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自分が信じて選んだ道で行く地獄なら④:人間らしく

そんなこんなで、私はどう言い訳したところで、人並みな親孝行とか家族付き合いとは無縁の人生にあります。
長年の介護疲れなどはものともせず、自分の母の死を悼む壮年男性の姿を見た時、何とも言えない気分になりました。その方の気持ちが美しい、と自然に感じ取る心が私にもあったからです。

ここで書いた内容は私と家族との関わりという、私の人生の中の極秘にせざるを得なかった事項、最暗部に属するテーマのギリギリの告白に特化しているので、実際には自由闊達に楽しく過ごしてきた面は他にもっとたくさんありますし、ことさら暗い印象を与えてしまう内容かも知れません。ですが、特に暗い印象にするために誇張をした訳でもありません。
むしろ、その多くに対して、今では自分の人生で起きてきたありのままの通常の現実、といった程度の感覚しかなかったりもします。


私はその介護されていたお母様を亡くされたばかりの方とその他数名で飲んでいた飲み屋から真冬の夜の冷たい外気の店外に出たばかりの時に、「やっぱり自分は死んだら地獄に落ちるんだろうなあ」と、思わず小声でボソッとつぶやきました。
もうすでに散々足掻いた末にしぶとく居直り生きてきているので、今さらそんな深刻な気分で言った訳ではなかったのですが、家族関係というもの全体に対して、ふとしみじみとした気持ちが静かに湧き起こっていたのです。
「地獄」というのは比喩ですから、変わり者なりの人生の結果は覚悟しないとなぁ、という意味で言っただけだった気がします。

すると、こうした自分の身の上話などはそこで一切していなかったのに、私が独りつぶやいた言葉を鋭敏にキャッチして、こう明るく返してくださったその夜の飲み会メンバーがいました。60代の小柄で快活な女性の方でした。

「自分で信じて選んだ道で行く地獄なら、そこも自分に合ってて楽しいかも知れないよ〜。地獄でも自分の居場所にしちゃえばいいんだよ!」

なんて素晴らしい、懐深い言葉を当為即答で瞬時に言える人がいるものか、と感動して、内心グッと来ました。自分を信じているならどこに行き着いても堂々とそこを宴会場にして楽しんでしまえばいい、ということでしょう。
そうだよなあ。やっぱりその時々で奮闘して来たのだから自分を信じよう。
そして、独りのようでも、世の中には、私の何気ないつぶやきから、こんなに胸に響く言葉を返してくれる人が現にいる。
それは同じ人間だからだ。私はまだ多少なりとも人の中にいるんじゃないか。

そんなふうに胸の中で思って、センスのいい思いやり深い言葉をくださったその方に感謝の気持ちでいっぱいだったのですが、言葉に出すとお母様を亡くされたばかりの他の方がおられる手前、自分を出し過ぎてしまいそうな気がしたので、表面上はほとんど反応せずに軽く聞き流しているふりをしてしまいました。


人生は色々。
だけれど、どんな人生であろうが、何が起ころうが、人間は死ぬまで人間として生きていられるのだと思います。
人間らしく生きられる可能性があるということを、転んでばかりの自分からこそ証明すべく生きればいいだけじゃないか、そう考えるようにしています。

だけれど生まれ持った環境にがんじがらめになって、身動きが取れずに時間だけが虚しくどんどん過ぎていく人生もたくさんあって、私は、父を捨て母を捨て、育て守ってくれた祖父母にも十分な恩返しも出来ずに来てしまったから、やがてはそれなりの結末を迎えるかも知れませんが、それなりに自分の人生を試すことが出来てきたのだから、物凄く恵まれていると思います。
人間がお粗末な割には出会いにも恵まれています。
物凄く恵まれているのだから、好きに生きてきたツケとしての孤独は受け止めながら、それでも人間の絆とか信頼とかを夢見て行こう。私がそうやって生きていくことが、私たちの一族の業を、私の代で少しでも減らして消化して行くことにもつながるはずだし、違う選択をしたことによって、控えめであろうとも、新しい何かを生み出して行くことだって出来るはずだ。
そんな自分の家族についてと、歩んで来た道のりについて、改めて感慨混じりに思い耽った夜でした。
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by catalyticmonk | 2015-02-26 20:08 | 自己経歴 | Comments(3)

自分が信じて選んだ道で行く地獄なら③:宿業

それから日本食レストランでの就労やアメリカの周遊、メキシコでバックパック旅行に目覚めて、短期間帰国して三菱自動車工場の期間工などを住み込みでした後、アジア、インドなどの放浪をし、ヨーロッパを通過し再びアメリカの焼き鳥店などで働く、といった様々な紆余曲折を経て、私は東京に居つき、新聞配達、パチンコ店店員、建築現場作業員、物流業界の派遣、警備員、露店商、果ては風俗店従業員に至るまで、様々な職業、アルバイト等を経験します。
学歴もコネもなければ世間に真っ当に示せる出自もない、社会の最底辺で這いつくばる若者の典型のような暮らしを長らく東京で送っていたのですが、三十前後の時期には、父ががんで危篤と聞き、さすがに会っておかなければ恨み言の一つも永遠に言えなくなると考え決心し、十年ぶりくらいに再会。これが大きな間違いの元でした。
結局父は一命を取り留めたのですが、その父の口車に乗って紹介された経営コンサルタントの事務所へ入った結果、やはりとんでもない世界に巻き込まれ、しばらく大変なことになります。

