信頼と願い

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よく心理学の通説として、虐待家庭で育った児童は自己を愛せない、自己評価が低いとか言われている。
私はまさに虐待家庭育ちだ。でも、自分大好きだし、自己評価も低くなんかないぞ、ってずっと思ってきた。
「何が何でも生き延びてやる」みたいなガッツと言うか執念も凄いし、それ故に悲しい・辛いという気持ちは人並みに感じても必ず生き延びるのが前提になっているから、鬱で生きる意欲をなくすなんて状態とも無縁だったしね。

e0296801_23511446.jpgしかし、ふと思い当たった。親に愛されていないから、どうしても自分が人から受け入れられたり、好まれる人間だと無条件に感じれない。この感覚の事か?

理屈抜きに植え付けられた感覚だから、「信じる事です」「受け入れなさい」とか言われる方が困る。
これを自己評価が低いなんて言われても、別に自分の意思や努力で変われる次元の事柄じゃないから、そんな上から目線で憐れむように語られると「あんたらにこの感覚が分かるのかよ?」ってカチンとくるもんね。根性が腐っている的な解釈で来る相手なんて何様だよ、と思う。

理屈抜きに自分を認めて愛してくれる存在感というのが出発点でないから、その分、自分が自分の応援団なだけなんだけどな。
別にそういう自分の自然状態を儚んだり、嘆く気もなくて、きちんと自分で穴埋めして解決しようとしているんだから、違うからって貶すようなことを言われたくないだけだし、こちらの尊厳を軽んじる相手と戦う闘志はいつでも持っているよ。

だから、単純に「自己を愛せない」ではなくて、「他者に愛される存在として無意識に自分のことを信じている」という感覚がないんだろうな。

それと、これは私個人の捉え方で、他人に押し付ける気はないんだけど、「信じる」というのは相手に無意識に見返りを求める気持ちも含んでいると思うんだよね。
相手が自分の期待に沿うような善人だったり、信頼関係を守ってくれる相手かは、「そうである事もあれば、ない事もある」絶えず揺らいでいてどちらでもないもの、として捉えている。

「これはあなたへの愛だ」とか「信じているんだ」などと宣言した時点で、少なからず相手に何かを押し付けている感じがするんだよ。虐待を受けた者として他者の「支配」みたいな空気に敏感なんで、特にそこに引っ掛かるというのもあるんだろうけど。
だから、そういう甘っちょろい感じにまぶした演出が私個人は不誠実なやり方に感じてしまうから、それぞれの「願い」があるだけだ、と思っている。

相手がどう反応するかは、神でない我々人間同士の間に確かな保証はどこにもない。
だけれど、例えば自分も経験したような辛い思いを相手にしてもらいたくない、とか、そういう「願い」は確かにある訳だよ。
その「願い」と「願い」がぶつかって人は争うのだけれど、人間の生み出す素晴らしい何かも、その「願い」の中身に掛かっている気がする。
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# by catalyticmonk | 2017-12-09 23:59 | 忘れ物 | Comments(0)

平穏とドラマ

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舞台人は各会館の搬入口に始まりと終わりの郷愁だか叙情を感じるらしい。
旅が始まり、旅が終わる、みたいな感覚に似ているのかね。ドラマを感じるからね、ああいう瞬間て。店を始めて店を畳む時とか。選挙も手術も、そういうドラマがあるな。
生きている中で、そういうドラマを感じる瞬間て、どれだけあるのかね。

e0296801_02160260.jpgあまり抑揚のない生き方でも人の痛みの分からない浅ましい人間になりそうだし、ハラハラするドラマの連続でもさ、ほのぼのした温もりの少ない人生になり兼ねない。
まあ、ドラマティックに人のパッションを煽るのは絶妙でも人でなし、ってタイプもいるしな(笑)。


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# by catalyticmonk | 2017-12-07 01:14 | 忘れ物 | Comments(0)

持たざる者の誇り

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辛い時や悲しい時に、心の中で呟くだけでもいいから「お母さん、苦しいよ」と言える存在が居たらどれだけ救われるだろう。
甘えられる母を子供の頃に持っていた人は、目に見えない財産を一生持っているのだと思う。
だが、それを生まれつき持たなかった者にも別の誇りと尊厳がある。だから、私はどんなに辛い時でも誰かにひれ伏そうと考えた事がない。
世にある権威やステイタスなんてものが大嫌いだし、支配されるのも受け付けない。
私が素直に敬えるものは人智を超えた存在だけだ。

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# by catalyticmonk | 2017-12-07 00:39 | 忘れ物 | Comments(0)

がん治療への偏見と問題:放置療法の危険

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「抗がん剤は効かないからやめた方がいい」「今すぐやめなさい」なんて、相手がどこの部位のがんで、どんな症状の、どの段階か、どの薬の種類を使用しているかも確認しないうちから断定的に言う人が結構います。

これは完全な間違いです。少なくとも、そんな大雑把に何かを決めつけられるものではない。治る可能性があるものまで手遅れにしてしまう可能性もあるので、大変罪深い態度です。絶対にやらないでください。
がん宣告を受けると患者は、患者だけでなく周りの家族も心配して、とても不安な気持ちになっています。そういう状態にある人にそういう事を中途半端に入れ知恵すると、よく吟味・調査しないうちに、素人考えで信じてしまう事があります。

私の実体験なのです。
私ががん告知を受けた時も、当時の妻が手術直前になって、近藤誠という慶応大学病院の医師で、放置療法を推奨する人の外来専門クリニックを見つけて私を連れて行き、近藤医師に慈恵医大病院で撮ったCT検査のデータだけ見られて、「あなたは治療しなくても大丈夫」と根拠もなく断定されました。
e0296801_12461425.jpg「おかしいなあ」とは思ったのですが、「ほとんどのがんはがんもどき。早期発見などで慌てて切るとロクなことはない。生活に支障なく元気ならば様子を見る、放置する、余命3カ月と言われた患者さんも、無駄な治療をせず放置して、何年も長生きしたケースを見てきた」なんて著書通りの言い分だったと思います。

高名な医師の方がそこまで断言するのだから、手術はやはり嫌だし、「QOL(生活の質)が下がらない限り、様子見していればいい。がんもどきかも知れない」なんて専門家らしい事も言うので、それで済むなら様子を見るか、と考えました。
診察室まで同伴した当時の妻も「もう、あなたはがんでは死なないだって!」と嬉々として言うし、その直後に既に新しい男がいたらしかった彼女と(本人が離婚後に告白)離婚して、あまりに立て続きに起きたのでさらに詳しく調べる気力もなくなって、そのまま数年間を近所の病院に行く以外は放置する状況が続きました。
全部私自身の馬鹿さ加減なのです。結果、重症化して、がん治療について自分で再度学び直す事となりました。

現在の主治医が言うには、「そんな細胞診で悪性腫瘍と診断も出ていたのに放置していていい訳がない。責任ある医者がそんな事を患者に言うなんて犯罪行為に等しい。牢屋にぶち込むべきくらいな話だ!」とカンカンで、告知後1年以内くらいで手術していればこんな大事にならなかった、と言う訳です。

変な話ですが、同時期に同じ医師の同じクリニックに女優の川島なおみさんも来られていたようで、彼女が近藤医師のいい加減な診察の影響で治療が手遅れになり、2015年9月末に54歳の若さで胆管がんで亡くなったのは有名な話です。
そして、私の病状が悪化してきたのはまさにその頃で、翌年から本格闘病に入ることになります。
ゾッとする話でしょう。でも、これは私が現実に体験した話なんです。

e0296801_12501340.jpgがん治療は、未だ現代医療が未解決で手探りな最先端の分野であり、そのために専門家の間でも病気の診断や治療法の見解が様々に異なっています。
そうした判然としない不確定な中で、適切でない抗がん剤投与や切除手術が行われて、無駄に縮命してしまう事は現実にあって、そこに病院や医師によっては研究材料として使ったとか製薬会社の功利主義とか様々な問題が入り込んでいて、正規の治療法に疑問が持たれ、逆に根拠の怪しい民間療法が法外な治療費を取って儲ける、という混乱が助長されているのです。

私の現在の主治医は日本の医学界でとても高い地位の人物です。がん治療の専門機関は大規模な施設が必要となるために国公立の病院主体であり、国公立の病院は人材の行き来や交流、横のつながりがあるため、公然と他の病院やその関係者の批判をし辛い、という現実があります。
だから、こういう医療告発的な事柄を書いている私は、今の病院には感謝しているし信頼をしていても、名前は明かせません。
ですが、その私の主治医ですら、こう述べていました。
「近藤誠医師の言っていることも6割くらいは本当なんだよ。
だけど、人の生き死にを分ける重要な事柄まで、自分の専門分野でもないことまでいい加減な事を言って脚光を浴びているから、問題なんだよ」と。

例えば、固形がんのある人が、ビタミン注射や玄米食の食事療法を取り入れたって、それで免疫力や解毒作用が上がって進行を遅らせる事は出来るかも知れませんが、それで元の腫瘍を放置しておいたら成長して手遅れにもなり兼ねません。
もしかしたら、そうしたものの効果で消えたり小さくなるケースもゼロではないでしょうが、やはり他に手が残されていない場合や、受けているメインの治療の補助として考えるべきだと思います。

e0296801_12415348.jpg私も、切除手術も抗がん剤治療もとても苦しかったので、やらないで済むならやりたくない気持ちは分かります。しかし、最初に長らく放置して事態を悪化させてしまった経緯もあるので、後は辛い・痛いも全部覚悟して治療に臨み、現在がん腫瘍は消えました。
ですが、がんは肉眼で確認出来ないミクロレベルで隠れている事もあるので、それで転移したり再発もするのですから、本当に消えたかどうかは、長い時間をかけて経過観察した上でしか精度の高い結論は出せません。
だから、がんには「治癒」はなく「寛解」という多分治っているだろうという可能性を表す尺度しかないのです。

それでも、ここまでで4年半、がん闘病は私の人生をすっかり激変させました。その中で気付いた事、感じている重要度の高いと思われる実体験からの印象は大きいので、こうして文章にしてみた次第です。
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# by catalyticmonk | 2017-12-06 00:35 | 医療問題 | Comments(0)

副交感神経の刺激と排泄の関係性

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病気の治療法や見解は、私も専門家ではないし、当事者個人個人に選択の権利があるものだと思っています。
なので、思う事があっても、どこまで自分自身の個人的な考えや体験を言っていいか迷うところがあります。

e0296801_12251220.jpgまた、私自身の経験から、いろんな人に厚意で勧められた治療法が、それぞれ方向性や見解が矛盾していたり、実際に結果としてやらなくて良かった、と思うものも多いものですから、そういう責任もあるし、下手をすると親切心が相手を精神的にも肉体的な病気の治療の上でも困らせてしまう事が多々ある、と実感しています。
ですから、私の経験が参考になるかどうかは、読む方々の自由にしてください。私自身にも、どこまで同じ話かなんて簡単に判別出来ないからです。

最近、他の知り合いの方にも症状を訴えている人がいて気になったのは、歩いているとすぐにトイレに行きたくなるのに、行くとなかなか出なかったり、少量だったりする現象。これ、私もあって、長い間、非常に生活に困らされました。
私の場合は、ですが、副交感神経の刺激に原因があったようです。

e0296801_12250446.jpg病気として尿路上皮がんで膀胱や前立腺などに腫瘍が出来て、それが不純物が通る経路を妨げて結石化して、激痛に悶絶する、というのもありましたし、手術すると、今度は内臓の中で切れていて、出血したりする訳です。
膀胱や腸などの臓器は、感覚が原始的で、そこで感じている刺激が排尿や排便を催している刺激なのか、痛みなのか、脳がはっきり判別出来ないそうです。なので、脳に信号が送られた時に、その刺激でトイレに行きたくなってしまう。

