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旅の糧(6)

いつまでひとつの時期のことばかり細々と書いているのか、と言われそうだが、一応、二度目のアメリカで働き出すまでの具体的な流れは時系列でしっかり書いたほうが、その頃の暮らしぶりの実際が伝わりやすいと思う。二十年以上も前の話なので、私もこのネタなら細かく書けるというのもある。

募集広告の出ている掲示板の存在を知ってから数日後、と言ってもその存在を知ったのはニューヨーク到着当日の夜だったのでアメリカに着いてから数日後、ということにもなるのだが、早速マンハッタンのミッドタウンにある日本食レストランのDで働くことに決まった。面接は三つくらい行っただけだったと思う。
当時の私の髪は肩にかかる程度の長さだったので、Dの面接時、「その髪じゃあな~、キッチンの中でもきついよ」と店長に言われ、お金がないから、と安い散髪屋を教えてもらって、そこで短く切った。Dの店長は、髪の長い奴がそんなに簡単に切って来ないだろう、と思っていたようで、私があっさり教えられた通りの散髪屋で短く切ってきたら、「やる気があるんだなあ。ヨシッ、気に入った!」と即日雇ってくれた。やる気も何も、私は長い旅の間中、あまり散髪する機会もなく放ったらかしにしていただけだし、自分の髪の毛のスタイルごときのためにニューヨークでホームレスになる気など毛頭なかった。

e0296801_22401256.jpgDは、日本食なら定食から焼き鳥、寿司に至るまで、特にこだわりもなく提供している店だった。私はいきなりそこのオープンキッチンで焼き鳥コーナーを任された。
自慢じゃないが、私は未だに料理が全然出来ない。そこにいる時は店が忙しいと一人でカツ丼定食とか定食ものも厨房で作らされたが、キッチンのどこにある材料をどれだけ出してきて、どういう手順で作って...というのを文字通り丸暗記して作らされていただけで、料理の技術・基礎知識なんてまったくなかったから、今同じものを一から自分で料理しろ、と言われても全然作れない。ただ、なんでも詰め込み式で短期間に暗記して習得するのは得意なほうのようである。

ウェイター、ウェイトレスはチップの収入も入るので効率がいいのだが、インド英語を片言で話すのが精一杯だった当時の私には少しハードルが高かった。
その店でウェイターやウェイトレスをしていた人達は大体20代の若い日本人で、学生の身分だったり日系人だったり、バンドマンを志しながら語学学校に通っていたり、南米旅行の費用を稼ぐために旅の途中でニューヨークで働いているんだ、という同胞もいた。
焼き鳥コーナーを任されたのは、単に私が日本人の顔だったからだ。焼き鳥の仕込みは店内で「アミーゴ」と呼ばれるメキシカン達が裏手のキッチンで担当していたから、私はお客さんから見える位置に顔を出して、ここは日本食レストランだからこういう本物の日本人の若者がやっているんですよ、という無言のアピールをしながら注文通りに焼き鳥を焼いてさえいればよかった。

そうは言っても板前さん達は、元気で気さくだが癇癪持ちの鬼短気、というイメージ通りの方々ばかりで大変恐ろしかったので、料理の出来ない私は気の休まる暇がなかった。私なんかと違ってもっときちんと調理出来る人達が調理器具をブン投げられて罵声を浴びせかけられている場面が毎日のようにあって、身の縮まる思いだったのだ。
しかし、そんな人達が私のようなズブの素人に対しては結構色々大目に見てくれていたというか、優しかったような気もする。ニューヨークにいる日本人の板前は、店と喧嘩したり借金問題とか訳ありで日本を飛び出してニューヨークに来た、という連中が多いんだよ、という店長の話だった。だからこそ、異国での狭い同胞社会の中で年下の後輩を余計に可愛がる、という面もあったのかも知れない。ある時、私が昼休憩中にばかすかタバコを吸ってストレスを発散させていると、そうした板前さんの一人が目の前に来て、「お~、今日は豪快にタバコふかしとるのう!タバコなんて体に悪いっ!コークをやりなさい、コークをっ!」なんて意味不明の励ましの言葉をかけていったこともあった。私はそういったものは一切やらないのだが、とにかく体育会系のタテ社会だった。
この後、ロサンゼルスへ戻った時にはさらに周囲の板前さんたちに猫可愛がりされて、毎晩方々の日本食レストランを飲み歩きで連れ回され、刺身だ、しゃぶしゃぶだ、割烹料理だ、と豪勢な食事攻めにあうのだが、それに比べるとニューヨークはそこまでではなく、もっとドライで個人主義の強い雰囲気もあった。ただ、私が働いた店の様子だけで比較するなら、勤務中のチームワークはDがずば抜けていた。ロサンゼルスは何かとゆるい土地柄でもある。

