七転び八起き ①:少年期
父の実家はとある親族経営の会社を代々営んでいて、とても怖い人たちだ。母の実家は愛知県濃尾平野の田舎の地主農家で、素朴ないい人たちだったが、母が父と熱愛の末、俺を産んだことから、嵐のような歳月が始まったようだ。
まず、父も、母と出会った頃は家業を継ぐ気がなかったよう。実家への反発もあって父が空手の指導員としてヨーロッパへ旅立ってしまうのだが、よせばいいのに、父と母の実家総掛かりで「手を付けた娘を置いていくなら式だけは挙げろ」と二人を結婚させたそうだ。
しかし、2年ほどヒッピーのような暮らしをしながら1970年前後にヨーロッパからアフリカやインド、アジアを旅していた彼が帰国すると、その間に母は俺を出産していたので、一時帰国のつもりで息子の顔だけ見たらまたすぐに旅立とう、という荒唐無稽なことを考えていたという父を、またもや父の実家と母の実家総掛かりで止めて、父の実家の会社に入れてしまう。
だが、そこがそもそも企業ヤクザなんだから、どうしようもないんだ。
最初のうちは母も父の実家の会社で事務員をしたり、赤ん坊の俺と共に父の実家にいたようだが、なぜかすぐに膠原病という国指定の珍しい難病に罹り、俺の子ども時代には今日元気でいたかと思えば次の日には風邪だ、発熱だと言って寝込み、到底まともに子育てができる状態ではなかった。
母の実家は、俺の地元ではそれなりの旧家の地主農家だったので、母はそこの跡取り婿を迎えて家督を継ぐべく育てられてきた長女だった。
俺個人はあまりそうしたものを信じるタチではないのだが、父方の家は人一倍神仏や霊現象といったものを信じている家風だったこともあり、霊能者に視てもらうと、母の実家の先祖が母が家督を継がず家の外に出たことに怒って祟っていると言う。
人間は不可思議な偶然が重なると、そこに別の意味を見出そうとするものだ。ただ、ある人のところには次から次へといろんな出来事が起きるものなので、それも環境的、社会的、心理学的な理由がきっと背後に隠れているのだろうと思うのだが、それをそれぞれの家庭・個人が抱えた宿業、カルマと捉える発想は、俺にも理解できる気がする。
とにかく、そんなふうだったので、膠原病という原因不明の免疫不全の病を抱えている母が始終いろんな病気を拾って来る。幼い俺もそれに感染して高熱を出したりすることが多く、そのためか幼少の頃の俺は少食で痩せていた。
また、病気で精神も衰弱していた母が睡眠薬自殺を図ったり、荒れていたのも事実だ。
母の実家が親子3人用にと当てがった平屋にいる時、子どもらしいわがままを少しでも言うと母が興奮し出し、
「お前なんか産まれて来なければ良かったんだ! 私の人生を返せ! もう子どものいない国へ行きたい! わーんっ!」
と毎回同じことを泣きながら叫び出し、ある時は裸足のままヒステリー状態で外に走り出した母を、俺も泣きながら追いかけて、「ママ〜ッ! 置いていかないで〜ッ!」と叫んで追いかけたりして、親子で近所に醜態を晒していた記憶もある。
それで父が週末にたまに帰って来るとまた恐ろしい訳だ。
病気の母に手をあげることはなかったが、空手の指導員だったような男が気の荒い職場に入ったものだから、どんどん一般人と感覚がずれていって、それが悩める青年だった時代の父と恋に落ちた繊細な母からするとついていけないことだったようで、すぐに喧嘩となり、父の手刀で瓶ビールが斬られてビールの泡が天井まで吹き上げる、なんて調子で、そりゃあ睡眠薬自殺くらいしたくなるよな、という感じだ。
自分の息子なのに泣き虫で弱々しい俺も彼の気に入らないことが多かったようで、俺は一つ一つは覚えていられないほどの虐待を物心ついた時から受けている。