錯覚なら我慢すればいいじゃないか、と思うかも知れませんが、実際、冷や汗が出て震えるくらいに苦しいのです。普通に動けなくなるのは一緒です。それで血管迷走神経反射性失神という症状で意識を失い倒れた事もあります。
だから鎮痛剤などでそれを抑えたりもするのですが、そうすると頭は回らなくて駅の改札で切符を取り忘れるようなレベルで、用事があって出掛けている時にはお話になりません。
夜、眠る時に睡眠薬などを飲んで寝てしまうのも漏らしてしまう可能性があります。なので、短時間毎の断続的な睡眠を取る、という生活を1年以上も続けていました。当然、いつも疲労困憊です。

副交感神経の障害自体は今も多少残っていて、胃腸は健康なので食欲はあるのですが、時折腹痛に悩まされます。
しかし、臓器の中に腫瘍もなく、投薬もやめて薬が抜けてきているので、総体的にはトイレにすぐ行きたくなる病は穏やかになりました。
他に同じ症状の人がいたとしたら、それはまだ気付かない排便や排尿に関する臓器の障害の可能性を疑って病院で検査した方がいいのではないか、と私は自分の体験上、気にはなる、という話です。
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# by catalyticmonk | 2017-12-06 00:11 | 医療問題 | Comments(0)

異端者の風貌

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昔、元赤坂のナンバーワンホストだった男性と仲良くなった事がある。彼は傷害罪だの詐欺罪だので逮捕歴が多かった。だけれど、親しくなると全く真面目な悪どいところのない性格で、どうしてそんな人生だったのだろう、と不思議だった。
ただ、互いに似た者同士な何かの空気を感じていた。
彼は私より年上だったが、30代になってもパッと見ると10代の少年のように見えた。

聞くと、それで幼い頃からなめられて馬鹿にされ、喧嘩ばかりしていて不良少年となり、少年院にも行き、流れ者のような人生の中でホストやキャバクラのマネージャーをするようになったのだと言う。
「こんな、なめられやすい顔に生まれなかったら、また全然違う人生だったろうけどねえ」
そうやって呟いた彼の言葉を忘れられない。

e0296801_11385565.jpeg私は昔から自己愛は強いナルシストであったが、地味に目立たないようにいたいという願いも半分では持っている。目立つと、赤の他人が勝手に自分の世界を乱しに来るからだ。
先日も電車から降りる時に扉のそばにいた若い女性に通り掛けざまに「ワッ、キモい」と吐き捨てるように言われた。思い違いではない。私には頻繁にそういう事があるのだ。
繁華街で見知らぬ若造に絡まれる、なんて事も未だにあって、その話をSNSに書いたところ、ある人に「今時、繁華街で絡まれるなんてあるの?」と言われた。別に相手に罪はないので腹は立たなかったが、「普通の人はそんな事が滅多にないのか」と私の方が改めて軽い寂しさ混じりのショックを覚えた。

そんな髪の長い目立つ風貌をしているからじゃないのか、と言われる事もある。ところが、私が髪を短くしてスーツ姿なんかだったりすると、何故かもっと絡まれたり不愉快な出来事に遭遇する。これも本当だ。
だから、どうせなら自分のしたい姿格好でいよう、と反骨精神混じりに感じて、今のようなスタイルになった。

だいたい、人を見掛けだけで、知りもしない赤の他人に向かって「キモい」とはなんだ。
いやいや、そんな事を気にしていても始まらないよ、と簡単に言う人は、大概あまりそういう目に遭っていない。長年観察してきて確信しているんだが、そういう人こそ、私がしょっちゅう経験している事柄の十分の一くらいの話でカンカンになって怒り出したりする。
そして、その一個二個の出来事をいろんな話に使っていたりするので、彼の崇高な精神論が如何に経験に基づかない頭の中の思考実験であり、自己満足に過ぎないものを他人に押し付けている傲慢さだったか痛感する事となる。

あなたやあなたや、そして私自身の話を言っているんですよ!
人間はかくも愚かな存在、という深い謙虚な目線は、ソクラテスが「無知の知」を言った大昔から肝に命ずるべき真理だと思う。

で、いきなりポーズだけの謙虚さなんて無意味だという反骨精神で本当の話をすると、私は若い頃は美少年というのが定評だった。見掛けだけで親切と言うか好意的に接してくれる人達が一定数いた。
その反面で、やっぱり当時から風貌で小馬鹿にされたり侮辱される事が多かったし、もっと言うと子供時代は随分いじめられていたから、少林寺拳法や肉体労働で体を鍛えて、喧嘩して負けないようになろう、と必死だった。先述の元ホストの男性と、キャバクラや水商売関係には一切興味のない私が何故意気投合したか、ここまで話せばなんとなく想像してもらえるのではないだろうか。
彼はアウトローになったが、私はたまたま高校を出て放浪の旅に出るという脱社会化をして、犯罪社会に行かなかっただけだ。

つまり、それらの事実を総合して考えると、やはり私は気持ち悪くなんてないのだと思う。
恐らくは、異形のオーラを放っていて、勝手に目立つので、その「えっ」というような違和感が、見知らぬ相手に警戒心を抱かせ何かしらの敵意や嘲笑といった反応を喚起したり、その逆に個性的で興味や好感を持たれる対象になったり、揺れ動いてチグハグな反応を招くのだろう。

なんか、その人のキャラクターごとに呼び寄せやすい災難というのもあるみたいなんだけどね。
北九州市出身でロンドン帰りの、テキヤ時代に自分の相棒でもあった女の子なんて、道端を歩いていていきなり見知らぬ男に殴りかかられる事が何度もあった、と言っていて、本人も不思議がっていた。
あと、私が京都から広域暴力団を抜けて逃げてきた児童養護施設育ちの元ヤクザを匿っていた時も、彼と歩いていると、実際に彼は因縁なんて全くつけていないのに、普段私が遭遇しないような暴力的なトラブルが近付いてきて、世の中こういう何かが本当にあるんだな、と思った。

私には刺青は入っていないのだけれど、ヘナタトゥーという二週間くらいで自然に消えるインドの伝統的なタトゥーがあって、それのモデルを頼まれて何度か腕などに描いてもらった時があって、その時も電車などに乗ると隣にいつもは全く遭遇しないようなヤクザ者が近寄ってくる訳だ。
つまり、悪霊とか祟りとかいった次元の話でもなく、現実的な何かしらほんのちょっとの要素で大きく変わる部分が本当にある、ということなのだろう。世の中、面白いものだな、と痛感した。

それでもやっぱり何もしていない女性を襲う暴漢のおっさんや、道端を歩いているだけで絡んでくるチンピラに、ただ歩いている人間の方がそんなオーラを発しているから落ち度があった、とは言えないし、言ってはいけないと思う。
いじめられっ子は、一生いじめられっ子のままなんだ、と私に言った奴がいるが、いじめられる人間が悪い、いじめは人間社会からなくせないんだ、と言ってもいけない。いじめや、暴漢や、通り魔の痴漢や殺人鬼は、やっぱりどうにかして好き勝手出来ないようにしなきゃならない。

それは、みんなが見て見ぬふりをしない事だし、社会が弱い者や変わった人々をつまはじきにして追い詰めない、助け合いと寛容の両方の精神が文化・教育・社会制度の各面から補強されていく必要がある、という事だ。そうしていかなければ、私達自身が困っていく事なんだと思う。

国のトップにある政治家や官僚からして、悪いことでも集団で行えばチャラになっちゃうような世の中だ、と日本全体に大公報してしまっているからね。ましてや、大手のマスコミ、新聞・雑誌、芸能タレントまでそういう風潮を後押しするようなもっともらしい容認発言や応援メッセージ、黙認や太鼓持ちを現にしている。
そうした事でも社会全体の風潮って変わってきてしまう。

人を見た目で判断し、尚且つ異質なものは排除しよう、という了見の狭さが改まるのは、人間社会の人権意識が高まって、個人の尊厳や他者の多様性を許容出来る成熟した文化が育つ、遥か未来の事なんだろう。
だけれど、それを夢見て目指さなければ、近付いていく事もないのだろうとも思っている。
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# by catalyticmonk | 2017-11-28 00:28 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

野次馬狂想曲

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SNSでの政治的発言の投稿量が多くて精力的だったり、国会前や都心部での活動もバンバンして目立つ活動家、何かの運動体の主催者や司会者は、半分、タレントか公人扱い。

日本人はそういう相手にはテレビ番組のワイドショーでゴシップのネタにされる有名人と同じ扱いでいいような錯覚を抱きがち。だから、そこでぐしゃぐしゃになりやすい。

それからして橋下徹が持て囃されたみたく行き過ぎたポピュリズムのおかしな部分なのだけれど、前の選挙で菅直人元首相の街頭演説会を撮影した時も、通りすがりの人の罵倒が共産党やその他の野党や無所属候補でも聞いた事もないようなレベルで、びっくりした。しかも、野次る内容のレベルが低い。

つまり、有名人だと見なされるほど、普段政治に関心が薄い人までつい何かを言いたくなっちゃうみたいなんだ。
特に不特定多数の大衆を相手にやり取りするSNSなんて、知名度が上がれば上がるほど厄介になるし、実際の街頭での市民活動や選挙運動でもそうした事は増える一方だと思う。

少しブログで政治と言うより社会論的な記事を書いて、たまに都心部のデモや集会に参加して選挙運動に関わった程度の自分でさえ、なんだか分からない馬鹿みたいな感じの人に時折つきまとわれるようになって、そんな人とやり取りして気力を使うのがバカバカしいものだから、病気の治療を境にどんどん大きな運動から距離を置くようになった。
こっちがどんな余裕のない状態でも、そういう運動や政治的なつながりで知り合ってしまった相手はお構い無しで来るものだから、自分からシャットアウトせざるを得なくなる。本当に酷かったよ。

そのバカバカしさにも大きく分けて二種類あって、見識の浅い人が野次っていくような種類のものもあれば、逆に妙に古い左翼の人みたいにエキセントリックで小難しい主義主張を押し付けてくるものもある。で、それでドタバタと揉めている場所に行って巻き込まれると、今度は自分自身がそのどちらか側の存在のようにもっともらしく批判されたり、という堂々巡りで、本当に泥沼なんだよね。

なんか、どこか変な距離感で近寄ってくる相手に目をつけられて、手術当日まで煩わされるなんてのもあったし、世の中狭いから入院先の病院にも伝があるから、って干渉されそうになったり、身の危険を感じた。
あそこまで行くと、ある種究極だよ。だって、こっちは命がけな最中にまでそんな事がついてくるんだもん。

だから、何かしらの社会的な活動を長くやってある程度表舞台に立つ人だと、福島瑞穂さんみたいに、気さくながらもざっと他人と一線引くポーカーフェイスぶりが強くならざるを得ないんだろうね。そこは日本の民度が変わる事があっても時間のかかる話な気がする。
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# by catalyticmonk | 2017-11-27 23:03 | メディアリテラシー | Comments(0)

デートドラッグ

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もう、卑劣としか言いようがない。
だけれど、こうした事件は、日本社会ではそこかしこに満ち溢れているのだ、という確信が私にはあります。「日本でも5%のレイプ事件も報告されないほどスティグマとタブーというのはとても強い」と言う詩織さんの言葉は真摯に受け止めるべきテーマです。

NHKあさイチの性暴力特集のNHKネットクラブアンケートによると「『性行為の合意があった』と思われても仕方がないと思うもの(複数回答)」を回答者に選ばせたところ、「二人きりで飲酒」がそれに該当するという回答が27%に対して、「泥酔している」が該当するという回答が35%にものぼったという結果が紹介されたそうです。
35%もの日本人男性が、相手が「泥酔している」最も意思表示できない状況を「合意」だと思っている、というデータが出ている訳です。私は気軽に女性と飲みに行ったりもする人間なので、こういう話を聞くと相手に警戒されても仕方ない事を簡単にしているのだな、と冷や汗が出てきます。

私個人は、恋愛は「慕う心」が互いを幸福にするのでする、不倫は結婚生活にそれが欠乏すると避けがたくなる、という視点で、競い合ったり刺激を求めたり、というのはもっとその劣化バージョンのようなもの、と捉えています。
それはさておき、取り敢えず女性は騙して陥れればいいとは全く考えない価値観です。