賄い料理もついて、ご飯や冷蔵庫のマカロニサラダなんか引っ張り出して勝手に食べていても怒られなかったから、食うのにはまったく困らなかったが、如何せんDは給料が一週間分を翌週払いのシステムで、どうしても次の週の宿代の支払いに間に合わない計算だった。だからこの問題は、実は店に入って数日後にはもう店長に言い出さなければならなかった。働き出して数日後なのだから、やはり相談するにもかなりの勇気が要った。
「店長!折り入ってご相談があります。宜しいでしょうか?......あの~、ボクは今Wホテルに滞在してるんですけど、お給料が頂ける日まで待つと、もう次の一週間分の宿代が払えないんです。頑張って働きますから、宿代の分だけでも前借りさせてもらえないでしょうか?お、おね、お願いしま...す......。」
店長は「はあっ。と軽くため息をつくと、眉間にしわを寄せながら腕組みして目を瞑り、黙って思案し出した様子だった。私が全身がかあっと熱くなるほど緊張したのは言うまでもない。周りにいた他の従業員も突然静まり返って氷のようにしばらく動きが止まり、聞き耳を立てて店長様のお言葉を待っていた。鬼店長は再び目を開けると周りの従業員たちの顔を一瞬ぐるっと見渡し、それから急に表情を和らげて言った。
「カワモト、俺は別におまえのこと信用しないわけじゃねえんだけどな、ここはニューヨークだしよ。お金は簡単に貸せねえんだよ。別に俺もよ、ケチじゃねえんだからここが東京とかだったらおまえにすぐにでも貸してやるんだぜ?!分かるよな?外はそこら中で公園のベンチに寝てる奴とかもたくさんいるんだしよ。おまえだけ特別扱いするってわけにもいかないんだ。...おい、カズ!確かおめえもWホテルに住んでたな!ワリイけどよ、床にでもいいから、ちょっと給料日まで一週間ばかしの間、こいつを寝かせてやってくんねえか?」
カズさんは26歳くらいだったか、やはりバックパッカーで、南米旅行へ行くための旅費をその店で働きながら貯めているウェイターの方だった。
「あ、いいッスよお。あんな汚い部屋でいいんなら。床も絨毯だし、普通に寝れるんじゃないですかねえ?」
カズさんはこともなげにあっさり承諾してくれた。
私が「あ、あ、あ、ありがとうございますっ!!」...と、これから感動的な話の締めくくりをしようとした瞬間、とんでもないことを言い出す奴が現れた。そいつは私の入店の翌々日くらいに入ってきた京都出身の27、8歳くらいの青年で、彼は奥のキッチンで働いていた。
あの~、実は、ボクももう部屋追い出されてまして。今公園のベンチで寝ておるんですわ。店にも毎日公園から通っとるんです。ボクも給料入るまで一緒に泊めさせてもらえませんでしょか?ここはしとつ情けやと思って、よろしゅうお頼申します。」
そんなことをぬぼ~っとした表情で飄々と言うのだ。一同ぎゃふん、となった。
ヤケクソ気味になった店長が半分痙攣笑いしながら再びカズさんに、
「カズ!こいつもまとめて面倒見てやってくんねえか?二人寝かすスペースがあればの話だけどよおっ!」
従業員一同、最初は必死で笑うのをこらえていたものの、一人二人引き攣り笑いし出たらもう誰もが止まらなくなったようで、全員がゲラゲラと笑い出し、キッチンの中は完全にカオスと化した。私も自分の身が置かれている立場も忘れて思いきり吹き出してしまった。
仏のカズさんも笑いながら言った。
「大丈夫ッス。床でいいなら二人くらいごろ寝するのも無理ないでしょうし。寒ければボクの寝袋も貸してあげられますし。二人さえ狭くても構わないならボクも話し相手がいてくれれば退屈しませんから。」
返答の後半、カズさんは自分の笑いたい気持ちを極力抑えて、店長相手に少しでも真面目な内容を話そうと努めているようだった。カズさんはそうした寛容で大らかだが、分別もしっかりある人柄の青年だった。
そんなわけで、私達二人の居候が一週間ほどWホテルのカズさんの部屋に転がり込むこととなった。

カズさんの部屋で一週間、私と元ホームレスくんはカズさんの眠るベッドの下の床で寝た。三人仲良く肩を並べてWホテルまで帰ることもあったし、旅行者同士のカズさんと私は会話の種にも事欠かなかった。元ホームレスくんも何かと変わっていて面白い話題を提供してくれるので、次の日の仕事に差し支えるくらいお互いよく喋っていた。もちろんカズさんの人徳もあっただろうが、そんなふうで、居候中気まずい雰囲気になることは一度もなかった。
元ホームレスくんは、店長が「あいつ、いつも何考えてるか分かんない感じだし、ひょっとしたら大物かもなっ。ひょっとしたらだけどな、あくまでひょっとしたら」...と評するほどの不思議な性格の人物で、夢はでっかくフランスのファッション誌ヴォーグの専属カメラマンになることなのだが、ミュージカルが大好きでヨーロッパからニューヨークへ渡ってきて、ミュージカルの観劇に所持金を使い果たしてしまい、友人から借金するつもりだったがその当ても外れてとうとうホームレスになった、ということだった。

e0296801_2242720.jpg私は給料をもらうと再びWホテルで自分だけの部屋を借りた。元ホームレスの彼はというと、給料日の二三日後には店長の「もうおまえはクビだああっ!!」の一叫びとともに店を解雇されてしまった。ヘマの多さなら私も変わらなかったが、彼は気弱な私に比べて図太くて、どことなく態度もふてぶてしかったので、余計店長の逆鱗に触れてしまった面もあったと思う。
一週間ほど共にカズさんの部屋に居候した彼がその後どうなったかは知らない。私自身も何か失敗したり覚え切れないことがある度、板前さん達の癇癪玉に当たって「おまえもクビにするぞっ!!」なんて脅されたから、自分がクビにされないよう、毎日必死で働くのが精一杯だった。

