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死を忌み嫌うマナー

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5月14日付の朝日新聞の記事に「(声)喪服で飲食店はマナー違反?」と題されて、以下のような記事があった。

〈少し前のことになる。親族に不幸があり、私は愛知県東部の郷里を訪れた。告別式は正午前に終わった。空腹を感じたので、駅ビルの2階にあったすし店に立ち寄った。店長の異様な視線を感じたが、そのまま食事を済ませた。店の外に出た途端、店長が若い店員に怒鳴る声が聞こえた。「塩をまいておけ!」 

どうやら、私が喪服を着ていたのが気に入らなかったらしい。縁起でもないと思ったのか、ほかの客への配慮なのか。うかつだったかもしれないと思いつつ、それなら「申し訳ございませんが、ネクタイだけ外していただけないでしょうか」とひとこと言ってほしかったとも思った。 

以来、喪服で飲食店に入るときは黒ネクタイは外すことにしている。だが、一方で思う。電車やバスなどでは喪服の着用をとがめられたことはない。公共交通機関では許容されることが、なぜ飲食店では許されないのだろうか。 

誰でも、身内や知人の葬儀に駆けつけることはあるはずだ。喪服は、そこまで忌むべきものだろうか。〉


死を忌み嫌う民間風習故の塩まきの儀式だけれど、私の郷里でもある愛知県は全体的にそういう事柄に偏狭なところがある地域性なので、これに類似した変な出来事は多いかも知れない。
ただ、葬式を行なう仏教寺院側の解釈は、死者は仏の修行の旅に出る者だから、それを忌み嫌うのは仏を忌み嫌うことである、として、こうした解釈を取らないよう。あくまで、死を忌み嫌う民間の俗習であって、マナー違反ではない。

そもそもが死を忌み嫌うマナーなどといったもの自体が、死にゆく存在である人間の妄念ではないだろうか。
今、癌闘病の真っ最中の人間の入院先に見舞いに行くのに喪服姿で駆けつけるとか、確かに特定の状況下では非常識とも思える形になる場合もなくはないだろう。だから一定の他人の心情への配慮があってもいい気がするものの、本質的にそれが公共性のある合意として強く他者に強要され得る正当性を持つものとは思えない。

個々人によっても解釈が異なる心理的なものを「マナー」云々と主張して、地元の人同士でも揉めているパターンが愛知県では珍しくなかった。
そうした問題はマナー意識全般にあるような気がする。自分の価値観や感覚・信条を他者に押し付けるのに「マナー」である、という主張が過剰に使われがちなのだ。そして、元々閉鎖的だったり保守的だったりする土地柄や環境だと、こうした問題が多発しやすい、という理屈のようだ。
死を忌み嫌う民間の俗習自体は古くからあるものな訳だが、今の時代は、日本全体がそういう大らかでない方向に進みつつある気が私はしてならない。

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by catalyticmonk | 2017-05-15 00:58 | 忘れ物 | Comments(0)

精神論の適用可能範囲

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先程の会話。
「大切なのは鈍感力!粘らないしなやかさ!」
「鈍感な人が鈍感力鍛えてもなあ。敏捷性はないし」
自分のことね。相手の感情をその場で読み取るのが遅い。

それを補うために相手の行動や発言をじっくり観察する癖がついた。ただし、それはその場その場で即発揮される臨機応変さではなく、事が起きてから物事を観察する非常に反応の遅い方法だ。
これをやらないと、私は人間としてほとんど機能しない。
鈍感力で上手くいくのはいいことだけれど、繊細だったり、掘り下げる性質の人も、それぞれの個性だからね。

私は虐待やいじめを受けて育ったんで、弱者やマイノリティーの人への世の人の差別や横暴って、よく考えていない軽はずみさからたいてい生じる、と感じている。
そこに何かをしっかり言って行こうとしたら、踏ん張って粘らないといけない面もある。

ただ、心が強ければ、その場その場で間隔を空けながらでも、繰り返し少しずつ粘っていけるだろう。
そういう、短絡的でない、地道なアプローチを古今東西の聖賢は語ってきていて、やはり一定の人間の知恵が帰結する道理はその辺りにバランスを見出しているのだとは思う。