ところが、私の知るところでは、日本人男性は大勢で集まった時の通念を聞く限り、本当に泥酔した女性は襲っていい、と普通に深く考えないで思っている人が相当な割合で存在する様子で、個々人がそれをするだけの行動力があるかどうかは別として、それが悪いと捉えているなら絶対に出来ない告白と言うか自慢をよくします。上述のアンケート結果は、まず間違いなく現実の日本人男性意識の実態を正確に反映していると思われます。

最近は男性同士で飲みに行く機会も少ないし、年齢的にもあまり聞かなくなりましたが、若い頃に酒の席で聞いた自慢は話半分で聞くにしても犯罪そのものな内容のオンパレードでした。

江東区かどこだかの先にボートで渡る島があって、釣り客が行くのだけれど、たまに最終ボートの時刻に間に合わず帰れなくなった小学校高学年くらいの女の子がいて、無防備だからテントに連れ込んで助けてしてやる風にして襲ったとか、下北沢近くに住んでいた頃に劇団が多くて、その関係者から聞いた話も最低で。
まさに詩織さんと同じ話で、デートドラッグ使って同僚の劇団員女優を眠らせた後、集団で強姦し、それを撮影するのが「趣味だ」と平然と語られた時の衝撃と言ったら、20年経っても忘れられません。

ですから、残念ながら自分はとんでもない人権後進国にいる、というのが、私の若い頃から揺るがない認識なのです。
それを前提にしていないと、女性だけでなく、自分の家族や親しい立場の人間を守る上でも非常に危ういと感じてもいます。

品の悪いとされる男性は、実は女性の前でも本音を漏らすうっかり者である故に目立つだけであって、教養や社会的地位のある男性でも、機会があって会話していると、そこでそんなに内実の開きがあるのだろうか、と疑いたくなる時があります。
とことん善良で真面目な男性も大勢いますがね。ですが、そういう男性は何故か知っている世界が狭い傾向にあって、良識のボトムラインとして彼らの語る男性社会の常識は、あまり当てにならない面があります。
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# by catalyticmonk | 2017-10-25 16:20 | 人権 | Comments(0)

意識高い系の人々

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ある政治家の人は、自分が在日朝鮮人であるかのように石原慎太郎に吹聴されて事実と異なる、名誉毀損だ、と怒った。当然だと思うのだが、そう言ったら在日朝鮮人のタレントから「お前と私は別だ、と差別されたように感じた」と批判されてしまった。
いや、そういう次元とはまた違うんだ、とこの手の問題に対してよく思う。

「お前の母ちゃん、でーべーそ」と言われたら、社会慣習的な常識判断として相手が自分を嘲笑したくて悪意をもってそう言っているのは分かる。それに対して抵抗・反撃しなければ、自身の尊厳と安心が脅かされるのに、「それに対して怒るのは、世にいる出べその人達を軽んじ、侮辱しているのに等しい。自己総括せよ!」なんて言われたらやっていられない。
なんで、自分で自分や自分の仲間を守る行為を我慢せよ、と赤の他人から強要されなければならないのか。

そういう感じで、社会正義を唱えながら、実は他人の人権への越権行為をしている、というパターンが多いのが日本の市民運動や左翼、意識高い系の人々。個人主義が社会的に根付いていなくて、集団圧力が強い事情が背景にある。
ところがそれは社会全般に見られる現象なので、例えば「震災ポルノ」とインターネット検索して、ネトウヨと言う事もなく世間に流布する広い言説に触れてみると、その弱い者いじめの加虐的な発想・視点のもっともらしい正当化のオンパレードに、半ば日本人をやめたくなる。

意識高い系の人々の、おおらかさを欠いた独善的で押し付けがましい論調は、この社会のあまりにも殺伐とした強者の論理と非人道性に比例した憤慨の激しさでもあるし、この社会のねじれをそのまま反映してもいる。それらの緊張を内に抱え込んだミックスに他ならない。

だから、私自身は個人の自由と尊厳を重んじるリベラリストなので、この国の意識高い系の人々を、アジア的な封建秩序の燃えカスの中で呼吸する発育不全集団だと捉えているが、同時に社会の苛烈な非人道性を抑止する目的上、現状では必要悪的な存在なのだろう、と達観してもいる。
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# by catalyticmonk | 2017-10-24 23:51 | 人権 | Comments(0)

慕い合う心

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子供でも動物でも、慕ってくれるから心の滋養や薬になるんだよな。
恋愛でもそうだけど、結婚して子育てとか惰性や社会的義務になってくると相手を慕わなくなるから愛が冷めるんだよ。義務や責任が実は愛情を奪うというね。
仲のいい家族は相手に素直な感謝の気持ちがあるな。

不倫しちゃう人達もさ、単に性欲とかいう場合もあるんだろうけど、その慕ってもらえる気持ちをまた味わいたいから、ついしちゃう、というのがあるんだと思う。
だけど、結婚して子供がいたり、一緒に暮らしていて家のローンとか社会的な体裁があると、じゃあ、簡単にそういった生活を全部清算してから始める、なんて難しいじゃない?
だから、不倫て起きちゃうんだよね。

冷めた惰性の家族の絆でも、やはりそこには互いの長年共有してきた思い出や共通の知人、信頼関係なんかがあるから、それを裏切られたら自分の家族も含めて傷付く人も多い訳で、褒められたものでもないんだけどね。
でも、大切に愛されている、という実感がない寂しい人からしたら、誰かに慕われ必要とされたい、という衝動に駆られる事自体は自然な話だし、そこが混線しないで済むかどうかでまた人の一生って大きく変わってくるよね。

慕い合いが信頼関係の基礎にあるという視点からしたら、古い家父長制度みたいに、「俺が食わしてやってんだぞお!」みたいに威張り散らすオヤジは最悪だよね。
確かにそこに経済的・社会制度的な一定の庇護は生まれているのだけれど、お互いを喜ばせ労り合うような感情は育まれないから、そういう家庭で育つと打算で人を利己的に振り回したり操っても構わない、という姿勢につながりがち。
満たされた幸福感が薄くてアルコール中毒や薬物中毒、性的放埒とか色々なものの依存症になりやすくなったり、メランコリックになったり、と、世にある不幸や災いの源になる。

だから逆に、気さくだったり人懐っこい人は好かれるんだよ。その、慕い合いという幸福の源を周囲に振り撒いているから。
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# by catalyticmonk | 2017-10-24 00:10 | 忘れ物 | Comments(0)

もののはっきり言えない日本人

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日本人の生きにくい性格は、その場で話を解決させない、感情や考えを言えないことが一番の問題な気がする。
それが、無用な憶測や疑心暗鬼、ストレスを生み、根拠のない軋轢をこの社会の中で増やしている。

協調性の美徳が忖度や付和雷同といった変な方向に進んでいってしまっている風潮や文化・教育なままである点が、やはり大きな問題なのだと思う。

その場で話を解決させない、感情や考えを言えないから、そういった事を、別の場で盛り上げ同調させて、話を大きくしたり、ただの勘違いや愚痴みたいな話が社会問題になってしまったりする。
「小学生の女子みたいに、トイレに行くのも誰かと一緒で、一人で物事を考えないまま、行動しないまま大人になっているような社会だ」と私に言った友人女性もいる。

みんな、それで空回りしたり徒労感を味わって、自殺率も高かったりするストレス社会で変だなとは感じているのだろう。
だけれど、なんかいつまでたっても島国、井の中の蛙のような考え方が続いているのが不思議だ。一つの話題だけで盛り上げようとする情報番組の質の低さも、それを普通だと思っちゃう大人も。

イジメがなくならないのも、そんな狭い考え方で大人が子供にちゃんと注意出来なかったりするからなのではないのか。

ちょっと社会全体の閉塞感が凄くて、インド、特に市民社会の公平化も進んでいる3400万人が住んでいる南インドの自治州ケーララなんかが好きで、緩やかな共生社会みたいなのが理想像の自分からすると、おかしな方向に進んでいるな、と日本人は損をしている気がして、逆に可哀想だなって思ってしまう。
もっと自分のやりたいように、周囲を気にしないで生きれたら楽なのに。
なんか日本人や日本の文化って、もっとその辺を自身で掘り下げて整理して、行動や思考様式を根本からアナライズした方がいいと思う。

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「人権問題」や「公共社会の公平性」に敏感なはずの人々も、大半は日本的な錯覚の内側に飲まれている。
自分の価値基準や好みと違うもの全てを否定的に捉えて正当化する変な風潮が異常発達している印象を受ける。

例えば最近の流行りの言葉に「マウンティング」というのがあって、男性が女性に自慢話や押しつけがましい教える行為をしたがる、というものだ。
そういうのは、男性優位の傾向が顕著で人権後進社会の日本ではたくさんあったと思うし、公平でないものは平等にしたいし、失礼なものは失礼と言い、また互いの意識差を話し合って解決していかなければならない。

でも、そういうのでも、何かおかしな方向に話が進んでいく。
ある種の流行りの見方になった途端、拡大解釈でなんでもかんでも「マウンティング」扱いして、ただ、その人自身が内気だったり人間不信・男性不信だったりするのを、そうやって被害妄想的に捉えているだけなんじゃないか、って話が急に激増して。

別にマウンティングに関しては私個人はまだ直接言われた事がないけれど、日常の話題で出されている使われ方を聞いていると、ゾッとするような内容も増えていて。中には「憶測に基づく誤爆」「被害妄想」だったりする場合も多々あるんじゃないか、と。

それはマウンティングじゃなくて、たまたま知っている相手と鉢合わせした時に会話の潤滑油として自分の持ちネタの話題をしただけだったかも知れない。
話題や興味の対象が違って相手の知らない事だったりした場合に、全部自慢だとか、マウンティングだとか悪意に捉えているだけかも知れない。

でも、そのあたりを問い質してみると、「私が」そういうふうに不快に感じた事なら、すべて被害実態がある、「相手がどういうつもりだったか」は人権問題に関係ない、被害実態に対する見識があなたは甘過ぎる、もっと勉強し直しなさい、くらいな事を言うのが日本風の「意識高い系」の人々にありがちな言説で、そこに物凄く歪んだバイアスを私は感じてしまう。

不思議なところは他にも諸々ある。
盗撮が、女性車両が、と言うのはそれだけの危険もあるからだろう。だけれど、普通に道を聞いただけでも女性に身構えられてショックだった、と言っている中年男性の話もよく聞く。
その割に多摩地方の駅だと毎年若い女の子が夏の暑い日にホームでパンツ丸出しで向かいホームでずらっと並んで座り込んでいたり、どこに基準があるの??と、よくなる。

別に男性の側だって「見ず知らずの女性のそんなもの見たくない」若しくは「目のやり場に困るけど、目を逸らさないでいて、たまたま目が合うと騒がれるのは理不尽だ」等々といった様々なパターンの感性、不満もあると思う。

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女性の被害が多かったら、そうやって悪意のない相手にまで世知辛い思いにさせる部分に対して、「仕方ない」で済ませていたら、人権なんて他人に主張する根拠や正当性を失ってしまって、ただの抑圧や脅迫行為になるだけだ。
ばっさり「自分が不快に感じた事なら、すべて被害実態がある、相手がどういうつもりだったか、は人権問題に関係ない」と言って切り捨ててしまうと、また別の差別や偏見が再生産されるのだし、論理的に矛盾している。
気にするべきところでユルくて、明らかに必要ないところで疑心暗鬼に過剰になっている、という現象が、普通の会話なんかの次元でもよくある。

例えばアメリカ人なら、マウンティングや痴漢の問題も、女の子がパンツ丸見えで座っているのも、その場で自分が不快だったり、不愉快だったりしたら、多分、アメリカ人は年齢や性別関係なく声に出して気持ちを伝えられるし、分からないことに対しハッキリさせようとするんじゃないかな、と思う。
そういうのは、実のところ、日本以外、大概の国で当たり前の事だ。アメリカよりは伝統文化の影響もあるヨーロッパでも大概はそうだろうし、ロシア人でもインド人でも韓国人でも中国人でも、大体はそうだった。

いくらお互いに気持ちを察し合う気配りの精神が発達している文化だからと言って、時代はどんどん多様化してきているし、察し合えるのはある程度似た者同士の間だけだから、どうしても自分達と違う者の多様性の排除、主張する力の弱い者への冷遇、といったところに向かってしまう。