やはり、成り行きで仕方なくする不法就労の生活なんてお勧めしないし、二度としたいとも思わない。しかし、これがあの頃の私達の暮らしだった。
この後にロサンゼルスで働いていた頃の思い出もたくさんあるが、旅の前後の流れも併せてどうやって旅の糧を得ていたかというサンプルを書き出すことが今回の目的であったし、私の現在まで大して変わらない行動パターンの実際も大体出尽くしたと思うので、これ以上馬鹿げた追憶を長々続けるのは慎もうと思う。
しかしまた別の機会に違うテーマで、ちょこちょこ旅の思い出を書いてみたいとは考えている。

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by catalyticmonk | 2014-04-19 23:46 | 旅の糧 | Comments(0)

旅の糧(5)

「そそ、そんな。日本人だなんて見れば分かりますよ!
私の唐突な出現に目を丸くしながらも、その二人組の日本人青年の片方がまずそう言った。私も自分の命綱になるはずの相手にどう思われるか心配はしていたのだが、最初の反応が意外なポイントだったので拍子抜けした。
同じ日本人に対して、わざわざ自分はニホンジンだ、ニホンジンだ、と連呼して説明するのが変だということに気付かなかったのだ。旅の途中で時折日本人と出会うことはあっても、ずっと特定の日本人同士の交流の中に身を置いて生活するということがもう長いことなかったので、感覚がずれてしまっていた。特に日本人のヒッピー旅行者も大勢いたインドを出てから後は、何の後ろ盾もなく自分一人で巨大な西洋人社会と対面しているような息苦しさがあった。
私が、あたかも鎖国時代の日本から太平洋に浮かぶ無人島に漂着し、そこからアメリカに渡ったジョン万次郎のような精神状態になっていた原因は、物価の問題も大きい。インドまでは物価が安いアジアで、私の少ない所持金でも比較的金銭面での余裕があったから、それが知らないうちに私の心のゆとりになっていた。しかし、物価の高い欧米で、学生なわけでもまだ働いているでもなく、帰属する立場がどこにもない状態でお金すらない、というのは野良犬のようなものなのである。

彼らは驚きながらも初対面で見ず知らずの私を部屋の中へ招き入れてくれた。日本人というものは、海外で出会う同胞に非常に親切なことが多い。
「ほー、インドでもこのWホテルが知られてるんですか?!へえ、インドを旅して来なすって。」
彼らは、アメリカと日本を行き来して育ち、クリスチャンで、現地の大学に通う青年と、その友人で日本の大学生なのだが、なぜだか今はアメリカにしばらく住んでいるという少し謎めいた設定の若者、そんな命綱様たちだった。
彼らの話す日本語は基本的には標準語で訛りはなかったが、アメリカに長く住んでいたり、海外生活が長い日本人にありがちな現象で、会話の端々に英語が混じるし、日本の同世代の若者が話す言葉のボキャブラリー選択とかなりセンスが違うので、日本へ帰って同年齢の人々とそのままの調子で話したらかなり目立つだろう。
斯く言う私にもその傾向は顕著で、同世代との会話を通して覚えた日本語の量よりも、本や文章、海外に持っていった辞書の中の言葉などで確認・習得した語彙や表現方法のほうが明らかに多いため、「ジャケット」を「防寒着」と言ってしまったり、「そうこうするうちに」を「あれやこれやするうちに」、「大ざっぱにひとまとめに言うと」を「十把一絡げに言うと」などと、自分の世代の一般より少し古い言い回しで言ってしまうことが多く、日本に戻ってから随分それで同年代の若者から小馬鹿にされ、嫌な思いをしたものだ。

e0296801_22145075.jpg福の神様たちの好奇心を満たすべく、私は日本とアメリカ以外はほとんど知らない彼らに自分の旅の話を面白おかしく語りまくった。
熱弁の甲斐あって彼らは腹を捩って笑い転げ、文字通り座っている椅子から転がり落ちまでして大ウケしてくれたので、短時間ですっかり互いに打ち解けた雰囲気になった。
そこで、おごってあげるからいきつけのバーへ行こう、という話になった。

すでにマンハッタン内の日本人コミュニティの情報交換の場になっている掲示板があるラーメン屋の場所を教えてもらえ、そこに日本食レストランの募集広告もたくさん張ってあって、職探しが簡単なのは保証するよ、と心強い言葉を聞き、すっかり気が大きくなった私は、バーに向かう道すがらマンハッタンの摩天楼の夜景を今初めて気付いたようにビルの谷間からしみじみ眺め上げながら、「こんな素晴らしい街でなら、もうここで自分の旅が終わって一生過ごしてもいいなあ」、などとまたあまりにも若く安直な感慨の中でとろけるような夢見心地に耽っていた。ずっと緊張感の連続で心細い状態が続いていたのが一気に希望の光が見えてきたので、完全にハイになってしまったのだ。

