カテゴリ:異端者を作り出し疎外する社会( 15 )

「ファム・ファタール」が表す社会的倒錯の実体と人権の後進性について

「ファム・ファタール」という言葉は、意味合い的には男を破滅させる魔性の女、というドラマティックなイメージを指していて、だから芸術絵画や小説の題材にもよくなるのだけれど、そこでまず想起される典型的な例はマタ・ハリだ。

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彼女は第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランスに捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された。
だけれど、資料を読んでみると、要するに裕福な家の少女が没落して、踊り子やストリッパーをやっているうちに高級娼婦になって、敵味方に分かれていた多数のフランス軍将校やドイツ軍将校とベッドを共にしていた、という社会背景・時代背景が騒動の根幹にある。
だから、彼女が独仏どちらの陣営に対しても意味のある情報をもたらした証拠は一つもないのに、フランス政府にとって不利な戦況の中で軍事上の失敗をマタ・ハリの責に帰することは大変好都合だったので銃殺されてしまった、という世の非情そのものの物語だ。

生きていくのも精一杯で、男どもに弄ばれているうちに、厄介払いと責任のなすり付けで殺されてしまった悲運の女性を、魔性の女だ、と伝説化して有名にしただけなのだ。
こうした経緯は、マタ・ハリも実際にいくらかスパイ行為をしていたのだろうけれども、本質は非力な没落した境遇の女性にいろんな思惑の悪党どもが絡んでいき利用していた、という話であって、「男ども、とんでもいないな」という、シンプルかつ公平に捉える視点がまず当然必須だ。

これは、結構ファム・ファタールの本質も表していて、確かに性的な誘惑で男性を手玉に取る女性は世に存在する。
でも、それで彼女達が大金持ちになって社会的にも成功してめでたしめでたし、という話だとファム・ファタールの従来のイメージとは離れていくから、やはり彼女達自身が自滅していく、というテーマも表している。
つまり、そこには女性の性的な魅力を武器に使いながらも男性優位社会に押し潰されて破滅していく、社会が開明的でないからこそ生じる悲劇の一定のお決まりパターンが存在する。それを「ファム・ファタール」と呼んだ、という側面がある訳だ。

あと、大きいと感じる要素は、心理学的に言うところの人格障害の問題ではないだろうか。
他人を意識・無意識に振り回すという。
それは、男性であれ女性であれ、性別やジェンダーの別関係なく正当化出来る話でもなくて、たまたまそうした人物が女性だった、というだけの話だ。

そこに女性性がついてくると奔放な性生活というのも起きてきて、それもただの自由恋愛なら騙された男性も自業自得なんではないか、と思うけれど、人格障害はもっと深く病んだ自己愛の闇があって、関わる人を強力に掻き乱して不幸にする。むしろそういうタイプだと女性である事を隠れ蓑に使って、犯罪レベルの騒ぎに至る問題まで起こし得るのでシャレにならない。
でも、それにしたところで、その人物が「女性である事」自体に特別な罪深さがある訳ではない。
男尊女卑の世界だからこそ、そういう過激なサバイバルを一定の性質の人達が一層選択しやすくなる、という構造も間違いなくある。

性的威力を使うというのは、当人達自身も不幸になる事だ、という部分が絶えずついて回る。純粋に詐欺商法で他人を破滅させて自分だけ儲かった、といった話とはズレてくる確率が高くなるからだ。
そして、一旦女性が世間的に「悪女」と認識されると、まさに血も涙もない制裁を受けて、ボロ屑のように人生を蹂躙されて終わるという、野蛮で残酷な世の愚かしさの定番的な悪弊でもある。

社会に元から存在する差別や偏見と、個人の行動の重みが、どうにも整理されていない形で混同されて、フェアでない話になっているケースは未だに多いだろう。
「ファム・ファタール」という一連のイメージが社会的には何を表していたか考える行為は、根深い人間社会の歪みや非理性的なままの問題点を照らし出す一つの切り口だと感じる。
芸術作品や小説などで大量に扱われてきたテーマだから、考えるきっかけを得やすい、というのもある。

また、今でもそれは「ファム・ファタール」なんて言葉を持ち出すまでもなく世に満ち溢れていて、整理されないまま放置されてその辺に転がっている、社会関係混乱の一典型的パターンなのだろう。

ただ、念を押して言うなら、これは「女性の問題」ではない。
それは、女性性や男性性は傾向としてあるだろうが、もっと社会環境的なものとの複合で、混乱した認識が発生している、という意味で、これは女性の話と言うよりも、そういうイメージをドラマ化して捉える人間社会全体のテーマだと私は思っていて、本来は特に小難しい話ですらない。
未だに社会通念が大きく歪んでいるので、そこを公正に捉えるのに手間がかかる、というだけだ。

中世ヨーロッパや江戸時代に、「人間は平等だ、個人の自由と人権は尊重されるべきで、それは宗教も冒せない」と言ったら、間違いなく狂人扱いになるはずだ。
今、目の前にある社会の中で、倒錯している観念や現象を、真っ当に捉え直す作業なしには、民主主義も自由も平等もあり得なかった。その歩みを止めてはいけない。

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by catalyticmonk | 2017-05-01 23:27 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

カルトとマイノリティー

ロシア最高裁判所は4月20日、キリスト教団体「エホバの証人(Jehovah's Witnesses)」の活動を禁止し、資産を押収する判決を下したそうです。最高裁は、ロシアは「エホバの証人の本部と傘下の地方組織」の閉鎖と「資産の没収」を決めたとしました。

「資産の没収」って、普通なら大規模な宗教弾圧そのものですが、まあ、カルトなのは事実だし、でもカルトなら弾圧してもいいのか、という問題でもあります。
実際にはどのような実態で、どれだけのパブリックへの悪影響があったか、については、目にした短いニュースの文面の中ではなかったのですが、やはりカルトなので制裁は仕方ない、という感想は日本でもあるようです。