でも、私の見てきた限り、人それぞれの持って生まれた性質の差は大きくて、まさに個性なんだな。
このやり方でやると上手く世渡り出来る、と言い切り過ぎても、結局、永遠にある種類の個性の人達の多様性が否定されたままの社会になる。

結局、両方必要なんだと思う。
踏ん張り過ぎたら折れるからしなやかさは大切だし、何かをしっかり言っていこうとしたら、踏ん張って粘らないといけない面もある。
お気楽で行こうとすると、そこをスルーしてしまいがちになる。
また、個人の内面が楽に生きる方法としては、生きている者は色々、欲や執着だから、そこから意識を切り替える軽やかさが肝心だろう。

そして、精神論は、絶えず限定的な仮定でしかない、という点も忘れてはならないと思う。
そうでないと、その人に合わない紋切り型の価値観を押し付けられてとても苦しむ人がいる、というのも私はよく知っている。
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by catalyticmonk | 2017-05-14 01:41 | 忘れ物 | Comments(0)

いじめ社会

本当にそうだよな、と思わされるアメリカの学校で起きた出来事の動画を観ました。

SNS上の掲載なのでリンクは特に貼りませんが、ガンになった祖父を励ますために坊主頭にした11歳のジャクソン君を、同級生がそんな事情も知らないでいじめた問題に学校のティム校長先生がどう対処したか、という話です。
校長が生徒を集めていじめられた生徒に自らの髪をバリカンで刈らせて、いじめた生徒を一人も責め立てる事もなく、人の心や事情も知らないで笑い者にしたり悪口を言う行為の愚かしさを諌めたところ、後でいじめた側の生徒らがジャクソン君に謝りに来た、という内容でした。

でも、アメリカ人なら、直接知りもしない伝聞を根拠に誰かを冷たくあしらったり、悪意のある態度や行動を取るにせよ、まだしも相手がはっきり何をされたか目の前で分かる形でやるでしょう。
露骨と言えば露骨だけれども、だから、一応その気になれば本人が「なんだと、この野郎!」と言い返す事も簡単だし、決着がつくかつかないかは別として、個人で正面から議論を挑み、周囲に賛否を問いかける事も出来る。
ここが日本とは全く話の土台が同じにならない部分です。

日本人は堂々とやらないで裏から手を回しがちです。
相手がその場では即反論や弁明が出来ないような、遠回しな言い方で、相手にだけそうだと伝わるような嫌味を言ったりします。ただ自分との関係が近しいか・遠いかだけで、自身では確認もしていない伝聞の噂話や主張を取り入れる判断を簡単にしてしまう。
だから実際、そもそもはっきり言いようがないのです。雰囲気の中での忖度や恭順で誰かへの評価や判断をしてしまいやすい。
雰囲気の中での空気読みだから、表立った直接的な言い回しや態度を一生懸命に避けて、集団でじわじわと相手を締め上げていく。

これではどんなに勇気ある個人でも、正当な言い分がある人物でも、自分に起きている理不尽な扱いを上手く訴えていく事が難しくなります。
おまけに自分をそうやって吊るし上げている者の大半の顔ははっきり見えないし、やっている側も自分が全体としてはどんなプロセスに関わっているか認識出来ないまま。
結果として、表面的には品行方正な普通のいい人達が多く関わる群衆心理的な状況が発生しやすいので、冒頭に書いたアメリカの校長のような清廉潔白な人の行動がストレートに響く設定は、とても限られている気がします。
日本ではちょっと粗暴だったり、露骨な悪態をつくタイプの人間の方が、まだずっと裏がないくらいです。

私がヨーロッパ人の人達と口論した時に感動したのはそこです。
自分に露骨な悪意ある態度や失礼な真似をした相手に、直接「どうして、そんな不当な態度を取るのか私は納得出来ない」と詰め寄ると、日本の文化で育った者からするとびっくりするくらい率直な返事が返ってきて、お互いのわだかまりが溶ける、という体験を何度もしました。
そんな体験は自分の生まれ育った国ではまずなかったので、私は涙が出るくらいに嬉しく思ったものです。
日本人とでも極親しい間柄ではそういう事もなくはないですが、社会的には大概はまず通用しません。せいぜいが、その場だけヘコヘコと恐縮したり笑顔を見せて、後から全然表面的な態度でしかなかった、と気付かされる場合が多い。