もう時効だと思うのですが、そこが有名な詐欺専門の事務所だったのです。
広域暴力団の金庫番や、ヤクザの組を畳んで地方自治体の首長に収まった政治家などが自ら事務所に訪れて頼んでいく裏帳簿の作成、潰れかかった中小企業に銀行融資を受けさせるための様々な工作、零落した地方の駅前の地価を上げるべく土地鑑定士とも結託していいかげんな土地鑑定書を作る等々、そこには保守から革新に至るまでの地方代議士、某オンブズマン協会、某有名人権団体すら絡んでいて、私はこの国の社会は正真正銘真っ黒なんだ、と驚愕して、社会への疑念を一層深めました。

正確には父の紹介と言うより、しばらくぶりに再会し、がんで人生のどん詰まりにいて一族からも背かれ孤立していると悲愴感たっぷりに訴える父に、私が馬鹿なので情をほだされて電話番号を教えてしまったところ、早速ある日、父の旧友だと言う人物から電話が掛かってきて、勧誘されたのです。
「君も東京で燻っていないで、オンブズマンの私の元に、社会正義のために頑張りに来ないか!」
そう言葉巧みに口説かれて、大阪の彼の事務所へ行ってしまったのです。
もちろん、最初は札束を文字通りばら撒いての強烈な説得で、社会正義という大ボラと、目の前に差し出された札束の誘惑に容易く負けてしまいました。私は何の後ろ盾もない貧困労働者として、胃潰瘍になっても診察だけ受けたら後は何の治療も受けれず、一人でボロアパートの一室で一年もウンウン唸っていなければいけないようなドン底の暮らしを何年もしていたし、世間知らずだったのです。
一旦入った以上は実態に気付いたからといって、そんな恐ろしい場所から簡単に抜け出せるはずもありません。彼らにしても私なら身元がはっきりしているから幹部候補に出来る、という目算だったようです。
私はあんな大冒険までして父の魔手から逃げたつもりだったのに、とうとうその手のうちに捕えられてしまったのです。父が昔私に言った、「俺の掌の上でどうにでもお前を転がせる」という言葉は、そんなにハッタリでもなかったことが証明されました。


ただ、私がそこの事務所で事務能力の低いダメっぷりを遺憾なく発揮し、父の存在もあるからリスキー過ぎるといったところだったのでしょう、半分は厄介者払いのような形でそこが経営顧問するコンピューター会社に出向後に入社したまではいいものの、そんなインチキ事務所が見ている企業なものだから、最後は二ヶ月半も給料未払いの上に夜逃げ倒産されてすってんてんになり、そこに私を送り込んだ所長ももう知らない、と言います。彼の名義で入居していた部屋からも出て行け、とも言い渡され、無一文の上にマンションを借りた際の入居費用まで請求され益々身動きが取れなくなった私は、今度も父に命じられるがまま、工事用の重機レンタル企業に入社させられ、三重県の山奥の営業所で壮絶なパワハラに遭う破目に。一体いつまでこんなことが続くのだろう、と思いました。
そこで遠くの山に日が落ちるのを眺めながら、海外を旅したり、東京で過ごした二十代の日々を、まるで遥か昔の戻れない遠い世界のように感じていました。

営業主体の企業だったので社員同士の競争を煽るような社風もあって、コネ入りした私は総つるし上げという状況に。それでストレスから不眠症となり、最初は内科で睡眠薬、それでも効かなくなって心療内科で精神安定剤なども処方されるようになりました。
それが同僚の密告によって上司が知れるところとなると、薬に頼るなどけしからん、ということで取り上げられてしまいます。

特にその重機レンタル企業は宗教のような強烈な自己啓発セミナーもどきの社員教育があることでも有名な会社だったようで、社員同士が「お前はもう⚪︎⚪︎(社名)を見て来たか!」という得体の知れない会話をするほどだったのですが、すぐに私にとって得体の知れない話でなくなってしまいました。
グアムに社員旅行で行った折には、もちろん私の家柄から特別に目を掛けられてしまっていたということなのですが、夜、中部地区のトップに直々に呼ばれました。
そこの部屋に入って行くと、各支部の幹部が十人以上車座になって待ち構えており、まず、私が薬に頼ってけしからんから、それを捨て止める約束を誓わされました。後で医師から聞いたところによると、突然そんなことをしたら薬の揺り返しが来て大変なことになる、ということでした。
そして、「内観」という行為を強要されました。
それは過去から現在に至るまでの自分の行ないを一個一個丹念に思い返して行って、素直に自省する、すると自分がなんと愚かな人間であったのか、お父さんお母さんや友に申し訳なかった、と思い至り涙が出てくるはずだ、と説明され、それを今ここで虚心坦懐に行なえ、と言うのです。
虚心坦懐に行なえも何も、十人以上の大人の男に寄ってたかって高圧的に、こうだっただろう、ああだっただろう、と自分のプライバシーを誘導尋問と催眠術のような問答でほじくり回されるのですから、私の自我は崩壊しました。
虚脱状態になったところでさらに、腹の底から笑う練習をさせられました。お前はすぐに考え込み、人間が従順でなく暗いからダメなんだ、「哄笑」と言って腹の底から本気で笑えばすべてを超越出来るのだ、と中部地区トップの幹部に言われ、哄笑の練習を延々と真夜中遅くまでさせられました。「ワーッハッハ!」「ドワーッハッハ!」
物凄く苦しいのに、そのうち気の触れたような笑いが自分でも訳も分からない感じで溢れ出るようになっていき、頭の中で何かが弾け飛びました。
その夜から、ホテルの部屋に戻っても一晩中、黄金色と極彩色の幻覚が目を閉じて眠ろうとしても瞼の裏で際限なく流れ続け、頭が割れるように痛く苦しくて一睡も出来なくなりました。

お盆中のグアムの社員旅行の後、再び出社すると、しばらくは取り憑かれたように熱心に働いていた気がします。しかし、ある日、とうとう営業所の敷地内でゴミを燃やしていたら念仏の幻聴が聴こえ出しました。完全なノイローゼ状態でした。

