もののはっきり言えない日本人

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日本人の生きにくい性格は、その場で話を解決させない、感情や考えを言えないことが一番の問題な気がする。
それが、無用な憶測や疑心暗鬼、ストレスを生み、根拠のない軋轢をこの社会の中で増やしている。

協調性の美徳が忖度や付和雷同といった変な方向に進んでいってしまっている風潮や文化・教育なままである点が、やはり大きな問題なのだと思う。

その場で話を解決させない、感情や考えを言えないから、そういった事を、別の場で盛り上げ同調させて、話を大きくしたり、ただの勘違いや愚痴みたいな話が社会問題になってしまったりする。
「小学生の女子みたいに、トイレに行くのも誰かと一緒で、一人で物事を考えないまま、行動しないまま大人になっているような社会だ」と私に言った友人女性もいる。

みんな、それで空回りしたり徒労感を味わって、自殺率も高かったりするストレス社会で変だなとは感じているのだろう。
だけれど、なんかいつまでたっても島国、井の中の蛙のような考え方が続いているのが不思議だ。一つの話題だけで盛り上げようとする情報番組の質の低さも、それを普通だと思っちゃう大人も。

イジメがなくならないのも、そんな狭い考え方で大人が子供にちゃんと注意出来なかったりするからなのではないのか。

ちょっと社会全体の閉塞感が凄くて、インド、特に市民社会の公平化も進んでいる3400万人が住んでいる南インドの自治州ケーララなんかが好きで、緩やかな共生社会みたいなのが理想像の自分からすると、おかしな方向に進んでいるな、と日本人は損をしている気がして、逆に可哀想だなって思ってしまう。
もっと自分のやりたいように、周囲を気にしないで生きれたら楽なのに。
なんか日本人や日本の文化って、もっとその辺を自身で掘り下げて整理して、行動や思考様式を根本からアナライズした方がいいと思う。

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「人権問題」や「公共社会の公平性」に敏感なはずの人々も、大半は日本的な錯覚の内側に飲まれている。
自分の価値基準や好みと違うもの全てを否定的に捉えて正当化する変な風潮が異常発達している印象を受ける。

例えば最近の流行りの言葉に「マウンティング」というのがあって、男性が女性に自慢話や押しつけがましい教える行為をしたがる、というものだ。
そういうのは、男性優位の傾向が顕著で人権後進社会の日本ではたくさんあったと思うし、公平でないものは平等にしたいし、失礼なものは失礼と言い、また互いの意識差を話し合って解決していかなければならない。

でも、そういうのでも、何かおかしな方向に話が進んでいく。
ある種の流行りの見方になった途端、拡大解釈でなんでもかんでも「マウンティング」扱いして、ただ、その人自身が内気だったり人間不信・男性不信だったりするのを、そうやって被害妄想的に捉えているだけなんじゃないか、って話が急に激増して。

別にマウンティングに関しては私個人はまだ直接言われた事がないけれど、日常の話題で出されている使われ方を聞いていると、ゾッとするような内容も増えていて。中には「憶測に基づく誤爆」「被害妄想」だったりする場合も多々あるんじゃないか、と。

それはマウンティングじゃなくて、たまたま知っている相手と鉢合わせした時に会話の潤滑油として自分の持ちネタの話題をしただけだったかも知れない。
話題や興味の対象が違って相手の知らない事だったりした場合に、全部自慢だとか、マウンティングだとか悪意に捉えているだけかも知れない。

でも、そのあたりを問い質してみると、「私が」そういうふうに不快に感じた事なら、すべて被害実態がある、「相手がどういうつもりだったか」は人権問題に関係ない、被害実態に対する見識があなたは甘過ぎる、もっと勉強し直しなさい、くらいな事を言うのが日本風の「意識高い系」の人々にありがちな言説で、そこに物凄く歪んだバイアスを私は感じてしまう。

不思議なところは他にも諸々ある。
盗撮が、女性車両が、と言うのはそれだけの危険もあるからだろう。だけれど、普通に道を聞いただけでも女性に身構えられてショックだった、と言っている中年男性の話もよく聞く。
その割に多摩地方の駅だと毎年若い女の子が夏の暑い日にホームでパンツ丸出しで向かいホームでずらっと並んで座り込んでいたり、どこに基準があるの??と、よくなる。

別に男性の側だって「見ず知らずの女性のそんなもの見たくない」若しくは「目のやり場に困るけど、目を逸らさないでいて、たまたま目が合うと騒がれるのは理不尽だ」等々といった様々なパターンの感性、不満もあると思う。

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女性の被害が多かったら、そうやって悪意のない相手にまで世知辛い思いにさせる部分に対して、「仕方ない」で済ませていたら、人権なんて他人に主張する根拠や正当性を失ってしまって、ただの抑圧や脅迫行為になるだけだ。
ばっさり「自分が不快に感じた事なら、すべて被害実態がある、相手がどういうつもりだったか、は人権問題に関係ない」と言って切り捨ててしまうと、また別の差別や偏見が再生産されるのだし、論理的に矛盾している。
気にするべきところでユルくて、明らかに必要ないところで疑心暗鬼に過剰になっている、という現象が、普通の会話なんかの次元でもよくある。

例えばアメリカ人なら、マウンティングや痴漢の問題も、女の子がパンツ丸見えで座っているのも、その場で自分が不快だったり、不愉快だったりしたら、多分、アメリカ人は年齢や性別関係なく声に出して気持ちを伝えられるし、分からないことに対しハッキリさせようとするんじゃないかな、と思う。
そういうのは、実のところ、日本以外、大概の国で当たり前の事だ。アメリカよりは伝統文化の影響もあるヨーロッパでも大概はそうだろうし、ロシア人でもインド人でも韓国人でも中国人でも、大体はそうだった。

いくらお互いに気持ちを察し合う気配りの精神が発達している文化だからと言って、時代はどんどん多様化してきているし、察し合えるのはある程度似た者同士の間だけだから、どうしても自分達と違う者の多様性の排除、主張する力の弱い者への冷遇、といったところに向かってしまう。

私達は人間だ。人間は言葉がなければ分からない。
言っても分かり合えない事もたくさんあるけれど、その違いを冷静に見極めて、事前に無用な軋轢を減らしていくより他ない。
気持ちや考えを相手に直接伝え合える文化の創生が必要とされている。
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# by catalyticmonk | 2017-09-23 05:36 | 意思疎通 | Comments(0)

癒着と平等

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ありきたりな癒着と平等、ってことを改めて整理して言ってみたいんだけどね。ま、そこは現実、結構難しいわけだよ。
貧乏だと餌には弱いし、孤独なら優しい言葉に弱いし。信念を持ったつもりでも子供の学費とか家族の病気とか、目の前の何を優先するかって段になったら搾取される側は何かと脆いよね。

状況にもよるけれど、私は信念のために子供を病死させる親と、子供のいのちのために信念を捨てる親、どっちが立派かさえ決めれない。
特権階級同士の癒着ってのも多いわけだけど、数の上で言えば、財や権力、豊富な人脈、コネなど自身は多くのものを持っていない一般人が、段違いな有利な条件下で生きている人達に飼い慣らされている現実がほとんどでしょう。

労働者の社会で見ても面倒見のいい水道屋の社長が右翼寄りだったら、十分な教育の機会や思想的なことを考える余裕もなく目の前の暮らしだけ追ってきた底辺の人々は、簡単に太鼓持ちになるし、気前のいい親分の受け売りをそのまましがちなもの。
癒着記者たちが生きるか死ぬかの瀬戸際で暮らしているとは別に思わないものの、記者の彼女いたこともあるけど、貧乏だったしね。

人間なんてみんな同じだからね。条件が違うだけ。
貧しくとも互いに支え合って生きている人達もいるけれど、それもそうした環境を必ずしも誰もが自分の意思で100%選べるわけじゃない。

生活保護基準以下の収入で働いてお母さん過労死しちゃった、って家の子に個人的に非行に走らない指導をするより、格差のある分断された社会のあり方をどうにかした方が本質的な解決が早いに決まっているでしょ。労働者だろうが自営業者だろうが、税金払って収入を得ている人間が自殺行為に等しい暮らしをして、その家庭の子がボロボロの服を着ていたら別世界のこと過ぎて理解も出来ず嘲笑っちゃう人達が出てくるような世の中が変わらなかったら、非行なんて減るもんか。
一個や二個の特例を盛んに取り上げて、個人的努力による平等な成功の可能性を喧伝していても、そんなのは本末転倒、構造上の問題なんだよ。

みんなが平等な世の中になればいいんだよ。
努力した人が報われる社会、って言うけど、そんなの一人の人間が十人分の腕力があるわけでも知能があるわけでもなくて、その人がある人の千倍万倍儲けていて、地球の裏側のほとんどの人間が知らない情報に精通していたとしても、それは人間の巨大な社会構造上の恩恵が特定の人々に集中しているから起きる差であって、本質的には個人に帰する才能でもないわけだ。

だから本来なら貧富の差もせいぜい十対一くらいで十分、たまに家族が大勢いて養うのが大変とかいう人で一般の庶民の二十倍の財産を持ってよし、とかね。単純に言えばそんなことだよ。
私は馬鹿だからこんなふうにしか言えないわけだけど、何が本当に大切なのかを繰り返し何度でも分かりやすい言葉で叫んで、力の弱くとも無数の人々が励まし合っていけるよう、声を上げ続けていくことは大切だと思う。

二つの国の中で同じ量の資源や文化的財産があったとして、それを一部の限られたエリートだけがほとんど保持している社会と、みんながある程度公平に支え合いながら暮らしている社会を想定したら、どっちの方が豊かか?

ある一人の人が百億円の資産を持っていても使い切れないんだよ。
みんなが百万円ずつ持っていて、十円で買える小さなお菓子を喜んでいる社会、誰かが病気になったらみんなで助けてあげれるようにちょっとずつ貯金をしておいて、隣近所だけじゃ助けれない時にもなんとか出来る仕組みを社会で作っておいて、競争もないから自分の家の醤油が今日切れたら隣の家から借りれるような、そんな社会を豊かって言うんだと思うな。

安倍首相や大金持ちの財界人・高級官僚の一回の食事分の病院代、真冬の光熱費が払えなくて一家心中したり、病気で働けないのに食費もストーブ代もなくて孤独死したり、そんな人生は嫌だからって若い娘が身を売ったり、底辺の肉体労働だけでは夢も希望もないから犯罪に走る若者がいるような、そんな世界自体を憎んで闘うべきなんだよ。

貧乏も辛いし、差別されるのも辛い、社会から見捨てられるのはもっと辛い。
そんな現実を知ろうともしない連中に騙されてついていってはダメだし、引き摺り下ろさなきゃいけないって、ただそれだけだよね。
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# by catalyticmonk | 2017-09-07 00:12 | 希望社会 | Comments(0)

女は怖い

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女性は結局、男の本心なんて簡単に見透かせちゃったりする場合が多いから、見栄っ張りな男はそれが怖い訳だ。浅慮ながら悟られまいとして動いているつもりだから、うろたえるというかね。
「最近府中の写真や日常の光景を沢山投稿していらっしゃるのには、色々な想いがあ」りますね、ハイ。全部バレている感たっぷりです(笑)。
ありがとうございます。

まー、ぶっちゃけ、夏なんで、みんなが里帰りする故郷があったり、海や山へ、恋人と温泉旅行へ行ったりって写真が毎日大量にSNSで見られてね、羨ましい訳ですよ(笑)。
病身でどこにも行けないし、一人きりでみじめだ、という気分になりたくないから、それを打ち消すべく近所を積極的に満喫、府中は素晴らしいところよ、みんな優しいよ、というのは、本当なんだけど、反面では、自分でそう思いたいから、そういう自身の願いの強さが出会いを作るのかな、と感じる面もあったり。

そこは言っても、わざわざ弱みの部分に注目される分だけ、前向きに頑張っているものが後ろ向きな気持ちに引き戻されちゃったりしかねないし、「なんだ、しみったれてやがんな」なんて言われてもつまらないから、極力黙っているんだけど。

でもモロに見透かされると、正直に白旗上げて認めるしかなくなるんだね。つまらない意地を張っても自分で自分の首を絞めるだけだから。
そこでもまたさらにムキになって、「いや、そんな事は断じてない!」とか意地を張る男性は多いんだけど、あれはかえってみっともないから本当にやめた方がいいね。一般的に男性には少し勇気が要る局面ではある。

