外見と贔屓
男前な男性や美女が、何か少しでも正しいことをしている風だったり、言ったりすると劇的に注目を浴び賞賛される、という、よく知られた現象がある。
それはあまりに明白な事実なので、目的のためにそれを有効活用できる場合もあるだろうが、同時に多大な幻想の発生源なので、そのことについて少し書いてみようと思う。
例えば俺も自分で写真を撮る時にはなるべく見栄えのいいものを写そうとする。自分の審美眼もあるし、何かを伝え広めようとするのなら、それが効果的である現実は知っているからだ。
ただし、俺の美醜に対するものの見方は相当ドライだと思う。
見た目による好感度というものは俺にとってもあるが、それはだいたいは自分の身勝手な欲望センサーであって、深いものではない、と見なしている。現に中身をそれほど期待していない。
一個一個の主張を受け止める場面では、やはりその判断は相手の外見や表面的な印象でなく、自分自身で主体的に物事を見極めることが重要だ。
見た目で決めるということはえこひいきの最たるものになりやすい。何かを判断しなければならない段階で、最初から支持・不支持を決めている、何処其処誰か何かの信奉者である、というのでは、そもそもそれは「判断」ですらない。判断なく決めつけていることは、まさしく差別や偏見といったものに直結していく。
だから、誰かに惚れ込んで熱中するのは自由だが、今日惚れている相手でも、おかしいことを言ったりし出したら、黙って従ってはいけない。
人間はみんなイロや情には流されやすいけれど、イロや情で自由意思が混乱するのも人間は辛く感じる。すっきりしたいのだ、誰しも本当は。だから自ずと理性を求めるようにもなる。
それでも本能や感情の反応が消えてなくなるわけではないし、人間は一人は寂しいから、避けていれば解決するかと言えばそうでもない。だから生きている限り続く永遠のテーマでもあるわけだ。
崇拝したり身内贔屓になることは、結果的に社会の中で他者の自由や尊厳を損なう災厄を招く大きな要因の一つだと思う。
自分とは異なる別個の意思を持った存在なんだ、と相手の尊厳を認めるのなら、相手のありのままの姿を見ようとするはずだし、それが大切なのではないだろうか。
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