母の実家の祖父母や叔母の話によると、まだ小学校にもあがらないうちから、父は俺をゴム毬のように蹴飛ばし、そうすると2メートルくらい後ろに跳んでいった、と言う。
俺の記憶としても、父と町内の温泉に行ったりプールへ行くと何故か突然お湯や水の中に投げ込まれて何度かそのままのびた記憶がある。俺が水を怖がるから、お湯に浸かりたがらないから、といった理由だったようだ。
そして、ある時は、多分、その日は母の体調も良かったのだろう、真夏の暑い日に親子3人で出掛け、父と母はパチンコ店に入ったようだ。だが、俺にその前後の記憶は全くない。気が付いたら熱射病になって病院のベッドの上で寝ていたのだ。
それも小学校に入る前だったが、中学生くらいの時に祖母に聞いたところでは、昔のことなのでエアコンもつけないまま自動車の中に俺を置いてパチンコ店に父母が入り、長時間戻らなくて、そのまま熱射病になって入院した、ということだった。
そんなふうだったので、母の実家は初孫の命が危ない、これでは育たない、守らなければ、と思ったと祖父母から何度も聞いた。
母が療養する平屋から祖父や叔母が頻繁に俺を連れ出し、幼い頃の私はどこが自分の住んでいる場所だか、いつもよく分からなかった。それが逆に、今でもどこでもすぐに自分の家の中にいるかのような錯覚を起こす図々しさの源になっている気はする。
だが、田舎の人特有の、分けても旧家の厳格な家族観というものがあって、心配はしているけれど親子が一緒にいられる時には極力そうしなければいけないし、口を挟んでもいけない、という律儀な観念が祖父母にもずっと付いて回っていたようだ。
俺は父も母もあまり好きではない、と堂々と祖父母の前でよく言っていた気がする。
ボクはおじいちゃんとこの子になるの、もうあっちの家には行きたくない。
俺がそう言うと祖母に、「おお、お前、そんなこと、ママの前で言ったらあかんぞ。もう育ててもらえなくなるぞ。お前は外孫だで、うちの子にもなれんのだわ」と言われた。同じ戸籍でない、苗字の違う「外孫なのだから」という難しい概念を幼い子供に言って聞かすくらい、彼らはそういう価値観の中を生きていた。
俺は祖父母や叔母は優しい存在と見なしていたが、見えない壁で拒まれているような、自分の居場所がないような、なんとも奇妙な気分に襲われていた。早く大人になって、この世界から逃れたい、と思った。
母は真っ暗闇のカーテンに隠れて俺を脅かし、俺が泣き出すとそれを「おお、可愛い、可愛い」と言って抱き締めるなど、彼女からはそうしたちょっと病的で倒錯した愛情しか受けた記憶がない。
そんな母でも、母の実家で叔母や祖父母に囲まれて食事などしている時は、普通の、明るい田舎の純朴な人間であった。
幼い自分は混乱したが、おそらくそれが元々の母の姿だったのだろうと想像する。俺は彼女が膠原病であったことを30を過ぎるまで知らされていなかった。そのくらい徹底した秘密主義の家族だったので、今も俺が知らないままの重要な事実はたくさんあるのではないかと想像する。
やがて、男の跡取りは曽祖父の代まで遡らないといない女系家族の母の実家に、念願の養子婿が来た。当時の父の腹心の部下だった人物が叔母と結婚し、養子婿となったのだ。
叔母とその父の部下の男性は、本当に気が合って結婚した様子だった。結婚する前にも週末毎に二人のデートに俺も連れ出され、キューピット役だったのかどうか知らないが、そのやがて俺の叔父となる、静岡県浜松市農家出身の男性は、非常に俺を可愛がってくれた。
学校ではいじめられっ子で、大学で児童心理学を専攻していた担任教師からもアスペルガー症候群の疑いありということで、他校の特殊学級送り寸前という、辛い記憶ばかりのあの小学校低学年の時代に、唯一と言っていいくらい楽しい思い出を提供してくれたのは、大半は彼ら、身近に現れた若いカップルだった。