バーでは最初、私の年齢がまだ未成年だと聞いてアルコールの年齢制限が厳しいアメリカなので福の神様たちは少し慌てた様子だったが、別段問題なくビールを飲めた。23年前の話なので、今はどうか知らない。
私はバーの中が冷房が効いていて涼しいとか、そんな単純なことだけでも喜んでしまっていて、至って上機嫌だったが、福の神様同士が口論を始めた。
知的な感じのアメリカ育ちの彼が、友人の青年に対して、「君は日本の大学では、大学では、ってよく言うけど、まだ一度も自分がどこの大学なのかもボクに話してない。いったいどこの大学なの?」なんて詰問し出してから雲行きが怪しくなり、自称日本の大学生がなぜだか急に弱り出し、緊迫した場の空気になったのだ。私は喧嘩に巻き込まれているわけにはいかなかったから、あんまりおごっていただくのも悪いから、と言って先に一人で帰った。
数日後、Wホテルの自称日本の大学生の部屋を再び訪れてみようとしたら、e0296801_22382333.jpgすでに部屋を引き払った様子だった。こうして、私と福の神様たちとの邂逅は一夜だけの幻に終わった。

それから仕事先を見つけるまでの数日間は、やはりまたずっとハラハラした気持ちでいた。働き口を首尾よく見つけれたとしても、次の一週間分の部屋代を払う所持金はもうなかったからである。
ロックフェラー・センターの下辺りを屋台で買ったケバブ・ サンドイッチなんか食べながらとぼとぼ歩いていた自分の姿をなんとなく覚えている。

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by catalyticmonk | 2014-04-19 23:44 | 旅の糧 | Comments(0)

旅の糧(4)

e0296801_055017.jpg正直言って、どれほど稀な確率の面倒にたくさん巻き込まれてきたのであっても、自分はかなり運のいい部類の人間だと思う。
だから私は世界と人生の神秘に深く感謝していて、心の奥底には世界に対する、ある種アニミズム的な信仰心と信頼のようなものを持っている。
だが、最高の喜びは言葉や文字にはし難い。
反対に、あまりパッとしなかった体験は言葉にしやすい。文句が多くなるからだ。

だから、言葉や文章にはしやすくとも、わざわざ書きたい気持ちにならない物事も多い。

私が1991年にオランダのアムステルダムからニューヨークに渡ってから後の二度目のアメリカ生活の話は、大部分つまらない。私自身があまり楽しくなかったからだ。
生活のために働き、灰色のような暮らしをし、またロサンゼルスに移って図らずも世界一周をした形にもなったが、だからと言って特に何かの達成感があったわけでもなく、暮らしに追われて旅の意味も分からなくなってきたところで自分の国籍のある国である日本に帰国した…ただそんな感じだ。
しかし、過ぎ去った時間というものは現在進行形ではないから、その膨大なつまらない気持ちの時間の中からでも面白かったエピソードを拾い上げることは出来る。
また、その当時は持つことが出来なかった傍観者的視点で眺め直したら、いくらか発見があるのかも知れない。
私がニューヨークでしていたことと言ったら、不法就労だけだ。でも、場末の外国人不法就労者の立場の生活を書くことくらいならいくらか出来る。


まず、アムステルダムからニューヨークにたどり着くまでが面倒だった。アムステルダムから出国する時も、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港からアメリカに入国する時も、厳重に身体検査され、アムスから出国する際にはアメリカ側の職員に下半身までチェックされた!ニューヨークに到着してからは別室で犯罪者扱いで取り調べを受け、モンタージュ写真まで作られた。
私が所持金も少なく、片道航空券で強引に入国しようとしたのだから無理もない。最初から自分は不法就労しにやって来ました、と言っているようなものだ。
しかし、強制送還させようにもその帰りの航空券を購入させる費用さえ私が持っていなかったし、インドだ、アムステルダムだ、と怪しい場所を通過してきたからといっても身体検査でも荷物検査でも何も問題になりそうな物は出てこなかった。
また、入国審査官に非力で臆病な自分の素の弱々しい姿を存分に見せつけつつも、追い詰められた勢いで私が、
「自分は大金持ちの息子で、まだ若いから世界の見聞を広めるために旅をしているんだ。親がニューヨークのWホテルにお金を送金してきているから、私はそれを受け取らないと旅が続けられないんだ。」
などと大ぼらを吹いたため、「まあこんな幼い子供にいきり立つまでない」、という印象を与えることにある程度は成功したのか、彼らも仕方ないか、という感じになって、取り調べを受けるまでの待機時間が長かったことも手伝ってたっぷり半日は掛かったが、最後には入国スタンプを押してくれた。

e0296801_0165498.jpgガイドブックなんてものは一切持っていなかったので、ジョン・F・ケネディ国際空港からニューヨーク市内まで行くのも一苦労だった。まあ、私はいつもこんなものである。
例えば、18歳の時に、生まれて初めての海外でロサンゼルスの空港に着いた時からして、最初からリトル東京で働こうと心積もりしての渡米だったのに、着いてみてからようやく自分が空港からリトル東京までどうやって行ったらいいかさえ分からないという現実に気が付いた。その時は、途方に暮れながら空港内で半日うろうろしていたのち、たまたま声をかけてきた日系人の自称フリーライター兼タクシー運転手の人が、リトル東京で働く人達のネットワーク・センターになっている某中国人オーナー経営の宿の存在を教えてくれ、騙してタクシーに乗せてから身ぐるみ剥ぎ取るなんて真似もせずに、30ドルで直接その宿の前まで連れて行ってくれたおかげで運良くなんとかなっただけだった。いつも自身の非力・無能さを誰か何かに助けられ、凌いできている。ありがたや、ありがたや。
なお、別にガイドブックを持たないで旅するのが主義、というわけではない。この二度目の訪米時は単純にガイドブックを買うお金もなかったのだ。

