぎ。

歴然としていても、言い逃れがいくらでも出来るような陰湿な意地悪をするんだよね。たくさんあるから、気付いている全部が自分の思い込みや勘違いとも思えないし。
ああいうので中にはキレて怒ってしまって、逆に警察に「暴漢に突然襲われた」とか訴えられて捕まっているおっちゃんも絶対いると思うんだよな。

そういう図式がまた何重にも歪んだ悪循環を広げて、混乱した殺伐とした社会にしている、というのが現実だと思う。
だけど、表面的な次元でしか対応しないのは、やはり、社会全体が病み過ぎていて十分に問題を掘り下げるモチベーションが足りないからなんだよ。

そこの微妙さがたくさん存在している例として、もう一つ具体例を挙げておく。
翌日の手術のために入院するのに自分で電車で移動している時だった。優先座席に座っていたら、目の前を年長者のグループに囲まれて、大声で非難がましい当てこすりにしか聞こえない話をされた。
「嫌な気分になりながら具合が悪い中をやせ我慢して座っていることない」と思って立ち上がって移動したのだけれど、あの時も立ち上がって移動するなり背後から「ま~っ」というかましい感じの嘲笑的な声がその年長者女性らから上がった。

とにかく、建前があって、はっきり言えないような状況や場合に、濃密にそうした出来事が頻発するね。つまりは、ああいう事をする人達も、顔見知りや親しい間柄の人間関係では多分結構普通の人なんだろう。
そういう「関係性」に支えられた人の好さや礼儀正しさであって、道徳としてこうであるべき、という観念が日本人には極端に薄い、と私は日頃から感じている。

別に、私も自分の住んでいる近所では結構快適だ。府中の大國魂神社の境内なんて、普段からメンタルに問題を抱えていそうな人が憩いを求めてか闊歩していて、なんか弱者や流れ者労働者などに優しい、という風土が府中にはある。
でも公平に言って、住めば都ということは他の地域にもあるのだろうし。

自分が元気なうちはまだ我慢出来るレベルに感じているかも知れないけど、一旦病気や障害を抱えてみると、日本て、人間社会として相当マズイ段階に入っているよなあ、と実感する事が増える。
お年寄りなんかもみんな結構そういう思いをしているんじゃない?
近所の顔見知りや家族、お金、といったものが、世の世知辛さからその人を守るいくらかのバリヤーになるんだろうけどね。

やっぱり、健康で元気な者、お金や権力のある人間のための、そういう人達優先の競争社会なんだよ。
しかも、そうでない人達もそれに憧れて、蹴落とされている人達の立場は余裕がない、暇がないと言って結局見過ごされがちだから、詰まる所、社会全体が福祉型の共生社会を目指さないと、どうしようもないと思うな。

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# by catalyticmonk | 2017-08-04 00:02 | 希望社会 | Comments(0)

生命倫理としてのガン

e0296801_23423211.jpgガンとは、細胞の無限増殖という、身体の統合性を破壊する暴走だ。
彼らも生きたいが私も生きたい。

「細胞」という個が、「身体」という生態系であり社会である単位を無視して暴走していく結果として、その生態系単位そのものが、暴走する細胞と共に崩壊する。

まるで独裁者と国家、搾取行為と市場、地球生態系と人間の環境破壊のようではないか。そこに身体の健康から経済構造、自然生態系までに至る一つの生命倫理が存在するようにも思える。
それぞれの単位が己れの命を楽しみ真っ当していいが、自身を包含する環境を破壊しては誰のためにもならない。
また、全体を成立させている個々の生命単位が不健全で不幸であっても立ち行かない。

社会の大義のためなら個人の健康など取るに足らない事で、人間様の経済発展のためなら、信奉する主義主張、信仰のためなら、自然環境や他の動植物の命なんて二の次、といった発想。それらはどれも人間の、断片的な視野が生み出す倒錯なのだろう。

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# by catalyticmonk | 2017-08-03 23:47 | 忘れ物 | Comments(0)

繰り返さないために忘れてはならない戦争の記憶




韓国の映画コンテンツ専門大学院キム・ジュンギ教授が旧日本軍の蛮行を広く知らせるために制作した映像だそうだ。
CGだからこそ可能だった表現だろうが、あまりにも生々しく衝撃的。全編日本語で語られているので日本人にも分かりやすい。


私がインドの文化学校に留学していた時、ルームメイトはキーフンという韓国人だった。彼から聞いたのは、若い韓国人はみんな日本人を憎んでいる、と。それは学校教育で、日本軍や日本人が統治時代に如何に酷い行為をしたか教えるからだ、と直截に言っていた。

そうは言っても、見知らぬ私にルームシェアしようと声をかけてきたのは彼の方だったし、彼を通して短期旅行者の若い韓国人集団と仲良くなって、ヒマラヤ地方をトレッキングしたりしていたから、私の実感としては若い韓国人は相当日本人に親近感を持っていると思う。

いずれにしても、そんな彼らであっても、親しくなったからこそ端的に本心の一端を強調して伝えてきたのだと思う。私は一人で異文化の集団に紛れ込むという種類の体験を好むところがあった。そうやって、ある程度相手の懐に入らないと聞けない言葉や感情というものもある。

色々と文化や民族性は違っても、親しくなれば、誰も等身大の生身の人間でしかない。個人として接する時には生身の人間と生身の人間でしかない。
それが異なる集団と集団に分かれて対峙し合った時に、違う生き物や血の通っていないモノのように感じてしまう事が起きてくる。

私は、ズバリ言ってしまうが、日本人はチームワークや管理能力に優れていて人間の集団としてとても能力優秀だが、ある意味で一番「人でなし」な卑しい性質も抱えている人々だと思っている。
ドイツ人などにも言えるが、集団主義的な文化や社会風潮が強いからこそ、とても排他的で、時として非人間的な冷酷な行動を取ってしまいやすい集団なのだ。

ナチス・ドイツのアイヒマンも「私の最大の罪は命令に忠実であった事だ」と言っていたように、企業や官僚、政治家などが行なう大規模な不正や国家による大量虐殺は、集団に依拠し過ぎて自分個人の人間性が希薄になったところに発生する。

ドイツ人は、戦後、その事を社会単位や教育活動の現場で直視して、思慮深い政治性を進歩させた。
しかし、日本人はそういう事をしてきただろうか?
戦前の戦争を起こした特権階級の子孫がそのまま国政を牛耳る政界の中心に居座って、従軍慰安婦問題一つをとってもドイツのような誠実かつ内省的な反省を国家が積極的にしてきた事などない。

国家という最大規模の集団の意思によって為される戦争行為は、人間が同じ人間を人間として見られなくなる極限の麻痺を引き起こす。人を人でなくしてしまう究極的な悪なのだと思うし、だから、それをしてはいけないのだ。


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# by catalyticmonk | 2017-07-26 00:42 | 反戦 | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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