しかし私はそうなってからジタバタする諦めの悪さだけは半端でない人間で、東京のチベット文化研究所というところへ入会し、新幹線に乗って東京の講座にも通うなど熱心にアプローチした末、そこに紹介状を書いて頂くことに成功し、しばらく失業保険などで暮らしてリハビリした後、インドのダラムサラにあるチベット亡命政府直轄の文化学校への留学を決行。
元々、心理学などの人間心理への関心が高かったので、瞑想の勉強でもしようと考えたのですが、半分はそういう大義名分を掲げて海外へ行けばまた父を巻けるという計算も大きかったです。
そして父の干渉から脱出することにも再び成功。文化学校を辞めてからも瞑想センターに所属するなど器用に綱渡りをし、そのまま三年をインドで過ごしました。


付け足すこととしては、その後、インドで出会った日本人女性と帰国し結婚したという経過も実際小さくない出来事でした。
もちろん、こうしたことを書けるのも、私が実名・素性を隠して暮らしていればこそですが、いくらそうであっても彼女との生活で体験したことは、実際に感じた質と量に見合った分ほど詳細に書く訳には行きません。彼女が特定される危険性があるからです。ですから大幅に端折って書きますが、これ以上詳しく書けない事情もご理解下さい。
その相手が、結婚後に知ったことなのですが、精神的な障害を持った女性であるとやがて知るに至ります。
そうであると気付いてからも長らく共に暮らし、合計八年間一緒にいました。
「なるほど、こういう特別な女性なら自分と一生一緒にいてくれるに違いない。だから頑張ろう」、それが私の本心だった気がします。
で、私にがんが発見された後に離婚、一年ほど経って荷物の件で短くやり取りした際に、彼女から送られて来たメールに嘘か本当かは定かではありませんが、こう書き付けられていました。
「私はあなたと離婚してすっかり元気になりました。これが結果です!」と。

彼女は、心が落ち着いている時には、本当に可愛らしくて、自然や動物を愛し、そして芸術的な才能に溢れる特別な女性でした。私は今も彼女を憎む気にはなりません。もう愛しているとは言えませんが、それでも私の人生に多くの彩りを運んで来てくれたことに感謝しています。


〔自分が信じて選んだ道で行く地獄なら④:人間らしく(http://catalytic.exblog.jp/22837496/)に続きます。〕
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by catalyticmonk | 2015-02-26 20:03 | 自己経歴 | Comments(0)

自分が信じて選んだ道で行く地獄なら②:尊厳のための闘いと旅立ち

やはり父は長らく愛人を作っていたようでした。
そして長らく仮面夫婦の状態が続いた父母に対し、一族の長老たちから一族の嫁としての務めを果たさぬのならケジメをつけろと催促された父が母と離婚して別の女性と再婚するのですが、その際に母に慰謝料は払わず。自宅を与えたと言うのですが、その自宅は母の実家が父に頼まれて建ててあげたものです。
さらに、長老たちは自分たちで離婚を唆しておいて、「家庭を治めれん者は会社も治めれん」と言って、父を次期社長候補から一旦外した、と後から母から聞きました(こういう話は母は私に積極的に話したのです)。

しかし、もっと問題だったのは、父母の長年の不和と離婚騒動によって、母の実家の養子婿となった叔父の立場です。
一旦は一族の縁者となり、法事にも呼ばれるようになったのに次第に下駄を外される形となって追い詰められ、叔母との結婚生活も一時期危機に陥っていたようです。そこで、叔父は必然的に父と対立する派閥である私の祖父の弟、当時の社長に従属し出し、実際かなりの信頼を獲得した側近へとなっていきます。これは、父が自分で引き入れておいて後からハバにしたのだから、当然と言えば当然の選択だったのでしょう。

そして、こうした騒動を通じて、仲の良い姉妹だった母と叔母の仲が険悪になっていったようです。
叔母の双子の子育ても一緒に行なって、ようやく円満な中年期を迎えるかと思われた母でしたが、自分の両親である私の祖父母が老境に入り、不動産や家主業、田畑の委託といった家督を叔母夫婦に譲るようになるに連れて関係が悪化し、ついには母は叔母から「家族面して家に来てくれるな」と三下り半を言い渡されたそうで、それでも慰謝料も貰っていなかった母は実家の資産によって生活していました。
それで、高校卒業後も二十代の頃までは、私は元々母よりも叔母との方が仲が良いほどだったので、まだ時折母の実家とはお盆や正月などに顔を出すなど、多少の接点があったのですが、「お前が顔を出すと実家との関係が色々と微妙になるから、もうあまり来ないで欲しい」と母から言われ、交流が途絶えます。
母自身が離婚や実家との確執などで、重度の人間不信、人間嫌いになってしまったようで、元々まるで親密な親子関係ではなかったので、私としてもそれ以上どうすることも出来なくなったのです。


話は前後しますが、父はそれまで放置しておいて私が、高校半ばくらいから進路・進学の話題が出る段になって、一人息子を支配下に置こうとしゃしゃり出て来て、実家の会社に無理矢理入れようとしたり、私を絵心があるから知り合いの四国の陶芸家の釜に弟子入りさせるとか勝手なことを言い出したりして、さすがに私がそれに抵抗の意思を示すと毎回半殺しの目に。
ある時は、たまたま最初から酒に酔っていたようで、父の目の前を通った時に目を合わさなかった、とかいう被害妄想的な理由で唐突に本格的な暴行を受け、手刀で瓶ビールを割るのではなく斬ったり、薪を割れる彼からの殴打数発であっと言う間にのびた後、その状態でさらに階段から投げ落とされたり、壁にぶちつけられたり、多分、瞬間理性を失って私を殺そうとしていたと思うのですが、それで内臓から出血、腰椎二つを潰し入院。
母からも父がやったと言うとマズイことになるから、と箝口令を敷かれたものの、さすがにそれで父もしばらくは私にゴリ押しが出来なくなったようでした。