でも、自分に可能な範囲で、極力前向きにしていれば、幸福は必ず手に入る、そう信じているね。
そう信じることが幸福を作るのだと思う。
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# by catalyticmonk | 2017-08-21 00:29 | 忘れ物 | Comments(0)

秘訣は変わる

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自分から動かないと、というのはよく分かる一般論だね。
動いて地雷を踏む事もあるから、スタミナや運の問題もあって、健康でないと、もっとこうしたい、と思っているところに及ばなくて焦れったくなる時もあるけどね。

ただ、多くの人は店舗や与えられた自分の持ち場に帰属して、その居場所の中で対処、キャパシティを計る、といった部分も大きい気がする。
私はそういうのが上手くないんで、いつも自分から動く、考えながら動いている時に自分の手の内を不特定多数に絶対明かさない、みたいなのが不器用なりに生きていく秘訣になっていった気がする。

猫もね、最期死ぬ時は消える、とよく言われている。
でも、あれは野生の動物の本能として鷲とかカラスとか、獰猛な人間の子供とか、身が弱っていたら防ぎ切れない対象の衆目の目につかないところに身を隠して、快復するまで安静にしていようとしているだけらしい。
つまり、生きるつもりだから、身を隠す。自分の手の内を悟られないように動く。

でも、元気なら、不測の事態にもある程度対応出来る許容範囲が広がるし、ちょっときつくてもね、頑張るとさらにいい方向に循環する流れにぶち当たる時がある。
だから、人間の対処法、処世術は、健康状態や年齢、自分で選択した環境、社会情勢などでまた折々変わっていく話なんだよね。

でもね、若いうちほど結構短いスパンで、こうやるのが自分のポリシー、とか必要以上に決めちゃいがちだったりする。何かの秘訣を見つけて、自分の経験や能力の不確かさを補おうとするんだな。
ただ、その状況が変わってきて固定観念に縛られ過ぎていて困る場合もあるし、逆に思いもかけない巡り合わせや幸運に救われる事もある。

すべての生きとし生ける者に、幸運があらん事を。
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# by catalyticmonk | 2017-08-21 00:17 | 忘れ物 | Comments(0)

気が遠くなる幸せ

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本当の幸せに触れた瞬間はね、とにかく毎回気が遠くなるものだと思っている。
美味しい料理、魅惑的な自然の光景、荘厳な人々の祈りの姿、愛する人の慈悲深い言葉。色々あるだろうけどね、本物は気が遠くなる。
それさえあれば人間は生の生命力を思い出してやっていけるんだよ。

逆に、そこに触れないなら表面的にグルメとか、地位や富を追求していても意味ないんだよ。
高級ワインを冷房のきいた場所で飲むよりも、砂漠の中で渇いた喉を一杯の水が潤す方が、間違いなく幸福なんだよ。

だから、「贅沢な人」とは、実は単にわがままな人ではない。本当の幸福に触れられていない気の毒な人達だ。多くを手にしながら、飢餓状態なんだ。

ただ、本当に飢えている人々から、自らの葛藤故にさらに搾り取ろうとするから、戦わざるを得なくなる。
万物の母は、それを嘆きながら見守っている。
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# by catalyticmonk | 2017-08-21 00:02 | 忘れ物 | Comments(0)

「神」という呼び方についての私見

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たまに、人から神なんか信じて何になる、みんな病気になるし、世界中の人々は憎み合って戦争し続けているじゃないか、などと言われるんだけど、別に端からそんな次元の話じゃないんだよな。

神を信じている、という事は、一言で言うなら「目に見えない価値を信じている」という事だ。政治的な次元とは一緒に出来ないけれど、各々の心の内面のあり方としては重要になってくる。

それは有難くて愛や感謝の気持ちも含まれた「何か」なんだけれど、形がなくて掴みようがない。
一々議論を挑まれてもね、最初からそんな性質や対象のものですらないんだな。
だから、頭でしか捉えていない人は極力放っておいて欲しい、と感じるよ。

そりゃ、癌とかなったら死にたくない、と思うし、逆に理不尽な事柄が解決されずに山積していたりすると、正直、もうしんどいから楽になりたいと感じる事もある。
だけど、なんだろう、基調は楽観主義者みたいで、本当の絶望というものがない。

でも、ただ図太くて不安を感じない訳でもない。やっぱり世界には、最後のところでは目に見えない、自分の人生の視点からだけでは計れない価値が存在していると信じているんだよね。
それは理屈じゃない。

その根拠となるような体験は時折訪れるけど、他に言葉に形容しようがないから、一先ず人間社会にある「神」という表現を当てはめているだけなんだな。
頭で考えたって始まらない、感じるしかない何かがある。
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# by catalyticmonk | 2017-08-16 00:33 | 忘れ物 | Comments(0)

従順な冷酷

e0296801_08104602.jpg凄い。この社会の根本的欠陥をたった一枚の写真で明示している(出典:https://matome.naver.jp/odai/2150227854541182801/2150262532309655203)。
甲子園の開会式で熱中症で倒れる生徒がいても全員無関心。

情けや自己判断より、与えられた命令に従う事を最優先。自分の役割の外の事柄には傍観視で極力関わりたくない従順で姑息なロボットの大群。
これらの特徴は、広く一般社会に見受けられる現象なので、この高校生達は社会の空気に準じているだけだろう。

◆こうした脈絡の日本社会の通常運行として他にも顕著な点

①みんなで一斉に賛同したり罵倒する機会を待っている。集団で大喜びしたり、憤激したりする熱狂が大好き。と言うか、そういう機会がないとなかなか羽を伸ばせないので、その際に一気に爆発しやすい。
②独自の意見や行動の人へはどう反応していいか迷い、その存在が不安を与えるので目障りに感じがちで、ついついいじめたくなる習性もあり。

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# by catalyticmonk | 2017-08-15 21:09 | 忘れ物 | Comments(2)

アイドル文化について

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府中の商工まつりに「仮面女子」なるアイドル・グループが来ていた。
元来、アイドルに興味のない私も、無料で見られるので、異文化を見るが如く観察した。

見ていると、ショーの最中、全員が汗でびしょ濡れ。衣装も舞台の上の照明も相当な暑さなのだろうか。
飛んだり跳ねたり、動きも可愛い云々以前に私にはとにかく必死さが伝わってきて、大変だなあ、というのが率直な感想だった。

あと、アイドルの振り付けというものが「萌え文化」とでも言うのだろうか、昭和の時代よりさらに気恥ずかしいまでの幼児的演出がパワーアップしているのだな、と感じた。市場として確立されているので、どんどん異形化が進んでいるのだろう。
追っかけファンと思われる大人達の奇声の声援も、そうした文化に縁のない私には正直ぎょっとするものだった。

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別に可愛さと芸をセットにして売る、という発想が生まれるのは分かるけど、それは脚光を浴びる当人達が主体的に作り上げるものではなく、プロダクションがあって、大概は男性が色々アイデアも考えて、それに従って主に若い女性が、その存在を「商品として」売るというね。
やはり極端に商業主義的になりやすいし、本人達が必死でビジュアルや歌、芸に磨きをかけている努力は笑いものにするものでもないと思うけれど、やはりファンとの関係一つ取っても虚飾そのものの世界な訳で、当人達の尊厳の観点からも「操り人形」みたいな立場になる仕組みを文化的に推奨していて好ましいと言えるのだろうか、という疑問も湧く。

1970~1980年代のアイドルは一体なんだったのか、と某社会学者の方が疑問を投げかけられていた。要するに「昭和のアイドル像」みたいな話なのだろう。
ルックスやスタイルなら今の普通の若い女性たちのほうが全然いいし、歌唱力たるやジャイ子のそれを大きく上回るものではなかった、なんであんなものにみんな熱をあげていたのか、と大胆な事を述べらていた。

それはそれであるだろうし、確かにビジュアルや芸達者さで言えば、今時の国内文化は随分洗練されているのだろう。
しかし、ビジュアルや芸達者さよりも、現代の日本のアイドル文化は、文化的により軽薄で、使い捨て的な消費商品の枠組みになった気がする。

結局のところ、英国の社会学者タウンゼントが、準拠集団との関わりの中で論じた概念である「相対的剥奪」そのものだ、という説が議論の中では優勢だった。
人が抱く不満は、その人の置かれる境遇の絶対的な劣悪さによるのではなく、主観的な期待水準と現実的な達成水準との格差による、という。要するに、周り中でレベルが高くとも低くとも、その中で相対的に物事の良し悪しを人は感じ取るという事だ。

逆に、本来的に一過性の幻想的な仮の刺激に過ぎないものに、消費者とアイドルに身を投ずる若者が、多くのものを捧げ過ぎると、幻想である故の歪みを生じさせやすくする、といったところだろうか。
当人もファンも、その一過性の幻想を、ファッションを楽しむが如く自由にエンジョイしつつ、人間的な尊厳を倒錯させないのなら何も問題ないのだろうが。
でも、そういうのは難しそうだな、とは思う。だいたいがアイドルのファンて熱狂的で、すぐに感情的に興奮するじゃないか。


正直、比較的貧しい家庭の子達がアイドル文化に惹かれているような気配も感じている。つまり、AKB48のように集団ウリになって、逆に相対的に「普通の子」っぽい庶民層の子でも手に届く夢のように感じる部分もあるのかな、と。実際は簡単に手にも届かないかも知れないが、親近感は湧くかも知れない。モー娘以降、前より身近になったというか。

でも、それが商業的に食い物にされる搾取構造でもあるし、またアイドルグループは結構安倍政権が大衆文化を味方につける道具にも使われた面がある。貧困な家の子が、逆に安倍政権の応援をするネトウヨになったりするのと同じような類似性も感じるところ。
大衆文化が、権力者にとって利用しやすい搾取構造的な度合いを高めている事と、現在の日本の政治状況はダイレクトにつながっているのだろうと思う。

だから、搾取的な文化構造とか、ネトウヨ予備軍だったり尊厳軽視の気配がある枠組みとかいった色が付いていないで、純粋にこのデザインや色合いが面白い、若者のこの表情やこの動きが絵になっている、という次元でだけ扱えたらいいのに、というのが、私にとっての正直な感覚だ。

日本の中で生活していると街中の巨大広告看板一つ取っても周囲の街の景色をぶち壊すような趣味の悪いものがドカーンと設置されていたりするし、じゃあ、混沌とした世界として俯瞰的に楽しもうとしても、中途半端に洗練されたタレントの笑顔とイタイキャッチコピーにドン引きしたり、変な方向に意識を持っていかれる濃縮された商業的情報装置が溢れ過ぎている社会だ、というむず痒さ・ジレンマがずっとあるね。

それがあるから、私個人は日本の大衆文化に、距離感を感じたままでいる、というのがあって、ずっと文化的な孤立感を感じてはいる。
なので逆に、国のトップも賞賛しているももクロとか、社会的・商業的にみんなが絶賛する既存の媒体に同調して盛り上がる空間を与えられる、というのは、それが実は搾取構造であっても目が眩まされてしまうほどの強力な誘惑装置なんだろうなあ、と。

やはり、今の日本の歪んだ格差社会や搾取構造は道理としてだけ何が正しいのか説いても、そこの装置が機能したままでは簡単には変えられない。
何を誰がどうやったところで難しいのだろうが、大衆文化の既存のあり方が、既得権益にとって最大の強みなのだから、それを無批判に現状肯定する事もやはり出来ない、という感想を強く持つ。
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# by catalyticmonk | 2017-08-08 02:04 | アイドル | Comments(0)

既存の左翼文化・自称リベラル派は本当にリベラルなのか

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テレビ報道で、10代の子どもたちほどお墓参りに行くべきと答える傾向があり、その理由としては「義務を果たすべき」と思っている人が多いという結果だったそうです。
それに対して、「若者の保守化の現れ」「右傾化は貧困の現れ」等の言説が報道番組内やSNS上の論議であるようですが、それは一面的で完全に間違っています。

何より社会の中の共同体が破壊され、殺伐とした世界が広がっているから、伝統的な絆に回帰したい庶民感情が発生するのです。そうした性向自体は、卑しい誤った感覚であるかのように唾棄すべきでなく、そう感じる人々の実態に即して何を訴えかけていけるかこそが大切な点であるはずです。