飛行機は朝早くに到着したのに、地下鉄の駅から出てマンハッタンの有名な高層ビル群の摩天楼の光景を初めて見る頃にはすっかり夜になっていた。真夏の時期だったはずだが、あまり暑かったという記憶はない。
ビルの谷底では、そこら中の道路のマンホールから牛肉の肉汁にガーリックやオニオンの混ざった匂いが吹き上げてきていて、ベジタリアン食堂の多いインドで長らくヘルシーな食事ばかりしてきた若い私は、正直、「なんておいしそうな匂いなんだろう」と、その薫りだけで自分がそれをいずれ食べている姿を夢想して、恍惚とした気分に酔いしれてしまった。初めて見る摩天楼の夜景より食欲だったのである。我ながらなんとも浅ましい話だ。

私が目指した具体的な場所はただひとつ、Wという不法就労者の溜り場の安宿だった。私はそのホテルの情報をインドにいる頃から聞いていて、日本人の不法就労者も多数住みついているという噂だったし、アムステルダムのユースホステルに泊まっている時に具体的な住所も他のドミトリーの宿泊客から教えてもらえたので、その情報だけを頼りにニューヨークまで渡ってきたのだった。
私がその宿の一週間分の宿泊費を払うと、もはや残りの所持金は数十ドルだったと思う。なんとしてでもすぐに日本食レストランの仕事を見つけなければならない、と焦った。
すると、私が借りた部屋のそばに、ドアで日本語の張り紙がしてある部屋があった。どうも、その部屋を訪れた日本人がそこに住む日本人の友達に宛てた簡単な連絡用の置き手紙のようだった。ここにきっとニューヨークで働いている日本人がいる!住んでいるだけかも知れないが、こんな怪しい宿に普通の旅行者やビジネスマンの日本人が滞在しているとも思えなかったから、間違いなく仕事探しにつながる情報が聞き出せる、と即座に確信した。その一枚の張り紙が本当に神の救いの手のように思えて嬉しかった。

他人への迷惑とか遠慮なんて言っていられるはずがない。私はひたすらそのドアの前で待ち続けた。
夜十時過ぎくらいの時間帯だったような気がする。待ち人は意外と早く小一時間で現れた。部屋の主と訪問者は既に外で出会った様子で、二人の大学生くらいの年齢の日本人が登場した。
私は言った。
「あの~、すみません。ドアに日本語の張り紙がしてあったんで、誰か日本人の方がいるかと。図々しく勝手に待っちゃってごめんなさい。
自分はインドから来たニホンジンの者なんですけど、インドからこのWホテルにはニューヨークで働いている方がたくさんいらっしゃると聞いていて。ボク、旅の途中なんですけど、もうお金がないんで、なんとかすぐに仕事を見つけなきゃいけないんです。いきなりでなんですが、そういう情報を何か知ってませんか?知ってたら是非教えて下さい!お願いしますっ!
と、開口一番、単刀直入にそう言って、頭を下げてお願いした。本当にこのままのセリフを言ったと思う。必死だったので鮮明に覚えているのだ。
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by catalyticmonk | 2014-04-19 23:42 | 旅の糧 | Comments(0)

旅の糧(3)

アムステルダム市内の旅行代理店にいくつも当たったが、ニューヨーク行きの片道航空券はなかなか買えなかった。
しかし、エージェントにいくらアメリカに渡航するには往復航空券か第三国へ抜ける航空券が必要なんだ、と説明されても、もしそれで素直に往復チケットを買ってしまったら、アメリカに着いて即、下手をするとまともに泊まる場所を確保することすら出来ないうちに、自分の所持金が底を突くのは分かり切っていた。だから、納得するわけにはいかなかった。なんとか仕事が見つかるまでの食費・交通費・宿代などを残しておかなければならなかった。
最終的にある代理店で、「日本人は誰でもアメリカには90日間ビザなしで入れるから、片道チケットだけでもOKなんだ!」、などとメチャクチャなことを勢い任せで言って、無理矢理片道航空券を売ってもらった。しかし、その時正確にはどのようにエージェントを説得したのか、いくら思い出そうとしても思い出せない
ただ単にそこが悪質な代理店で頭のおかしな東洋人がどうなっても知ったことではないから売ってくれただけかも知れないが、切羽詰まると半分何かに憑依されたような状態になって、前もって考えてもいなかったような言葉や行動が勝手に出てくる、ということが人間にはたまに起こるのも事実だ。