大の大人でも子供みたいないじめをする社会。
そこを自分達に言い訳する材料が、協調性の美徳だとか、忍耐や謙遜だとか、周囲の多くがそうしている現実とか、山のように用意されています。
もし、その人が卑怯者で、他人を都合良く利用出来ればそれでいい、という人達なら、私にはもう何も言う言葉がありません。
だけれど、もしも人としての真っ直ぐな心があるのなら、我々自身の判断と勇気がいつも試されているのだと思います。
どんなに親しい人の言葉でも、周りの空気がどうであっても、そこが受け身なままでは、自立した「自分自身の」良心が活かされて、清々しい思いで人生を送る日は永久に来ないでしょう。
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by catalyticmonk | 2017-05-12 00:18 | 忘れ物 | Comments(0)

手術前日の夢

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自分が今年の1月終わり頃に手術を受ける直前に書いた夢日記を再発見。読んでみて大ウケ。
私自身はテンションの高い際中に勢いで書き残しているので、あまり覚えていなかった。実際、いつこんな事を考えていたんだろう、と不思議に思うような記事までブログには残っている。

今、読み返すと、やっぱり正直心細かったんだろうな、救いを必死で求めていたんだろうな、なんて自身で思わないでもない。
たとえ夢であっても、こういう時の体験は、現実並に心に滋養を与えてくれるものだ。

何が救いを与えてくれるのか。自分自身のための創造行為を無意識が行なっている、とも言えるだろうが、私はそれを神の恩恵と呼ぶ。
そして、ここに出てきた女性は、私の女性的側面の投影・アニマなのだろう。

以下がその記録。


夢。
私は都市郊外の南北に走る幹線道路近くの、木造平屋建ての粗末な長屋に住んでいる。
イメージとしては、私の育った時代の愛知県尾張地方にある尾張中央道周辺の、片田舎に住宅街やスーパーマーケット、飲食店が点在する環境に似ている。
その狭くて暗い長屋に、彼女と同棲しているが、その女性を夢の中では私は昔からよく知っている気でいる。どうもとても危険な女性らしい。

私は毎日の暮らしと環境にとても辟易している。
女性と転居することになる。何か不穏な事情付きで。
今度は、東西に走る幹線道路が平屋の北側を走っている。この道路もおそらく国道1号線が愛知県海部郡の弥富辺りを通っているイメージだ。私はその辺りに住んでいたことはないし、周辺の木々や植物、日の光の感じが現実より随分熱帯地方っぽい。平屋もなんだかオレンジ色の壁で南国風だ。

建物を挟んで幹線道路に面している所とは反対側の庭に出る。
南側は次の住宅地まで広々とした水田が敷地のやや下に開けていて、日当たりも良く開放的な雰囲気に、私の気分は晴れ晴れとしてくる。
小さくても庭木が周囲を囲んでいて、もっと色々植えたなら素敵な和む空間になりそうだ。まだ敷地には芝生も植えていなくて、壁も地面も、目の前にある南インドみたいな家の古井戸も、なんだか全部オレンジ色がかっている。

私は、もう覚悟を決めなければいけないと思って、古井戸の前で彼い女の手を握り、共にずっと暮らしていく決意を伝える。
どうも夢の世界でも私は暗い過去を持ち、そういうことに慎重な男であるようだ。でも、ここまで来たら引き下がれない、言うべきことは言わないと、なんて考えるあたりも現実の私の発想そのまま。
不器用ながら単刀直入な愛の言葉を告げ、彼女と手をつなぎ合う。彼女の方はそれに驚く様子もなく、当然だ、といった感じで淡々と受け止めていて、私はホッとしたが、内心少し物足りなくもない。