私達は人間だ。人間は言葉がなければ分からない。
言っても分かり合えない事もたくさんあるけれど、その違いを冷静に見極めて、事前に無用な軋轢を減らしていくより他ない。
気持ちや考えを相手に直接伝え合える文化の創生が必要とされている。
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# by catalyticmonk | 2017-09-23 05:36 | 意思疎通 | Comments(0)

癒着と平等

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ありきたりな癒着と平等、ってことを改めて整理して言ってみたいんだけどね。ま、そこは現実、結構難しいわけだよ。
貧乏だと餌には弱いし、孤独なら優しい言葉に弱いし。信念を持ったつもりでも子供の学費とか家族の病気とか、目の前の何を優先するかって段になったら搾取される側は何かと脆いよね。

状況にもよるけれど、私は信念のために子供を病死させる親と、子供のいのちのために信念を捨てる親、どっちが立派かさえ決めれない。
特権階級同士の癒着ってのも多いわけだけど、数の上で言えば、財や権力、豊富な人脈、コネなど自身は多くのものを持っていない一般人が、段違いな有利な条件下で生きている人達に飼い慣らされている現実がほとんどでしょう。

労働者の社会で見ても面倒見のいい水道屋の社長が右翼寄りだったら、十分な教育の機会や思想的なことを考える余裕もなく目の前の暮らしだけ追ってきた底辺の人々は、簡単に太鼓持ちになるし、気前のいい親分の受け売りをそのまましがちなもの。
癒着記者たちが生きるか死ぬかの瀬戸際で暮らしているとは別に思わないものの、記者の彼女いたこともあるけど、貧乏だったしね。

人間なんてみんな同じだからね。条件が違うだけ。
貧しくとも互いに支え合って生きている人達もいるけれど、それもそうした環境を必ずしも誰もが自分の意思で100%選べるわけじゃない。

生活保護基準以下の収入で働いてお母さん過労死しちゃった、って家の子に個人的に非行に走らない指導をするより、格差のある分断された社会のあり方をどうにかした方が本質的な解決が早いに決まっているでしょ。労働者だろうが自営業者だろうが、税金払って収入を得ている人間が自殺行為に等しい暮らしをして、その家庭の子がボロボロの服を着ていたら別世界のこと過ぎて理解も出来ず嘲笑っちゃう人達が出てくるような世の中が変わらなかったら、非行なんて減るもんか。
一個や二個の特例を盛んに取り上げて、個人的努力による平等な成功の可能性を喧伝していても、そんなのは本末転倒、構造上の問題なんだよ。

みんなが平等な世の中になればいいんだよ。
努力した人が報われる社会、って言うけど、そんなの一人の人間が十人分の腕力があるわけでも知能があるわけでもなくて、その人がある人の千倍万倍儲けていて、地球の裏側のほとんどの人間が知らない情報に精通していたとしても、それは人間の巨大な社会構造上の恩恵が特定の人々に集中しているから起きる差であって、本質的には個人に帰する才能でもないわけだ。

だから本来なら貧富の差もせいぜい十対一くらいで十分、たまに家族が大勢いて養うのが大変とかいう人で一般の庶民の二十倍の財産を持ってよし、とかね。単純に言えばそんなことだよ。
私は馬鹿だからこんなふうにしか言えないわけだけど、何が本当に大切なのかを繰り返し何度でも分かりやすい言葉で叫んで、力の弱くとも無数の人々が励まし合っていけるよう、声を上げ続けていくことは大切だと思う。

二つの国の中で同じ量の資源や文化的財産があったとして、それを一部の限られたエリートだけがほとんど保持している社会と、みんながある程度公平に支え合いながら暮らしている社会を想定したら、どっちの方が豊かか?

ある一人の人が百億円の資産を持っていても使い切れないんだよ。
みんなが百万円ずつ持っていて、十円で買える小さなお菓子を喜んでいる社会、誰かが病気になったらみんなで助けてあげれるようにちょっとずつ貯金をしておいて、隣近所だけじゃ助けれない時にもなんとか出来る仕組みを社会で作っておいて、競争もないから自分の家の醤油が今日切れたら隣の家から借りれるような、そんな社会を豊かって言うんだと思うな。

安倍首相や大金持ちの財界人・高級官僚の一回の食事分の病院代、真冬の光熱費が払えなくて一家心中したり、病気で働けないのに食費もストーブ代もなくて孤独死したり、そんな人生は嫌だからって若い娘が身を売ったり、底辺の肉体労働だけでは夢も希望もないから犯罪に走る若者がいるような、そんな世界自体を憎んで闘うべきなんだよ。

貧乏も辛いし、差別されるのも辛い、社会から見捨てられるのはもっと辛い。
そんな現実を知ろうともしない連中に騙されてついていってはダメだし、引き摺り下ろさなきゃいけないって、ただそれだけだよね。
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# by catalyticmonk | 2017-09-07 00:12 | 希望社会 | Comments(0)

女は怖い

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女性は結局、男の本心なんて簡単に見透かせちゃったりする場合が多いから、見栄っ張りな男はそれが怖い訳だ。浅慮ながら悟られまいとして動いているつもりだから、うろたえるというかね。
「最近府中の写真や日常の光景を沢山投稿していらっしゃるのには、色々な想いがあ」りますね、ハイ。全部バレている感たっぷりです(笑)。
ありがとうございます。

まー、ぶっちゃけ、夏なんで、みんなが里帰りする故郷があったり、海や山へ、恋人と温泉旅行へ行ったりって写真が毎日大量にSNSで見られてね、羨ましい訳ですよ(笑)。
病身でどこにも行けないし、一人きりでみじめだ、という気分になりたくないから、それを打ち消すべく近所を積極的に満喫、府中は素晴らしいところよ、みんな優しいよ、というのは、本当なんだけど、反面では、自分でそう思いたいから、そういう自身の願いの強さが出会いを作るのかな、と感じる面もあったり。

そこは言っても、わざわざ弱みの部分に注目される分だけ、前向きに頑張っているものが後ろ向きな気持ちに引き戻されちゃったりしかねないし、「なんだ、しみったれてやがんな」なんて言われてもつまらないから、極力黙っているんだけど。

でもモロに見透かされると、正直に白旗上げて認めるしかなくなるんだね。つまらない意地を張っても自分で自分の首を絞めるだけだから。
そこでもまたさらにムキになって、「いや、そんな事は断じてない!」とか意地を張る男性は多いんだけど、あれはかえってみっともないから本当にやめた方がいいね。一般的に男性には少し勇気が要る局面ではある。

でも、自分に可能な範囲で、極力前向きにしていれば、幸福は必ず手に入る、そう信じているね。
そう信じることが幸福を作るのだと思う。
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# by catalyticmonk | 2017-08-21 00:29 | 忘れ物 | Comments(0)

秘訣は変わる

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自分から動かないと、というのはよく分かる一般論だね。
動いて地雷を踏む事もあるから、スタミナや運の問題もあって、健康でないと、もっとこうしたい、と思っているところに及ばなくて焦れったくなる時もあるけどね。

ただ、多くの人は店舗や与えられた自分の持ち場に帰属して、その居場所の中で対処、キャパシティを計る、といった部分も大きい気がする。
私はそういうのが上手くないんで、いつも自分から動く、考えながら動いている時に自分の手の内を不特定多数に絶対明かさない、みたいなのが不器用なりに生きていく秘訣になっていった気がする。

猫もね、最期死ぬ時は消える、とよく言われている。
でも、あれは野生の動物の本能として鷲とかカラスとか、獰猛な人間の子供とか、身が弱っていたら防ぎ切れない対象の衆目の目につかないところに身を隠して、快復するまで安静にしていようとしているだけらしい。
つまり、生きるつもりだから、身を隠す。自分の手の内を悟られないように動く。

でも、元気なら、不測の事態にもある程度対応出来る許容範囲が広がるし、ちょっときつくてもね、頑張るとさらにいい方向に循環する流れにぶち当たる時がある。
だから、人間の対処法、処世術は、健康状態や年齢、自分で選択した環境、社会情勢などでまた折々変わっていく話なんだよね。

でもね、若いうちほど結構短いスパンで、こうやるのが自分のポリシー、とか必要以上に決めちゃいがちだったりする。何かの秘訣を見つけて、自分の経験や能力の不確かさを補おうとするんだな。
ただ、その状況が変わってきて固定観念に縛られ過ぎていて困る場合もあるし、逆に思いもかけない巡り合わせや幸運に救われる事もある。

すべての生きとし生ける者に、幸運があらん事を。
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# by catalyticmonk | 2017-08-21 00:17 | 忘れ物 | Comments(0)

気が遠くなる幸せ

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本当の幸せに触れた瞬間はね、とにかく毎回気が遠くなるものだと思っている。
美味しい料理、魅惑的な自然の光景、荘厳な人々の祈りの姿、愛する人の慈悲深い言葉。色々あるだろうけどね、本物は気が遠くなる。
それさえあれば人間は生の生命力を思い出してやっていけるんだよ。

逆に、そこに触れないなら表面的にグルメとか、地位や富を追求していても意味ないんだよ。
高級ワインを冷房のきいた場所で飲むよりも、砂漠の中で渇いた喉を一杯の水が潤す方が、間違いなく幸福なんだよ。

だから、「贅沢な人」とは、実は単にわがままな人ではない。本当の幸福に触れられていない気の毒な人達だ。多くを手にしながら、飢餓状態なんだ。

ただ、本当に飢えている人々から、自らの葛藤故にさらに搾り取ろうとするから、戦わざるを得なくなる。
万物の母は、それを嘆きながら見守っている。
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# by catalyticmonk | 2017-08-21 00:02 | 忘れ物 | Comments(0)

「神」という呼び方についての私見

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たまに、人から神なんか信じて何になる、みんな病気になるし、世界中の人々は憎み合って戦争し続けているじゃないか、などと言われるんだけど、別に端からそんな次元の話じゃないんだよな。

神を信じている、という事は、一言で言うなら「目に見えない価値を信じている」という事だ。政治的な次元とは一緒に出来ないけれど、各々の心の内面のあり方としては重要になってくる。

それは有難くて愛や感謝の気持ちも含まれた「何か」なんだけれど、形がなくて掴みようがない。
一々議論を挑まれてもね、最初からそんな性質や対象のものですらないんだな。
だから、頭でしか捉えていない人は極力放っておいて欲しい、と感じるよ。

そりゃ、癌とかなったら死にたくない、と思うし、逆に理不尽な事柄が解決されずに山積していたりすると、正直、もうしんどいから楽になりたいと感じる事もある。
だけど、なんだろう、基調は楽観主義者みたいで、本当の絶望というものがない。

でも、ただ図太くて不安を感じない訳でもない。やっぱり世界には、最後のところでは目に見えない、自分の人生の視点からだけでは計れない価値が存在していると信じているんだよね。
それは理屈じゃない。

その根拠となるような体験は時折訪れるけど、他に言葉に形容しようがないから、一先ず人間社会にある「神」という表現を当てはめているだけなんだな。
頭で考えたって始まらない、感じるしかない何かがある。
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# by catalyticmonk | 2017-08-16 00:33 | 忘れ物 | Comments(0)

従順な冷酷

e0296801_08104602.jpg凄い。この社会の根本的欠陥をたった一枚の写真で明示している(出典:https://matome.naver.jp/odai/2150227854541182801/2150262532309655203)。
甲子園の開会式で熱中症で倒れる生徒がいても全員無関心。

情けや自己判断より、与えられた命令に従う事を最優先。自分の役割の外の事柄には傍観視で極力関わりたくない従順で姑息なロボットの大群。
これらの特徴は、広く一般社会に見受けられる現象なので、この高校生達は社会の空気に準じているだけだろう。

◆こうした脈絡の日本社会の通常運行として他にも顕著な点

①みんなで一斉に賛同したり罵倒する機会を待っている。集団で大喜びしたり、憤激したりする熱狂が大好き。と言うか、そういう機会がないとなかなか羽を伸ばせないので、その際に一気に爆発しやすい。
②独自の意見や行動の人へはどう反応していいか迷い、その存在が不安を与えるので目障りに感じがちで、ついついいじめたくなる習性もあり。