そういう断定性に対してエホバの証人を擁護したい訳ではないのですが、私にとっては、そんなに簡単に白か黒かを断定的に言って済ましていい問題のように思えません。
カルトに巻き込まれた被害者だ、と感じる立場の人の気持ちも分かる反面、思想信条や信仰の自由に社会が公共の装いを纏ってどこまで干渉していいかは、やはり個別に慎重な姿勢で吟味する必要のある話だと思います。

前にも書いているのですが、私の幼い頃、実母はエホバの証人に一時期入信していました。近所にエホバのコミューンがあって、その影響と、実母自身が膠原病という免疫不全の病気だったためです。
私が覚えているのは、そのコミューンの古い日本家屋で、聖書の物語を紙芝居で教えられた事くらいで、周囲の大人を変な人達だと特に感じる事もありませんでした。優し気な人達しかいない印象でしたが、それは小さい子どもにとっての話ですから、全然定かではないでしょう。
ま、私が宗教と聞くと仏教ではなくて、まず神がいて、という発想を当然のものとして連想して、仏教の観念は総じてピンと来ないのは確かに影響があったかも知れないけれど、それ以上のものでもないのです。

ただ、私の母が勧誘した事で母以上に熱心な信者になった人物に私の幼なじみの女児である「かよちゃん」の母親である「かよママ」がいたのですが、その彼女がバイク事故を起こした際に、教団の輸血拒否の教義に従って大変だった、という話は当時も聞きました。
彼女は一命は取り留めたものの、やはり信仰の問題も手伝い夫婦の仲が難しくなって夫と離婚し、私が小学校に入る前に同い年のかよちゃんを連れて隣接する名古屋市に引っ越して行きました。

エホバの証人が一般社会の常識から逸脱していると扱われる場面が多い理由は、ある意味、特異で原理主義的でもある聖書解釈や進化論さえ否定する独自の世界観の影響が大きいのですが、その中の一つとして有名な輸血拒否も、それほど珍しい事例ではなく、頻繁に発生している、という現実だったのでしょう。
個々人の内面的な信仰の自由と見做すか、カルトであるとして、輸血拒否などの判断をする集団に圧力をかけるかは、実は境界線の曖昧な難しい問題でもあります。

母にそれほど決然とした宗教的覚悟があったとはまるで思えません。ちょっと東京などの都会の感覚では理解しにくいかも知れないのですが、なんか田舎社会の、とんでもなくゆるい宗教感覚だったのだと思います。
母がその時期に私の養育を大部分任せていたのは、地元の地主農家で、浄土宗である母の実家だったのですが、そこと母の間で、宗教的な事柄で対立している空気なんて一切ありませんでした。
母は私が小学校に入る前にエホバをあっさり止めているので、本当のところは分かりませんが、まず父も母も宗教道徳云々なんて真摯なモラルを持ち合わせている部類の人種では到底なかったのです。
父は、右翼的な折衷主義の宗教観の持ち主で、でも結局のところ選民思想と言ってもいいくらいに極端な先祖崇拝を自身のプライドに結びつけている感じでしたから、もっとなんだかよく分かりませんでした。

そういう精神性の茫洋とした人達の現世利益的な願望を吸い寄せやすい宗教というのはある気がします。コアな人達はかなり本気で信仰していたとしても、です。
例えば、チベット仏教のお坊さんとか、プロテスタントの学者の方とか、自身の信仰心と乖離しない精神で物凄く高度で緻密な思弁を繰り広げたりする方が大勢いらっしゃいますが、同時に日本の明治維新以降の新宗教系の家庭に育った人が、私から見て極端な主張や飛躍した発想に聞こえるニューエイジ思想・ヒッピー文化に傾倒する例もたくさん見てきていて、明らかに通常以上の比率なんですよね。
どちらが上か下かという話ではなくて、社会的に安定した地位を自身の所属する宗教共同体が占めていない場合、そうしたバックボーンが出発点にある人は多かれ少なかれ、独自な思索や発想を持つようになるパターンも多い気がします。
なんかぶっ壊れている人物が多い印象は否めないのですが。

現在の日本の新宗教の大教団の多くは1920年から1950年に成立し、それなりの共同体の規模と歴史がある訳ですが、独自の世界を持っているからこそ、そこの中の成員はマイノリティーとして育つ、という現実が、自ずとそういう結果に繋がっていくのでしょう。

元々安定していない家庭が特にカルト的なものにも抵抗薄く近づいていきやすいのも事実なんですね。
平凡という名の既定路線から一旦外れると、一定の家族の間ではとことんアブノーマルな要素が高密度で折り重なっていく、というね。
ある種、ユダヤ人もそんなものだと思うのです。だから、彼らは独創的な才能を持つ人材をその緊張感の中で高い頻度で輩出したし、反面、精神疾患の発症率が高い事でも知られています。
それは遺伝なんて優生学的な事象ではなく、社会学的・心理学的次元の要因が大きい話です。

カルトなら社会的制裁を加えていいのだとしたら、その線引きや程度はどこにあるのか。誰が決められるのか。
とても難しいテーマだと思ったからこそ、全体としては私の実体験や見聞きしてきた具体的な現実から感じたものを軸にして、いくらか書き出してみました。
答えは一人一人の方に考えてみて頂きたいところです。

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by catalyticmonk | 2017-04-22 03:49 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

忖度

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LINEとかってチャット式SNSは、グループページとかで活用するものなんでしょ、どちらかと言うと。
それがよく分からないし、プライバシーの範囲とかの設定も知らないままだから、どうも深入り出来ずにいる。