しかし、段々別世界の人種となっていった父は、それを政略的に利用しようと目論んだようだ。何せ代々の親族経営で、本家とか分家とか愛人の子供を表面的に養子に迎えるとか、ただでさえ乱脈な血統だから、一族内の派閥競争が激しかったようだ。母の妹と父の部下が結婚すれば新しい親族ということとなり、一族内に父に近い派閥が増える格好になる訳だ。
父は序列からすると次期社長だったが、分家であり、俺からすると父方の祖父の兄の子どもには娘がいて、女の子が産まれても家の外に出さず養子婿を取らせる、という一族の掟が父の実家側にもあったから、その養子婿筋もライバルだし、他にも父の年齢がまだ若くて先に祖父の弟が跡目を継ぐ可能性がある、といった状況だった。
そして、結果から言うと、曽祖父が愛人に孕ませた私生児を、曽祖母の死後に愛人を2番目の妻と迎えたのと同時に養子として籍に入れたという経過で一族に入った祖父の腹違いの弟が跡目を継ぎ、長い年月の権力闘争の果てに他の本家も分家もすべて駆逐し、自分の母の腹から産まれ出た血統だけを一族の継承者とすることに成功し、後年、父は一族を追放される。
だが、当時はまだ、そうした内紛の途中の過程だった。そうした父の思惑に振り回されて、俺の新しい叔父となった、その人のいい男性は、随分困らされたようだ。
某大手ゼネコンの筆頭名義人を代々務め、怪しい活動を業界内ですると恐れられている魔族のような一族だったが、企業としてはダム工事や高速道路建設をするような大きな建設会社であって、彼は手堅い就職先としてそこに入社してきた田舎の純朴な青年に過ぎなかった。そして、父と叔父の間には自然と溝が深まっていく。
父はというと、出世とともに母子の前には姿を現さなくなり、俺たちが母の実家近くにいるのをいいことに生活費すら入れないので、まだ小学生のうちは、父が半年以上も帰って来ないと母に連れられて京都や静岡へ父を捜しに行かされたものだ。俺は二度と帰って来てくれるな、とずっと願っていたのだが。
母は俺が小学3年生くらいの頃から膠原病から快復し、次第に元気になって来た様子だった。俺が小学2年生の時に、母が叔母の結婚祝いにと贈ったパーマ機がタコ足配線だったようで火元となり出火、母の実家が半焼し、しばらく住めない状態になるという災難も重なって、俺が母と過ごす時間は長くなった。
単に俺が少し成長した分、手が掛からなくなったから、というのもあったかも知れない。とにかく、先述したように、祖父母の考えは、親子なら可能な限り一緒にいるべきもの、だったのだから。
本来的に母性的なタイプでなく繊細だった母が、そういうふうに俺の世話を押し付けられたのは、一人の人間として見れば可哀想なことだったかな、と今から考えると思う。そうした抗えない人生の成り行きへの精一杯の反抗だったのだろうか、母の俺に対する態度は可能な限り干渉しない、放置する、関心を持たない、という姿勢だった。
俺も怒られる時にしか干渉しない母に何の関心も抱かなくなった。
小学校の中学年くらいになると、それまでいじめられっ子だった俺が、腕白ないたずらっ子として頭角を現し始める。喧嘩にも徐々に負けないようになっていった。
だが、それはほんの一瞬の時期だ。俺は部活動に興味を持たなかったからだ。
音楽や読書が俺を真に夢中にさせるものとなっていき、そうした文化的な刺激を通じて自分が感じるものと、周囲の素朴な田舎の環境と価値観なりのものの見方にどんどん同化していく同級生たちに、大きな隔たりを感じ出すという、何とも可愛げのない少年となっていく。
by catalyticmonk
| 2023-12-03 01:46
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