そもそも「お墓参り」なんて、個々の宗教観・信奉する信仰形態によっても差が生まれる箇所で、そこで以てして保守化や右傾化を論じてはいけないのです。個人の価値観毎の好悪の差は出るものでしょうが、社会的公論として主張すべき話ではない。
こうした反応が時折起きる事からも、私は既存の左翼の人々が、本当に思想信条や信教の自由、といったものの重要性を理解しているのかなあ、と甚だ疑問に感じるところです。

10代の子どもたちほどお墓参りへの親近感を増幅させた背景に、市場主義が家族や地域共同体の枠組みを駆逐してきた帰結があるにせよ、だからと言って左翼的政治観歴史観で現実を二極化して捉え、独善的な傲慢さで大衆の自然な感覚を一刀両断する硬直性が改まらない限り、そのような認識と姿勢を維持・助長するような形での左翼文化は滅ぶべきだと感じます。

もちろん、本来的な左翼思想はそのようなものでない、という見方も可能ですが、従来的な右翼・左翼といった対立項の概念はもはや完全に時代遅れだ、と私が強く感じる理由はこの辺りにあります。
市民運動や「意識高い系」の人々の底無し沼のような愚挙と横暴の数々を現実に見てくると、こうした発想的な独善性の毒の程を実感するのです。

もう右翼か左翼か、などといった冷戦時代の対立項のイメージで捉えていると不正確で、時代にそぐわなくなっているのだと思います。共生社会か搾取構造か、といったところにこそより本質があるのであって、そこを現実に即していない形で分断する意識でしかないなら、そんな看板にこだわる事自体考え直した方がいい。
既存の「リベラル」とされる人たちの、従来的な「伝統」がそのような狭量な思い込みを発生させるのならば、いったい何が「リベラル」なのか。自由と民主主義を守らない「自由民主党」という名前の政党と何が違うのか。

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# by catalyticmonk | 2017-08-08 00:40 | 希望社会 | Comments(0)

他人の不幸は蜜の味、という言葉の実際

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ま、日本社会の病んでいる加減と言うか、ホスピタリティの低さを実感する機会は残念ながら多い。人が具合悪くて冷や汗だくだくで歩いている時に限って、見知らぬ他人から意味不明の小馬鹿にされた扱いを受ける。お腹が苦しくて身を捩りながら必死で外を歩いている時に、すれ違いざまに若い女性二人組に大げさに形態模写されて笑われる、とかね。
具合の悪そうな人間=どこか様子が奇妙で滑稽な馬鹿にしたい存在、という認識と思われる。競争社会に毒され過ぎ。

歴然としていても、言い逃れがいくらでも出来るような陰湿な意地悪をするんだよね。たくさんあるから、気付いている全部が自分の思い込みや勘違いとも思えないし。
ああいうので中にはキレて怒ってしまって、逆に警察に「暴漢に突然襲われた」とか訴えられて捕まっているおっちゃんも絶対いると思うんだよな。

そういう図式がまた何重にも歪んだ悪循環を広げて、混乱した殺伐とした社会にしている、というのが現実だと思う。
だけど、表面的な次元でしか対応しないのは、やはり、社会全体が病み過ぎていて十分に問題を掘り下げるモチベーションが足りないからなんだよ。

そこの微妙さがたくさん存在している例として、もう一つ具体例を挙げておく。
翌日の手術のために入院するのに自分で電車で移動している時だった。優先座席に座っていたら、目の前を年長者のグループに囲まれて、大声で非難がましい当てこすりにしか聞こえない話をされた。
「嫌な気分になりながら具合が悪い中をやせ我慢して座っていることない」と思って立ち上がって移動したのだけれど、あの時も立ち上がって移動するなり背後から「ま~っ」というかましい感じの嘲笑的な声がその年長者女性らから上がった。

とにかく、建前があって、はっきり言えないような状況や場合に、濃密にそうした出来事が頻発するね。つまりは、ああいう事をする人達も、顔見知りや親しい間柄の人間関係では多分結構普通の人なんだろう。
そういう「関係性」に支えられた人の好さや礼儀正しさであって、道徳としてこうであるべき、という観念が日本人には極端に薄い、と私は日頃から感じている。

別に、私も自分の住んでいる近所では結構快適だ。府中の大國魂神社の境内なんて、普段からメンタルに問題を抱えていそうな人が憩いを求めてか闊歩していて、なんか弱者や流れ者労働者などに優しい、という風土が府中にはある。
でも公平に言って、住めば都ということは他の地域にもあるのだろうし。

自分が元気なうちはまだ我慢出来るレベルに感じているかも知れないけど、一旦病気や障害を抱えてみると、日本て、人間社会として相当マズイ段階に入っているよなあ、と実感する事が増える。
お年寄りなんかもみんな結構そういう思いをしているんじゃない?
近所の顔見知りや家族、お金、といったものが、世の世知辛さからその人を守るいくらかのバリヤーになるんだろうけどね。

やっぱり、健康で元気な者、お金や権力のある人間のための、そういう人達優先の競争社会なんだよ。
しかも、そうでない人達もそれに憧れて、蹴落とされている人達の立場は余裕がない、暇がないと言って結局見過ごされがちだから、詰まる所、社会全体が福祉型の共生社会を目指さないと、どうしようもないと思うな。

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# by catalyticmonk | 2017-08-04 00:02 | 希望社会 | Comments(0)

生命倫理としてのガン

e0296801_23423211.jpgガンとは、細胞の無限増殖という、身体の統合性を破壊する暴走だ。
彼らも生きたいが私も生きたい。

「細胞」という個が、「身体」という生態系であり社会である単位を無視して暴走していく結果として、その生態系単位そのものが、暴走する細胞と共に崩壊する。

まるで独裁者と国家、搾取行為と市場、地球生態系と人間の環境破壊のようではないか。そこに身体の健康から経済構造、自然生態系までに至る一つの生命倫理が存在するようにも思える。
それぞれの単位が己れの命を楽しみ真っ当していいが、自身を包含する環境を破壊しては誰のためにもならない。
また、全体を成立させている個々の生命単位が不健全で不幸であっても立ち行かない。

社会の大義のためなら個人の健康など取るに足らない事で、人間様の経済発展のためなら、信奉する主義主張、信仰のためなら、自然環境や他の動植物の命なんて二の次、といった発想。それらはどれも人間の、断片的な視野が生み出す倒錯なのだろう。

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# by catalyticmonk | 2017-08-03 23:47 | 忘れ物 | Comments(0)

繰り返さないために忘れてはならない戦争の記憶




韓国の映画コンテンツ専門大学院キム・ジュンギ教授が旧日本軍の蛮行を広く知らせるために制作した映像だそうだ。
CGだからこそ可能だった表現だろうが、あまりにも生々しく衝撃的。全編日本語で語られているので日本人にも分かりやすい。


私がインドの文化学校に留学していた時、ルームメイトはキーフンという韓国人だった。彼から聞いたのは、若い韓国人はみんな日本人を憎んでいる、と。それは学校教育で、日本軍や日本人が統治時代に如何に酷い行為をしたか教えるからだ、と直截に言っていた。

そうは言っても、見知らぬ私にルームシェアしようと声をかけてきたのは彼の方だったし、彼を通して短期旅行者の若い韓国人集団と仲良くなって、ヒマラヤ地方をトレッキングしたりしていたから、私の実感としては若い韓国人は相当日本人に親近感を持っていると思う。

いずれにしても、そんな彼らであっても、親しくなったからこそ端的に本心の一端を強調して伝えてきたのだと思う。私は一人で異文化の集団に紛れ込むという種類の体験を好むところがあった。そうやって、ある程度相手の懐に入らないと聞けない言葉や感情というものもある。

色々と文化や民族性は違っても、親しくなれば、誰も等身大の生身の人間でしかない。個人として接する時には生身の人間と生身の人間でしかない。
それが異なる集団と集団に分かれて対峙し合った時に、違う生き物や血の通っていないモノのように感じてしまう事が起きてくる。

私は、ズバリ言ってしまうが、日本人はチームワークや管理能力に優れていて人間の集団としてとても能力優秀だが、ある意味で一番「人でなし」な卑しい性質も抱えている人々だと思っている。
ドイツ人などにも言えるが、集団主義的な文化や社会風潮が強いからこそ、とても排他的で、時として非人間的な冷酷な行動を取ってしまいやすい集団なのだ。

ナチス・ドイツのアイヒマンも「私の最大の罪は命令に忠実であった事だ」と言っていたように、企業や官僚、政治家などが行なう大規模な不正や国家による大量虐殺は、集団に依拠し過ぎて自分個人の人間性が希薄になったところに発生する。

ドイツ人は、戦後、その事を社会単位や教育活動の現場で直視して、思慮深い政治性を進歩させた。
しかし、日本人はそういう事をしてきただろうか?
戦前の戦争を起こした特権階級の子孫がそのまま国政を牛耳る政界の中心に居座って、従軍慰安婦問題一つをとってもドイツのような誠実かつ内省的な反省を国家が積極的にしてきた事などない。

国家という最大規模の集団の意思によって為される戦争行為は、人間が同じ人間を人間として見られなくなる極限の麻痺を引き起こす。人を人でなくしてしまう究極的な悪なのだと思うし、だから、それをしてはいけないのだ。


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# by catalyticmonk | 2017-07-26 00:42 | 反戦 | Comments(0)

ゴシップ嗜好と日本の民主主義

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私は週刊誌的なゴシップの取り上げ方や、そういうものにすぐ飛びついて騒ぐ態度、その習性が強い人物といったものが、昔からどうにも好きではありません。

最近のニュースであれば、埼玉県の小学校教師が小学4年生の児童生徒に対して、「今すぐ窓から飛び降りろ」「命が惜しいのか。早く飛び降りろ」などと3階の教室から飛び降りるよう何度も迫ったという報道があって騒動になっていましたが、他の同級生児童の保護者の証言によると、先生が「やれと言われたら何でもやるのか?飛び降りろと言われたらやるのか?やらないだろ、やったらいけない事をやれと言われてもやらないんだよ」と教えたという内容だったので、ずいぶん歪曲された報道だった、という話も出ているようです。

どちらの主張が正確か、また真実が双方の言い分からどれくらいの距離感なのか、間接的な情報しか知り得ない立場の我々には定かなところではありません。
ですから、今ここでは、特に事件の真相と報道された内容の真偽の検証に深入りする気はありません。あくまでもゴシップ好きな態度の危険性そのものについて、普段から感じている点を述べてみようと考えているだけです。

結局、事実がどうであったか、が一番大切なので、まず物事を決めつけないで慎重に物事に対応する必要があります。
拙速な思い込みがどれほど多くの偏見や差別を生み出し、立場の弱い人々や少数派を傷付け苦しめて、また無益かつ根拠のない争いと混乱を作り出してしまうものか、私は自身の人生経験的にも痛切に実感してきています。

何か最初から有利な立場の相手に「それっておかしいだろう」みたいに勇気を出して立ち向かっていくほど、こういう成り行きが多発する、おかしな社会だと思っています。ゴシップに踊らされやすい衆愚社会だ、と呼んでも過言ではありません。
分かりやすい定式に合わせて、話を歪めてしまうのです。そして、既知のイメージに沿っていれば事実確認より先に信用されてしまう。権威があったり数が多かったり社会の安定したレールに乗っている人達ばかりが優遇される、弱い者いじめみたいなデマの構造なのです。

社会の広い範囲で起きている出来事を伝えるマスメディアが、権力と癒着していたり、あまりに商業主義的です。
扇情的に関心を集めやすいゴシップ報道に流れやすいと非常に危険で、硬派なジャーナリズムが十分に根付いていく必要がありますが、日本ではそうなっていない訳です。

また、警察の組織体質も、一般人の視点から観察していても極めて思い込みの激しい傾向が顕著で、一番そうであってはいけない公権力の行使者が現状そうなのですから、庶民は大迷惑ですね。
一般人の側でも、人からそんな目で見られるような人物の方が悪い、といった自己責任論で納得してしまって、お上の失敗や不正を中途半端にしか追及しない変なことなかれ主義が根強いので、余計にブレーキに欠けています。
そうした日頃の鬱積への憂さ晴らしとして、すぐに特定の個人を一斉に群衆心理でバッシングするし、他人の不幸は蜜の味という卑劣さが大衆文化にもインプットされてしまっています。