尻込みし続けている理由として、以前にゾッとする体験があったのも大きい。
ずっと前に、頼まれてある候補者のボランティアをしたら、そこがうちうちでLINEグループを作ってやり取りしていて、私はその存在を知りもしなかった。
それ自体は当事者で範囲を決める事だからいいんだけど、問題は他の面識なかった支援者から自己紹介して名乗るなりせせら笑われて、「ああ、あなたが河元さんね。LINEグループのチャットで話題に上るから知ってますよ」と言われた事。
そんな、陰で話題にして、こっちは顔も見た事もなかった初対面の相手から鼻で笑われる、ってどうなのよ。しかも、こっちは無償のボランティアを頼まれてやっていた身だよ。
最高に気分悪かったけど、何言われているか分からないんじゃどうしようもないもんね。

モヤモヤするのに表立って言い返せないというやり口が、最強に卑怯だ、どんだけサイコな世界なの、って思ったけど、他の人の話を小耳に挟んでいても、なんかそういう陰湿な吊るし上げっぽい事が多いんだよね。
そんなふうにならないように、みんなに気に入られるようにあなたが努力しなければならないんですよ、と日本人は幼い頃から家庭や学校で教えられて育つんだけどさ。それがまさに森友学園問題でも話題になった「忖度」だ。

でも、それでは人の顔色を窺いながらしか意見を言えなくなって主体性なんて持てないし、結局最初からある既定の規律ばかりが権威を持って、自浄作用も民主主義もない。様々な全体主義のバリエーションが並ぶだけでね。

よく考えてみて欲しい。相手に対して思いやりを持つのは人間社会の基本なのだけれど、日本社会の場合は、そこに「相手が気に入るような意見や言葉・態度を推定でしていかなければならないし、それを上手くやるように他人に要求する権利が社会道徳として成立している」といったニュアンスが含まれている。
それは「思いやり」ではなく別の形の押しつけがましさであり、他者への不寛容と利己主義・身内主義といった狭量な排他性ともつながってしまう。

これでは、日本が弱者や少数者への偏見・差別が一向に減らないのも当然の成り行きだと言える。多様性を認め合った寛容さや相互理解といったスムーズな共生は、まず互いに自由にものが言える風通しの良さがあってこそ成立・進展する。そこを抜かして表面的に協調性を他人に期待して、「和の精神」を尊んでいるんだ、などと言うのは詭弁そのものだし、日本人が封建社会の風土からきちんと脱却出来ない要因となっている思考様式の倒錯もまさにそこにある。
陰湿だから揉め事が絶えないし、水面下の緊張が高まる、という図式なのは明らか。
なのに、際限なくそういう行為を繰り返して、サル山のサルみたいに、数の力や根回しで勝ち残った奴が正義、それを上手く画策するのが人間としての技量と政治力、みたいな方向の論旨で本気で考えているふうさえある。

世間的にはすごく評判のいい人達でも、裏ではそういう事が絶えないみたいで、そりゃゲンナリするさ。表向き共有出来るテーマがあっても、その人達のデザイングッズを身につけたいか、と言ったらそこまで盛り上がれない、と当然なるだろうからね。

そこを正々堂々とやりましょう、と本気で唱えた宇都宮けんじさんみたいな人や、保守政治家だけど本気で日米同盟を通したアメリカの支配構造に対抗しようとした小沢一郎さんみたいな人は、選挙の度に面白いくらい器用にケチがつき、無実の罪でも疑惑だけで梯子を外され政治的な影響力を封殺されていく。

そんな事が容易に可能になっちゃうのも、「忖度」の精神文化土壌が日本に色濃いからだよね。
はっきり議論や確証をもって計っていくべきところで、暗黙の了解や言葉にしない雰囲気・印象の段階で態度を決めてしまう社会風土だから、印象操作を上手く出来る器用さと数や力が既にある権力・組織・強者ばかりに都合のいい世の中になる。
そんなの、もうたくさん、て思わない、みんな?

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by catalyticmonk | 2017-04-12 00:59 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

心理学的観察と偏見

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「私の経験から、犯罪者は基本的に嘘を言います。約4割は嘘つきです」

元刑事の森透匡さんという、現役時代、捜査二課で知能犯を担当していた方が、詐欺、横領、選挙違反、贈収賄事件など、2000人以上の取り調べや事情聴取を行ってきた経験から、人が嘘をつく時には、ある共通点があることを見つけた、と言って特徴を列挙している記事がありました(http://news.livedoor.com/article/detail/12890415/)。

「最初に気づいたのは“逆ギレ”という話し方のサインです。特に暴力団関係者は、自分の立場が悪くなると嘘を隠すために必ず怒り出します。
次に顔を触るなど、無意識に出てしまうしぐさのサインがあることにも気づきました」

汗をかく、顔が赤くなる、瞬きが多くなるなど、自分ではコントロールできない自律神経に、人の深層心理は言葉よりも行動にこそ、真実の鍵は隠されている、として、以下の話し方と仕草によるサインが2つ以上出た場合は、嘘の可能性を疑うという内容でした。

【嘘を隠す話し方のサイン】
1:「Yes:No」で答えない
2:質問を繰り返す
3:質問内容に理解を示さない
4:話が矛盾している
5:余計な説明が多い
6:ハッキリ否定しない
7:逆ギレする
8:神様を持ち出す
9:急に礼儀正しくする

【嘘のしぐさによるサイン】
1:汗をかく
2:瞬きが多くなる
3:あごや鼻をよく触る
4:目を閉じながら話す
5:唾を飲む
6:咳払いをする
7:肩が揺れる
8:椅子に座り直す
9:身振り手振りがなくなる
10:整理整頓のしぐさをする

あー、いますね、こういう話し方をする人。話していて疲れると言うか、何か押し付けがましくもあって、好感は持てない。
そういうペテン師の行動を理解する一つの指標として関心が促されるのは至って健全な話だと思います。
ですが、私は普段から日常的に引っかかっている別の事柄が必然的に連想されてきて、ちょっとそういう側面を別途掘り下げて書いてみたくなりました。ここから書く内容は、引用した記事とは大きく異なる主旨のものだと最初に断らせて頂きます。犯罪心理学の話ではなく、人権問題に関する考察だと思ってください。

