信頼と警戒
弱音を堂々と吐けるのも一つの才能だな、と時々思う。
弱っている所を人前で見せるのは大変だ。そういうつもりがなくてさえ、親切の押し売りみたいなのが来るから。
だから、弱みも見せれる人間て強いな、と思ったりもする。
俺が感情的な弱音を吐くことはまずない。
ここで痛がってないともっと困った事になる、とか、何かの状況次第ではそういう演技も世渡りの一環として割り切ってする程度の知恵はある。でも演技ですら、人前で弱音を吐くのは、俺にとってとても精神的に辛い行為だったりする。
そこは父に暴力による屈服と服従を強いられていた幼少期のトラウマが関係しているという自覚はある。何かとても自虐的な行為をしている気分になっちゃうんだ。
自分が弱っている時こそ身を守ろうとするのは、そういう育ち方の影響も大きいと思っていて、無条件に身も心も相手に委ねる、という行為が自分には難しい。
祖父母の保護はあったけれど、母もネグレクトで、そのネグレクトな娘にでも子育てをなるべく任せよう、という田舎の農家特有の古い家族観を祖父母が持っていたので、逆に逃げ場がない面があった。
扁桃腺炎で高熱を出して一週間も小学校を休んでいるのに、祖父が気付いて医者に連れて行かれるまで放置されて、そうすると「明日も熱が下がらなかったら病院へ連れて行くつもりだった」と平然と言う母親に身の安全を預けていなければならなかった。
父に受けた暴行で血尿を出して悶絶しているのに、事件発覚を恐れてずっと放っておかれるから、家の保険証をかっぱらって自分で病院に行ったら即入院、なんてそんな馬鹿みたいなことばかりだった。
でも、そういうのがネグレクトだ、なんて知識もなく、ただ自分の家庭はそういうふうだ、という認識しかないものだから、周囲の大人や友達に話しても理解されなかった。ただ、親をもっと尊敬しろ、と言われて、そう思えない自分が悪者扱いになる現実から、逆に社会そのものを「信用に値しない理不尽なもの」と感じていた。
だから、仲のいい家族で育った人の親しげな距離感にも戸惑う面が多い。
自分の知らない別の言語で目の前で会話されているみたいで、姿形は同じ人間なのに違うものだから、どうコミュニケーション取ればいいか分からなくなるんだな。彼らは自分たちのペースでどんどんやっていくから。
あと、分からず戸惑うだけならまだいいけれど、相手が自分たちの流儀でこちらに接触してくるのがもっと困った。
分からないものに中途半端に順応したふりをしても、ポイントを外すし、こちらでは頑張って相手に合わせたつもりが不興を買うと、当然もう自分の素で通すのが一番、となる。
まあ、そういう形で、愛情溢れる温かい家庭の育ちの子と、そうでない育ち方をした人間は、なかなか親密にはなりにくいところがある。これは、他の人たちの話を聞いてきた中でも、似通った内容をたくさん耳にしてきた。
うちの田舎、愛知県尾張地方の人間の性格として、割合躊躇せずにドカドカ相手のテリトリーに入っていって世話を焼いて、それが当然と思っている節がある。
ただ、困った時にはお互い様とも言うけれど、それが結構何かの思惑付きである場合も多いので、実はなかなか厄介なものな訳だ。
やたらと調子が良くて、ある意味コマーシャルな耳触りのいいことばかり言う人間は、俺は取り敢えず警戒するし、実際、本当に胡散臭い人も多い。弱り目に祟り目、という感じで、辟易した体験も多々ある。
でも、それも込みで上手く対処する、というのをみんなやっているものだったりする。だから、お節介も素直に受け入れるのが大人な態度なんだ、それがコミュニケーションスキルのうちなんだ、という説にも一理あると感じる。
逆にそれくらい単純だったり、口が上手い相手には騙されやすかったりするだけ、というパターンも世間にはよくあるけど。
個々人の自立心の強さやテリトリー意識の持ち方、安全面での経験値とかも関係しているな、とよく思う。
警戒しないで家の鍵を締めないで済む環境で過ごせたらいいけれど、知らない他人が出入りする都会で同じことをしたら実際危ない、という環境差もある。
相手の親切を受け入れたり、弱音を吐いて誰かに甘えてみたり、警戒心を持たずに相手を信頼する、という姿勢は、やはり良いとか悪いとか、一律にあるべき価値基準を指し示せる次元の問題ではないと思う。
ただ、それでも、俺としては、弱音も他人に見せれる人間の方が本当は強い、という印象が結構ある。
今なら病院で看護師さんとかには全然甘えているんだけどな(笑)。もう、若い白衣姿の女性に優しくされると気持ちよくって気持ちよくって。
人間、年齢と共に恥じらいが減り、図太くなる、というのは否めない。ただ、個人的には、そういう調子の良さなら昔からあった気もする。
弱っている所を人前で見せるのは大変だ。そういうつもりがなくてさえ、親切の押し売りみたいなのが来るから。