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# by catalyticmonk | 2017-08-15 21:09 | 忘れ物 | Comments(2)

アイドル文化について

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府中の商工まつりに「仮面女子」なるアイドル・グループが来ていた。
元来、アイドルに興味のない私も、無料で見られるので、異文化を見るが如く観察した。

見ていると、ショーの最中、全員が汗でびしょ濡れ。衣装も舞台の上の照明も相当な暑さなのだろうか。
飛んだり跳ねたり、動きも可愛い云々以前に私にはとにかく必死さが伝わってきて、大変だなあ、というのが率直な感想だった。

あと、アイドルの振り付けというものが「萌え文化」とでも言うのだろうか、昭和の時代よりさらに気恥ずかしいまでの幼児的演出がパワーアップしているのだな、と感じた。市場として確立されているので、どんどん異形化が進んでいるのだろう。
追っかけファンと思われる大人達の奇声の声援も、そうした文化に縁のない私には正直ぎょっとするものだった。

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別に可愛さと芸をセットにして売る、という発想が生まれるのは分かるけど、それは脚光を浴びる当人達が主体的に作り上げるものではなく、プロダクションがあって、大概は男性が色々アイデアも考えて、それに従って主に若い女性が、その存在を「商品として」売るというね。
やはり極端に商業主義的になりやすいし、本人達が必死でビジュアルや歌、芸に磨きをかけている努力は笑いものにするものでもないと思うけれど、やはりファンとの関係一つ取っても虚飾そのものの世界な訳で、当人達の尊厳の観点からも「操り人形」みたいな立場になる仕組みを文化的に推奨していて好ましいと言えるのだろうか、という疑問も湧く。

1970~1980年代のアイドルは一体なんだったのか、と某社会学者の方が疑問を投げかけられていた。要するに「昭和のアイドル像」みたいな話なのだろう。
ルックスやスタイルなら今の普通の若い女性たちのほうが全然いいし、歌唱力たるやジャイ子のそれを大きく上回るものではなかった、なんであんなものにみんな熱をあげていたのか、と大胆な事を述べらていた。

それはそれであるだろうし、確かにビジュアルや芸達者さで言えば、今時の国内文化は随分洗練されているのだろう。
しかし、ビジュアルや芸達者さよりも、現代の日本のアイドル文化は、文化的により軽薄で、使い捨て的な消費商品の枠組みになった気がする。

結局のところ、英国の社会学者タウンゼントが、準拠集団との関わりの中で論じた概念である「相対的剥奪」そのものだ、という説が議論の中では優勢だった。
人が抱く不満は、その人の置かれる境遇の絶対的な劣悪さによるのではなく、主観的な期待水準と現実的な達成水準との格差による、という。要するに、周り中でレベルが高くとも低くとも、その中で相対的に物事の良し悪しを人は感じ取るという事だ。

逆に、本来的に一過性の幻想的な仮の刺激に過ぎないものに、消費者とアイドルに身を投ずる若者が、多くのものを捧げ過ぎると、幻想である故の歪みを生じさせやすくする、といったところだろうか。
当人もファンも、その一過性の幻想を、ファッションを楽しむが如く自由にエンジョイしつつ、人間的な尊厳を倒錯させないのなら何も問題ないのだろうが。
でも、そういうのは難しそうだな、とは思う。だいたいがアイドルのファンて熱狂的で、すぐに感情的に興奮するじゃないか。


正直、比較的貧しい家庭の子達がアイドル文化に惹かれているような気配も感じている。つまり、AKB48のように集団ウリになって、逆に相対的に「普通の子」っぽい庶民層の子でも手に届く夢のように感じる部分もあるのかな、と。実際は簡単に手にも届かないかも知れないが、親近感は湧くかも知れない。モー娘以降、前より身近になったというか。

でも、それが商業的に食い物にされる搾取構造でもあるし、またアイドルグループは結構安倍政権が大衆文化を味方につける道具にも使われた面がある。貧困な家の子が、逆に安倍政権の応援をするネトウヨになったりするのと同じような類似性も感じるところ。
大衆文化が、権力者にとって利用しやすい搾取構造的な度合いを高めている事と、現在の日本の政治状況はダイレクトにつながっているのだろうと思う。

だから、搾取的な文化構造とか、ネトウヨ予備軍だったり尊厳軽視の気配がある枠組みとかいった色が付いていないで、純粋にこのデザインや色合いが面白い、若者のこの表情やこの動きが絵になっている、という次元でだけ扱えたらいいのに、というのが、私にとっての正直な感覚だ。

日本の中で生活していると街中の巨大広告看板一つ取っても周囲の街の景色をぶち壊すような趣味の悪いものがドカーンと設置されていたりするし、じゃあ、混沌とした世界として俯瞰的に楽しもうとしても、中途半端に洗練されたタレントの笑顔とイタイキャッチコピーにドン引きしたり、変な方向に意識を持っていかれる濃縮された商業的情報装置が溢れ過ぎている社会だ、というむず痒さ・ジレンマがずっとあるね。

それがあるから、私個人は日本の大衆文化に、距離感を感じたままでいる、というのがあって、ずっと文化的な孤立感を感じてはいる。
なので逆に、国のトップも賞賛しているももクロとか、社会的・商業的にみんなが絶賛する既存の媒体に同調して盛り上がる空間を与えられる、というのは、それが実は搾取構造であっても目が眩まされてしまうほどの強力な誘惑装置なんだろうなあ、と。

やはり、今の日本の歪んだ格差社会や搾取構造は道理としてだけ何が正しいのか説いても、そこの装置が機能したままでは簡単には変えられない。
何を誰がどうやったところで難しいのだろうが、大衆文化の既存のあり方が、既得権益にとって最大の強みなのだから、それを無批判に現状肯定する事もやはり出来ない、という感想を強く持つ。
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# by catalyticmonk | 2017-08-08 02:04 | アイドル | Comments(0)

既存の左翼文化・自称リベラル派は本当にリベラルなのか

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テレビ報道で、10代の子どもたちほどお墓参りに行くべきと答える傾向があり、その理由としては「義務を果たすべき」と思っている人が多いという結果だったそうです。
それに対して、「若者の保守化の現れ」「右傾化は貧困の現れ」等の言説が報道番組内やSNS上の論議であるようですが、それは一面的で完全に間違っています。

何より社会の中の共同体が破壊され、殺伐とした世界が広がっているから、伝統的な絆に回帰したい庶民感情が発生するのです。そうした性向自体は、卑しい誤った感覚であるかのように唾棄すべきでなく、そう感じる人々の実態に即して何を訴えかけていけるかこそが大切な点であるはずです。

そもそも「お墓参り」なんて、個々の宗教観・信奉する信仰形態によっても差が生まれる箇所で、そこで以てして保守化や右傾化を論じてはいけないのです。個人の価値観毎の好悪の差は出るものでしょうが、社会的公論として主張すべき話ではない。
こうした反応が時折起きる事からも、私は既存の左翼の人々が、本当に思想信条や信教の自由、といったものの重要性を理解しているのかなあ、と甚だ疑問に感じるところです。

10代の子どもたちほどお墓参りへの親近感を増幅させた背景に、市場主義が家族や地域共同体の枠組みを駆逐してきた帰結があるにせよ、だからと言って左翼的政治観歴史観で現実を二極化して捉え、独善的な傲慢さで大衆の自然な感覚を一刀両断する硬直性が改まらない限り、そのような認識と姿勢を維持・助長するような形での左翼文化は滅ぶべきだと感じます。

もちろん、本来的な左翼思想はそのようなものでない、という見方も可能ですが、従来的な右翼・左翼といった対立項の概念はもはや完全に時代遅れだ、と私が強く感じる理由はこの辺りにあります。
市民運動や「意識高い系」の人々の底無し沼のような愚挙と横暴の数々を現実に見てくると、こうした発想的な独善性の毒の程を実感するのです。

もう右翼か左翼か、などといった冷戦時代の対立項のイメージで捉えていると不正確で、時代にそぐわなくなっているのだと思います。共生社会か搾取構造か、といったところにこそより本質があるのであって、そこを現実に即していない形で分断する意識でしかないなら、そんな看板にこだわる事自体考え直した方がいい。
既存の「リベラル」とされる人たちの、従来的な「伝統」がそのような狭量な思い込みを発生させるのならば、いったい何が「リベラル」なのか。自由と民主主義を守らない「自由民主党」という名前の政党と何が違うのか。

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# by catalyticmonk | 2017-08-08 00:40 | 希望社会 | Comments(0)

他人の不幸は蜜の味、という言葉の実際

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ま、日本社会の病んでいる加減と言うか、ホスピタリティの低さを実感する機会は残念ながら多い。人が具合悪くて冷や汗だくだくで歩いている時に限って、見知らぬ他人から意味不明の小馬鹿にされた扱いを受ける。お腹が苦しくて身を捩りながら必死で外を歩いている時に、すれ違いざまに若い女性二人組に大げさに形態模写されて笑われる、とかね。
具合の悪そうな人間=どこか様子が奇妙で滑稽な馬鹿にしたい存在、という認識と思われる。競争社会に毒され過ぎ。

歴然としていても、言い逃れがいくらでも出来るような陰湿な意地悪をするんだよね。たくさんあるから、気付いている全部が自分の思い込みや勘違いとも思えないし。
ああいうので中にはキレて怒ってしまって、逆に警察に「暴漢に突然襲われた」とか訴えられて捕まっているおっちゃんも絶対いると思うんだよな。

そういう図式がまた何重にも歪んだ悪循環を広げて、混乱した殺伐とした社会にしている、というのが現実だと思う。
だけど、表面的な次元でしか対応しないのは、やはり、社会全体が病み過ぎていて十分に問題を掘り下げるモチベーションが足りないからなんだよ。

そこの微妙さがたくさん存在している例として、もう一つ具体例を挙げておく。
翌日の手術のために入院するのに自分で電車で移動している時だった。優先座席に座っていたら、目の前を年長者のグループに囲まれて、大声で非難がましい当てこすりにしか聞こえない話をされた。
「嫌な気分になりながら具合が悪い中をやせ我慢して座っていることない」と思って立ち上がって移動したのだけれど、あの時も立ち上がって移動するなり背後から「ま~っ」というかましい感じの嘲笑的な声がその年長者女性らから上がった。

とにかく、建前があって、はっきり言えないような状況や場合に、濃密にそうした出来事が頻発するね。つまりは、ああいう事をする人達も、顔見知りや親しい間柄の人間関係では多分結構普通の人なんだろう。
そういう「関係性」に支えられた人の好さや礼儀正しさであって、道徳としてこうであるべき、という観念が日本人には極端に薄い、と私は日頃から感じている。

別に、私も自分の住んでいる近所では結構快適だ。府中の大國魂神社の境内なんて、普段からメンタルに問題を抱えていそうな人が憩いを求めてか闊歩していて、なんか弱者や流れ者労働者などに優しい、という風土が府中にはある。
でも公平に言って、住めば都ということは他の地域にもあるのだろうし。

自分が元気なうちはまだ我慢出来るレベルに感じているかも知れないけど、一旦病気や障害を抱えてみると、日本て、人間社会として相当マズイ段階に入っているよなあ、と実感する事が増える。
お年寄りなんかもみんな結構そういう思いをしているんじゃない?
近所の顔見知りや家族、お金、といったものが、世の世知辛さからその人を守るいくらかのバリヤーになるんだろうけどね。

やっぱり、健康で元気な者、お金や権力のある人間のための、そういう人達優先の競争社会なんだよ。
しかも、そうでない人達もそれに憧れて、蹴落とされている人達の立場は余裕がない、暇がないと言って結局見過ごされがちだから、詰まる所、社会全体が福祉型の共生社会を目指さないと、どうしようもないと思うな。

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# by catalyticmonk | 2017-08-04 00:02 | 希望社会 | Comments(0)