この嘘をつく仕草、というのは、普通にシャイな人ならよくあるサインばかりで、私も緊張してやった記憶があります。
目の向きとか表情、仕草で相手の心理を判断する行動心理学は、基本的に全部統計的な分類でしかなくて個人差が大きいのです。
だから、大雑把な指標にはなるけれど、こういう基準で盛んに他人を判断する習慣のある人は、横で観察していると鋭い反面、フライングも多くて、それが少し傲慢に感じます。

シャイめな知人が、とても真面目な性格なのに、空港のイミグレーションで厳重な荷物検査を受けて、高圧的な態度であしらわれているのを見て激昂してしまった記憶もあります。
私はそういうのが一番許せないのです。

なぜ、私がそういう事柄に敏感かと言えば、子供の頃から何かと行動パターンが周囲の平均とは異なっていたために嫌な思いをたくさん経験してきたからです。
それで全く自分の意図しない事を疑われたり、誤解されたりして、無実の盗難事件の犯人扱いされてしまったり、学校の同級生からも、教師や周囲の大人からも、随分といじめられたり、酷い無理解にさらされて育った面があります。

人は、相手の行動に自分からして理解出来ない点があると、その空白にありとあらゆる悪い想像をして、辻褄を合わせようとするところがあります。それはなぜかと言えば、分からないものが不安で怖いからです。
なんとなく分からないままの緊張を持ち続けるよりも、安易に悪役に仕立てあげて、みんなで攻撃出来る理由を見つけたほうが気が楽だし、その事で他の仲間と一致団結出来て盛り上がれるからです。

私が変わっていた理由は家庭にも問題があったし、元々生まれ持った私の個性の影響も大きかったと思うのですが、人権意識を持って、こうした内容を扱った行動心理学系の文献を調べてみれば即気付く点があります。
日常生活に溢れている私的行動心理学とも言える俗説も含めたこうした一連の洞察基準が、例えば発達障害の人々のように、行動パターンが一般基準や統計的な平均と違うだけの相手への心ない偏見の源にもなっているというところです。

大阪人はこうだ、とか、ユダヤ人はああだ、といった話も、確かに個人レベルの観察では捉えきれないその人たちのバックグラウンドを認識するのに役立つ面はあるのですが、同時にそこは余程慎重に扱わないと、差別意識や偏見の萌芽が生まれてしまい兼ねません。
つまりそれは、マジョリティーからマイノリティーの人への偏見や思い込みの押し付けそのものだったりもするのです。個性や多様性を認めるよりも、個々の経験則による印象で相手をジャッジしてしまっている訳です。
個人的にも盗難癖など全くないのに、同級生や担任教師からビー玉や理科室の注射器を盗んだ事にされた記憶は、35年以上経った今でも決して忘れられないものです。

こういう基準や判断を一切するべきでないと主張したい訳ではないのです。それも危険予知や安全対策として必要な行為です。
だけれど、それは絶えず間違える可能性のある、不確かな暫定的処置なんだ、と理解出来ない人間は全く知性がないに等しい。
際限なく狭量なあしらいをして、多くの人を傷付け不幸を生み出すので、別の形で世に存在する災厄の大きな発生源です。人間としても愚かしくなってしまいますから、そこにこそ謙虚さも必要な根拠があるのです。

日本社会のように、言葉に出して意見を言い合うより空気で状況を察するのを良しとする文化では、そのような落とし穴が大きくなります。
つまり、声の小さな存在であるマイノリティーの人々への偏見を生みやすく、思い込みで暴走する疑心暗鬼な構造になりやすく、その犠牲者はいつも弱者や少数者だ、という事です。
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by catalyticmonk | 2017-04-07 01:45 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

ど変態

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人の趣味趣向や感性は自由ですし、自分も含めて皆何かしらの偏りがあるのが人間です。そういう意味では皆変態でもあるのだけれど、それでも自身の率直な感性からすれば「ど変態」としか思えない生理的嫌悪感を催す習性の人もいて、その人が忌み嫌われるのも感覚的に分かり過ぎてしまう時があります。
私的には差別を憎む者として自問自答させられる瞬間。

「生理的嫌悪感」の範疇は人それぞれ異なっているのですが、多分、それが自分の「生理的嫌悪感」とも重なっていて、尚且つ周囲の社会の最大公約数的にもそのように見える場合に「ど変態」と認識してしまうのでしょう。
ですが、「生理的嫌悪感」はその人の感覚だから、「そう感じるな」と強制することもできないし、まあ、実際は最大公約数なんかに合致していなくとも、みんな自分なりに「これは珍しくもないけど、自分的には堪え難い」と感じる範囲を、各自かなり幅広く持っているのが現実だと思います。
衛生観念や食事マナー、性的事柄などの、直接生理感覚に訴えるものほど、否定し難い個人差が生まれる、という一般傾向にはありますが、それが価値判断の根深いところにまで及んでいるのも事実です。

感性の相違を自覚し合ってこそ、自分とは違う相手の多様性を認められるのだけれど、日本人が一番歴然と鈍いのはそこだ、と私は常々感じています。
基本、自分と人とが大して違わないと捉えていて、違っている相手は協調できる圏内にいない異物で「悪い存在」だ、と短絡しやすい文化風潮の中で育ってきているのです。

これは戦後の画一化された教育や人権意識の貧困というものがまずあって、具体例を挙げていくと、教室の中でも多数決を取って決める訓練をしてきたので、少数の意見や習性の人物の個性を認める、という方向の認識が未発達だ、というのもあるし、そもそも独立した生活体系を持つ宗教や民族毎の相違が比較的軽い中央集権国家の島国で、相手の空気を読んで忖度で物事を決めていく、という文化の問題も大きい気がします。
それらの諸問題の集積が、議論した上で合議を図る民主主義社会に必須の下地が未だに不十分、という状態を作り出してしまっています。