彼女は唐突に庭に木を植えようと言い出す。
すぐに彼女に握り合った手をそのまま引かれて、家の西側の細長い通路を抜けて幹線道路沿いの北側の庭に連れて行かれる。
私はこんな場所より南側の井戸の前がいいんじゃないか、と提案するも、彼女は強く確信に満ちた表情で「ううん、ここでいいのよ」 と言う。

見渡せば北側にも庭木はすでにいくらかあって、白いテーブルと椅子もある。そして、懸念事項である幹線道路側も、家の柵の上から見えてくる景色は熱帯地方の明るい雰囲気が満ちていて、ここもまんざらでもない寛ぎの空間になり得そうだ。
道を渡った先には工場か何かの境界木なのか、15メートルほどありそうな立派な木立ちが燦々と緑豊かに輝いて、葉で日光を受けながら聳え立っている。

そうか。私たちは、ここで植えた苗があの木のように大きく育つまで末永く健やかに暮らすんだ。
北側なら植えた木が大きく育ち過ぎて南側の日差しを遮ることもない。そして、そうなるまで長らく健やかに私と暮らすつもりでいる、彼女の静かな強い意志と、意外と慎ましやかな願いがゆっくりと伝わってくる。

なんて調子のいい夢を見た朝に家を出て、明日の手術に向け入院する。
結構素直に感動したので、ただの願望投影以上に内的癒やしがある夢だった気がする。
去年から4回目の入院で、付き添いは毎回誰もいない独り者なんだから、このくらい虫のいい夢を見ても許されるだろう。

天気が良くて、窓から富士山が見える。病棟の中は相変わらずシャツ一枚になっても汗が出てくるほど暖かい。
春にも夏にも秋にも入院したが、これでオールシーズンを通して徹底した温熱療法が、ガン病棟の基本としてあるのが実感できた。
夢の中で見た大木のように、日光をたくさん浴びて葉を実らせたい。
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by catalyticmonk | 2017-05-10 00:34 | 忘れ物 | Comments(0)

ワイドショー的な文化


こういう話こそ、色眼鏡を抜きに考える訓練をした方がいい、とよく思う。

この人は詐欺行為を働いたからこそ、注目を浴びて、なおかつその姿形を悪意に満ちた冷笑の攻撃ポイントとされたのだろう。
確かにタイ人の交際相手に詐欺で集めたお金で豪邸を建てたとかいうところは、被害者からしても腹立たしい部分かも知れないし、交際男性に年齢を大幅に偽っていたというのも下世話な関心は呼ぶ。

だけれど、女性が「若作り」しようが、誰がどういうファッションの嗜好だろうが、それはあくまで自由だ。そこを犯した罪と混ぜて考えてはいけない。
そうやって罪にまぶして笑いものにする人達は、実は高齢の女性が若作りしていると馬鹿にしていい、という価値観を持っている。
犯罪者だから、普段は隠しているそうした考えを、大っぴらに出して笑いものにしましょう!とこのような記事は呼び掛けている形になるので、話題にもなる。でも、そうやって笑う事は、他人のファッションや姿形を自分の基準で嘲笑してもいい、という考え方を確実に助長する。

たとえ笑われた対象が、特定の犯罪者であったとしても、同じように50代60代の女性が、或いは男性やジェンダー観が少数者の人が、自分がしたいような格好をしたい、若しくは現にしている事に対して、そうしているだけで非難されたり嘲笑されるかも知れない、という重圧を抱く事になる。

今の時代、50歳の女性でも本当に無理なく若々しい魅力を持っていたりするし、年なりのオシャレがいいと思う人もいれば他の趣味や考えの人間もいて、それはすべて個人の自由だ。
なぜ、こうでなければ他人から笑われる、というプレッシャーや価値観の押しつけ、集団圧力といったものを、個人が他人や社会から受けなければならないのか。

ワイドショー的な文化と言うか、実際、そういったトーンで芸能人や政治家、有名人のゴシップでも、犯罪に付随したその人の私生活でも口汚く笑いものにされて、それが公共の放送から職場、生活環境に溢れているから、私はそれにいつも辟易している。下賤なワイドショー的な文化こそ、私達はもっと恥ずかしく思うべきなのではないか。
その意味では、日本の市民運動や野党の意識レベルも、大概は落第点で、未だに話にならないほど幼稚だと感じている。