そういうガス抜きとしてのゴシップ中毒性は、江戸時代の身分制度において、平民の下に賤民を置いてガス抜きをさせ、支配階級への不満を回避させていた時代から継続している風潮なのではないか、と疑っています。こうした傾向は、近代的な人権意識を制度・教育の面で取り入れて多少の進歩はあったにしろ、民度の構造としてはあまり成長しきっていない証左な気もします。
日本人が近代史においても容易く全体主義に傾きやすかった経過自体も、社会に蔓延するゴシップ嗜好と無関係ではなかったし、今現在もその点は多分に継続中の改善すべき憂慮要素なのだと考えています。
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# by catalyticmonk | 2017-07-21 20:50 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

自己アピールとひがみ

自慢や自己アピールの何がいけないんだよ。それを揶揄する側の方がひがんでいるし、浅ましい下世話さだろう、といつも思っている。
自分で自分をこういう人間だ、と主張して、こうやったら面白いんだよ、楽しいんだよ、とインド人でも西洋人でも、なんか普通に堂々とするよ。そっちの方が建設的だし陰気じゃないでしょ。

自慢や自己アピールがよくない場合はさ、相手に逃げられないような状況を作ってから押し付けるようなやり口だよ。
日本人は、明るい前向きな自己アピールはしないで、人の足ばかり引っ張る習性が色濃い癖に、そういう手の込んだ押し付けは好んでする。そっちの方が卑怯で浅ましいと私は感じるのだけど。
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# by catalyticmonk | 2017-07-21 20:37 | 忘れ物 | Comments(0)

ひとと違う意見は罪な国

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日本の中で多様性を重んじようという考えでいると、びっくりするくらい多くの困難に直面する。自分とは意見の違う人と共存する、という発想が根付いていなさ過ぎて、そっちの方が偏屈な変わり者扱いになり兼ねないんだ。
だから悪循環で、誰もなかなかそういう態度でいられないし、その姿勢を身に付ける機会が持てないんだ、と分かる。

例えば、誰かが私に耳打ちして「あの人、変だよね」と誰かの悪口を言ったとする。
私としては「変だと何が不都合なの?」「どこがどういう風にまずい訳?」とその感覚差を埋める確認作業をするしかないのだけれど、これが協調性を優先させる文化・教育で育った人々には、結構気の利いていない失礼な態度に感じるらしい。同調してくれないと自分を否定されたように感じるようで、その結果、怒り出す相手って結構多いんだ。

私自身は元々「変わっているから」という理由で誰かを揶揄するという発想が好きでないし、思春期に日本的な価値観にまるでついていけず葛藤していた分、人格形成の重要な部分をはっきり自己主張する国外の文化に触れた時にまとめ上げた面が大きいので、かなり感覚が違うのだと思う。

ただ、どういう理由で喧嘩になっても、マジョリティーの一般感覚の側に軸を置いている相手と揉めた人物の方が「怒り出して喧嘩を始めた」と見なされやすい、という傾向が歴然と存在する。
もっと悪質な話ででもだ。

ここがポイントなんだけど、往々にして、この国では結構普通の人まで「複数人が話す噂」の方を信じる。
なので、そこの場所でたった一人で異を唱え出すと、いつもとても不利なんだ。釣りに来て夜フェリーがなくなって帰られなくなった小学校高学年の女の子を無理矢理押し切って犯した、という体験談を得意げに話す男がいたから、義憤を感じて怒って喧嘩に発展した、なんて状況ですら、そこにいる数人が、それを許容する価値観だったら、もう危うい。
とにかく言った者勝ちで、大概誰しも外面はいいので、複数名で言えばもう簡単にその言葉は一定の信憑性を獲得する。共謀されて、あっと驚くようなデマまで吹聴されるのがオチだ。

そんな経験はした事がない、言外に「あなたはよほど気性が激しいんじゃないの?」と言いたげな反応をする人達も相当数いる。
確かに、なんとなく空気に逆らわないで自己主張をしないで生きてきた人達にはこの社会は比較的平和で穏やかな場所らしい。だけれど、独立独歩な価値観・生き方をする者にはとことん牙を剝く。

ある程度意見の近い人達を人数集めて、一斉に言わないと、どんな主張もなかなか通らないみたいなんだ。
でも、よく冷静に考えてみて欲しい。どっきりするようなマズい話は、誰も大勢がいる場所ではあんまり話さないに決まっている。だから、この社会ではいろんな悪事が簡単に隠蔽されてしまうし、また建前ばかりがまかり通って露見しにくい。
その図式が、森友学園問題だの加計学園疑惑だの、国を司る政治のトップから大企業、庶民に至るまで、全領域で横行しているんだ。
個人プレイはいけない、協調性を重んじてみんなと仲良く、という美徳と教育の結果の実際はこういうふうだ。

とにかく事を荒立てないこと。人から恨まれないよう、異なる意見を相手にはっきり告げてはならない。でも、そうやって維持される秩序や平和は、必然的に強い立場の者にばかり有利に働き、貧しい者、立場が弱かったり特殊な事情を抱えている人々に優しくない、ホスピタリティーの低い社会へと向かっていく。

だから、一個一個の不正を暴いて糾弾していく行為はもちろん大切なんだけど、そういう精神文化面、日常の振る舞いから見直していく視点をもっと増やして活性化させていかないと、いつまで経ってもキリがないし、本質が正されていないから、何かの不正疑惑の尻尾を掴んでも、そのうち趨勢としてはけむに巻かれる、という事態に陥りやすいのだと思う。

私はずっと鏡の国で暮らしているような気分だ。でも、みんな、こういう環境にどっぷり浸かっていて、自分達がおとぎ話みたいな不可思議な観念の中で生きているという自覚もなかなか出来ないようなんだ。
それを夢なんだよ、錯覚なんだよ、と最初に言う人達は、なんて奇異な事を主張する人間なんだろう、と当然周囲の多くの人達から思われるだろう。それでも、おかしいものはおかしい、と勇気を持って言っていくしかない。みんなが一斉に正しい結論に達して正義が勝つ、みたいな話をぼんやり期待しているとしたら、それは幻想だ、と言うより他ない。

確かに封建社会を道徳価値観的な側面から維持補強する意味では、儒教道徳の影響は少なからずあったのだろう。
ただ、日本人よりもなお儒教的な価値観が濃厚な社会とされてきた韓国人や中国人の実際は、随分違って、かなりはっきりとした自己主張をする印象がある。

私はアジア回帰する程も洗練されていない愛知県尾張地方の片田舎で育ったせいか、成長期には中国にも韓国にも関心が薄かった。多分、無意識的にも東アジア的な文化以外のものに触れたくて、若い頃はそこを飛ばして西洋社会やインドといった世界に向かっていったのだと思うんだけれど、やはり北インドの留学先で韓国人とルームシェアして、ルームメイトを通してさらに多くの韓国人集団に触れる機会はあったし、中国人の振る舞いも幾度も目の前で見てきた。
韓国人の女性は、確かに男尊女卑の文化の中に身を置かれているようだったけれど、当の彼女らの行動がどうかと言ったら、異性に対しても割合肉食系と言うか、近年の日本人女性でもあり得ないような大胆さが身についている様子。決して、ただ黙々と文句一つ言わないで儒教道徳によって慎ましやかに屈服している女性の姿などではない。

付和雷同の激しい服従性の高い文化を、日本人自身が話題にする時は、従来から儒教道徳とのつながりで語られている文献が多い訳だが、私個人の印象としては、そうした影響もあるけれども、元からかなりこうだったのではないかな、と。
聖徳太子が「和を以って貴しと為す」と十七条憲法で言い出す前から、何かの思想を引いてきては湾曲したご都合主義の解釈をし、それを権威化して、自由闊達な議論を封じ、長いものに巻かれろ式の「空気の支配」を強化する脅し文句に使われる傾向があったのではないか、と考えている。
だいたいが十七条憲法の真意からして、論語の意趣と乖離していないようなのだけれど、長年社会に流布する際には異なったニュアンスで用いられていったのではないか。

日本は様々な精神文化を取り入れる以前から、封建的な文化後進地のアジアの辺境だった訳だ。なので、何かの思想を自国に取り入れる際に、純朴な民を知的・政治的エリート達が、自分達の都合のいいように流用する、という思想文化の受容形態が容易だったはずだ。それが古来常態化していたのではないか、と私は考えていて、それはマルクス主義などの左翼文化に対してすら一定そうであった気がする。
為政者や知的特権層が与える価値観や文化的な印象操作は、戦後はまた大衆娯楽を通じた情報伝達の発達と共に強化されて、今の安倍政権までつながっているのだろう。
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# by catalyticmonk | 2017-07-21 20:14 | 相互抑圧 | Comments(0)

自己啓発本の罠

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「トンデモさん」とも相関性のある話だが、自己啓発セミナーとか自己啓発本ブームも相当胡散臭い。

ただ、本質的なところを言えば、精神的価値の意義ももちろんその人のTPOに応じて実在するので、程度問題だと思う。確かに内面の幸福が肝心で、外形的な物事に囚われ過ぎて不幸になっている状態から心理的な平穏を見出すための健全な考え方や生活習慣方法というものはある。

でも、外部の他人に相談させない、参考文献をあげないで自分の言葉の値打ちを上げる、といった手法なら、それは確信犯の商業的詐欺のトーンを懸念すべきだし、仕事で受けるパワハラを人間関係に不安があるあなた、みたいに全部内面に置き換えていくよう仕向けて、結果、より良い職場を探して転職するなどの現実的な対処をしり込みする人間をつくったら、それも倒錯な訳だ。

最近のお手軽な心理学書は、後者の商業的詐欺、よく言ってキャバクラのようにお客に疑似恋愛などの幻想で一時的幸福をお金と引き換えに与えるサービス業の一種みたいなものがゴマンとあるように感じる。
心理学書の体裁を取っているものでさえそうなのだから、漠然とした自己啓発本の全体は、もっといい加減だろうと思う。

そういうものは、本質的なその人の解決能力を後押しするのではない、一時的な精神安定剤のようなものだ。
かえって読者なりセミナー信奉者を終わらない青い鳥探しをする受け身の精神構造の堂々巡りにとどめてしまう弊害もある。無益に長く続く葛藤を相手に刷り込んでしまう面も強いと感じる。

それでも人間の精神性全般に対するニヒリズムは、自暴自棄な生き方を招くだけだ、と当然の事はきちんと理解しておくべきだろう。強調しておくべき点を言い添えるならば、自分自身の中で積み上げていく本当の哲学や信仰の選択であれば、それはその人自身の主体的変化・成長だ。どういう方向性に向かおうとも他人が口出しする性質のものではないし、詐欺的精神代替物とは似て非なるものだとも思う。

しかしながら、昔から私の周囲にいる人達で、自己啓発本や自己啓発セミナー流の洗脳主義的な扇動に振り回され、かえって強迫観念的な混乱や葛藤を抱えていたり、同じようなところをグルグル回っているように感じる人が後を絶たない。
エホバの証人にも一時期入信していた私の実母からして、そうした傾向が顕著だった。そして、他の誰でもない私自身が、自己啓発セミナー的な社員教育のある建設業界の重機レンタル会社に入って、散々な目に遭った経験がある。

また、私でも自己啓発本に心酔している最中の人達個々人に直接何か意見するのは難しかったりもする。自己啓発本に書かれている内容の一個一個はありふれた常識的な正論だったりもするからだ。
特定の商業利益や奇妙な偏見に結びつけられていても、惹きつけられる人は全体を吟味しない傾向が顕著なので、知らないうちにそうした歪みや混乱の影響を受けて、未整理な思索がやがて別の葛藤の袋小路に至る。繰り返していても本人達は気付かない。だいたいそういった図式が見える。

こうした現象は、現代社会の精神文化面での危機と直接リンクしているようにしか思えない。
その社会的な背景のもとに似非精神代替物でお金儲けをしようとする動きも、カルト宗教とひとつながりな弊害だ。

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# by catalyticmonk | 2017-07-21 20:00 | 忘れ物 | Comments(0)