ですが、文化の問題のせいなどにせずとも、自分とは異なる相手に迫害や強制は極力避けながらも、どう距離を保ちつつ並存して暮らすか、というところこそ、実は人間の理性が日常的に一番要求される瞬間であり、そこは人間存在にとって世界共通のテーマであるようにも思えます。

私はアキバ系オタクのある種の踊りや喋り方がどうしても好ましくは感じないかも知れないし、相手は私の大好きなカレーの匂いを嗅いだだけで吐き気を催すなど、私とはまるっきり感性・感覚が違うかも知れません。
それでも、そういう生理的嫌悪感や感覚差だけで、相手を小馬鹿にしたり、非難する理由をこじつけて攻撃することがあってはならない訳です、少なくとも同じ場所に共存して社会を営む上での原則としては。

ですが、やっぱり美意識とか感性は理屈だけでは共有しようがないものです。ここは人間の真実として認めるべきです。
なので、例えば戦争反対とか原発反対と書かれたステッカーの意図には賛同できても、そこに描かれている絵柄が自分の趣味に合わない最近のアニメの萌えキャクターか何かだったら、私は色々理由をつけてそれを使わないと思います。

主張の論理的な中身には賛同できるのに、どうにも気持ち悪く感じてしまう集団のカラーというのさえあります。もう、そういう場合は一番自分の生理的感覚の好き嫌いを直接口にできない。
でも、短期間、特定の目的のためだけに協調していくことは可能でも、深く長く関わっていくとなると、やはり感性の問題も無視できないはずです。効率は気乗りするかしないかで大いに違ってくるものです。黙って他の場所に行った方がいい話だと思います。

結構、そういう感覚の次元を否定していると、道義的な理由とは異なった次元でお互いに衝突しやすくもなるのが人間です。自分の趣味趣向や感性を相手に押し付けるのに、別次元の大義名分を探し出して、無意識のうちにわがままになったりするのです。特に男性は四角四面でそこの部分を自覚するのが遅い傾向にあるので、要注意な気もします。
人間が自己欺瞞なく行動するのは難しいからこそ、自覚や自問自答は大切ですね。
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by catalyticmonk | 2016-02-04 00:24 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

大衆文化の中で容認され継続する差別意識

【衝撃】住んでるだけで女子にモテなくなる東京23区ランキングベスト10
http://buzz-plus.com/article/2015/02/09/tokyo23-motenai/


ところどころ的確なニュアンスがあって面白いけれど、紛れもなく貧困差別発言をしている意見多数な記事だな、と感じました。

〈北区「毎日お酒ばかり飲んでいそう」「怒鳴りながら走ってる男を何度か見かけた」〉
なんて、その地域を知っている人なら心象として何かしら心当たりがあるんじゃないですかね。だからこそある種面白いなあ、と思ったりする一人一人の感じ方の部分までとやかく言わないでくれ、という気持ちだって、いくらか分かるのです。
冗談が言えたり笑えるのは、やはり心の薬にもなりますしね。ただ、自分はお酒を飲まなくて、地元を愛している北区の住民なら、これを聞いて怒る人も中にはいるかも知れない。毎日お酒を飲んでいる人たち自体はどこの地域にもいますしね。

地域の特色や庶民性を笑いの種にする、というのは、それが楽しく温かい日常を送る一貫であるのならそれ自体はおかしなことでなく、むしろ健全なことなのだと思います。ですが、自分の住んでいる場所を敢えて侮辱するような形で笑いものにされたら誰でも嫌です。つまり話題にしている側のスタンスによって受け手の受け取り方も変わるのです。
どこかの地域や経済状況などを理由に特定の人々を見下して笑いものにする人がいたら、本来的にそういうことを言う方が人間的に情けない人たちだと思います。
だから冗談は冗談として軽く流してくれ、そういった側面と、でもやはりこれは冗談だから、と言っているうちに看過される差別、というものを少し丁寧に整理して考察してみます。


実際に今の大衆文化の中に生きる人々の多くにこうした価値観が広まっているのでしょう。ですが、こうした意見をランキングなどといった形式で面白おかしく話題にすること自体が、紛れもなく貧困差別の拡大に手を貸しています。
例えば足立区の男性を「お金なさそうだしパンツに穴が空いてそう」と決めつけて笑うところから、貧乏な身なりの人がいたらそれを笑ってもいいんだ、という差別にもつながっていきます。

また、私も足立区や北区、板橋区、葛飾区、台東区、江東区、江戸川区等々の下町には少しずつ居住経験やご縁があって、いくらか雰囲気が分かります。
地域ごとの特色は自然にあるものでしょうが、例えば下町の商店街などを見たら、むしろ東京都内の他のほとんどの地域で画一化された近代開発によって失ったものをたくさん残している貴重な土地柄でもあって、文化的価値は極めて高いのです。
ただ、便利な新しいものがいい、という感覚はかなり汎用性が高いですし、現実的な地域ごとの経済格差も存在しますから、そのことで紋切り型のステイタス意識の中で、不躾な言われ方をしているのかも知れませんね。

なので、たかがこんな軽い記事一つどうということもない、とは済まさずに、この国の大衆文化の中で容認され継続されていってしまっている差別意識について、私が普段から感じている視点でいくらか書いてみようと思います。