補足すると、私が呆れているのは「男はこういう格好やスタイルでなければいけない」という固定観念や、LGBTの方や単に貧乏である事を笑いのネタにしようとする文化等も含めて全部だ。
とにかく、それが何か他の攻撃材料と抱き合わせになると、普段人権がどうこうと言っている市民運動系の人達や野党系の人々でも堂々とそういう不当な個人叩きを安易に始める。そこが根の深いところだと感じる。

正直、いくら緩やかに多様な価値観の人とつながる事が大切だと分かっていて、他で同じ目的意識を共有出来ている人々だったとしても、そこは共感出来ない。なぜなら、こうした種類の偏見は多様性の否定そのものだから、曖昧なまま流していていい性質の事柄でもないと私は感じるからだ。

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by catalyticmonk | 2017-05-01 02:25 | 忘れ物 | Comments(0)

便利で華やかな貧しさについて

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どんな表現でも言える事だと思うんだけど、雄弁な脚色は、かえって想像力の範囲を小さくしてしまう気がして、例えば往年の名曲に、妙にきらびやかで豪華な演出の映像を添えてアップロードされている動画を観ると、よく首を捻りたくなる事がある。
また、活字の読書よりもスマホでインターネット上の情報を追う方が標準化している今の時代が、便利な反面、心豊かとも言い難い方向に向かってきてはいないか、と度々考えさせられる。

それでも人間は、一旦手にした便利さを簡単には手放さない。フィルム式カメラがどんなに味わい深くても、バッテリーが続く限り何度でも撮影出来て現像費用も要らないデジタルカメラが手離せなくなる。
でも、文化・技術や文明の進歩が、人間の想像力を奪っていったとしたら、それは文明の袋小路、衰退にしか結びつかないのは明白だと思う。多少不便でも、想像力の豊かさと心の幸福が優先される時代に人間社会が進むように願っている。

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by catalyticmonk | 2017-04-24 01:30 | 忘れ物 | Comments(2)

今、死にたい人達へ

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死にたい、って言っている人に死ぬな、なんて他人が簡単に言えないけどね。でも、SNSのタイムラインを見ていると同時進行で何人も「もう死にたい」って毎日書いてあるからさ。だから、そんな気分だったり、心のどこかにそういう思いがある人に向けて書くんだけど。

今、そこそこ調子良く健闘出来ている人達は、ここに書く事を別に読んでくれなくていい。
でも、死にたい、死にたい、ってSNSに書いている人達がゴロゴロいる世の中って、やっぱりその人達個人以上の何かがあるんだとも思う。

ぶっちゃけね、こう思うんだ。
去年から3回癌の手術をして5回入院して見舞い客は一人も来ず、それでも何ら具体的な中身のない憶測や事柄ですぐにボロボロ叩かれて、ある意味、子供の頃から一貫していじめられっ子のままで生きているような私が、絶望する事もなくまだしぶとく生きるつもりなんだよ。
だから、みんな色々悩みはあるだろうけど、自信持って生きていていいと思うな。

もうすぐ6度目の入院もする私から、救いの手を差し伸べてあげる事も出来ないし、もちろん、そんな、悩むな、って一言呪文を唱えたら悩みが消えてなくなるものだとも思ってないよ。自分が強いんだ、って言いたい訳でもない。
この世には辛い事や、あまりにも理不尽と思う出来事がたくさんさ。さらに、それを人に言えなかったり、理解されなかったりさえする。本当に汚ない、卑劣で無慈悲な事だらけだよ。

なのに、人間関係も、社会的成功も、結果がすべてみたいに言われがちだから、余計にやる気を失くすんだよね。そんな、誰と結婚して、たまたま入った会社で出世するかリストラされるか、なんて紙一重の運なのにね。
そんなにみんながたまたま出会ってときめいた異性の内実や、将来の希望を賭け、生きていくためにすったもんだして、どうにか潜り込んだ進学先や就職先で起きてくる事柄を、堅実に想定出来ているのかね。誰にとっても、ほとんどギャンブルみたいなものなのでは。