もうこれ以上最悪な状態もない、という心境に至った私は公然と高校を辞める、家を出る、と言い出したところ、彼はこう言いました。
「俺の目の黒いうちは、お前が東京だろうが大阪だろうが、日本全国どこにいようが、いずれ必ず俺の元に来る。すべては俺の掌のうちでどうにでも転がせるんだが、お前も若くて反抗したい盛りだろうから、今は気の済むまで好きにすればいい。
いずれ俺の元に戻って来て、一人前の男となり、いつか、嗚呼お父さん、育ててくださってありがとう!と心から思う日が来るのも俺には手に取るように分かっているんだが、今は俺も広い心で、一人の男としてお前を高い所から父としての温情で見守っていてやる」
そのエゴと支配欲以外、欠片の温情も感じられない父の言葉を聞いた16歳の私は、だったら日本から出て、海外に行ってやろう、と、ある夜、突然の思いつきで決心しました。
それから私は家を出、アパートの一室を借り住んで、夜は工場で働き渡航費用を貯め、昼間学校で眠る、という暮らしを続けながら高校卒業と同時に渡米し、様々な偶然の幸運に助けられて、父の魔手から逃れることに成功します。
高校卒業まで我慢したのは、調べたところ、未成年者の渡米には保護者の印鑑が必要ということで、中退するならそんな印鑑など押さない、と母からさえ言われたからです。

成功したキーポイントとしては、父が私のことを唐突に渡米したってトンボ帰りして来るだけだ、と見くびっていたに違いない点が一つの鍵だったのでしょう。
私は特別英会話が得意な訳でも、渡航先に留学のツテもコネもなくて、中学に入って少林寺拳法を習い始めたのと高校時代から引っ越し屋や倉庫のアルバイトといった肉体労働を通して徐々に逞しくなっていったものの、父からすると丸っきり男臭さに欠ける繊細で非力な少年であって、なめ切っていることは明白でした。
私の一世一代のバイタリティーが爆発したのがあの時期でした。本気で死んだって帰るものか、と思っていましたから。

まず、ロサンゼルスのアナハイムの空港に着いたら、そこからどうやって働く場所を見つけようと思っていた日本人街まで行けばいいかすら分からないし、交通機関について調べてもいないことに気付き、半日空港の中で途方に暮れていました。
すると日系人の自称フリーライター兼タクシー運転手だという人物が近付いて来て、私は恥も外聞もなく、どのような経過と熱意でここまでやって来たかを、その見知らぬ日系人の青年にぶちまけました。
すると彼は私を気に入ってくれた様子で、騙して身ぐるみ剥ぐなんて真似もせずに、リトル東京の学生や旅行者、不法就労者がたむろしているという宿の存在を教えてくれた上、適正運賃の30ドルでそこの前まで連れて行ってくれたのです!
さらに、何が何でも日本に帰るものか、という死に物狂いの気概を、そこで不動産業を営む中国人のおばさんにも好まれて親しくなり、仕事も住む所もトントン拍子で見つけれてしまったのです。
当時は自由の国アメリカ万歳!という気分でした。


〔自分が信じて選んだ道で行く地獄なら③:宿業(http://catalytic.exblog.jp/22837478/)に続きます。〕
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by catalyticmonk | 2015-02-26 19:53 | 自己経歴 | Comments(0)

自分が信じて選んだ道で行く地獄なら①:少年期

先日、ある年配の方が、最近長い介護の末にお母様が亡くなられたという話をされていました。
その方の一切大げさなところのない言葉少なな表現の中にさえ、亡くなられた肉親への情愛の深さが感じられて、心打たれるものがありました。

私は、実のところ、やむを得ない事情があったにせよ何十年も前に故郷を捨てた人間で、たまに関わると本当に命懸けの目にあうので、家族との付き合いもありません。だいたいが典型的なネグレクト・虐待の家庭であったから、私には父母への愛情というものがないのです。
その分、私を庇い育ててくれた母の実家の祖父母への感謝の気持ちは大きかったのですが、やはり複雑な家庭の事情があって、親戚付き合いさえまともにして来れなかった。
祖父が亡くなった時には万難を排して葬式に出ましたがね。ですが、基本的には自分が現れてはいけない存在なんだ、と強く再確認することとなりました。


父の実家はとある親族経営の会社を代々営んでいて、とても怖い人たちです。母の実家は愛知県濃尾平野の田舎の地主農家で、素朴ないい人たちでしたが、母が父と熱愛の末、私を産んだことから、嵐のような歳月が始まったようです。

まず、父も、母と出会った頃は家業を継ぐ気がなかったようです。実家への反発もあって父が空手の指導員としてヨーロッパへ旅立ってしまうのですが、よせばいいのに、父と母の実家総掛かりで「手を付けた娘を置いていくなら式だけは挙げろ」と二人を結婚させたそうです。
しかし、二年ほどヒッピーのような暮らしをしながら1970年前後にヨーロッパからアフリカやインド、アジアを旅していた彼が帰国すると、その間に母は私を出産していたので、一時帰国のつもりで息子の顔だけ見たらまたすぐに旅立とう、という荒唐無稽なことを考えていたという父を、またもや父の実家と母の実家総掛かりで止めて、父の実家の会社に入れてしまいます。
ですが、そこがそもそも企業ヤクザなんだから、どうしようもないんです。