生命倫理としてのガン

e0296801_23423211.jpgガンとは、細胞の無限増殖という、身体の統合性を破壊する暴走だ。
彼らも生きたいが私も生きたい。

「細胞」という個が、「身体」という生態系であり社会である単位を無視して暴走していく結果として、その生態系単位そのものが、暴走する細胞と共に崩壊する。

まるで独裁者と国家、搾取行為と市場、地球生態系と人間の環境破壊のようではないか。そこに身体の健康から経済構造、自然生態系までに至る一つの生命倫理が存在するようにも思える。
それぞれの単位が己れの命を楽しみ真っ当していいが、自身を包含する環境を破壊しては誰のためにもならない。
また、全体を成立させている個々の生命単位が不健全で不幸であっても立ち行かない。

社会の大義のためなら個人の健康など取るに足らない事で、人間様の経済発展のためなら、信奉する主義主張、信仰のためなら、自然環境や他の動植物の命なんて二の次、といった発想。それらはどれも人間の、断片的な視野が生み出す倒錯なのだろう。

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# by catalyticmonk | 2017-08-03 23:47 | 忘れ物 | Comments(0)

繰り返さないために忘れてはならない戦争の記憶




韓国の映画コンテンツ専門大学院キム・ジュンギ教授が旧日本軍の蛮行を広く知らせるために制作した映像だそうだ。
CGだからこそ可能だった表現だろうが、あまりにも生々しく衝撃的。全編日本語で語られているので日本人にも分かりやすい。


私がインドの文化学校に留学していた時、ルームメイトはキーフンという韓国人だった。彼から聞いたのは、若い韓国人はみんな日本人を憎んでいる、と。それは学校教育で、日本軍や日本人が統治時代に如何に酷い行為をしたか教えるからだ、と直截に言っていた。

そうは言っても、見知らぬ私にルームシェアしようと声をかけてきたのは彼の方だったし、彼を通して短期旅行者の若い韓国人集団と仲良くなって、ヒマラヤ地方をトレッキングしたりしていたから、私の実感としては若い韓国人は相当日本人に親近感を持っていると思う。

いずれにしても、そんな彼らであっても、親しくなったからこそ端的に本心の一端を強調して伝えてきたのだと思う。私は一人で異文化の集団に紛れ込むという種類の体験を好むところがあった。そうやって、ある程度相手の懐に入らないと聞けない言葉や感情というものもある。

色々と文化や民族性は違っても、親しくなれば、誰も等身大の生身の人間でしかない。個人として接する時には生身の人間と生身の人間でしかない。
それが異なる集団と集団に分かれて対峙し合った時に、違う生き物や血の通っていないモノのように感じてしまう事が起きてくる。

私は、ズバリ言ってしまうが、日本人はチームワークや管理能力に優れていて人間の集団としてとても能力優秀だが、ある意味で一番「人でなし」な卑しい性質も抱えている人々だと思っている。
ドイツ人などにも言えるが、集団主義的な文化や社会風潮が強いからこそ、とても排他的で、時として非人間的な冷酷な行動を取ってしまいやすい集団なのだ。

ナチス・ドイツのアイヒマンも「私の最大の罪は命令に忠実であった事だ」と言っていたように、企業や官僚、政治家などが行なう大規模な不正や国家による大量虐殺は、集団に依拠し過ぎて自分個人の人間性が希薄になったところに発生する。

ドイツ人は、戦後、その事を社会単位や教育活動の現場で直視して、思慮深い政治性を進歩させた。
しかし、日本人はそういう事をしてきただろうか?
戦前の戦争を起こした特権階級の子孫がそのまま国政を牛耳る政界の中心に居座って、従軍慰安婦問題一つをとってもドイツのような誠実かつ内省的な反省を国家が積極的にしてきた事などない。

国家という最大規模の集団の意思によって為される戦争行為は、人間が同じ人間を人間として見られなくなる極限の麻痺を引き起こす。人を人でなくしてしまう究極的な悪なのだと思うし、だから、それをしてはいけないのだ。


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# by catalyticmonk | 2017-07-26 00:42 | 反戦 | Comments(0)

ゴシップ嗜好と日本の民主主義

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私は週刊誌的なゴシップの取り上げ方や、そういうものにすぐ飛びついて騒ぐ態度、その習性が強い人物といったものが、昔からどうにも好きではありません。

最近のニュースであれば、埼玉県の小学校教師が小学4年生の児童生徒に対して、「今すぐ窓から飛び降りろ」「命が惜しいのか。早く飛び降りろ」などと3階の教室から飛び降りるよう何度も迫ったという報道があって騒動になっていましたが、他の同級生児童の保護者の証言によると、先生が「やれと言われたら何でもやるのか?飛び降りろと言われたらやるのか?やらないだろ、やったらいけない事をやれと言われてもやらないんだよ」と教えたという内容だったので、ずいぶん歪曲された報道だった、という話も出ているようです。

どちらの主張が正確か、また真実が双方の言い分からどれくらいの距離感なのか、間接的な情報しか知り得ない立場の我々には定かなところではありません。
ですから、今ここでは、特に事件の真相と報道された内容の真偽の検証に深入りする気はありません。あくまでもゴシップ好きな態度の危険性そのものについて、普段から感じている点を述べてみようと考えているだけです。

結局、事実がどうであったか、が一番大切なので、まず物事を決めつけないで慎重に物事に対応する必要があります。
拙速な思い込みがどれほど多くの偏見や差別を生み出し、立場の弱い人々や少数派を傷付け苦しめて、また無益かつ根拠のない争いと混乱を作り出してしまうものか、私は自身の人生経験的にも痛切に実感してきています。

何か最初から有利な立場の相手に「それっておかしいだろう」みたいに勇気を出して立ち向かっていくほど、こういう成り行きが多発する、おかしな社会だと思っています。ゴシップに踊らされやすい衆愚社会だ、と呼んでも過言ではありません。
分かりやすい定式に合わせて、話を歪めてしまうのです。そして、既知のイメージに沿っていれば事実確認より先に信用されてしまう。権威があったり数が多かったり社会の安定したレールに乗っている人達ばかりが優遇される、弱い者いじめみたいなデマの構造なのです。

社会の広い範囲で起きている出来事を伝えるマスメディアが、権力と癒着していたり、あまりに商業主義的です。
扇情的に関心を集めやすいゴシップ報道に流れやすいと非常に危険で、硬派なジャーナリズムが十分に根付いていく必要がありますが、日本ではそうなっていない訳です。

また、警察の組織体質も、一般人の視点から観察していても極めて思い込みの激しい傾向が顕著で、一番そうであってはいけない公権力の行使者が現状そうなのですから、庶民は大迷惑ですね。
一般人の側でも、人からそんな目で見られるような人物の方が悪い、といった自己責任論で納得してしまって、お上の失敗や不正を中途半端にしか追及しない変なことなかれ主義が根強いので、余計にブレーキに欠けています。
そうした日頃の鬱積への憂さ晴らしとして、すぐに特定の個人を一斉に群衆心理でバッシングするし、他人の不幸は蜜の味という卑劣さが大衆文化にもインプットされてしまっています。

そういうガス抜きとしてのゴシップ中毒性は、江戸時代の身分制度において、平民の下に賤民を置いてガス抜きをさせ、支配階級への不満を回避させていた時代から継続している風潮なのではないか、と疑っています。こうした傾向は、近代的な人権意識を制度・教育の面で取り入れて多少の進歩はあったにしろ、民度の構造としてはあまり成長しきっていない証左な気もします。
日本人が近代史においても容易く全体主義に傾きやすかった経過自体も、社会に蔓延するゴシップ嗜好と無関係ではなかったし、今現在もその点は多分に継続中の改善すべき憂慮要素なのだと考えています。
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# by catalyticmonk | 2017-07-21 20:50 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

自己アピールとひがみ

自慢や自己アピールの何がいけないんだよ。それを揶揄する側の方がひがんでいるし、浅ましい下世話さだろう、といつも思っている。
自分で自分をこういう人間だ、と主張して、こうやったら面白いんだよ、楽しいんだよ、とインド人でも西洋人でも、なんか普通に堂々とするよ。そっちの方が建設的だし陰気じゃないでしょ。

自慢や自己アピールがよくない場合はさ、相手に逃げられないような状況を作ってから押し付けるようなやり口だよ。
日本人は、明るい前向きな自己アピールはしないで、人の足ばかり引っ張る習性が色濃い癖に、そういう手の込んだ押し付けは好んでする。そっちの方が卑怯で浅ましいと私は感じるのだけど。
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# by catalyticmonk | 2017-07-21 20:37 | 忘れ物 | Comments(0)

ひとと違う意見は罪な国

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日本の中で多様性を重んじようという考えでいると、びっくりするくらい多くの困難に直面する。自分とは意見の違う人と共存する、という発想が根付いていなさ過ぎて、そっちの方が偏屈な変わり者扱いになり兼ねないんだ。
だから悪循環で、誰もなかなかそういう態度でいられないし、その姿勢を身に付ける機会が持てないんだ、と分かる。

例えば、誰かが私に耳打ちして「あの人、変だよね」と誰かの悪口を言ったとする。
私としては「変だと何が不都合なの?」「どこがどういう風にまずい訳?」とその感覚差を埋める確認作業をするしかないのだけれど、これが協調性を優先させる文化・教育で育った人々には、結構気の利いていない失礼な態度に感じるらしい。同調してくれないと自分を否定されたように感じるようで、その結果、怒り出す相手って結構多いんだ。

私自身は元々「変わっているから」という理由で誰かを揶揄するという発想が好きでないし、思春期に日本的な価値観にまるでついていけず葛藤していた分、人格形成の重要な部分をはっきり自己主張する国外の文化に触れた時にまとめ上げた面が大きいので、かなり感覚が違うのだと思う。

ただ、どういう理由で喧嘩になっても、マジョリティーの一般感覚の側に軸を置いている相手と揉めた人物の方が「怒り出して喧嘩を始めた」と見なされやすい、という傾向が歴然と存在する。
もっと悪質な話ででもだ。

ここがポイントなんだけど、往々にして、この国では結構普通の人まで「複数人が話す噂」の方を信じる。
なので、そこの場所でたった一人で異を唱え出すと、いつもとても不利なんだ。釣りに来て夜フェリーがなくなって帰られなくなった小学校高学年の女の子を無理矢理押し切って犯した、という体験談を得意げに話す男がいたから、義憤を感じて怒って喧嘩に発展した、なんて状況ですら、そこにいる数人が、それを許容する価値観だったら、もう危うい。
とにかく言った者勝ちで、大概誰しも外面はいいので、複数名で言えばもう簡単にその言葉は一定の信憑性を獲得する。共謀されて、あっと驚くようなデマまで吹聴されるのがオチだ。

そんな経験はした事がない、言外に「あなたはよほど気性が激しいんじゃないの?」と言いたげな反応をする人達も相当数いる。
確かに、なんとなく空気に逆らわないで自己主張をしないで生きてきた人達にはこの社会は比較的平和で穏やかな場所らしい。だけれど、独立独歩な価値観・生き方をする者にはとことん牙を剝く。

ある程度意見の近い人達を人数集めて、一斉に言わないと、どんな主張もなかなか通らないみたいなんだ。
でも、よく冷静に考えてみて欲しい。どっきりするようなマズい話は、誰も大勢がいる場所ではあんまり話さないに決まっている。だから、この社会ではいろんな悪事が簡単に隠蔽されてしまうし、また建前ばかりがまかり通って露見しにくい。
その図式が、森友学園問題だの加計学園疑惑だの、国を司る政治のトップから大企業、庶民に至るまで、全領域で横行しているんだ。
個人プレイはいけない、協調性を重んじてみんなと仲良く、という美徳と教育の結果の実際はこういうふうだ。

とにかく事を荒立てないこと。人から恨まれないよう、異なる意見を相手にはっきり告げてはならない。でも、そうやって維持される秩序や平和は、必然的に強い立場の者にばかり有利に働き、貧しい者、立場が弱かったり特殊な事情を抱えている人々に優しくない、ホスピタリティーの低い社会へと向かっていく。

だから、一個一個の不正を暴いて糾弾していく行為はもちろん大切なんだけど、そういう精神文化面、日常の振る舞いから見直していく視点をもっと増やして活性化させていかないと、いつまで経ってもキリがないし、本質が正されていないから、何かの不正疑惑の尻尾を掴んでも、そのうち趨勢としてはけむに巻かれる、という事態に陥りやすいのだと思う。