そりゃあ、その人その人の努力の成果もあるから頑張りたいだけ頑張ればいいんだけどさ。
結果はいつもたまたまの巡り合わせと時の運でね、必ず上手くいく方法なんて何もない。国家のトップになった人でさえ、最後は収賄事件で失脚したり牢屋に入ったり、暗殺されてしまう事すらある。

だから、たまたま今のところ恵まれていて順調な人が、「あいつはダメ人間だ」なんて簡単に他人を決めつける方がおかしいんだからね。
そんな、仮にそうだったとしても、弱り目の人間に言っても仕方のない誹謗中傷を偉そうに言っている人物を見ると、「この人は心底人間として残念な人だなあ」と私なら感じるだけで。

人の不幸は蜜の味なんだよ。
でも、今死にたい程苦しんでいるあなたは、決して他人の事をそう思わないはずだ。その時点で、あなたはあなたを嘲笑う人々より確実に人間として素晴らしい。
だから、そこで傷付いたとしても、実際、傷付かなくてもいいのさ。

プライドがあるのに、自分が大悪人みたいに言われて吊るし上げられたり無視されているから、言い分はあるのに、それをまともに聞いてももらえなかったりするから、一人で切羽詰まったり、悔しくなって死にたくなるんだよね。

不器用な人だと、特に不器用じゃなくても運や相手次第で、相手に何をされて、どういう経過でそうなったか、なんて一々申し開きしないうちに、すっかり孤立してしまって、自分でその相手に尽くしたり信頼していたりしていたならいた程に、その事に骨身を削って打ち込んで頑張っていたらいた程に、深い失望を覚える、ってのはさ、自分も苦い経験が過去にあったからよく分かるんだよ。

でも、その失望したものの外にも世界はあって、別の人生の時間と新しい出会いの可能性があるんだよね。
失望し続けているとしたら、そこにまだ忘れられない程の希望を抱いているという事だろうけど、少なくともそれで自分が幸せになっちゃいけない理由にはならない。
特にヤケになって死にたくなるくらいならね。死んだつもりになって一からやり直せばいいのさ。自分で、幸せになればいい。
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by catalyticmonk | 2017-04-16 17:34 | 忘れ物 | Comments(0)

遠慮し合う前提か、シェアし合う前提か

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別にこの女の子たちが撮りたかったのではない。昨日の井の頭公園で夕暮れの桜を撮っていたら、一番いいロケーションの場所を集団で囲んで動かなかったのだ。
夕暮れの一番いい時間帯だったので他の花見客も撮りたそうにしていたけれど、どうやらアジア人の若者のグループのようで、ナイーブな日本人は引いている様子だった。

私は、自分自身も日本人マインドではないので、ずかずかこの子たちの占拠している場所に突進して撮った。
それでも一切動じないから、やはり日本人の女の子たちとは全然違う。お互い様だと思っているから、特に傍若無人に振るまっているつもりもないのだろう、というところは、馴染みのあるインド人の感覚を思い返すと想像が付く。

このあたりの行動様式の違いが、日本人の隣国のアジア人嫌悪の一因なのだろうが、私からすると西洋人も相当厚かましい。ただ、もうちょっと個人個人バラバラで動いているので、アジア人よりは目立たない面はある。

こうした場面の記憶を後から取り上げて「日本に来ているのだから、もっと日本の文化の流儀に合わせろよ」というような陰口をアジア人に対してはよく言うのに、西洋人にはそれほど言わない。だから、その辺に白人コンプレックスや人種差別意識をどうしても感じてしまう。

で、私的にはこういう感じの方が気が疲れなくて好きだったりする。
自分たちのやりたいように行動しながら、同じ空間をシェアし合っているんだ、という部分をわきまえているのなら、そちらの方がよっぽど人間味があってストレスが少ないではないか。


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by catalyticmonk | 2017-04-12 00:23 | 忘れ物 | Comments(0)