最初のうちは母も父の実家の会社で事務員をしたり、赤ん坊の私と共に父の実家にいたようですが、何故かすぐに膠原病という国指定の珍しい難病に罹り、私の子供時代には今日元気でいたかと思えば次の日には風邪だ、発熱だと言って寝込み、到底まともに子育てが出来る状態ではありませんでした。
母の実家は、私の地元ではそれなりの旧家の地主農家だったので、母はそこの跡取り婿を迎えて家督を継ぐべく育てられてきた長女でした。
私個人はあまりそうしたものを信じるタチではないのですが、父方の家は人一倍神仏や霊現象といったものを信じている家風だったこともあり、霊能者に視てもらうと、母の実家の先祖が母が家督を継がず家の外に出たことに怒って祟っていると言います。
人間は不可思議な偶然が重なると、そこに別の意味を見出そうとするものです。ただ、ある人のところには次から次へといろんな出来事が起きるものなので、それも環境的、社会的、心理学的な理由がきっと背後に隠れているのだろうと思うのですが、それをそれぞれの家庭・個人が抱えた宿業、カルマと捉える発想は、私にも理解出来る気がします。


とにかく、そんなふうだったので、膠原病という原因不明の免疫不全の病を抱えている母が始終いろんな病気を拾って来ます。幼い私もそれに感染して高熱を出したりすることも多く、そのためか幼少の頃の私は少食で痩せていました。
また、病気で精神も衰弱していた母が睡眠薬自殺を図ったり、荒れていたのも事実です。母の実家が親子三人用にと当てがった平屋にいる時、子供らしいわがままを少しでも言うと母が興奮し出し、
「お前なんか産まれて来なければ良かったんだ!私の人生を返せ!もう子供のいない国へ行きたい!わーんっ!」
と毎回同じことを泣きながら叫び出し、ある時は裸足のままヒステリー状態で外に走り出した母を、私も泣きながら追いかけて、「ママ〜ッ!置いていかないで〜ッ!」と叫んで追いかけたりして、親子で近所に醜態を晒していた記憶もあります。

それで父が週末にたまに帰って来るとまた恐ろしい訳です。
病気の母に手をあげることはありませんでしたが、空手の指導員だったような男が気の荒い職場に入ったものだから、どんどん一般人と感覚がずれていって、それが悩める青年だった時代の父と恋に落ちた繊細な母からするとついていけないことだったようで、すぐに喧嘩となり、父の手刀で瓶ビールが斬られてビールの泡が天井まで吹き上げる、なんて調子で、そりゃあ睡眠薬自殺くらいしたくなるよな、という感じです。

自分の息子なのに泣き虫で弱々しい私も彼の気に入らないことが多かったようで、私は一つ一つは覚えていられないほどの虐待を物心ついた時から受けています。
母の実家の祖父母や叔母の話によると、まだ小学校にもあがらないうちから、父は私をゴム毬のように蹴飛ばし、そうすると二メートルくらい後ろに跳んでいった、と言います。
私の記憶としても、父と町内の温泉に行ったりプールへ行くと何故か突然お湯や水の中に投げ込まれて何度かそのままのびた記憶があります。私が水を怖がるから、お湯に浸かりたがらないから、といった理由だったようです。

そして、ある時は、多分、その日は母の体調も良かったのでしょう、真夏の暑い日に親子三人で出掛け、父と母はパチンコ店に入ったようです。ですが、私にその前後の記憶は全くない。気が付いたら熱射病になって病院のベッドの上で寝ていたのです。
それも小学校に入る前でしたが、中学生くらいの時に祖母に聞いたところでは、昔のことなのでエアコンもつけないまま自動車の中に私を置いてパチンコ店に父母が入り、長時間戻らなくて、そのまま熱射病になって入院した、ということでした。


そんなふうだったので、母の実家は初孫の命が危ない、これでは育たない、守らなければ、と思ったと祖父母から何度も聞きました。
母が療養する平屋から祖父や叔母が頻繁に私を連れ出し、幼い頃の私はどこが自分の住んでいる場所だか、いつもよく分かりませんでした。それが逆に、今でもどこでもすぐに自分の家の中にいるかのような錯覚を起こす図々しさの源になっている気はします。

ですが、田舎の人特有の、分けても旧家の厳格な家族観というものがあって、心配はしているけれど親子が一緒にいられる時には極力そうしなければいけないし、口を挟んでもいけない、という律儀な観念が祖父母にもずっと付いて回っていたようです。
私は父も母もあまり好きではない、と堂々と祖父母の前でよく言っていた気がします。
ボクはおじいちゃんとこの子になるの、もうあっちの家には行きたくない。
私がそう言うと祖母に、
「おお、お前、そんなこと、ママの前で言ったらあかんぞ。もう育ててもらえなくなるぞ。お前は外孫だで、うちの子にもなれんのだわ」
と言われました。同じ戸籍でない、苗字の違う「外孫なのだから」という難しい概念を幼い子供に言って聞かすくらい、彼らはそういう価値観の中を生きていました。
私は祖父母や叔母は大好きでしたが、自分が愛する対象から見えない壁で拒まれているような、自分の居場所がないような、なんとも奇妙な気分に襲われました。
早く大人になって、この世界から逃れたい、と思いました。

母は真っ暗闇のカーテンに隠れて私を脅かし、私が泣き出すとそれを「おお、可愛い、可愛い」と言って抱き締めるなど、彼女からはそうしたちょっと病的で倒錯した愛情しか受けた記憶がありません。
それでも、そんな母でも、母の実家で叔母や祖父母に囲まれて食事などしている時は、普通の、明るい田舎の純朴な人間であって、幼い私は混乱しましたが、おそらくそれが元々の母の姿だったのだろうと想像します。
私は彼女が膠原病であったことを三十を過ぎるまで知らされていませんでした。そのくらい徹底した秘密主義の家族だったので、今も私が知らないままの重要な事実はたくさんあるのではないかと想像します。