トンデモさん

何が「トンデモ」なのかを定義する事は難しい。科学の定説とされているものにも間違いが多くある事は、科学自体が過去の「常識」を無数に塗り替えてきた事実からも分かるし、それが出来なければ科学などではない、とも言える。

ただ、根拠に乏しい飛躍の多い説を、いとも簡単に次々と信じる傾向が顕著な人種というものは確実にいて、また、それらを信じている人同士の間で一つの信仰とも思えるような強固な連帯感を有している場合も少なくない。

「トンデモを信じることで、仲間からは“真実に気づいた”と絶対的に肯定してもらえるんです。彼女はそれを求めていたのかもしれません」

「トンデモを信じる人たちは団結力がある。止めさせようとする力より、抜けさせまいとする力の方が強い。私はその前で無力でした」

私もかつてそのような人種をたくさん目にしてきた。
まず、アジア旅行が好きな人々にそうした志向の人間が多いし、私がインドにあるチベット亡命政府直轄の文化学校に留学した際にも、世界中からやって来た留学生のうちの半分くらいは神秘的なものへの「憧れ」のようなものを持っていて、類似の傾向が強かった。

愛情不足な生い立ちを成育過程に持ち、承認欲求が強く自己肯定感が低いタイプの人々が、寂しさを埋めるようにトンデモやマルチ商法に入り込んでしまいやすい、という話は、宗教や精神世界全般にもかなり同様の傾向が存在する。

私自身は、と言えば、まさに荒んだ家庭環境だったが、祖父母からは可愛がられていたし、デタラメな親や大人たちの身勝手な振る舞いに振り回されて育ったので、むしろそうした自己欺瞞や偽善を嫌悪する意識が高かった。洗脳されにくく懐疑精神の人一倍強い、独立独歩な人格形成が成されていたようだ。

しかし、そんなふうだったので、「トンデモさん」はいつも私の身近にいながら事実認識や物事の選択・判断において反目し合いやすい隣人だった。
いや、趣味の友達や恋人に選びつつも、相手にすると厄介だから深入りしないままの話題が広範囲にあったり、内面的な価値観を共有しがたい対象だった、と言うべきか。

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# by catalyticmonk | 2017-07-21 19:41 | 意思疎通 | Comments(0)

民主主義未満

例えば、最近なら森友学園問題で刑事告発するのは政治戦略として良かったか悪かったか、吉祥寺で反天皇制デモを行なうのは有効か否か、野党が共謀罪に対抗するのに審議拒否をすべき・すべきでない、といった議論がありました。どれも、何が合理的な手法か、といったところで意見が近しい者同士で割れていました。

ですが、その3つだけ取ってさえ、全部の判断がきっちり同じになる市民の割合なんて少しずつで、みんなそれぞれ一個一個は違う判断なんですよ。

そういう手法の違いで相手をすぐに感情的に、または関係のない人格攻撃も含めて対立し合う、という、極めて荒んだ空気がずっと存在しています。

みんな、その現実を分かっているから、市民運動に参加しつつ、自分の意見は言わない、と決めている人が長い人でも結構います。あと、いつもどこか特定の政党や活動団体の判断について行く、とか、どうしても、そういう人の方が長く安定して幅広く活動しやすい空気があります。

でも、個人個人が自分の意思と判断で動いていかなければ、結局別の次元と枠組みで権力闘争や利権構造が生じるだけで、民主主義社会を求めていく根本が成り立たない。

手法の見解の相違はどうしても出てくるものです。
ただ、それをやられたらみんなが困る、というテーマは確かにあります。
民主主義社会なら反天皇制デモも含めていろんな意見があって然るべきで、そこを出した上で議論するのが筋です。
でも逆に吉祥寺の街の人に、地元と関係ないのに、右翼の街宣車や機動隊が集まってきて暴力的な空気になって怖かった、地元の活動団体は平和的に活動して親しみを持ってもらおうとしていたのが台無しになった、みたいな言葉を言うな、とはもっと言えない。仮にそう主張するとしたらそれも無理があるでしょう。

森友学園問題の刑事告発や国会の審議拒否は、高度に政治的で、法律や議会運営の知識・専門情報がないと、素人には即判断が付かなかったりします。ところが、それが支持している政党や仲のいい人物の激しい煽りがあると、微妙で複雑な判断であるはずの事で、もうバトルが始まって、お前はどっちなんだ、みたいに聞かれる。

日本人は合わせるのが得意ですが、個人の意見を尊重するという考えがまだ育っていないですよね。
個人が自分でしっかり考えていない割に、明らかに不釣り合いなほどの対立をすぐに始める。ここの意識を変えないと始まらないでしょう。
それ、そもそも社会運動の正常なスタンスでも民主主義の正道でもないから、と。

民主主義や個人の自由をもっと理解していかなければ、ただの言い争いで終わって勿体無いですよね。子供のケンカと同じで。
そういう雰囲気だと社会運動がますます非日常的になってしまいます。

共謀罪などのように民主主義社会を根底から揺るがしかねない、かなり重篤な危機が迫っているからこそ、みんな余計に意見対立する、というのもあるようですが、もっと身近な問題として誰もが参加できると良いのに残念に感じます。
本来は、自主的に考える勇気、間違える勇気があれば十分なはずです。
でも言えない社会があるから、そこから変わらないと日本人はロボットになってしまいますね。国の思い通りで、今の日本人は凄い危機なんだと思います。


別に思想信条の問題じゃなくて、左翼臭い毒々しさって実際にありますよね。右翼臭さでも政党臭でも一緒です。自民党はもとより野党でも政党臭さってあるじゃないですか、キナ臭い独特の。

いや、どんなスタイルだって自由なんですよ。でも、ただ税金払ってこんな社会制度じゃ嫌だとか、原発事故怖いからやめて欲しいとか、そういうシンプルで当然の権利である願いを普通の人が意思表示したかった時に、政治の世界はこういうものですから、って顔で、デーンと構えてね、かなり多くの人が嗅ぐのも苦痛な何ものかで待ち受けている、みたいな現実は事実あるんですよ。
それで、皆それぞれに「俺の所に参加しろ」と実質言っている。

なんか、それってフェアじゃないじゃん、詐欺みたいなもんじゃないの、と感じている人が大勢いるのに、「なんで声を上げないんだ、国民として、有権者として、民主主義社会に生きる一人の人間として無責任だ!」と来る。

他の喩えで言うならですね、ビジュアル系も入ったグラム・ロックとか、ヘヴィーメタルとかの音楽とド派手な格好が好きな人は、それが個人の趣味趣向だからそれでいいんですよ。
でも、それで、ヘッドバンキングしない奴は非国民だ!とか、意見があるなら大音量でヘヴィーメタルがかかった集会に来てギターもライトハンド奏法くらい出来なきゃ発言権はない、でも集会に来ない奴は民主主義社会の一員としての義務を放棄しているに等しいから、何をされても文句は言えないぞ!なんて言われたら、どうでしょう?
やっぱりそれって違うだろう、と多くの人が思うのは仕方ないでしょう?私はクラシック音楽が好きだし、収入が減っているのに勝手に増税されては困るから、当然の主張をしたいだけなのに、ライトハンド奏法の練習をする時間なんてないよ、と。

あと、動く奴が一番偉い、来ない奴は能書きだけ垂れるな、みたいな言葉が多い訳です。ですが、ここ最近ずっと癌闘病をしていた私からすると、はっきり言ってそれ、意図しなくとも相当な障害者差別・病人差別なんだよな、と感じる場面が多々ありました。

もちろん、そこも半分は分かるし、正当な主張である場合も多いんです。自分では何もしないで他人に文句ばかり言う、そういう無責任なマスに頑張っている人達が無益に疲弊させられる、という重大な弊害がありますから。

けれども、だから少ししか動けない人間は感じている事柄も口に出すな、というのでもやはり違うと思うんです。半分は同じ言葉と主張がある種の傲慢さである場合も多くて。
活動している人間が政治の主役、みたいなのって、忙しい人間や貧乏人も蔑視している、という、その程度の道理も分からない連中が人権とか民主主義とか言うのは矛盾じゃないか、と徐々に病状が悪化している最中にも行っていて何回感じたか分かりゃしませんよ。

だから、何かそういう次元でね、「政治の世界」の常識みたいなのが出来上がっていて、そこに乗るか反るかを前提に政治参加云々と言うのが少しおかしいし、今やっている人達が自分達の行動を広げていきたいなら、少なくとも後から来た人がこれって胡散臭い、とっつきにくい、と言っても怒っちゃダメだと思うんですよ。

結局、「オレ達のやり方に黙って付いて来い。でも、これが民主主義なんだ」なんておかしな理屈をずっと言っている面がある気がします。また、無責任に文句だけ言って主体性のない「お任せ民主主義」の風潮が、頑張っている人達をそういう所に自然と追いやってしまうという堂々巡り。
ここはやはり民主主義や個人の自由・尊厳が何なのか、一人一人が実質的に見つめて意識改革していかなければ、またそちらの方向に互いに声を掛け合って啓蒙し合わなければ、ずっと並行線のままなのが道理でしょう。

政治や運動に上も下もないはずで、それぞれの人がその人の身の丈なりに社会に関わり、各人の意見を言えるようにしていくのが民主主義の本来の姿なのではないですかね。

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# by catalyticmonk | 2017-06-19 01:29 | 希望社会 | Comments(0)

自由と命の爪跡

e0296801_02212372.jpg若い頃、よく旅をした。
知らない土地の風情や見知らぬ人々との出会いが、私に明るい解放感を運んできた。
ただ、自分が目にし体験して得たものを、思い出として語るだけでなく、誰かと共有したい、という気持ちにもなった。

それが普通の人なら故郷への望郷の念になったりするのだろう。
ところが、私には異国に何年も住んでも本当にその感情が起きなかった。懐かしく思い出せるほどの甘美な記憶がなかったからだし、目の前の暮らしが充実していたからだろう。
だけれど、喪った過去の日々に想いを寄せるのが望郷心の重要な要素であるのなら、似た感情は体験した記憶もある。

大阪で会社の夜逃げ倒産に遭った後、生活に困って仕方なく三重県の山奥に就職し暮らしていた頃、何年もただお金のために好きでもない事をして、しかも身動きが出来なくなっていた。楽しい事もなく、見知らぬ土地に一人であって、休日に緑豊かな湯の山温泉で絶景を眺めながら温泉に入り、食事をしていても、虚しさはちっとも消える事がなかった。
だから、鈴鹿山脈に沈む夕陽を見つめながら、世界中を自由に飛び回った若き日や東京での暮らしを思い出して、涙が出ないほど切ない気持ちになったのは、とても自然な事だった。

今の私は病気とは向き合っていかなければならないものの、あの頃に比べたらずっと幸福だ。
寂しい気分は、何か無念な気持ちが湧くと一層深くなるものだけれど、やはり社会的な動物である人間として、健康面も含めて社会に爪跡を残したい本能なのかな、と時折思う。

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# by catalyticmonk | 2017-06-19 00:11 | 忘れ物 | Comments(0)

市民共闘

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共産党支持者の多くは民進党なんて自民補完勢力だ、と思っているし、民進党も共産党には出しゃばらせたくない。
自由党や社民党は直近の都議選では大勝負がなく、無党派層でアンチ安倍政権寄りの人達も政党支持者同士の党派ごとにバチバチやっている感じに近寄りがたいものを感じて、白票を投じないまでも選挙応援を積極的にしにくい状況に置かれている。

党派対立が激しい局面で敢えて投票行為以上に能動的に選択する、ということは、その特定の党派に自身が組み込まれる形になるのだから、どっちにつくか、という空気は、結局最大多数派の無党派層を与党に対抗する勢力に取り込めなくする。
幅広い価値観の人々を緩やかに吸収出来なくなるのは自然な道理。

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私がこういう事を言うのは、自身の体験上の至って自然な実感がある。
私は去年から手術や入退院に明け暮れていて、選挙応援どころではなくなった。その前の年の2015年、戦争法案反対の抗議運動が終わった秋口くらいから具合が悪化したので、私があちこちの選挙運動に参加していたのはその前までだ。

その頃、私自身は何人かの特定政党候補の応援を末端でした。共産党候補の応援もしたし、同時に社民党や緑の党の候補の応援もした。
そういう事を現に多くの無党派市民層がしていたし、「野党共闘」という言葉が現実的な形を取り出す以前から、私が二度の都知事選挙で宇都宮健児さんの支持・応援をしていた事もあって、幅広い支持層と横のつながりが生まれた影響も大きかった。