春萌え気分の消失

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昔、結構いろんな方向に敏感なある種のホンモノな方と暮らしていた頃があって、だから余計に春が近づくと人間の精神が不安定になりやすい、という事実は強く認識している。
単に脳内のホルモンバランスが気候の変化で崩れるから「ふわふわした」不安定な感覚をもたらすだけなので、実際、それは大なり小なり誰にでも影響する。

また、庶民は経済的に圧迫されているので、確定申告や職場の異動のある年度末は、現実的な不安材料も多い。毎年、この時期になると精神的に不調だったり、鬱屈した気分になっている人が明らかに増える。
脳内のホルモンバランスが崩れたふわふわ感を、春が近づいた麗らかな気持ちと捉えるか、知らず知らずのうちに身の置きどころのなさと感じてしまうかは、置かれている環境次第でもある。

私は、と言えば、昔からそういう春のモヤモヤした感覚はキャッチする方だ。だけれど、今年は全然その気配がないし、去年の春先にもなかった。麗らかな風情に萌えるでもなく、ジンジンとしたギラつきを光や音に感じるでもない。
中年になって鈍感になったのだろうか。

そうでないとも言い切れないけれど、そもそも去年は四季の風情をちっとも感じなかった。なぜかと言えば、ずっと手術や治療、病気の苦痛や不安に追われていたからだ。
暑いとか寒いどころではなかった。まず治りたい、死にたくない、病状がきつい時には目の前の苦痛から早く解放されたい、そればかりで、他の事柄は、趣味的な事柄から政治的関心まで諸々持つけれど、正直おまけだった。

人の話に付き合うのも以前の30%程度の意欲しかない感じになって、SNSでたくさんの人の情報を追うのもしんどくなった。
ただ、本当に身を入れて関心を傾けていられる範囲はそんなに変わらないものだったりもする。健康だと、気力・体力の浪費も多いものだと実感しないでもない。

今は今年の初めに3度目の手術もして、一応順調なのだけれど、来週火曜日にまた検査で、手術部位の回復度合い次第でまた投薬治療開始だから、やっぱり緩んだ気分ではない。以前の経験では化学療法が始まるといろんな事が手につかなくなったので、間も結構追われるようにいろんな事柄を処理していた。

だからちっとも漠然とした不安にも浮かれた気分にもならない。「春萌え気分の消失」とでも命名しておく。
ずっとシャープな気分と言えなくもないけれど、季節の情緒を感じる感性は、もっと気が抜けたような瞬間に訪れるものだったんだなあ、なんて気付かないでもない。
まあ、余分な不幸を受け取らずに済んでいるな、と思う面もある。不幸が追加トッピングで来ても、そんな注文してません、と受け付けない、みたいな。
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by catalyticmonk | 2017-03-10 00:53 | 忘れ物 | Comments(0)

「神」という言葉の両価性

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思いきってカッコつけてみる。B級SF風コラージュ写真といったところかな。
他人がどう感じるかは別として、これが自分なんだ、と変態度むき出しにして作らないと、中途半端な自己主張じゃつまらない。

ドン引きされ兼ねないテーマの抱き合わせで、私が数日来書いても秘蔵していていた手記を出してみる(笑)。
神に関する独白だったので、出しても唐突で個人的過ぎると思われて、誰かに絡まれるのが関の山かな、と思い、表に出していなかった。

ま、そんな大した作品を構えて作ったつもりもないけど、今は私がすぐにこういうコラージュ写真を作ってしまう内的世界観の根拠の説明にもつながる。
対象物の素材は結構ランダムだけれど、こういう生命の息吹きや流れを体感しているのは事実で、ある部分、宗教的な次元とも言える。だけれど、それは私が日常的に身近に感じている感覚を出しているだけで、大それた意図もない。ユーモアとだって同居可能なものだ。

だから精神錯乱でもデタラメでもないのだけど、神秘思想を拙い表現力で振りかざしている訳でもない、といったところの説明はあっていい。
その意図で出すのであれば誰かと議論するつもりはない、という意思も明示しやすくて好都合だ。フロイト学派かぶれの精神分析オタクなら、とっても意地悪な解釈をしてくれそうだけど。