やがて、男の跡取りは曽祖父の代まで遡らないといない女系家族の母の実家に、念願の養子婿が来ました。当時の父の腹心の部下だった人物が叔母と結婚し、養子婿となったのです。
叔母とその父の部下の男性は、本当に気が合って結婚した様子でした。結婚する前にも週末毎に二人のデートに私も連れ出され、キューピット役だったのかどうか知りませんが、そのやがて私の叔父となった、愛情に満ちた健全な家庭で育ったらしい静岡の農家出身の男性は、非常に私を可愛がってくれました。
学校ではいじめられっ子で、大学で児童心理学を専攻していた担任教師からもアスペルガー症候群ということで、他校の特殊学級送り寸前という、辛い記憶ばかりのあの小学校低学年の時代に、唯一と言っていいくらい楽しい思い出を提供してくれたのは、大半は彼ら、身近に現れた若いカップルでした。

しかし、段々別世界の人種となっていった父は、それを政略的に利用しようと目論んだようです。何せ代々の親族経営で、本家とか分家とか愛人の子供を表面的に養子に迎えるとか、ただでさえ乱脈な血統ですから、一族内の派閥競争が激しかったようです。母の妹と父の部下が結婚すれば新しい親族ということとなり、一族内に父に近い派閥が増える格好になる訳です。
父は序列からすると次期社長でしたが、分家であり、私からすると父方の祖父の兄の子供には娘がいて、女の子が産まれても家の外に出さず養子婿を取らせる、という一族の掟が父の実家側にもありましたから、その養子婿筋もライバルですし、他にも父の年齢がまだ若くて先に祖父の弟が跡目を継ぐ可能性がある、といった状況でした。

そして、結果から言うと、曽祖父が愛人に孕ませた私生児を、曽祖母の死後に愛人を二番目の妻と迎えたのと同時に養子として籍に入れたという経過で一族に入った祖父の腹違いの弟が跡目を継ぎ、長い年月の権力闘争の果てに他の本家も分家もすべて駆逐し、自分の母の腹から産まれ出た血統だけを一族の継承者とすることに成功し、後年、父は一族を追放されます。
ですが、当時はまだ、そうした内紛の途中の過程だった訳です。そうした父の思惑に振り回されて、私の新しい叔父となった、その人のいい男性は、随分困らされたようです。
某大手ゼネコンの筆頭名義人を代々務め、怪しい活動を業界内ですると恐れられている魔族のような一族でしたが、企業としてはダム工事や高速道路建設をするような大きな建設会社であって、彼は手堅い就職先としてそこに入社してきた田舎の純朴な青年に過ぎなかったのです。そして、父と叔父の間には自然と溝が深まっていきます。

父はというと、出世とともに母子の前には姿を現さなくなり、私たちが母の実家近くにいるのをいいことに生活費すら入れないので、まだ小学生のうちは、父が半年以上も帰って来ないと母に連れられて京都や静岡へ父を捜しに行かされたものです。私は二度と帰って来てくれるな、とずっと願っていたのですが。

母は私が小学三年生くらいの頃から膠原病から快復し、次第に元気になって来た様子でした。私が小学二年生の時に、母が叔母の結婚祝いにと贈ったパーマ機がタコ足配線だったようで火元となり出火、母の実家が半焼し、しばらく住めない状態になるという災難も重なって、私が母と過ごす時間は長くなりました。
単に私が少し成長した分、手が掛からなくなったから、というのもあったかも知れません。とにかく、先述したように、祖父母の考えは、親子なら可能な限り一緒にいるべきもの、だったのですから。

本来的に母性的なタイプでなく繊細だった母が、そういうふうに私の世話を押し付けられたのは、一人の人間として見れば可哀想なことだったかな、と今から考えると思います。そうした抗えない人生の成り行きへの精一杯の反抗だったのでしょうか、母の私に対する態度は可能な限り干渉しない、放置する、関心を持たない、という姿勢でした。
私も怒られる時にしか干渉しない母に何の関心も抱かなくなりました。
小学校の中学年くらいになると、それまでいじめられっ子だった私が、腕白ないたずらっ子として頭角を現し始めます。喧嘩にも徐々に負けないようになっていきました。

ですが、それはほんの一瞬の時期です。私は部活動に興味を持たなかったからです。
音楽や読書が私を真に夢中にさせるものとなっていき、そうした文化的な刺激を通じて自分が感じるものと、周囲の素朴な田舎の環境と価値観なりのものの見方にどんどん同化していく同級生たちに、大きな隔たりを感じ出すという、何とも可愛げのない少年となっていきます。


〔自分が信じて選んだ道で行く地獄なら②:尊厳のための闘いと旅立ち(http://catalytic.exblog.jp/22837437/)に続きます。〕
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by catalyticmonk | 2015-02-26 19:45 | 自己経歴 | Comments(0)

アスペルガー的特徴と私の人生模様

①よく知らない人のプライベートな発言に触発され、何かを思いつく

②相手のプライバシーに触れないよう、それなりに気遣いながら自分寄りの体験や感想中心に語る

③関係ない話を振ってくれるな、という空気になる(チーン)

他人のプライバシーには余程慎重に距離を置かないと火傷するということが頭では分かっていても、現実の中の匙加減は42年間生きても未だに分からない自分(@_@)

あと、そもそも私は簡潔に自分の意思を伝える能力が欠如しているので、ふと思ったことでも言葉に出そうとしたら一々長くなる傾向にあります。
こういったのが典型的なアスペルガー症候群の特徴ですね。
小学校の時に児童心理学専攻の担任にそう指摘され、心理テストでもその可能性を示唆されたことがある、というだけなのですが、大人になってから様々な文献を自分でも目を通した限り、特に子どもの頃ほどそうだったのだろう、という確信は持っています。