宇都宮健児さんを支持した者同士が、互いにそれぞれ緑の党や共産党、社民党、生活者ネットワーク等々の候補者を応援し、宇都宮さんご自身も自分を都知事選で支持してくれた人々や野党の選挙応援に方々を回られていた。

ただ、実際にはその当時から政党間毎の様々な軋轢はあって、当初はその難局も緩やかな市民層のネットワークが互いを励まし合うような形で支え合っていたのだけれど、段々とその歪みが積み重なり大きくなっていく一方で、仲間であった人々がバラバラになり、あるいはどこか特定の政党の強固な支持者に収まっていく、という過程がどんどん進行していった。

SEALDsが野党共闘を呼び掛けて飛び回っている頃には、私はすでに手術台の上だった。
手術後間もなく少しだけ都知事選挙の街頭宣伝にも参加したが、野党統一候補をめぐって宇都宮健児さんが出馬を辞退される、という出来事が起きていて、以後、それでも宇都宮さんを支持し続ける人々と、かつては宇都宮さんを支持していたけれどどこか特定の野党についていく人との間に決定的な溝が生まれ、また宇都宮さんご自身も、以前のように野党共闘の看板としていろんな選挙に呼ばれる、といった機会がなくなっていったようだ。

私自身は宇都宮さんを都知事選挙で支持する事が市民運動参加の大きなきっかけとなった人間で、それ以前に311直後から反原発運動には度々参加していたものの、がん告知や諸々の個人的事情でそれどころでなくなっていた期間も長くて、あくまで病気の小康期に都知事選挙関連で徐々に広がっていった面が強い。

それでも独立独歩でものを考え行動する人間なので、自分を単なる宇都宮信者とか山本太郎信者みたいな分類に入れられる気はさらさらなくて、候補者や政党の支持もその時々の状況や具体的な政策を見て選んでいる。

ただ、この安倍政権が長らく高い支持率と議席率の中で盤石に続き、特定秘密保護法や安保法制、共謀罪といった重大な法案が数の力で強行採決されまくる難局の中で、そこに対抗している市民はまとまった力になるべきところを、ひたすら分裂していく一方だった。

e0296801_07542019.jpg何か結局のところ、ずっと昔から続く日本の市民運動の図式の流れそのものであって、それが変わるかも知れない、という空気が高まった時、311以降にも、特定秘密保護法や安保法制反対の頃にも、新しい積極的な政治参画層が一般社会から流入して、一部は既存の特定政治勢力に吸収され、大半は去り、ごく一部の人々がそれでも新しい流れを模索する、といった繰り返しが成されているのは間違いない。

だけれども、全体としては緩慢をつけながら弱体化する一方であったのも確かで、ただ昔から変わらない当然の流れだ、と受け入れていてもいけない気がする。
今、野党共闘という言葉は継続しているけれども、それが本当の意味での寛容な空気や多様な価値観・政治信条の融和性を示しているのだろうか。

一般人が、例えば民進党候補や共産党候補を同時に積極的に応援しながら、複雑な党派対立に巻き込まれ後ずさりしないで済むような、そうした空気作りがないままならば、ますます与党と既成権力の看板の架け替えでしかない勢力が、庶民置き去りの横暴な政治を続けることは疑うべくもない。

e0296801_08061295.jpgだから、現実的には既に「野党共闘」という言葉もほころびを見せ始めているのだと思う。
「野党共闘」と言った場合、それが「市民共闘」の象徴として正しく機能するのであれば健全なのだけれど、実際にはそれの意味する「野党」とは、既存の「国政政党」である民進党、共産党、自由党、社民党の四つを指しているに過ぎない。国政参加を目指しているその他の政党支持層や独自の政治見解を持つ人々にも息苦しいものを感じさせる。

それがどんなに合理的な判断と思えても、異なる価値観の人々への過剰なごり押しは禁物だ。それは安倍政権に対抗する市民層の分裂を招くだけでなく、政府に不満を抱きつつ政治参加には消極的な層に連帯の輪を広げていく事を困難にする。

「野党共闘」という言葉で括られている各党の支持者は、当然元々自勢力の拡大を政治集団の原則として持っているのだから、「野党共闘」の大義と共に、どんどん謙虚さを失い、野党四党支持層以外の有権者に以前よりも声高にごり押しをしている面がある。「野党共闘」という言葉を使って自党への勧誘を必死でしていて、それでますます全体としては安倍政権に対抗する仲間を増やしていけなくなる負け試合に向かっている。

いや、各党が頑張ればいい。出来る事なら野党共闘も無党派層やその他の政治勢力の取り込みも行なえるような融和的な形で行なって、与党打倒後の受け皿を健全に模索していって欲しい。
だけれども肝心な目的は、たった四つの「野党」が連帯し合うところに焦点がある訳ではなく、市民が、有権者が共闘するところにあるのだ、という点を今一度忘れないでもらいたい、と願っているのは私一人だけなのだろうか。
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# by catalyticmonk | 2017-06-18 06:07 | 希望社会 | Comments(2)

私が病気をしてから日本の政治運動や社会運動について気付いた事柄

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単に病気になっていろんな所へ顔を頻繁に出せなくなり、市民運動も選挙活動も、物理的に遠ざからざるを得ない立場に長くなってみると、如何にそれが普通の人が関わり辛いものなのか、改めて障壁の大きさを痛感するところが増えていきます。
絶えず揉めて錯綜とした人間関係の市民運動界隈にたまに行くと、公平に振る舞っているだけのこちらが、ギクシャクしたイヤ〜な空気の緊張感を味わなければいけなかったり、どこの誰が選挙の候補者としていいのか、一般人にとって定かな情報は調べなければ伝わってこない状態なのに、こことそこを応援して!という段階からの勧めばかりが飛び交っていたり。
こんなのじゃ今関心のない外側の人達なら尚更関わりたくなくなるに決まっているし、広がらなくてむしろ当然だ、という決定的な印象を受けるのです。

じゃあ、代案を出せよ、ではなくて、それが外側の人の実感だ、という部分での話に恫喝したって始まらないでしょう。全体的に押し売り的な倒錯した論理の蔓延を感じてしまう。

例えば、デモだけやっていても政治は変わらない、選挙の時だけ野党に投票しようとだけ唱えていても都合が良過ぎる、もっと普段から地域のつながりを大切にして、選挙事務所とかでボランティアしたり、ビラ配りしろ、そういう横のつながりを自民党はしっかりやっているから勝つんだ、といった話も従来からどこの政党支持者でも熱心に主張するところで、全部正論なのですがね。
でも、そういう主張が出る団体や政党支持者は、大概同時に「こうしなければ無責任だ」くらいの強い調子の事までボロボロ発言しているところがあって。

そんなに押し売り的に二者択一でものを言ったら、「こちらは本心、政党はどこも言う事と立場がコロコロ変わるし、そこまで応援したいところなんかないんだよ」とその人なりな正当な理由があって積極的に支持する所がない人達を、端から侮辱しているのと変わらないですから、そういう事を言っている人達の活動全部に好意を抱けなくなるのも当然です。

いや、それでも、その時その場その状況で考えて具体的な候補者や一定枠内の政党を応援するのは大切だし、見ていても政治熱のある市民はすでにもうみんなガンガンそういう事をしている訳ですが、そこも点でしか関われない病人や、ニュースやネットもじっくり見ていられない忙しい人達は、それをしろと言われても正直ついていけないのです。

やはりどこの政党も運動も、それぞれに自分ところの活動を事業として大きくするといったところに熱心で、その引き入れを必死でするのですが、それに関われない立場の人が賛同しやすい姿勢ではないし、引き込むのに熱心過ぎて相手に傲慢になっている部分への無自覚が、さらに一般人を政治から遠ざけている、という視点が薄いままだと厳しい気がします。
相手のペースや立場も尊重しながら、その人が純粋な気持ちで意欲関心を持ったものを欲張って潰さないスマートさが必要なのだと思います。

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# by catalyticmonk | 2017-05-23 23:37 | 希望社会 | Comments(0)

忘れ物

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今の日本だと、みんなキャッチーなフックのある短い言葉だけに反応して、相手の言葉の奥を吟味するゆとりがどんどんなくなっている気がする。
情報過多だし、忙しい暮らしだから、必然的にそうなる、という要素も大きい気がするんだけど。

でも、理由や原因が何であれ、個人が自分の心と頭でしっかり物事を感じ取らなければ魂そのものが痩せ細っていってしまう、というのは強く感じていて、何でもかんでもコンパクトにキャッチーに、という文化が危ういとずっと感じているね。
IT文化の負の影響も絶大で、読書をしながらじっくり思索や想像力を膨らますよりも、ツイッターとか、音楽や映画業界が衰退しているのも異常。
なんか利便性が行き過ぎて、ちっとも合理的でない時代に入って来ている気がするんだけど、それが堕落した表現だと思われていたアールヌーボーがまた見直されたみたいに、欠けているものに気付く前触れだったらいいな。臨界点てのもあると思うんだよね。

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# by catalyticmonk | 2017-05-23 23:06 | 忘れ物 | Comments(0)

いいじゃんか、ちょっとふっくらしたくらい

別に好みの問題で浜崎あゆみの歌なんて、昔から一ミリも興味なかったけど、それでも公平に言って全然普通に綺麗だと思うんだけど。
なにさ、女子プロレスラーって。女子プロレスラーにも失礼でしょう。いつも思うのは、日本て美の基準が物凄く画一化されているなあ、と。

世界中、いろんな人種や文化、体形の人がいるから、その中で好まれるビジュアルやファッションも幅があるのに、日本だと狭いから、その基準が。
で、流行りが変われば、またどうせ一斉につい数年前まで持て囃していたものが廃れるんだ。

なんで男性も女性も顔や風貌が同じ系統ばっか持て囃されるんだよ。
ちょっと派手めだと「ケバくて頭悪そう」とか、髪の毛が長い中年男性はチンピラか卑しい(という偏見付きの)「貧乏人」だとか、ちょっとふくよかな女性はもう「激太り」だとか、なんだかな、って。
なんで、みんながほっそりして、彫の深い濃い顔じゃない童顔の子ばかり持て囃し、女性自身もそれを必死で追求しているんだか、私には意味不明です。

いや、自分もスラヴ系のほっそりとした顔の系統が好みだな、とか好ましく感じる個人的な傾向はあるんだけど、そういうものの幅って、もっと自由にあっていいじゃん。男が40代になったら、みんな厳つくしてなきゃいけない訳でもない。

インドの伝統的な基準だと、女性はこれくらいふくよかじゃないと魅力的でない、とされている場合が多い。
昔の浜崎あゆみと、この今の写真を並べてどっちがいいか、聞いてみたらいい。大概のインドの庶民は、今の顔の方が魅力的だ、と女性も含めて言うはず。

例えば、パンジャーブ地方はインド人の中でもアーリア人の血が濃くて、そういう血統で現代的なファッションの若者だと、もう何人だか分からない。で、そういうパンジャービーのギリシャ彫刻みたいな精悍な顔の青年が、日本の基準で行ったら純然たる肥満体形のコロンビア人の女の子見てメロメロになっているのを見た時があって。「あ~、やっぱり美の基準て広いなあ」と自分の感覚の限定性を痛感したもんね。

こっちは今抗がん剤治療で一日一食でも太っていくから、ダイエットしたくても空腹が酷くてね。運動しようにも動くと投与間もない期間は具合悪くなるから。薬はまた人工的な行為だから、自然治癒のように適度なバランスを保てる訳ではない。だから、意識的努力も必要となる。どちらにしても治すためなんだから我慢するしかないし。
そういう個人個人の事情があってそれぞれだから、取り敢えず太っていてはダメとか、痩せるのはダメとかいった変なプレッシャー抜きがいい、と言う話だよ。

浜崎さんは突発性難聴で、ステロイド投与をしているのなら副作用で太る場合もある。
結局個人個人の優先順位もある。浜崎さんが抗がん剤投与で太る私と同じようにステロイド投与で太っているのなら、なおのことそれは仕方ない話でしょう。

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# by catalyticmonk | 2017-05-23 22:37 | 忘れ物 | Comments(0)