私はずっと鏡の国で暮らしているような気分だ。でも、みんな、こういう環境にどっぷり浸かっていて、自分達がおとぎ話みたいな不可思議な観念の中で生きているという自覚もなかなか出来ないようなんだ。
それを夢なんだよ、錯覚なんだよ、と最初に言う人達は、なんて奇異な事を主張する人間なんだろう、と当然周囲の多くの人達から思われるだろう。それでも、おかしいものはおかしい、と勇気を持って言っていくしかない。みんなが一斉に正しい結論に達して正義が勝つ、みたいな話をぼんやり期待しているとしたら、それは幻想だ、と言うより他ない。

確かに封建社会を道徳価値観的な側面から維持補強する意味では、儒教道徳の影響は少なからずあったのだろう。
ただ、日本人よりもなお儒教的な価値観が濃厚な社会とされてきた韓国人や中国人の実際は、随分違って、かなりはっきりとした自己主張をする印象がある。

私はアジア回帰する程も洗練されていない愛知県尾張地方の片田舎で育ったせいか、成長期には中国にも韓国にも関心が薄かった。多分、無意識的にも東アジア的な文化以外のものに触れたくて、若い頃はそこを飛ばして西洋社会やインドといった世界に向かっていったのだと思うんだけれど、やはり北インドの留学先で韓国人とルームシェアして、ルームメイトを通してさらに多くの韓国人集団に触れる機会はあったし、中国人の振る舞いも幾度も目の前で見てきた。
韓国人の女性は、確かに男尊女卑の文化の中に身を置かれているようだったけれど、当の彼女らの行動がどうかと言ったら、異性に対しても割合肉食系と言うか、近年の日本人女性でもあり得ないような大胆さが身についている様子。決して、ただ黙々と文句一つ言わないで儒教道徳によって慎ましやかに屈服している女性の姿などではない。

付和雷同の激しい服従性の高い文化を、日本人自身が話題にする時は、従来から儒教道徳とのつながりで語られている文献が多い訳だが、私個人の印象としては、そうした影響もあるけれども、元からかなりこうだったのではないかな、と。
聖徳太子が「和を以って貴しと為す」と十七条憲法で言い出す前から、何かの思想を引いてきては湾曲したご都合主義の解釈をし、それを権威化して、自由闊達な議論を封じ、長いものに巻かれろ式の「空気の支配」を強化する脅し文句に使われる傾向があったのではないか、と考えている。
だいたいが十七条憲法の真意からして、論語の意趣と乖離していないようなのだけれど、長年社会に流布する際には異なったニュアンスで用いられていったのではないか。

日本は様々な精神文化を取り入れる以前から、封建的な文化後進地のアジアの辺境だった訳だ。なので、何かの思想を自国に取り入れる際に、純朴な民を知的・政治的エリート達が、自分達の都合のいいように流用する、という思想文化の受容形態が容易だったはずだ。それが古来常態化していたのではないか、と私は考えていて、それはマルクス主義などの左翼文化に対してすら一定そうであった気がする。
為政者や知的特権層が与える価値観や文化的な印象操作は、戦後はまた大衆娯楽を通じた情報伝達の発達と共に強化されて、今の安倍政権までつながっているのだろう。
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# by catalyticmonk | 2017-07-21 20:14 | 相互抑圧 | Comments(0)

自己啓発本の罠

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「トンデモさん」とも相関性のある話だが、自己啓発セミナーとか自己啓発本ブームも相当胡散臭い。

ただ、本質的なところを言えば、精神的価値の意義ももちろんその人のTPOに応じて実在するので、程度問題だと思う。確かに内面の幸福が肝心で、外形的な物事に囚われ過ぎて不幸になっている状態から心理的な平穏を見出すための健全な考え方や生活習慣方法というものはある。

でも、外部の他人に相談させない、参考文献をあげないで自分の言葉の値打ちを上げる、といった手法なら、それは確信犯の商業的詐欺のトーンを懸念すべきだし、仕事で受けるパワハラを人間関係に不安があるあなた、みたいに全部内面に置き換えていくよう仕向けて、結果、より良い職場を探して転職するなどの現実的な対処をしり込みする人間をつくったら、それも倒錯な訳だ。

最近のお手軽な心理学書は、後者の商業的詐欺、よく言ってキャバクラのようにお客に疑似恋愛などの幻想で一時的幸福をお金と引き換えに与えるサービス業の一種みたいなものがゴマンとあるように感じる。
心理学書の体裁を取っているものでさえそうなのだから、漠然とした自己啓発本の全体は、もっといい加減だろうと思う。

そういうものは、本質的なその人の解決能力を後押しするのではない、一時的な精神安定剤のようなものだ。
かえって読者なりセミナー信奉者を終わらない青い鳥探しをする受け身の精神構造の堂々巡りにとどめてしまう弊害もある。無益に長く続く葛藤を相手に刷り込んでしまう面も強いと感じる。

それでも人間の精神性全般に対するニヒリズムは、自暴自棄な生き方を招くだけだ、と当然の事はきちんと理解しておくべきだろう。強調しておくべき点を言い添えるならば、自分自身の中で積み上げていく本当の哲学や信仰の選択であれば、それはその人自身の主体的変化・成長だ。どういう方向性に向かおうとも他人が口出しする性質のものではないし、詐欺的精神代替物とは似て非なるものだとも思う。

しかしながら、昔から私の周囲にいる人達で、自己啓発本や自己啓発セミナー流の洗脳主義的な扇動に振り回され、かえって強迫観念的な混乱や葛藤を抱えていたり、同じようなところをグルグル回っているように感じる人が後を絶たない。
エホバの証人にも一時期入信していた私の実母からして、そうした傾向が顕著だった。そして、他の誰でもない私自身が、自己啓発セミナー的な社員教育のある建設業界の重機レンタル会社に入って、散々な目に遭った経験がある。

また、私でも自己啓発本に心酔している最中の人達個々人に直接何か意見するのは難しかったりもする。自己啓発本に書かれている内容の一個一個はありふれた常識的な正論だったりもするからだ。
特定の商業利益や奇妙な偏見に結びつけられていても、惹きつけられる人は全体を吟味しない傾向が顕著なので、知らないうちにそうした歪みや混乱の影響を受けて、未整理な思索がやがて別の葛藤の袋小路に至る。繰り返していても本人達は気付かない。だいたいそういった図式が見える。

こうした現象は、現代社会の精神文化面での危機と直接リンクしているようにしか思えない。
その社会的な背景のもとに似非精神代替物でお金儲けをしようとする動きも、カルト宗教とひとつながりな弊害だ。

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# by catalyticmonk | 2017-07-21 20:00 | 忘れ物 | Comments(0)

トンデモさん

何が「トンデモ」なのかを定義する事は難しい。科学の定説とされているものにも間違いが多くある事は、科学自体が過去の「常識」を無数に塗り替えてきた事実からも分かるし、それが出来なければ科学などではない、とも言える。

ただ、根拠に乏しい飛躍の多い説を、いとも簡単に次々と信じる傾向が顕著な人種というものは確実にいて、また、それらを信じている人同士の間で一つの信仰とも思えるような強固な連帯感を有している場合も少なくない。

「トンデモを信じることで、仲間からは“真実に気づいた”と絶対的に肯定してもらえるんです。彼女はそれを求めていたのかもしれません」

「トンデモを信じる人たちは団結力がある。止めさせようとする力より、抜けさせまいとする力の方が強い。私はその前で無力でした」

私もかつてそのような人種をたくさん目にしてきた。
まず、アジア旅行が好きな人々にそうした志向の人間が多いし、私がインドにあるチベット亡命政府直轄の文化学校に留学した際にも、世界中からやって来た留学生のうちの半分くらいは神秘的なものへの「憧れ」のようなものを持っていて、類似の傾向が強かった。

愛情不足な生い立ちを成育過程に持ち、承認欲求が強く自己肯定感が低いタイプの人々が、寂しさを埋めるようにトンデモやマルチ商法に入り込んでしまいやすい、という話は、宗教や精神世界全般にもかなり同様の傾向が存在する。

私自身は、と言えば、まさに荒んだ家庭環境だったが、祖父母からは可愛がられていたし、デタラメな親や大人たちの身勝手な振る舞いに振り回されて育ったので、むしろそうした自己欺瞞や偽善を嫌悪する意識が高かった。洗脳されにくく懐疑精神の人一倍強い、独立独歩な人格形成が成されていたようだ。

しかし、そんなふうだったので、「トンデモさん」はいつも私の身近にいながら事実認識や物事の選択・判断において反目し合いやすい隣人だった。
いや、趣味の友達や恋人に選びつつも、相手にすると厄介だから深入りしないままの話題が広範囲にあったり、内面的な価値観を共有しがたい対象だった、と言うべきか。

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# by catalyticmonk | 2017-07-21 19:41 | 意思疎通 | Comments(0)

民主主義未満

例えば、最近なら森友学園問題で刑事告発するのは政治戦略として良かったか悪かったか、吉祥寺で反天皇制デモを行なうのは有効か否か、野党が共謀罪に対抗するのに審議拒否をすべき・すべきでない、といった議論がありました。どれも、何が合理的な手法か、といったところで意見が近しい者同士で割れていました。

ですが、その3つだけ取ってさえ、全部の判断がきっちり同じになる市民の割合なんて少しずつで、みんなそれぞれ一個一個は違う判断なんですよ。

そういう手法の違いで相手をすぐに感情的に、または関係のない人格攻撃も含めて対立し合う、という、極めて荒んだ空気がずっと存在しています。

みんな、その現実を分かっているから、市民運動に参加しつつ、自分の意見は言わない、と決めている人が長い人でも結構います。あと、いつもどこか特定の政党や活動団体の判断について行く、とか、どうしても、そういう人の方が長く安定して幅広く活動しやすい空気があります。

でも、個人個人が自分の意思と判断で動いていかなければ、結局別の次元と枠組みで権力闘争や利権構造が生じるだけで、民主主義社会を求めていく根本が成り立たない。

手法の見解の相違はどうしても出てくるものです。
ただ、それをやられたらみんなが困る、というテーマは確かにあります。
民主主義社会なら反天皇制デモも含めていろんな意見があって然るべきで、そこを出した上で議論するのが筋です。
でも逆に吉祥寺の街の人に、地元と関係ないのに、右翼の街宣車や機動隊が集まってきて暴力的な空気になって怖かった、地元の活動団体は平和的に活動して親しみを持ってもらおうとしていたのが台無しになった、みたいな言葉を言うな、とはもっと言えない。仮にそう主張するとしたらそれも無理があるでしょう。

森友学園問題の刑事告発や国会の審議拒否は、高度に政治的で、法律や議会運営の知識・専門情報がないと、素人には即判断が付かなかったりします。ところが、それが支持している政党や仲のいい人物の激しい煽りがあると、微妙で複雑な判断であるはずの事で、もうバトルが始まって、お前はどっちなんだ、みたいに聞かれる。

日本人は合わせるのが得意ですが、個人の意見を尊重するという考えがまだ育っていないですよね。
個人が自分でしっかり考えていない割に、明らかに不釣り合いなほどの対立をすぐに始める。ここの意識を変えないと始まらないでしょう。
それ、そもそも社会運動の正常なスタンスでも民主主義の正道でもないから、と。

民主主義や個人の自由をもっと理解していかなければ、ただの言い争いで終わって勿体無いですよね。子供のケンカと同じで。
そういう雰囲気だと社会運動がますます非日常的になってしまいます。

共謀罪などのように民主主義社会を根底から揺るがしかねない、かなり重篤な危機が迫っているからこそ、みんな余計に意見対立する、というのもあるようですが、もっと身近な問題として誰もが参加できると良いのに残念に感じます。
本来は、自主的に考える勇気、間違える勇気があれば十分なはずです。
でも言えない社会があるから、そこから変わらないと日本人はロボットになってしまいますね。国の思い通りで、今の日本人は凄い危機なんだと思います。