また、一般にアスペルガーの子どもは歩行や喋り方、運動面で不器用さが目立つ、と言われていますがその通りで、色々奇妙だ、変わっている、と幼い頃からよく言われました。
スポーツ、特に球技などが全然不得意で楽しいとも感じられず、そのことで随分苛められたのですが、中学に入ってから少林寺拳法を習い出したのと、持久力はなぜかあってマラソンが速かった点、長じて社会に出てからは肉体労働に従事しなければいけない機会が多かったことから筋力をつけれた点などが私のコンプレックスを軽減してくれました。逆にそこそこ喧嘩に負けないようになったので、反動でやや粗暴な時期もあったかも知れません。

多分、私の場合は社会適応的にはかなり訓練されていて障害レベルではないと思うのですが、やはり表現が長いとその意図を相手に過剰に受け取られて、意思疎通に空回りが起きる頻度も高くなります。また、短く表現すると感覚が独特過ぎてもっと誤解の嵐になるという。
もう百発七十中くらいで誤解が生じるので、短いコメントを求められるような場面を私は内心いつもかなり恐れています。
どちらかと言うと肩を並べて居酒屋で語り合うようなスタイルの方が得意だったのですが、最近は健康上の事情でそういうこともあまり出来なくなり、少し残念です。

相手は私の真意の加減がなかなか把握出来ないみたいなんですね。随分、私の実感と乖離した想像をされるのだなあ、と常々思い知らされます。
正直なところの意志を四苦八苦しながらも伝えようとしているつもりですし、相当、素直な方だとも思うんですが、人からタヌキ野郎みたいに言われたことも数知れず。
だから若い頃ほど人間そのものを心底憎んでいました。一人残らずぶっ殺してやりたい、とか本気で思っていましたから。

で、ここの部分のストレスはどういう訳か西洋社会やインドではグッと軽くなって、特に男同士の友情というものを、人生の中で最初に体験したのはヨーロッパ人やイスラエル人でした。それまでの私は、主に育った母方の実家が女系家族だったことも合わさって、どうにも男同士の付き合いが深まりませんでした。
一つ、客観視した感想として書くと、日本という国は同調圧力が強いので、アスペルガー云々にとどまらず「標準」に上手く合わせられない人間の個性というものを認める許容度自体がそもそも極めて狭いということは言えると思います。

若い頃はアメリカで短期間働いた他はバックパッカーという旅行者の形でだったのですが、いずれにせよそこで体験した、恋愛沙汰や性的な事柄で気遣いをしないでいい同性同士との気楽で親しい交流というのは、私には物凄く楽しくワクワクするような新しい体験に感じられました。
後年、インドで数年を暮らした際には、集団生活が苦手だと長年思っていた自分が、瞑想センターなどでそれはそれは突然変異的に社交力を発揮して。
ですから海外での貯金によって私はかなり救われているし、絶望したりヤケになって凶悪犯罪を犯さずに済んだ面もあるんだと想像しています。

ただ、それでも一般的に女性の方が遥かに男性の標準よりは近いところを汲み取ってくれる場合が多かったのも事実です。
恥ずかしいお話ですが、私が人生で最初につけられたあだ名は「ママゴトママ」です。女の子とママゴトばかりしていたんです。

脳の構造の違いなんでしょうか、女性は直接私の雰囲気から齟齬を減らして等身大のところを掴んでくれているようです。でも私の「行動」や「言葉」から的確な想定をすることは難しいらしいのですが。
頭で考えて他人を理解することは、前提となる価値観や感覚が違えば予想は難しいでしょう。ですが、目の前にいる人間のありのままを直感的に読み取る能力が女性は男性より断然高いですし、また私自身が結構素のままな性質なので、外的な先入観を横に置けば実はそんなに難解な人物でもないということなんだろうと想像します。

アスペルガー的特徴と私の人生模様の相関性を俯瞰するに、私は家庭環境も含めて、本来なら今よりももっと「ヤバイ奴」になっていてもおかしくないはずの輩だったのかも知れません。
でも、悪運だけはいつもとても強かった。ギリギリのところで救われ続けているんですね。
そういうことへの感謝の気持ちが、自分が曲がりなりにも人間らしい感覚を身につけられた一因だったのだと思います。また、そこが、自分よりも運がついていないマイノリティーや異端者の味方につきたい、という感情とも自然とつながっています。
自身のこともままならない癖に、時折トンデモナイ相手と長々と絡んでやっぱりドタバタしてしまうので背伸びは禁物のようですが(笑)。
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by catalyticmonk | 2014-08-19 00:12 | 自己経歴 | Comments(0)

帰国直後に住んだ浅草のゲストハウスの思い出

e0296801_22022393.jpg帰国直後にいきなり敷金礼金まで用意出来なかったので、浅草のゲストハウスに住んだことがあります。トイレ、キッチン、食堂、シャワールーム、テレビや卓球台があるリビングルーム、コインランドリーなどがそれぞれ共用であって、部屋は四畳半、それで6万5千円。
もちろん、すぐに出て行くつもりで解体工事現場で働いていましたが、腰をいわして入院、ヘルニアになり、いくらかお金は貯まったものの、すぐに引っ越すほどの気力も出ないで困ったなあ、と思っていたところ、いきなり管理会社から大家が変わって改装するから部屋から出て行け、と言われました。契約の更新はひと月毎だからとか、持ち主とともに管理会社も変わったからとか、なんかいろんな屁理屈をつけて強引に追い出そうとします。
当時、ゲストハウス内にいた全員と面識があったわけではないですが、七階建てくらいだったかな、そこに三十人以上は住んでいたはずです。