それで思い出す印象深い体験があるので、敢えて少し時間を遡って書いてみる。


その前のインドの頃に話は戻るが、マドラスのSホテルのドミトリーに泊まっていた際にも同じようなことがあった。
マドラスは今はチェンナイという都市の名だが、当時はまだマドラスと言った。私はカルカッタ(現在の地名:コルカタ)からマドラスまで列車で二日間に及ぶ長距離の鉄道旅行をした。

e0296801_2221722.jpg二日間を過ごした2等寝台列車の中が暑かったことや、まず基本的にその前に一ヶ月間マラリアになってバラナシで寝込んでいたので動けるようになってからもまだ日が浅く、体力が十分に回復していなかったこと、及び紛らわしい車内放送のせいでマドラス中央駅より手前の駅で間違えて降りてしまって夜間道に迷い、仕方なく乗ったサイクル・リクシャー(自転車タクシー)に怪しげな宿に連れていかれて翌日余計路頭に迷ったこと...等々があって、目当ての安宿Sに着いた途端、発熱と激しい下痢の症状で倒れ込むはめとなってしまった。
初回のインド訪問者が陥りがちな典型的な失敗のパターンを見事に踏襲してしまった結果だ。
高熱に悪寒や下痢の状態では外出して市内を散策するどころではなく、当然昼間も誰もいなくなったドミトリーのベッドの上で悶えていた。

そこへドミトリーの清掃やベッドメイキングなどに来た使用人のインド人の青年が現れた。
擦り切れたルンギー(腰布)にTシャツ姿の彼は、褐色の肌にひょろひょろと細長い手足・胴体の体躯をしていて、また、その時代の労働者のインド人としては珍しく髭が剃ってあって生やしておらず、どこかフェミニンな顔立ちで、両手にバケツとモップを持ちながら、なぜか目玉をきょとんとさせながら部屋の中に入ってきた。...そして、その彼が私の体をべたべたと触ってくるのである!
「ハロゥ、マスタル...ハッロゥ、マスタル...」(多くのインド人が英語をこのように発音する。要するに『こんにちは、ご主人様』と言っているだけ)、彼はなぜか切なそうな声でそう囁きながら私の太ももや頬なんかを撫でてくる。
この時点でどういうことなのかほぼ確信していたが、私は一応筋を通して話した。
「すまない。ボクは熱を出して寝込んでいるんだ。君が掃除したいのは分かるけど、ベッドから動けないんだよ。だから、そっとしておいてくれないかな?」
そう言っても一向に彼の痴漢行為は止まらない。あまり英語が分からないのかとも考え、一生懸命ゼスチャーで自分の状況を伝えもしたがまったく無駄だった。
最初は手で振り払ったりしていた私も、だんだん興奮してエスカレートしてきた彼が「マスタ~ルッ!!」と絶叫しながらベッドの上の私の体に飛び乗ってくるに及んで完全にぶち切れてしまった。

まず足で何回か蹴り上げ、その後ベッド上でしばらくお互いに揉み合いになった後、性犯罪者を殴打してベッドの下へ投げ落とすと、それから再び飛び蹴りや膝蹴りを加え、ベッドを持ち上げて彼の体の上に叩きつけた(おもちゃのように軽い粗末なベッドだった)。私も自分が病中の身だったので、当然のことながら負けないよう、手加減せずに精一杯の防衛をしたのだ。
そして彼は床の上にくしゃっとボロ切れのように力なく倒れ込み、耳から血を流して動かなくなった。
......やばい、殺っちまった。そう思った。

今から考えれば人間そう簡単に死ぬものじゃないと分かるのだが、その時の私は本気でそう考えて慌てた。
得体の知れない外国人旅行者が宿の使用人の死体を目の前にして、「こいつがホモで襲ってきたから抵抗して、そしたら勝手に死んじゃったんです!」などと訴えたところで、なかなか簡単には信じてもらえそうにない。特にここは空港で入国する時から審査官が旅行者に根拠もなく堂々と賄賂を請求するような国なのだから(当時、実際にそうだった)、警察に捕まったら最後、大変なことになり、私の身の安全は天のみぞ知ることとなるに決まっている!冗談じゃない、今すぐ逃げるしかない!

e0296801_22123695.jpgそう決めるや否や、私は先程までろくに食事も取らず寝込んでいたのに、さっと荷物をまとめ、宿のフロントまで行くと、幸いフロントに誰もいなかったので、受付カウンターを跨いで中に入り、まず自分のパスポートを捜し出した。
Sホテルはチェックイン時に外国人はパスポートを預けることになっていたのだ。パスポートは最初に開けた机の引き出しの中から一発で見つかったので、今度は宿泊台帳の中の自分が記入したページを見つけて破って抜き取り、後は裏手の通用門に人目がないのを確認すると一目散に逃げ去った。

その後の記憶は発熱のせいか判然としないのだが、確か遠くの宿で一、二泊だけして、その間に再び列車の予約を取り、列車でバンガロールまで移動すると、到着後はまた高熱を出してホテルで一週間くらい死んだように寝ていた気がする。

その時、私が逃げようとしている間中、どうやったらいいか?などと次の行動を考えた記憶が一切ない。とにかく人間必死な時はそんなものである。
「私が」そうなだけかも知れないが、やはりそれほど特別な才能が必要なこととも思えない。そういう思い出である。


時系列の流れからはずいぶん脱線してしまった。初回のインド旅行に関する記述上の空白を少し埋めることにもなったからよしとしたい。
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by catalyticmonk | 2014-04-19 23:41 | 旅の糧 | Comments(0)