手法の相違と大同団結

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うーん、今日、衆議院本会議で共謀罪法案が可決されたわけだけど、社民党や自由党本会議強硬に抗議欠席、共産党や民進党は出席して牛歩もしなかった、と一部から非難轟々だ。
森友告発プロジェクトが安倍昭恵夫人含めての刑事告発状を東京地検特捜部に提出した話でも、そんな事したら戦法としてダメだ、バーカ、とかまで言葉が飛び交っていて。

いや、手法として一番効果的な正しい判断を見極めていかなければいけないのは当然の話なのだけれど、手法の判断がいろんな意見が出るのは当然のことでしょう。
そこで、共謀罪成立を阻止させたい、森友問題などの疑惑がうやむやにされるのはおかしい、だから安倍政権を退陣させたい、と大筋では願うところが同じ人々が、憎悪も露わに罵倒し合うという行為が何につながるのか。

私なんて素人だから、そういう手法の是非の判断がつかない場合は多いし、私よりも現状日本の有権者の大半は選挙に行かないくらい政治への関心が薄い。
そこで、なんとなく、「え~、そんなものも自由に言えなくなる法案なんじゃないの?テロのためって本当?」とか素朴な疑問や関心を抱いた人が、自分よりも詳しくて先に行動している人同士で辛らつな激しい言葉の応酬で言い争っている市民運動の人達のやり取りを見ると、「なんか気になるんだけど、よく分からないのにどちらかにつかないといけない」みたいな様子に行き当たった時点で、大概は脱落しちゃうんだ。
そういうの、本当にもったいないよ。

実際、自分も病気してから、それでもずっとそういうトーンで激しくやり合う市民運動の世界にガチで関わり続けたら、もう体が持たない、と実感する瞬間が何度もあった。
命がなければ、自分たちの暮らしを続けていけれなければ、もう政治への関心以前だからね。
多くの人が、暮らしや健康を維持しながら、なおかつ自分達よりも全面的に関わっている人達の活動に関わっていける、という形でなければ、手法をめぐっていがみ合っても、本質的なところではもっと負けてしまうんだと思う。

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# by catalyticmonk | 2017-05-23 22:27 | 希望社会 | Comments(0)

差別意識と社会構造

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差別はやはり社会の構造から変わっていかないとなかなか無くならないと思います。
「このオカマ野郎!変態!」
「女々しい奴め!」
「お前、男だろう!」

どの言葉も差別意識に満ち満ちている言い回しなのですが、それが文化として根付いてしまっていると、男がどうのこうの、なんて言わなくても勇気を出せ、とか、メゲてばかりいても仕方ないじゃないか、という他の言い方があることすら分からなくなってしまいがちです。
そういう差別発言が、その人の生きた切実な感情や価値観とさえ結びついてしまうから、なかなか個人間でそういう相手の差別意識を諭そうとしても容易ではなくなるのです。

それでふと思い出すのは、元自衛官の年上の知人が、20年以上昔に若い私にこう言っていた話です。

「……俺たちは散々ソ連や東側諸国の核の脅威を言い聞かせられて来て、自衛隊はアメリカと日米同盟で手を結んで自国民を守っている崇高な使命を持っているんだ、とずっと教えられて来たんだ。
それが冷戦時代はあんなに悪魔のように言っていたのに、ソ連が崩壊した途端に勝った勝った、良かった良かった、だって?ロシアはまだ核を持っているのに!
共産主義のソ連がなくなったからもういいんだ、って。あれはたったそれだけのことのためにやっていたのか?そんな話だったのか!?」

素朴で真面目な彼だからこそ、でしょうが、ソ連がなくなった途端に冷戦に勝利した、とはしゃぐ西側諸国のニュースや自身の過去の同僚の姿を見て、イデオロギーの差で過剰に互いを危険視して煽り合い、軍事対立して来た冷戦の虚しさを痛感したのだそうです。
長年彼は共産主義者や社会主義者の日本人は国賊だ、と思い込むくらい忌み嫌うイデオロギー差別を持っていたのだそうですが、それが、周りの言うトーンが急変したものだから、貧乏労働者としてにわかに労働運動に関心が出てきた、と言っていました。

「もう、世の中、立場が変わると何が正しいか分からないもんだよ」
そうやって西新宿の飲み屋で彼が呟いていたのを思い出します。
彼のあの話は、まさに差別問題と社会構造の関係を、ズバリ20代の私に理解させてくれました。
人は環境によって簡単に差別意識や偏見、先入観を植え付けられてしまうけれど、社会全体の雰囲気が変わればそれもまた大きく変わるものなんだな、と。

差別意識と社会構造の関連で他にも大きなテーマとしてはLGBTへの差別問題も大きいでしょう。
「差別発言は、当事者の気持ちについて勉強しないと、悪気が無く出てきてしまうもの。教科書がLGBTに関する記述を一切しないと、差別発言に満ちた社会になってしまう」、そうやって私に言ってくださった方がいました。

また、ジェンダーに関わる差別問題は根が深いので、法律で制御しようとしたり文章を書いているくらいじゃ簡単には変わらない、という意見もあって、差別をなくすには早期の人権教育が重要だと私も思います。
LGBT問題に関心を持つ以前に、バッドボーイ・カルチャーやマッチョを志向していて、そもそも人権意識という発想自体が軟弱で嫌いだ、という人たちさえいます。

差別発言をなくしていくには教育が重要ですし、差別意識そのものをなくしていくには社会構造そのものが変わらなければなりません。個々人の自覚と文化発信や社会教育という意味も含めて、すべては教育と政治に行き着きます。

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# by catalyticmonk | 2017-05-19 12:43 | マイノリティー差別 | Comments(0)

死を忌み嫌うマナー

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5月14日付の朝日新聞の記事に「(声)喪服で飲食店はマナー違反?」と題されて、以下のような記事があった。

〈少し前のことになる。親族に不幸があり、私は愛知県東部の郷里を訪れた。告別式は正午前に終わった。空腹を感じたので、駅ビルの2階にあったすし店に立ち寄った。店長の異様な視線を感じたが、そのまま食事を済ませた。店の外に出た途端、店長が若い店員に怒鳴る声が聞こえた。「塩をまいておけ!」 

どうやら、私が喪服を着ていたのが気に入らなかったらしい。縁起でもないと思ったのか、ほかの客への配慮なのか。うかつだったかもしれないと思いつつ、それなら「申し訳ございませんが、ネクタイだけ外していただけないでしょうか」とひとこと言ってほしかったとも思った。 

以来、喪服で飲食店に入るときは黒ネクタイは外すことにしている。だが、一方で思う。電車やバスなどでは喪服の着用をとがめられたことはない。公共交通機関では許容されることが、なぜ飲食店では許されないのだろうか。 

誰でも、身内や知人の葬儀に駆けつけることはあるはずだ。喪服は、そこまで忌むべきものだろうか。〉


死を忌み嫌う民間風習故の塩まきの儀式だけれど、私の郷里でもある愛知県は全体的にそういう事柄に偏狭なところがある地域性なので、これに類似した変な出来事は多いかも知れない。
ただ、葬式を行なう仏教寺院側の解釈は、死者は仏の修行の旅に出る者だから、それを忌み嫌うのは仏を忌み嫌うことである、として、こうした解釈を取らないよう。あくまで、死を忌み嫌う民間の俗習であって、マナー違反ではない。

そもそもが死を忌み嫌うマナーなどといったもの自体が、死にゆく存在である人間の妄念ではないだろうか。
今、癌闘病の真っ最中の人間の入院先に見舞いに行くのに喪服姿で駆けつけるとか、確かに特定の状況下では非常識とも思える形になる場合もなくはないだろう。だから一定の他人の心情への配慮があってもいい気がするものの、本質的にそれが公共性のある合意として強く他者に強要され得る正当性を持つものとは思えない。

個々人によっても解釈が異なる心理的なものを「マナー」云々と主張して、地元の人同士でも揉めているパターンが愛知県では珍しくなかった。
そうした問題はマナー意識全般にあるような気がする。自分の価値観や感覚・信条を他者に押し付けるのに「マナー」である、という主張が過剰に使われがちなのだ。そして、元々閉鎖的だったり保守的だったりする土地柄や環境だと、こうした問題が多発しやすい、という理屈のようだ。
死を忌み嫌う民間の俗習自体は古くからあるものな訳だが、今の時代は、日本全体がそういう大らかでない方向に進みつつある気が私はしてならない。

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# by catalyticmonk | 2017-05-15 00:58 | 忘れ物 | Comments(0)

精神論の適用可能範囲

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先程の会話。
「大切なのは鈍感力!粘らないしなやかさ!」
「鈍感な人が鈍感力鍛えてもなあ。敏捷性はないし」
自分のことね。相手の感情をその場で読み取るのが遅い。

それを補うために相手の行動や発言をじっくり観察する癖がついた。ただし、それはその場その場で即発揮される臨機応変さではなく、事が起きてから物事を観察する非常に反応の遅い方法だ。
これをやらないと、私は人間としてほとんど機能しない。
鈍感力で上手くいくのはいいことだけれど、繊細だったり、掘り下げる性質の人も、それぞれの個性だからね。

私は虐待やいじめを受けて育ったんで、弱者やマイノリティーの人への世の人の差別や横暴って、よく考えていない軽はずみさからたいてい生じる、と感じている。
そこに何かをしっかり言って行こうとしたら、踏ん張って粘らないといけない面もある。

ただ、心が強ければ、その場その場で間隔を空けながらでも、繰り返し少しずつ粘っていけるだろう。
そういう、短絡的でない、地道なアプローチを古今東西の聖賢は語ってきていて、やはり一定の人間の知恵が帰結する道理はその辺りにバランスを見出しているのだとは思う。

でも、私の見てきた限り、人それぞれの持って生まれた性質の差は大きくて、まさに個性なんだな。
このやり方でやると上手く世渡り出来る、と言い切り過ぎても、結局、永遠にある種類の個性の人達の多様性が否定されたままの社会になる。

結局、両方必要なんだと思う。
踏ん張り過ぎたら折れるからしなやかさは大切だし、何かをしっかり言っていこうとしたら、踏ん張って粘らないといけない面もある。
お気楽で行こうとすると、そこをスルーしてしまいがちになる。
また、個人の内面が楽に生きる方法としては、生きている者は色々、欲や執着だから、そこから意識を切り替える軽やかさが肝心だろう。

そして、精神論は、絶えず限定的な仮定でしかない、という点も忘れてはならないと思う。
そうでないと、その人に合わない紋切り型の価値観を押し付けられてとても苦しむ人がいる、というのも私はよく知っている。
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# by catalyticmonk | 2017-05-14 01:41 | 忘れ物 | Comments(0)

いじめ社会

本当にそうだよな、と思わされるアメリカの学校で起きた出来事の動画を観ました。

SNS上の掲載なのでリンクは特に貼りませんが、ガンになった祖父を励ますために坊主頭にした11歳のジャクソン君を、同級生がそんな事情も知らないでいじめた問題に学校のティム校長先生がどう対処したか、という話です。
校長が生徒を集めていじめられた生徒に自らの髪をバリカンで刈らせて、いじめた生徒を一人も責め立てる事もなく、人の心や事情も知らないで笑い者にしたり悪口を言う行為の愚かしさを諌めたところ、後でいじめた側の生徒らがジャクソン君に謝りに来た、という内容でした。

でも、アメリカ人なら、直接知りもしない伝聞を根拠に誰かを冷たくあしらったり、悪意のある態度や行動を取るにせよ、まだしも相手がはっきり何をされたか目の前で分かる形でやるでしょう。
露骨と言えば露骨だけれども、だから、一応その気になれば本人が「なんだと、この野郎!」と言い返す事も簡単だし、決着がつくかつかないかは別として、個人で正面から議論を挑み、周囲に賛否を問いかける事も出来る。
ここが日本とは全く話の土台が同じにならない部分です。

日本人は堂々とやらないで裏から手を回しがちです。
相手がその場では即反論や弁明が出来ないような、遠回しな言い方で、相手にだけそうだと伝わるような嫌味を言ったりします。ただ自分との関係が近しいか・遠いかだけで、自身では確認もしていない伝聞の噂話や主張を取り入れる判断を簡単にしてしまう。
だから実際、そもそもはっきり言いようがないのです。雰囲気の中での忖度や恭順で誰かへの評価や判断をしてしまいやすい。
雰囲気の中での空気読みだから、表立った直接的な言い回しや態度を一生懸命に避けて、集団でじわじわと相手を締め上げていく。