別に思想信条の問題じゃなくて、左翼臭い毒々しさって実際にありますよね。右翼臭さでも政党臭でも一緒です。自民党はもとより野党でも政党臭さってあるじゃないですか、キナ臭い独特の。

いや、どんなスタイルだって自由なんですよ。でも、ただ税金払ってこんな社会制度じゃ嫌だとか、原発事故怖いからやめて欲しいとか、そういうシンプルで当然の権利である願いを普通の人が意思表示したかった時に、政治の世界はこういうものですから、って顔で、デーンと構えてね、かなり多くの人が嗅ぐのも苦痛な何ものかで待ち受けている、みたいな現実は事実あるんですよ。
それで、皆それぞれに「俺の所に参加しろ」と実質言っている。

なんか、それってフェアじゃないじゃん、詐欺みたいなもんじゃないの、と感じている人が大勢いるのに、「なんで声を上げないんだ、国民として、有権者として、民主主義社会に生きる一人の人間として無責任だ!」と来る。

他の喩えで言うならですね、ビジュアル系も入ったグラム・ロックとか、ヘヴィーメタルとかの音楽とド派手な格好が好きな人は、それが個人の趣味趣向だからそれでいいんですよ。
でも、それで、ヘッドバンキングしない奴は非国民だ!とか、意見があるなら大音量でヘヴィーメタルがかかった集会に来てギターもライトハンド奏法くらい出来なきゃ発言権はない、でも集会に来ない奴は民主主義社会の一員としての義務を放棄しているに等しいから、何をされても文句は言えないぞ!なんて言われたら、どうでしょう?
やっぱりそれって違うだろう、と多くの人が思うのは仕方ないでしょう?私はクラシック音楽が好きだし、収入が減っているのに勝手に増税されては困るから、当然の主張をしたいだけなのに、ライトハンド奏法の練習をする時間なんてないよ、と。

あと、動く奴が一番偉い、来ない奴は能書きだけ垂れるな、みたいな言葉が多い訳です。ですが、ここ最近ずっと癌闘病をしていた私からすると、はっきり言ってそれ、意図しなくとも相当な障害者差別・病人差別なんだよな、と感じる場面が多々ありました。

もちろん、そこも半分は分かるし、正当な主張である場合も多いんです。自分では何もしないで他人に文句ばかり言う、そういう無責任なマスに頑張っている人達が無益に疲弊させられる、という重大な弊害がありますから。

けれども、だから少ししか動けない人間は感じている事柄も口に出すな、というのでもやはり違うと思うんです。半分は同じ言葉と主張がある種の傲慢さである場合も多くて。
活動している人間が政治の主役、みたいなのって、忙しい人間や貧乏人も蔑視している、という、その程度の道理も分からない連中が人権とか民主主義とか言うのは矛盾じゃないか、と徐々に病状が悪化している最中にも行っていて何回感じたか分かりゃしませんよ。

だから、何かそういう次元でね、「政治の世界」の常識みたいなのが出来上がっていて、そこに乗るか反るかを前提に政治参加云々と言うのが少しおかしいし、今やっている人達が自分達の行動を広げていきたいなら、少なくとも後から来た人がこれって胡散臭い、とっつきにくい、と言っても怒っちゃダメだと思うんですよ。

結局、「オレ達のやり方に黙って付いて来い。でも、これが民主主義なんだ」なんておかしな理屈をずっと言っている面がある気がします。また、無責任に文句だけ言って主体性のない「お任せ民主主義」の風潮が、頑張っている人達をそういう所に自然と追いやってしまうという堂々巡り。
ここはやはり民主主義や個人の自由・尊厳が何なのか、一人一人が実質的に見つめて意識改革していかなければ、またそちらの方向に互いに声を掛け合って啓蒙し合わなければ、ずっと並行線のままなのが道理でしょう。

政治や運動に上も下もないはずで、それぞれの人がその人の身の丈なりに社会に関わり、各人の意見を言えるようにしていくのが民主主義の本来の姿なのではないですかね。

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# by catalyticmonk | 2017-06-19 01:29 | 希望社会 | Comments(0)

自由と命の爪跡

e0296801_02212372.jpg若い頃、よく旅をした。
知らない土地の風情や見知らぬ人々との出会いが、私に明るい解放感を運んできた。
ただ、自分が目にし体験して得たものを、思い出として語るだけでなく、誰かと共有したい、という気持ちにもなった。

それが普通の人なら故郷への望郷の念になったりするのだろう。
ところが、私には異国に何年も住んでも本当にその感情が起きなかった。懐かしく思い出せるほどの甘美な記憶がなかったからだし、目の前の暮らしが充実していたからだろう。
だけれど、喪った過去の日々に想いを寄せるのが望郷心の重要な要素であるのなら、似た感情は体験した記憶もある。

大阪で会社の夜逃げ倒産に遭った後、生活に困って仕方なく三重県の山奥に就職し暮らしていた頃、何年もただお金のために好きでもない事をして、しかも身動きが出来なくなっていた。楽しい事もなく、見知らぬ土地に一人であって、休日に緑豊かな湯の山温泉で絶景を眺めながら温泉に入り、食事をしていても、虚しさはちっとも消える事がなかった。
だから、鈴鹿山脈に沈む夕陽を見つめながら、世界中を自由に飛び回った若き日や東京での暮らしを思い出して、涙が出ないほど切ない気持ちになったのは、とても自然な事だった。

今の私は病気とは向き合っていかなければならないものの、あの頃に比べたらずっと幸福だ。
寂しい気分は、何か無念な気持ちが湧くと一層深くなるものだけれど、やはり社会的な動物である人間として、健康面も含めて社会に爪跡を残したい本能なのかな、と時折思う。

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# by catalyticmonk | 2017-06-19 00:11 | 忘れ物 | Comments(0)

市民共闘

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共産党支持者の多くは民進党なんて自民補完勢力だ、と思っているし、民進党も共産党には出しゃばらせたくない。
自由党や社民党は直近の都議選では大勝負がなく、無党派層でアンチ安倍政権寄りの人達も政党支持者同士の党派ごとにバチバチやっている感じに近寄りがたいものを感じて、白票を投じないまでも選挙応援を積極的にしにくい状況に置かれている。

党派対立が激しい局面で敢えて投票行為以上に能動的に選択する、ということは、その特定の党派に自身が組み込まれる形になるのだから、どっちにつくか、という空気は、結局最大多数派の無党派層を与党に対抗する勢力に取り込めなくする。
幅広い価値観の人々を緩やかに吸収出来なくなるのは自然な道理。

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私がこういう事を言うのは、自身の体験上の至って自然な実感がある。
私は去年から手術や入退院に明け暮れていて、選挙応援どころではなくなった。その前の年の2015年、戦争法案反対の抗議運動が終わった秋口くらいから具合が悪化したので、私があちこちの選挙運動に参加していたのはその前までだ。

その頃、私自身は何人かの特定政党候補の応援を末端でした。共産党候補の応援もしたし、同時に社民党や緑の党の候補の応援もした。
そういう事を現に多くの無党派市民層がしていたし、「野党共闘」という言葉が現実的な形を取り出す以前から、私が二度の都知事選挙で宇都宮健児さんの支持・応援をしていた事もあって、幅広い支持層と横のつながりが生まれた影響も大きかった。

宇都宮健児さんを支持した者同士が、互いにそれぞれ緑の党や共産党、社民党、生活者ネットワーク等々の候補者を応援し、宇都宮さんご自身も自分を都知事選で支持してくれた人々や野党の選挙応援に方々を回られていた。

ただ、実際にはその当時から政党間毎の様々な軋轢はあって、当初はその難局も緩やかな市民層のネットワークが互いを励まし合うような形で支え合っていたのだけれど、段々とその歪みが積み重なり大きくなっていく一方で、仲間であった人々がバラバラになり、あるいはどこか特定の政党の強固な支持者に収まっていく、という過程がどんどん進行していった。

SEALDsが野党共闘を呼び掛けて飛び回っている頃には、私はすでに手術台の上だった。
手術後間もなく少しだけ都知事選挙の街頭宣伝にも参加したが、野党統一候補をめぐって宇都宮健児さんが出馬を辞退される、という出来事が起きていて、以後、それでも宇都宮さんを支持し続ける人々と、かつては宇都宮さんを支持していたけれどどこか特定の野党についていく人との間に決定的な溝が生まれ、また宇都宮さんご自身も、以前のように野党共闘の看板としていろんな選挙に呼ばれる、といった機会がなくなっていったようだ。

私自身は宇都宮さんを都知事選挙で支持する事が市民運動参加の大きなきっかけとなった人間で、それ以前に311直後から反原発運動には度々参加していたものの、がん告知や諸々の個人的事情でそれどころでなくなっていた期間も長くて、あくまで病気の小康期に都知事選挙関連で徐々に広がっていった面が強い。

それでも独立独歩でものを考え行動する人間なので、自分を単なる宇都宮信者とか山本太郎信者みたいな分類に入れられる気はさらさらなくて、候補者や政党の支持もその時々の状況や具体的な政策を見て選んでいる。

ただ、この安倍政権が長らく高い支持率と議席率の中で盤石に続き、特定秘密保護法や安保法制、共謀罪といった重大な法案が数の力で強行採決されまくる難局の中で、そこに対抗している市民はまとまった力になるべきところを、ひたすら分裂していく一方だった。

e0296801_07542019.jpg何か結局のところ、ずっと昔から続く日本の市民運動の図式の流れそのものであって、それが変わるかも知れない、という空気が高まった時、311以降にも、特定秘密保護法や安保法制反対の頃にも、新しい積極的な政治参画層が一般社会から流入して、一部は既存の特定政治勢力に吸収され、大半は去り、ごく一部の人々がそれでも新しい流れを模索する、といった繰り返しが成されているのは間違いない。

だけれども、全体としては緩慢をつけながら弱体化する一方であったのも確かで、ただ昔から変わらない当然の流れだ、と受け入れていてもいけない気がする。
今、野党共闘という言葉は継続しているけれども、それが本当の意味での寛容な空気や多様な価値観・政治信条の融和性を示しているのだろうか。

一般人が、例えば民進党候補や共産党候補を同時に積極的に応援しながら、複雑な党派対立に巻き込まれ後ずさりしないで済むような、そうした空気作りがないままならば、ますます与党と既成権力の看板の架け替えでしかない勢力が、庶民置き去りの横暴な政治を続けることは疑うべくもない。

e0296801_08061295.jpgだから、現実的には既に「野党共闘」という言葉もほころびを見せ始めているのだと思う。
「野党共闘」と言った場合、それが「市民共闘」の象徴として正しく機能するのであれば健全なのだけれど、実際にはそれの意味する「野党」とは、既存の「国政政党」である民進党、共産党、自由党、社民党の四つを指しているに過ぎない。国政参加を目指しているその他の政党支持層や独自の政治見解を持つ人々にも息苦しいものを感じさせる。

それがどんなに合理的な判断と思えても、異なる価値観の人々への過剰なごり押しは禁物だ。それは安倍政権に対抗する市民層の分裂を招くだけでなく、政府に不満を抱きつつ政治参加には消極的な層に連帯の輪を広げていく事を困難にする。

「野党共闘」という言葉で括られている各党の支持者は、当然元々自勢力の拡大を政治集団の原則として持っているのだから、「野党共闘」の大義と共に、どんどん謙虚さを失い、野党四党支持層以外の有権者に以前よりも声高にごり押しをしている面がある。「野党共闘」という言葉を使って自党への勧誘を必死でしていて、それでますます全体としては安倍政権に対抗する仲間を増やしていけなくなる負け試合に向かっている。

いや、各党が頑張ればいい。出来る事なら野党共闘も無党派層やその他の政治勢力の取り込みも行なえるような融和的な形で行なって、与党打倒後の受け皿を健全に模索していって欲しい。
だけれども肝心な目的は、たった四つの「野党」が連帯し合うところに焦点がある訳ではなく、市民が、有権者が共闘するところにあるのだ、という点を今一度忘れないでもらいたい、と願っているのは私一人だけなのだろうか。
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# by catalyticmonk | 2017-06-18 06:07 | 希望社会 | Comments(2)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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