旅の糧(2)

アムステルダムへ到着するなり持ち金が湯水のように消えていった。と言っても主に私が勝手にそう感じていただけだ。物価の安いインドからヨーロッパの先進国へ来たのだから当たり前の話だ。e0296801_1153582.jpg私はアムステルダムで一番治安が悪いとされるレッドゾーンにあるクリスチャン・ユースホステルのドミトリーに泊まった。もちろん、とにかくそこが一番安かったからだ。
そこは売春街として有名な場所で、「こんな子が?!」と驚いてしまうようなとびきり可憐な容姿の美少女が、下着姿で飾り窓と呼ばれる売春宿の前に立っていたりするので、若い私は動揺しまくりだったが、そんなことに使う金があるわけもなかった。

私は日本食レストランの仕事を探した。
そうしたお店はアムステルダム内にもあったが、即戦力になる人を募集している、という話だった。また、以前働いていたロサンゼルスのようにたくさん日本食レストランがあるわけではなかった。
ちょっと考えればすべて至極当然のことなのだが、アメリカでは未だにまったく料理の出来ないような私でも結構簡単に雇ってくれたので、勝手が違ってにわかに焦り出した。まだ世間知らずの子供だったので、その時まで自分が運だけに支えられてなんとかなっていたことに気付いていなかったのだ。
急に無力感と心細さに捉えられて臆病な本性が出て、こんな遠い異国の地で無一文になるのかと震え上がったが、どうしようもないところまで追い詰められると「根性さえ出せばなんとかなる」という根拠のない盲目的な信仰にすがりつこうとするのも進歩のない私の毎度のパターンだった。だから怖がりのくせに気が付くと無謀なことをしている、という愚行が繰り返されるのである。

インドで会った二人組みのイスラエル人の知り合いに路上でばったり再会し、彼らが露天商をやっているというので子犬のようについて行った。
こういう時の人間の強引な行動を受け入れてくれるような心の広さがイスラエル人にはある。ちょっとぼやかれることにはなるが、気が優しい連中なのだ。騒々しくて口の悪い、ゴロツキ風の若者が多いので評判が芳しくないが、彼らの誰もが物凄く人間味豊かなことだけは保証する。
市バスに乗ったので乗車賃が心配になった。私が彼らに「お金があまりない」と情けない顔で言うと、何食わぬ表情で一言、"We don't pay."と答えられた。おかげで私も安心した。彼らこそ最初からキセル乗車のつもりだったのである。

記憶が正しければアムステルダム国立美術館の下の通り抜け通路で彼らは店開きをした。他にも大勢の露天商が、その建物の真ん中にあって向こう側へ通り抜けられるようになっている薄暗い通路の中でずらっと店を並べていた。
友人達はアクセサリー売りをしていたのだが、「お前も何かやれ。」ということになった。何か持ち物でも売れよ、と言われたが、私に売れるようなものなど何もない。なんでもいいんだ、ヨガとか大道芸とか歌を歌うとか何かやれることはないのか、と矢継ぎ早に次々アイデアを出してくる。
e0296801_13532685.jpgそこではっと思いついた。私は元々体のいくつかの箇所だけ特別柔らかかったので、両足を首の後ろに引っ掛けて両腕で立って歩く、という器用な芸当が何の訓練も要らずに出来たのだ。
それを彼らに実演して見せると、どこから用意したのか、早速その場でヨガの教則本を何冊か道に並べ出し、私にチャイニーズハットのような帽子を被せて、「私はインドでヨガの修行をしてきた東洋人で、ヨガのデモンストレーションをお見せする」というような著しくでたらめな内容の文章を書いた紙を用意して、前に投げ銭用の皿も置き、私には「ここで通りかかる観光客らに自分の持ち芸を披露するように」、と指示してきた。
私にその提案を断る理由などあるはずもない。一秒も迷わず即座に言われた通りやってみると、意外なくらいみんなが面白がって立ち止まってくれて、現地の女性達に話しかけられたり、小さな娘を肩車したドイツ人風の観光客が私の様子を8ミリカメラで撮影していったりと、結構な額の投げ銭があれよあれよという間に簡単に集まってしまった。
その動きが結構不気味だったのと、それをやっている私の容姿がヨーロッパ人からしたら小さな子供のようだったから目を引いたのだと思う。
「これはおいしいなあ」と思ったが、最後には見回りの警官が来て逃げ出すはめになった。

公園のフリーマーケットなどにも出掛けたが、ベンチに座って腕に注射器を突き立てているみすぼらしい姿の若者などを見ると、インド帰りでもっとみすぼらしく汚い格好の上にお金もない私は、「自分もこんな末路になったらどうしよう...」などと暗い気持ちになった。
物価の安いインドでは半年ものんびり自由に寝泊り・食事・ショッピングが出来ていたのが急に物価の高いヨーロッパに来て不自由になったので、すっかり惨めな気分になっていた。そう、インドにいる間にただでさえ若くて世の中を分かっていない私の勘違い度は重症レベルになっていたのだ。

e0296801_3394479.jpgヨーロッパに興味はあったが、やはりこんなことをしているより、アムステルダムからニューヨークならそんなに遠くはないから、ニューヨークへ行ってまたアメリカで日本食レストランで働いたほうが早いし、確実なんじゃないだろうか、と考え直した。
とにかく一度行ったアメリカでなら仕事を見つけれる自信があったから、どうなるか分からない綱渡りで命をつなぐより賢明だと思い至ったのだ。残りの所持金がニューヨークまで飛ぶチケット代すらなくなる前に素早く決断しなければいけない、と思った。