これではどんなに勇気ある個人でも、正当な言い分がある人物でも、自分に起きている理不尽な扱いを上手く訴えていく事が難しくなります。
おまけに自分をそうやって吊るし上げている者の大半の顔ははっきり見えないし、やっている側も自分が全体としてはどんなプロセスに関わっているか認識出来ないまま。
結果として、表面的には品行方正な普通のいい人達が多く関わる群衆心理的な状況が発生しやすいので、冒頭に書いたアメリカの校長のような清廉潔白な人の行動がストレートに響く設定は、とても限られている気がします。
日本ではちょっと粗暴だったり、露骨な悪態をつくタイプの人間の方が、まだずっと裏がないくらいです。

私がヨーロッパ人の人達と口論した時に感動したのはそこです。
自分に露骨な悪意ある態度や失礼な真似をした相手に、直接「どうして、そんな不当な態度を取るのか私は納得出来ない」と詰め寄ると、日本の文化で育った者からするとびっくりするくらい率直な返事が返ってきて、お互いのわだかまりが溶ける、という体験を何度もしました。
そんな体験は自分の生まれ育った国ではまずなかったので、私は涙が出るくらいに嬉しく思ったものです。
日本人とでも極親しい間柄ではそういう事もなくはないですが、社会的には大概はまず通用しません。せいぜいが、その場だけヘコヘコと恐縮したり笑顔を見せて、後から全然表面的な態度でしかなかった、と気付かされる場合が多い。

大の大人でも子供みたいないじめをする社会。
そこを自分達に言い訳する材料が、協調性の美徳だとか、忍耐や謙遜だとか、周囲の多くがそうしている現実とか、山のように用意されています。
もし、その人が卑怯者で、他人を都合良く利用出来ればそれでいい、という人達なら、私にはもう何も言う言葉がありません。
だけれど、もしも人としての真っ直ぐな心があるのなら、我々自身の判断と勇気がいつも試されているのだと思います。
どんなに親しい人の言葉でも、周りの空気がどうであっても、そこが受け身なままでは、自立した「自分自身の」良心が活かされて、清々しい思いで人生を送る日は永久に来ないでしょう。
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# by catalyticmonk | 2017-05-12 00:18 | 忘れ物 | Comments(0)

手術前日の夢

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自分が今年の1月終わり頃に手術を受ける直前に書いた夢日記を再発見。読んでみて大ウケ。
私自身はテンションの高い際中に勢いで書き残しているので、あまり覚えていなかった。実際、いつこんな事を考えていたんだろう、と不思議に思うような記事までブログには残っている。

今、読み返すと、やっぱり正直心細かったんだろうな、救いを必死で求めていたんだろうな、なんて自身で思わないでもない。
たとえ夢であっても、こういう時の体験は、現実並に心に滋養を与えてくれるものだ。

何が救いを与えてくれるのか。自分自身のための創造行為を無意識が行なっている、とも言えるだろうが、私はそれを神の恩恵と呼ぶ。
そして、ここに出てきた女性は、私の女性的側面の投影・アニマなのだろう。

以下がその記録。


夢。
私は都市郊外の南北に走る幹線道路近くの、木造平屋建ての粗末な長屋に住んでいる。
イメージとしては、私の育った時代の愛知県尾張地方にある尾張中央道周辺の、片田舎に住宅街やスーパーマーケット、飲食店が点在する環境に似ている。
その狭くて暗い長屋に、彼女と同棲しているが、その女性を夢の中では私は昔からよく知っている気でいる。どうもとても危険な女性らしい。

私は毎日の暮らしと環境にとても辟易している。
女性と転居することになる。何か不穏な事情付きで。
今度は、東西に走る幹線道路が平屋の北側を走っている。この道路もおそらく国道1号線が愛知県海部郡の弥富辺りを通っているイメージだ。私はその辺りに住んでいたことはないし、周辺の木々や植物、日の光の感じが現実より随分熱帯地方っぽい。平屋もなんだかオレンジ色の壁で南国風だ。

建物を挟んで幹線道路に面している所とは反対側の庭に出る。
南側は次の住宅地まで広々とした水田が敷地のやや下に開けていて、日当たりも良く開放的な雰囲気に、私の気分は晴れ晴れとしてくる。
小さくても庭木が周囲を囲んでいて、もっと色々植えたなら素敵な和む空間になりそうだ。まだ敷地には芝生も植えていなくて、壁も地面も、目の前にある南インドみたいな家の古井戸も、なんだか全部オレンジ色がかっている。

私は、もう覚悟を決めなければいけないと思って、古井戸の前で彼い女の手を握り、共にずっと暮らしていく決意を伝える。
どうも夢の世界でも私は暗い過去を持ち、そういうことに慎重な男であるようだ。でも、ここまで来たら引き下がれない、言うべきことは言わないと、なんて考えるあたりも現実の私の発想そのまま。
不器用ながら単刀直入な愛の言葉を告げ、彼女と手をつなぎ合う。彼女の方はそれに驚く様子もなく、当然だ、といった感じで淡々と受け止めていて、私はホッとしたが、内心少し物足りなくもない。

彼女は唐突に庭に木を植えようと言い出す。
すぐに彼女に握り合った手をそのまま引かれて、家の西側の細長い通路を抜けて幹線道路沿いの北側の庭に連れて行かれる。
私はこんな場所より南側の井戸の前がいいんじゃないか、と提案するも、彼女は強く確信に満ちた表情で「ううん、ここでいいのよ」 と言う。

見渡せば北側にも庭木はすでにいくらかあって、白いテーブルと椅子もある。そして、懸念事項である幹線道路側も、家の柵の上から見えてくる景色は熱帯地方の明るい雰囲気が満ちていて、ここもまんざらでもない寛ぎの空間になり得そうだ。
道を渡った先には工場か何かの境界木なのか、15メートルほどありそうな立派な木立ちが燦々と緑豊かに輝いて、葉で日光を受けながら聳え立っている。

そうか。私たちは、ここで植えた苗があの木のように大きく育つまで末永く健やかに暮らすんだ。
北側なら植えた木が大きく育ち過ぎて南側の日差しを遮ることもない。そして、そうなるまで長らく健やかに私と暮らすつもりでいる、彼女の静かな強い意志と、意外と慎ましやかな願いがゆっくりと伝わってくる。

なんて調子のいい夢を見た朝に家を出て、明日の手術に向け入院する。
結構素直に感動したので、ただの願望投影以上に内的癒やしがある夢だった気がする。
去年から4回目の入院で、付き添いは毎回誰もいない独り者なんだから、このくらい虫のいい夢を見ても許されるだろう。

天気が良くて、窓から富士山が見える。病棟の中は相変わらずシャツ一枚になっても汗が出てくるほど暖かい。
春にも夏にも秋にも入院したが、これでオールシーズンを通して徹底した温熱療法が、ガン病棟の基本としてあるのが実感できた。
夢の中で見た大木のように、日光をたくさん浴びて葉を実らせたい。
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# by catalyticmonk | 2017-05-10 00:34 | 忘れ物 | Comments(0)

外づらのいい日本人と共生社会

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市民運動関係者から何やらどこかから排除された、とか、吊るし上げられた、なんて話は定期的に耳にします。
まー、各人と運動体・組織毎の思惑はありますからね。そこが合わなければ考えが違うんだという事でしょう。

そういうのは、大概当人達から直接聞くと、どっちの話も「なるほど、そんな感じだったのか」となる場合が多いし、一番重要なポイントが当事者同士しか確認しようのない話だったりもするので、私は八方美人とかでもなく、簡単にどちらか一方だけの肩を持つという判断はしないようにしています。安易な決めつけや思い込みこそが、最も理不尽に相手を苦しめる事だ、というのも痛感しているからです。
でも、そこも自分との付き合いの浅い・深いだけで安易に決めてしまう人がとても多い気がします。それでは理不尽な差別や偏見は一向に減らないのも道理なのですが。

悔しい事も多いでしょうがね。例えば私も本人に許可を得て撮った写真を他の人達から削除しろ、と言われて、最初「構わない」と再度言っていた相手が、後から「色々と考えるところがあったから、過去のものも遡れる範囲でいいから消してくれ」と言われたり。そんなの、当人に頼まれたら消しますけどね、裏で圧力をかけたのが分かり切っているじゃないですか。
あれは胸が抉られるくらいに悔しかったなあ。何日間も、夜も眠れなくなるほど他人から集団で絡まれて筋を通すために粘っていたのに、そんな卑怯な手を使われたら、こっちが何も表立って反論出来ないまま、「あいつはトラブルメイカーだ」なんて形になって、不愉快な反響が後々まで続く。でも、そうと分かっていても、一回一回「待ってくれ、実はこういう話なんだ」なんて言う訳にも行きませんから強力な重圧です。

もっと露骨にデマを吹聴する人間もいますしね。
でも、びっくりするのは、そういう行為を結構評判のいい人物がしている、という現実に度々遭遇する事です。評判がいいからこそ、そういう思い切った事も出来るし、自分のメンツを守るのに必死だからデマでも言ってしまう、という話なのかも知れませんね。

だから、楽にやりたければ目立っちゃいけない。昔から左翼やリベラル派と日本で呼ばれている人達の世界は、集団主義の恫喝集団みたいな負の側面があるようです。
特殊なクレイマーだけの話ではなくて、大きな組織や運動体ほどそういう事が増えがちなんです、日本の市民運動の傾向として。
自分が「これではいけない」「こういう願いを叶えたい」と純粋な動機で関わったのに、そんな事ばかりで疲弊していたら願いや希望以前のところで空回りする訳ですから、馬鹿馬鹿しくなって消えていく人が多いのも無理ないんです。実際、そういう風になったら意味が薄れていきますからね。

また、その中で上手く立ち回って行こうとポジション確保に囚われていく人も多い。政治の世界が汚い、と言うのも、目の前にある現実なりに生き残っていけるように妥協や権謀術数を重ねるからでしょう。

そういう事にほとんど遭遇しない人もいます。
でも、私が見てきた限りでは、自分自身の判断で行動したり、意見をはっきり言う人ほど、かなり明白にそういう酷い目に始終遭っています。
何が違うのでしょうね?
みんな、自分のところのイエスマンを欲しているのですよ。余計な事を言わないで、裏方を黙々としてくれるか、自分達の活動をひたすら礼賛してくれる人だけが欲しい。活動が大きくなるほど、その傾向が集団の中で高まっていく。

日本人は元々、違う意見を言う相手ともゆるくまとまっていく、という事が苦手なんです。違う宗教や民族の人達と、同じ生活空間で日常的に暮らしている、という環境が薄かったからこそ、意見や価値観の異なる人達と互いの多様性を認め合ってマネージしていくという行為が上手く出来ない。
むしろ阿吽の呼吸とか忖度、「だよね」の精神で、みんなで空気を乱さないようにしていくのが社会と人間としての美徳だと思い込んでいる。

だから、実際、日本人が他文化の環境へ行くと酷く自信なさげにオドオドして、よく分からない相手と話し合っていくよりも、ニコニコと愛想笑いを絶やさす礼儀正しい日本人を演じて好かれようとする。
これで騙されて「日本人は素晴らしい理想の国民だ!」とある意味憧れて、日本に来てから「外で会った時の日本人はあんなにいい人ばかりだったのに、日本にいる日本人は全然違う。どうしてなんだ!」と言う外国人にいったい何人出会ったんだか。

でも、その集団毎の、事業的な部分に賛同してくれる人ばかりを求めがちになると、総体的な部分では多様性を認め合った寛容な共生社会に近付いて行きません。
そうした非民主主義的な性質が改まらないと、いつでも経っても同じ事を繰り返すのだろう、と私なんかは思っていますよ。
どちらを多くの人が望むか次第なのですが、集団の忖度で和やかな世界が実現出来るか、と言ったら、実際には権力を手にした人達の腐敗をまるで止めていけないので、社会の大部分の人達がますます横暴に耐え殺伐としていくばかりなのは間違いない気がします。
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# by catalyticmonk | 2017-05-09 00:07 | 希望社会 | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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