あそこのゲストハウスに住んでいた方々は浅草という土地柄もあってか、なかなか個性的な面々でした。多分、私はいつも強烈な方々としか知り合いにならないような気が自分でもしますが(^_^;)
出入りで対立する暴力団の構成員を殺害して服役、刑務所から出てきても消息がバレると殺される可能性が高いのでそこに隠れ住んでいるという、自称「元」暴力団幹部の方、夫婦でそこに住んで近くの中華料理店で働いているという中国人夫妻、浅草近辺でラーメン屋をオープンするというので店長以下数名の店員でゲストハウスに住み込んで下準備をしているグループ、地方から出てきてそこに住みながら職探しする若者、訳ありそうなトラック運転手と水商売風のカップル、何をやっているんだかよく分からなくていつも挙動不審なイラン人男性、南米を一年かけて放浪して来たという青年、ノイローゼらしくよく空中と会話しているどこかの営業マン、そのノイローゼの彼より遥かにヤバかったのが明らかにシャブ中の一見おたく風でIT系の職業らしき若者集団、他にも設定が複雑で説明が面倒なだけで何かと特徴的な方がたくさんいました。
e0296801_19432514.jpgその中に入って自分が全然負けていなかったのも認めます(笑)。

あっさり他のゲストハウスに転居した中国人夫妻のような人もいましたが、そんな人達ですから、いきなり出てけと言われても半分くらいはすぐには引越し費用も用意出来ない感じだったようで、中には一旦田舎に戻るという若者もいましたね。
件の元暴力団員の方が逆に大家をゆすろう、そのために団結しようじゃないか、と声を掛けて来ましたが、その時はヘルニアで退院した直後の降って湧いたような災難で余裕がありませんでしたし、そういう方と協力し合うとどういう厄介事に巻き込まれていくかは既に過去に体験済みだったので丁重にお断りして、私はヒイヒイ言いながらも何とか重い腰を上げて江戸川区の方に転居して行きました。

あれも、相当インチキな賃借物件だったと思うのですが、今は同じ建物がピカピカに改築されて、都心部のオシャレなゲストハウスとして売っているそうです。

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by catalyticmonk | 2014-04-06 01:38 | 自己経歴 | Comments(0)

19歳頃までの経緯

e0296801_1325295.jpg
私は1971年に愛知県名古屋市で生まれた。
難病をかかえた母親と、やっかいな家柄の父との間に生まれたので、私は半ば母の実家の家族に育てられたようなものだ。祖父母や叔母や曾祖母、法事のたびに集まる親戚、本当に田舎の大家族に囲まれて、ちっともさみしくなかった。
しかし乱暴な父と学校は大嫌いだったから、日々かなり悩みが多かったのも事実だ。
複雑な話なので端的に書いて済ますが、父の部下が叔母と結婚して母の実家の養子婿になり、後年、私の父は母と離婚して愛人と再婚してしまったので、その後は母と叔母夫婦との関係が微妙になり、また母が自分の両親にはそのことを長年隠していたことも手伝って、e0296801_13502654.jpg父方の姓を持つ私は育った母の生家に寄れない立場になっていく。

...だが、そんなことは子供の頃の自分には重要ではなかったので、音楽のことについて書こうと思う。
正直、小さい頃音楽がうるさくて嫌いだった。家族のカーステレオやお店から流れてくる演歌や歌謡曲は幼い自分にとって騒音だった。それより田んぼのカエルの合唱や鈴虫などの夜想曲がお好みだった。
e0296801_15304184.jpg最初に人間の音楽に興奮を覚えたのは小学校一年生の時の音楽の授業で聴いたベートーベンの「運命」だった。
そして、小学五年生の時にYMOを知り、熱狂する。
また、子供の頃にピアノとバイオリンを習っていたぼんぼん育ちの父が、コルグのアナログ・シンセサイザーなんぞ持っていた自分の弟(私の叔父)に触発されて、何も分からず買ったっぽい電子オルガンが自宅にあった。
一番上のソロ鍵盤がシンセサイザーだったし(当時はそうであることも分かっていなっかった。だってエレクトーンって本体に書いてあったんだもんなあ)、とにかくぶっとくて音圧がザクザク刻まれるような響きに魅了された。
小学生の頃に夢中になったYMOの影響で中学生からこれを弄びだし、高校生になると夏休み等の度に朝から晩までプレス工場で働いて本物のシンセサイザーを一台ずつ買い出したが、まだまだ一台のシンセが二十万~三十万する時代だったから、高校生には高かった。
結局、高校生活の最後の頃には他の理由があって夜勤でソニーの工場の仕分け作業のバイトまでし出し、音楽活動どころではなくなった。高2の時に酔った父に暴行を受け内臓から出血して入院する、という事件があったし、私の進路を巡っても高圧的な父からとにかく早く自立したかったので、あることを決意したからだ。朝、工場から帰ってきて制服に着替えて登校し、昼間の学校で寝る、というような生活になっていた。

高校を卒業すると、私を一族で代々親族経営している建設会社へ入れようとする父の手元から逃げるために単身渡米した。
その時点で、本当にまったく何のつてもなかったのだが、ロサンゼルスのリトル東京という場所に日本人街があると聞いて、そこなら働き口があるだろうと子供らしく素朴に考えて行ったのだった。1990年6月のことだった。自分は父のようにはなりたくないという、ただその一心だった。
しかし、臆病者なくせにどこかしら私自身が任侠人の先祖のバイタリティーある血も引き継いでいたのかも知れない。まだろくに英語も話せず、何の頼る先もなかった異国の地で、私は自分なりの居場所を裏社会で見つけれてしまった。何も知らないバカほど強いものはない。
その後、アメリカ国内を周遊したついでに一ヶ月ほどの旅行をしたメキシコで受けた衝撃により本格的に旅に目覚めてしまい、インドやアジア諸国を放浪し出す。
e0296801_1585856.jpg

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by catalyticmonk | 2012-08-24 23:55 | 自己経歴 | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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