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by catalyticmonk | 2014-04-19 23:37 | 旅の糧 | Comments(0)

旅の糧(1)

e0296801_10481833.jpg海外で不法就労をしていたとか、警備員をしながら音楽制作をしていたとか、コミュニケート・ライターをしていたりブラック会社に入ってしまった経験があるなど、一応最低限のことは書いてきているつもりなのだが、なかにはもっと詳しく私がどうやって暮らしてきたかを知りたいと思う奇特な方もいるようだ。
基本的に私は、これまでの人生で本当にやっかいな物事や人達と係わってしまった経験も少なくなく、私の家族や他の実在する人物・団体・組織との関係上、あまり具体的に書けない話も多い。

しかし、もう時効になってしまった遠い過去のことなら、いくらか具体的に書いてみてもいいのだろうと思う。


1991年に最初のインド訪問の前には、数ヶ月間アメリカから帰国して名古屋市の三菱自動車の車体生産工場に住み込みで期間工として働いていた。
帰国した目的自体が、メキシコ旅行によって第三世界への旅行に目覚めてしまった私の、インドへ向かう旅行費用をバブル景気に沸く当時の日本で稼いで貯めよう、という計画によるものだった。もっと正確に書くと、当初の計画ではインドから陸路でトルコまでアジアを横断し、それからヨーロッパのどこかの国で働いてアフリカへも行こう、という遠大な計画だったのだが、それは私が行った先のインドで半年間も沈没してしまったことで、19歳の少年が見ていた夢物語で終わることになる。
奇妙な偶然だったのだが、私がインドに向けてまずタイの首都バンコクに出発したのと同じ頃に、日本のバブル景気は終わった。

基本的に日本の物価は世界最高水準なので、東南アジアへ行っただけでも物価が激安に感じ出すのだが、インドはさらに特別物価が安く、本当に日本の十分の一以下の物価で(多分、当時ならもっとだったと思う)、e0296801_3402874.jpg日本の工場で働いたお金を持っていけばそのまま半年くらいインド亜大陸全土を縦横無尽に旅することなんてわけのないことだった。
初回のインド滞在については、あまりにもいろんな出来事や思い出があり、到底ここで簡潔に書くことなど不可能だし、また「旅の糧」という今回の記事のテーマから外れて長い旅行記にもなりかねないので、ひとまずはこうした点だけ記すにとどめたい。

インドからヨーロッパ方面へ飛行機で行くには、エアロフロートというソビエト連邦の航空会社を使って飛ぶのが一番航空運賃が安かったのだが、ソ連末期のエアロフロートでは機内食に腐ったトマトが出てきたのが忘れられない思い出だ。
モスクワでのトランジットではほぼ丸一日空港内で過ごすことになり、やはり長く感じもしたが、同じく空港内でトランジットをやり過ごす人たちの中に、南米(確かペルーだったか?)から来た民族音楽楽団のグループがいて仲良くなった。同じモンゴロイドの顔同士のよしみというやつだ。
驚いたのは、「どんな音楽をやっているの?」などという私の最低の愚問に対して、彼ら全員が私のために「コンドルは飛んでいく」などのフォルクローレを突然メドレーで演奏してくれたことだ。...余談になるが、私には常々こういう軽率な発言をよく考えずにしてしまうところがある。なんの悪気もないのだが、いささか頭の回転が遅いらしい。
私の質問から間髪を入れず彼ら十数名の楽隊が、合図らしい合図もなく一斉に各々首からぶら下げた笛や肩や腰で抱えている太鼓などの民族楽器を使ってモスクワ空港内で盛大に演奏し始めた!本当に嬉しかったので、その情景は今でも昨日のことのように鮮明に憶えている。
彼らは今から南欧(スペイン?かなり片言の会話だったので、いろんなことがはっきりしない...)へ興行ツアーに行くところという話だった。

モスクワからアムステルダムまでも同じエアロフロートに乗って行ったわけだが、インドのデリーから来た時とは打って変わり、アムステルダム行きの便では急に機内が裕福そうなロシア人の乗客ばかりになり、アテンダントの雰囲気も別の航空会社なのかと思うくらい上品になって、当然私を含む乗客に対する扱いも丁寧になった。隣に座ったロシア人のビジネスマンに、自分が今19歳の日本人でインドに半年いたことなどを話すと、しきりに驚いていた。
インドでも他の外国人旅行者から特に年齢の若い子供として扱われている部分はあったのだが、これ以降一年ぶりに西洋人の世界へ入っていくともっとそれを痛感することとなる。
私は身長173センチで決して背の低いほうではなかったのだが、当時は衛生状態が悪くてお腹を下すことも多いインドの後で特に痩せていたし、西洋人は体格が大柄で同年齢者同士が並んだとしてもアジア人より容姿がもっと大人びて見えるので、私はやたらとお子ちゃま扱いされるようになる。

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by catalyticmonk | 2014-04-19 23:34 | 旅の糧 | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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