無神論を押し付けてくる人も時折いて、それが自分にとってなんだかな、と感じさせられるところから、なんとなく想いをまとめてみた。

まず最初に明確にしておくと、私はどんな信仰や価値観があってもいいと考えていて、自分自身で特定の宗教団体に入信した事は一度もない。
だけれど、理詰めに神なんていないから無神論になれとか、唯物論になれ、と言われると困る部分がある。

特に仏教のお坊さんの中にそういう事を押し付けがましく説教してくる人がいる。またインドでも仏教徒系の人脈に接続していると、神を信じるなど問題外だ、という強い論調があった。
別に仏教の価値体系を否定するつもりはないのだけれど、仏教徒と無宗教の人間が多い日本だと、そういう考えも少なくない。
あれを私に向かって言われるのは、実際時間のムダだ。だって何を言われたところで、私自身が神を感じているからだ。

私は最初から信じる・信じない、といった観念的な次元でない部分が強固だったので、神を否定する事はなかった訳だけれども、実は通常の人間社会の信頼関係の方がずっと観念的で、多分に迷信的だと思っている。

虐待家庭で育ったのも手伝って、人間を信用していない面が自分にはある。そう言ってしまうと人聞きがよろしくないのだけど、私は政治的・宗教的・商業的なプロパガンダや勧誘に人一倍疑念を抱く方だし、最初の時点で他人の言う言葉を慎重に吟味する基準が、大多数の世の人と随分違う。
だけれど、それは友愛の精神や同情心がないのとは違うんだな。
人間なんてそんなものだ、という次元で、自分とは異なる他者に絶対的な何かに求めたり押し付けたりしないし、だからこそ人への共感や温情も感じられるんだ。
私の中に父権的権威として何かを崇める気持ちはない。

自身の頭でしっかり考えないで、誰か何かの権威が正しいと言ったものなら正しい、悪い噂を信じてもう即他者を吊るし上げたり虐げる、なんて態度の方がよっぽど迷信的だ。悪しき宗教のイメージの源泉もそうしたところにあると思う。

私の場合は、現実の肉親に父親からは直接的な暴力と精神的虐待を受け、ネグレクトの母親からは母なる愛を求められない、母の実家の祖父母や叔母の存在によってなんとか育ったけれど、その保護も中途半端なもので、基本は自分自身を信じるしかない、という独特な環境で育った。
多分、生き物として生まれ持った母なる愛を求める気持ちそのものが、神の光を直接体感する、という回路に繋がったのだと感じている。

そこの中身について誰かと討論する気はさらさらない。
もし、普通の家庭で育った人が他人から両親を愛してはいけない、と説教されたら不快に思うだけなはずだ。
やっぱり、フロイトかぶれが残酷な解釈をしたがりそうな部分だと思うけれど、彼らの犯しがちなそうした躁的解釈みたいな態度こそ、ある種の病気だ。

神を感じる感性というものは、考える行為によって分かりにくくなる面がある。カテゴライズや様々な疑念が神を見えにくくする。
しかし私の実感からすると、神は神なんて言葉すらなくても存在するもので、人間だけが神を感じている、というのは、実は嘘だと思っている。
人間は「神」と言葉で呼んだ事によって、逆に他の言葉でその原初的な感覚を撹乱され兼ねない状態に自分たちを追いやってもいる。

ある意味、だからこそ本能を超える事ができたとも言えるのだろうけど、神と呼んだ事で、神がいろんなご都合主義な意味合いを持ち過ぎるようにもなった。
ニーチェが「神は死んだ」と言って、近代的自我に目覚めた一般社会に反響を与えたのは、彼自身の思想よりもそうした次元でだろう。

神とは、命の根源と繋がった理法そのものだと感じる。
それを無意識と呼ぶか、本能と呼ぶか、或いは神秘的な力とするか、といった議論は枝葉末節であって、ただ感じられる人間にとっては理屈抜きに感じられるものだ。
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by catalyticmonk | 2017-03-02 00:19 | 忘れ物 | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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