だから、弱みも見せれる人間て強いな、と思ったりもする。
俺が感情的な弱音を吐くことはまずない。
ここで痛がってないともっと困った事になる、とか、何かの状況次第ではそういう演技も世渡りの一環として割り切ってする程度の知恵はある。でも演技ですら、人前で弱音を吐くのは、俺にとってとても精神的に辛い行為だったりする。
そこは父に暴力による屈服と服従を強いられていた幼少期のトラウマが関係しているという自覚はある。何かとても自虐的な行為をしている気分になっちゃうんだ。
自分が弱っている時こそ身を守ろうとするのは、そういう育ち方の影響も大きいと思っていて、無条件に身も心も相手に委ねる、という行為が自分には難しい。
祖父母の保護はあったけれど、母もネグレクトで、そのネグレクトな娘にでも子育てをなるべく任せよう、という田舎の農家特有の古い家族観を祖父母が持っていたので、逆に逃げ場がない面があった。
扁桃腺炎で高熱を出して一週間も小学校を休んでいるのに、祖父が気付いて医者に連れて行かれるまで放置されて、そうすると「明日も熱が下がらなかったら病院へ連れて行くつもりだった」と平然と言う母親に身の安全を預けていなければならなかった。
父に受けた暴行で血尿を出して悶絶しているのに、事件発覚を恐れてずっと放っておかれるから、家の保険証をかっぱらって自分で病院に行ったら即入院、なんてそんな馬鹿みたいなことばかりだった。
でも、そういうのがネグレクトだ、なんて知識もなく、ただ自分の家庭はそういうふうだ、という認識しかないものだから、周囲の大人や友達に話しても理解されなかった。ただ、親をもっと尊敬しろ、と言われて、そう思えない自分が悪者扱いになる現実から、逆に社会そのものを「信用に値しない理不尽なもの」と感じていた。
だから、仲のいい家族で育った人の親しげな距離感にも戸惑う面が多い。
自分の知らない別の言語で目の前で会話されているみたいで、姿形は同じ人間なのに違うものだから、どうコミュニケーション取ればいいか分からなくなるんだな。彼らは自分たちのペースでどんどんやっていくから。
あと、分からず戸惑うだけならまだいいけれど、相手が自分たちの流儀でこちらに接触してくるのがもっと困った。
分からないものに中途半端に順応したふりをしても、ポイントを外すし、こちらでは頑張って相手に合わせたつもりが不興を買うと、当然もう自分の素で通すのが一番、となる。
まあ、そういう形で、愛情溢れる温かい家庭の育ちの子と、そうでない育ち方をした人間は、なかなか親密にはなりにくいところがある。これは、他の人たちの話を聞いてきた中でも、似通った内容をたくさん耳にしてきた。
うちの田舎、愛知県尾張地方の人間の性格として、割合躊躇せずにドカドカ相手のテリトリーに入っていって世話を焼いて、それが当然と思っている節がある。
ただ、困った時にはお互い様とも言うけれど、それが結構何かの思惑付きである場合も多いので、実はなかなか厄介なものな訳だ。
やたらと調子が良くて、ある意味コマーシャルな耳触りのいいことばかり言う人間は、俺は取り敢えず警戒するし、実際、本当に胡散臭い人も多い。弱り目に祟り目、という感じで、辟易した体験も多々ある。
でも、それも込みで上手く対処する、というのをみんなやっているものだったりする。だから、お節介も素直に受け入れるのが大人な態度なんだ、それがコミュニケーションスキルのうちなんだ、という説にも一理あると感じる。
逆にそれくらい単純だったり、口が上手い相手には騙されやすかったりするだけ、というパターンも世間にはよくあるけど。
個々人の自立心の強さやテリトリー意識の持ち方、安全面での経験値とかも関係しているな、とよく思う。
警戒しないで家の鍵を締めないで済む環境で過ごせたらいいけれど、知らない他人が出入りする都会で同じことをしたら実際危ない、という環境差もある。
相手の親切を受け入れたり、弱音を吐いて誰かに甘えてみたり、警戒心を持たずに相手を信頼する、という姿勢は、やはり良いとか悪いとか、一律にあるべき価値基準を指し示せる次元の問題ではないと思う。
ただ、それでも、俺としては、弱音も他人に見せれる人間の方が本当は強い、という印象が結構ある。
今なら病院で看護師さんとかには全然甘えているんだけどな(笑)。もう、若い白衣姿の女性に優しくされると気持ちよくって気持ちよくって。
人間、年齢と共に恥じらいが減り、図太くなる、というのは否めない。ただ、個人的には、そういう調子の良さなら昔からあった気もする。
by catalyticmonk
| 2017-01-04 14:29
| 闘病日記
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