どこからどこまでを差別であると見做すかは、判別の難しい部分もあれば、発言したり意識する側にそれなりの見識が要求される場合もあります。

以前、あるロンドン帰りでパンクスっぽい女性友人と会話していたら、
「男性が女性を『可愛い』と言うのは、女性を下に見て侮ってなめている証拠だから許せない!」
とその彼女が発言したことがあって、その時は正直困ってしまいました。まだ彼女も私も20代半ばでした。
あの時は、私は彼女に「可愛い」なんて一言も言っていなくて、彼女自身が男性全般に対する持論を口にした感じだったので、やはり極論に感じて、私も思うところを話をしたんですね。
露店商の相方でした。周囲の友達が皆「攻撃的だ」と言って手を焼くくらいトゲのある女性でしたが、意外と私とは性格の直線的な度合いが似通っていて、それで会話が成立している面がありました。

もちろん、この社会の中で女性差別は非常に大きなもので、そこに意識を優先的に傾注させる必要性が高いことも理解していました。ただ、私が女性を下に見下していなくとも、誰かを「可愛い」と感じるのは私の感性の問題であって、差別意識とは関係なく自然に湧きおこるものだと認識していたので、考え込んでしまったのです。当時からすでに、公平性とか差別、といったテーマには私も敏感な方でした。
そこで自分の思いをどう言葉にしたらいいのか相当その場で葛藤した記憶はあるのですが、最終的に次のような考えを伝えました。
自分もいろんな理由から差別がいけないことだと考えているし、女性蔑視もあってはならないことだと思うけれども、それは「誰かの味方がしたい」からではなくて、「誰かが誰かに支配されたり虐げられる世の中が嫌だから」差別を憎み、人々の尊厳や自由が守られるべきと考えているんだ、そう彼女に四苦八苦しながら説明して、なんとか理解してもらいました。

そういった感じ方の何かしらが偏見や差別とつながっている場合も多々ありますが、そこはあまり厳格にやろうとすると相手への越権行為になって、それ自体が行き過ぎた管理教育のように、他者の人格の尊厳と自由を踏みにじることにもつながってしまいます。
また、女性蔑視や外国人差別をする人の内の少なくない数の人間が、そうした被差別者の過剰防衛のような反応に触れて逆恨みし、すでに世に存在する差別の観念に同調するようになった、という例が多いのだという点も、私は真逆の考えの人たちの意見を時折すっとぼけて聞いて観察するうちに気付くようになりました。
つまり、優先すべき事柄の前ではどんな強引な主張をしてもいい、という訳でもないし、それは時に当事者にも得策でない場合があるということです。

他にも思い出すことがあります。
私も料理は大概ダメなんですが、それでも男性の知人と二人で別の女性友人宅へ行った際に、その女性が特別料理を来てくれた友人に振るまうのが好きだというようなことを言っていて、夕食の時間になったので作ってくれたのですね。私はどちらかと言うと夕食の時間だからこそ変な気兼ねもしたくなかったので早く帰りたかったのですが。
ところが男性知人がその作ってくれた料理をありがとうの一言も言わずにバクバク食べていて、美味しいも何も言わないんです。こいつは王様か何かか?と思って、そういう光景に呆気に取られたことがあります。
ああいう現実が様々に(おそらくはもっと酷いことが山のように)積み重なって、男性の傲慢さがイメージの上でも大きくなって、男性が「可愛い」=差別的表現のニュアンスを込めて使っている、という印象も出てくるんでしょうね。それは両性にとって不幸なことだと思います。


私も冗談くらいは言うんですよ。そして、あまりに了見の狭い考えを他人に押し付けるのも本来好きではありません。
ですが、それでも今のこの国の大衆文化の中で許容されている人を馬鹿にして笑いものにしたり、面白がったりする風潮の水準自体は人権意識の底の浅さが歴然とし過ぎていて、はっきり言って異常なので、むしろどこかで空気を読まない、顰蹙を買うようなKY人間に進んでなるような勇気も必要になってくるのだと思います。そういうレベルの現実が目の前にあるのです。

「あそこの家はお父さんが病気でお母さんが一人で働いているから、彼は袖の破れたシャツを着ているんだよ。それは仕方のないことだし、オシャレもそれを楽しむ余裕が最初になければ身に付かないんだ。それを笑いものにしちゃいけないよ」
といった正論を話しても、
「なんだ、こいつは真面目腐って面白味のないウザいやつだなあ」
なんてことになる。

笑えるし、当たっているところもあるからいいじゃないか、と言って、こうした事柄は社会の中で看過されて行ってしまうのですが、それは間違いなくさらに日常の他の場面で人々が差別意識を容認する風潮へとつながっていきます。
面白がっている相手は悪気なく楽しんで軽い気分でふざけているだけのようなことでも、差別される当事者にはとても辛いものになります。
また、目の前で笑っている人がいるからこそ自らが感じている悔しさを口にできません。その人にとっては軽いことでもなんでもないことなのに、周囲が笑っているから、それに何か言うとムキになって大人げない、あいつは感情的だ、なんて吊し上げられてしまう。
でも、やっぱりそんな悪ふざけは際限なく許されていてもいいことではないんですね。当事者が辱められて悔しくて声も上げられないような場面でこそ、それがおかしいと感じるものであったら「あなたたち、ふざけるんじゃないよ!」と言える時には言っていかないと、自分も差別の加担者になってしまうのではないですかね。

大体ですね、〈8位台東区「上野でデートは勘弁してほしいかも」〉なんて記事文中にありますが、外国人の女の子を浅草や上野に案内してデートするとめちゃくちゃ喜ばれますよ。私たちの社会が持っているこうしたステイタス意識の価値基準がどれほど限定的で浅はかなものかがよく分かります。
そういう点は、真面目腐ってもっともっと言っていっていいんだと思います。
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by catalyticmonk | 2015-11-30 01:16 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

差別を生む被害者意識と二分化の落とし穴

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エレベーターに先に乗り込んで、じっとしてる中高年の男性に対して、後から入った女性であるその方が「何階ですか?」と礼儀上聞いたら、「●階!」と当然のように横柄に答えるオジサマがいて頭に来た、エレベーターガールさん雇ってると思うんならギャラを下さい、というような内容の投稿を読みました。
横柄にふんぞり返っているのであれば何でも問題外です。人と人は平等だからです。この社会にある男尊女卑傾向から言っても、それがその男性の根拠なき優越意識の表れである可能性は高いと思います。

ただ、それとは別個にふと連想として思ったのですが、エレベーターの到着する前に並んでいた順番上、エレベーターに先に乗り込んだら、奥へ詰めなければならないですよね。で、操作ボタンまでは手が届かなかったりする。私はそうした時に別に性別関係なく仕方なく「すみません!○○階お願いできませんか?」と言う場合が現実にあります。
ああいう場合にもし仮に男女差別だとか思われると心外なのですが、そうした際には私の表情や声色で聴き分けてくれるのでしょうか?
何か類似の行き違いで私が威張っているように思い込んでいる様子の女性に会ったことが何度かあった気がします。たいていは直に話すと誤解は解けるのですが、誤解したまま、こっちの説明を嫌がって聞かない、という感じの相手も多いものです。

この社会において男尊女卑の傾向は根強いのは間違いないですし、そうしたことにはNOと言っていくべきです。
ただ、男女間のDVであっても、ちょっとしたことで男性と女性で攻撃対象となる関係が逆になることは十分あり得ると思います。
しかし、性的少数者の人々がストレートの男女と異なるジェンダーであったために、様々な差別が社会規模で行われて、80年代まで「精神障害」と同一視されてさえいたように、今でもちょっとでも定式から外れたパターンは様々な偏見対象とされがちです。

誰かが誰かを虐げたり支配することすべてに抵抗を感じる私の感性からすると、何かカテゴライズしやすい対立構造があると皆思い込みで行動して、不必要にひとを攻撃する群衆心理のようなものも根深く社会にある、とよく感じます。
今、私はたまたま性差に関する話題からこうしたことを書き始めてしまいましたが、一番主題として言いたいのは人々の勝手な思い込みの弊害そのものについてです。

そうした偏見は主に、良いか・悪いか、敵か味方か、といったように単純に二分化して早合点するところに大きな原因があるわけですが、そうしたことは議論や対話を正々堂々とし合うのではなくて、雰囲気や空気を読む忖度で物事を判断しようとする風潮が強い社会ほど頻発することとなるように感じます。

そして、その場の思い込みや刷り込まれた先入観で人々が善悪の判断を安易にしてしまう社会は、絶えずマイノリティーや社会的弱者の人々を迫害します。
さらにそれは全体主義を招きやすくして、過去に日本はそのことによる軍部の暴走と勝ち目のない無謀な戦争への突入、という悲劇を経験したわけですが、詰まる所、全体主義は限られた一部の人々による先制国家に行き着くので、ほとんど誰のためにもならない、というところはよくよく筋道立てて考えた方がいいと思います。

ですから私はウケが悪そうな、微妙なテーマの話題でも、可能であれば敢えて口にしてみるようにしています。
別に結論として私が間違っていようが正しかろうが、それはどちらでも構わないのです。ただ、ウケの悪い話題はいつも審議せず放置する、ということなかれ主義の風潮をよしとしてしまっていると、必ずマイノリティーや弱者の人の抑圧にそのうちつながる、という道理をよく知っているので、どうしても黙っていられなくなる時があるのです。
確実に正しいと思えるようなことだけを口にする、というのは、判断の放棄と思考の停止に他ならず、人間を理性と人権意識から遠ざけます。

話をありふれた人間関係の次元に戻しますと、例えば男女間に所謂「逆DV」と称されるような関係性があった場合、一般的にその場合の男性は女性よりはるかに社会的救援の手が届きにくい状況になります。
男性が女性から生爪を剥がされようが、虚言で自分の暴力を噂立てると脅迫されようが、何をされようが「そんな男性がだらしない」「そんな関係を継続させている男が悪い」であまりに簡単に片付けらがちなんですね。それが男女逆の立場であったら同じことはまず言われない、という風潮ではあると思います。
ですが、そこには相手が病気だからとか、誰かとの約束とか、当事者間にしか分からないいろんな事情があり得るのは性別関係なく同じであるはずであって、それは男であろうが女であろうが変わらないはずです。

あるいは、父親がいない、母親がいない、いたとしてもネグレクトや虐待の顕著な家庭であった、という生い立ちの人間は、確かにある部分で正常に機能している親子関係・家族関係を知らなかったりします。
ですが、それで人の心のない冷酷残忍な人格破綻者に必ずなるわけでもありませんし、一般的な親子関係論からだけで人間性の高い・低いを語られてもそうした家庭の子供は困るわけです。
別に大概は思いやりや優しさ、喜びや悲しみというものを他の人と同じように感じられる普通の人間なのです。ただ、人格形成の中身の経緯が多くの人と違うだけで、大半のものは人間という生き物の枠組みの中に詰まっているんです!
戦争孤児でもドイツの自由民主党党首を務めたフィリップ・レスラーのような政治家だっています。そんなものだけで人間の価値なんて測れないんです。

なのに、ちょっとレアなパターンだと周囲がすぐに定式に当てはめて決めつけを始める、世の浅はかさというものが実在するわけです。
逆に立派な家柄に生まれて、政府トップの閣僚になったって、下着泥棒かも知れない。その人に立派な地位や名声があれば、もう一生間違ったことなんてしない、なんて理屈であるはずがないのに、実際には我々はそういう前提でよく物事を捉えがちです。

何か思い込みで不必要に男女対立しているような場合だってあるとも思いますし、育ちの違いによる家族観の相違から悪意なく生まれる溝、なんてものもあるでしょう。
異性間不和や、単なる環境や習慣の違いに端を発する者同士の諍いに限らず、そうした目の前の状況を公平に見たり、相手の主張を慎重に聞くよりも先にイメージで判断してしまう行為を、人間はあまりにも頻繁にやらかします。

確かに一個一個の事情なんて測りえないのだから、ある程度は相場のイメージで想像し、判断をしていくのは仕方のない面もあります。
しかし、性差別であれ、人種や出自による差別であれ、何らかの差別体験をした人なら、世のそうした差別が「分からなかったから仕方がない」レベルで済むような差別ではまるでないことを痛感しているはずだ、と私は思います。
私も出自・生い立ちに関して、かなり厄介な問題を抱えていたので分かるのです。必死で、違うんだ、本当はこうなんだ、と説明しようとしても、端から聞き入れられないような困難と屈辱を、被差別経験者は皆人生で体験しているものなのです。

差別を再生産してしまう被害者意識や安易な二分化、という悪循環も現実には多々あるのであって、そういった態度では、せいぜいが一定の利益や条件を共有するものの間で党派意識を発生させるだけで、人権や個人の尊厳の尊重には少しもつながらない、その点を私はあらゆる機会に感じます。
ですから、そうした態度を改善していってこそ、みんなが幸福に近付いていけるんだという道理を、私は地道に言い続けたいと思います。
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by catalyticmonk | 2015-11-05 00:23 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

集団圧力が自動発生するマジックを解くために

人間はいろんな出来事の総合として自身の見解・主張を持つものなのに、一般的な日本人の傾向として「思想・理念」よりも「自分個人と相手との相関性」で相手の言葉を全部解釈しがちな、ある種の関連妄想癖と呼んでもいいような、特徴的な習性があります。
ここは結構大きなトリックがあるので、改めて整理して捉える必要性は大きいと感じます。

まず、一人の人間がその人なりの思想を紡ぎ出すには大概無数の現実での体験知が関係しているものなのですが、日本人はそこに過敏であるが故に相互にけん制し合って、自由に自己主張しにくい空気を作り出してしまう自家中毒に罹っているところがあるように思います。
相手の理念・思想の引き合いに出した体験の中に、少しでも自分個人との関連を見出すと、空気を読み合って忖度で物事を進めようとする集団心理の強い日本人は、過度にそこだけで自分との関係性における裏の意味を詮索しがちなところがあるのです。
相手の「思想・価値観」を一つの多様性として捉えるよりも先に、まず自分個人の「人格」への直接攻撃のように見なしやすいのです。

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《例話:野花事件》

ある30代の女性が少し年長の知人男性に花をあげたことがあった。それが彼は嬉しかったのだけれど、うっかりすぐに失くしてしまった。
だけれど、女性は彼に直接そのことを問い質したりはしなかった。
代わりに、自分がハイキングに行って撮影した様々な野花の写真と、それらの美しさに如何に心惹かれたかの感想をSNSに投稿して書き、それを彼は目にした。
「きっと、彼女は誰かから私がせっかくもらった花をすぐに失くしてしまったことを聞きつけたに違いない」と男性は思い込む。彼も結構植物が好きでマニアックなところがあったので、余計に大げさに捉えてしまった面はあったようだった。

でも、実際には彼女は、彼にあげた野花を彼がすぐに失くしたことなど知らなかったし、そもそも摘み取る気もなかったのだけれど、山で知り合った方がその場でくれたので持ち帰り、植物を多く育てているらしい知人の彼が興味を示したので譲っただけだった。
彼に特別な感情を込めて贈ったのではなく、欲しそうに見えた上に、彼女自身は野花を摘み取ってそれを自宅に飾るという行為自体があまり好ましいことだと捉えない感性だったので、気軽に渡しただけの、単純で何気ない、ありふれた日常の中での経緯だった。つまり、最初の時点で「贈った」のか、単に欲しそうな相手に「渡した」のか、という解釈のずれが双方にあった。

次に彼女が出先で彼にばったり遭遇した時、その時までに彼女は前述の野花の投稿を自分のSNS上に済ましている。彼はなぜか彼女に立腹しているようで、女性は後から共通の知人にも野花の写真の投稿を言いがかり的になじっていることを知り、とても困惑する。
なので素直な性格の彼女は直接彼に自分がどういった趣味や関心で、それらに興味を持っているか、一生懸命説明するのだけれど、埒が明かない。
段々、彼女も腹立たしく感じ始めていたところに、彼が彼女が自分への歓心を得るために花なんか贈ってきた、と共通の知人に話していたことを知る。
彼女は怒って言う。「私はあんな男に興味なんてないわよ!」
それは彼に直接言い放ったわけでもないのだけれど、当人に伝わってしまい、話が誇張されて、彼女が大変失礼な人物だ、という噂が広まる。

彼女は一人で野山を散策するのを好むような、比較的繊細な感性の女性で、決して社交上手ではなかった。対して彼は、ちょっと自分勝手で気性の激しいところはあるけれども、そこそこ裕福で広い自宅を持ち、遊びや趣味の幅も広かったので、なかなか社交的な人物でもあった。
彼とは近場の山へ軽登山しに行った際に出会い、話してみると共通の知人がいて、自宅も近かったので顔見知りになった、という知り合い方だった。
いつの間にか、彼女の数少ない友人の間にさえ彼の広めた誹謗中傷が広まり、彼女は精神的に徐々に追い詰められるようになる。

彼女の善良な人柄を知る人も多かったけれども、口下手ではあったから、顔が広くて弁の立つ彼の立てる悪意ある噂にはすぐもっともらしい尾ひれと評判がついてしまった。
彼女が自分の応援していた知人の選挙候補者の話を以前に彼にしたことがあったのだけれども、共通の知人の中にはその候補者の所属政党を毛嫌いする人もいたので、実際にはどこの政党にも所属していない彼女が所属しているかのように吹聴された上、彼を強引に勧誘した、なんてデマまで流された。
しかし、デマの出どころが不確かな上、もしそれらが全部本当だったからとしても、本来なら何が問題なんだ、というお話でもあったから、彼も自身の政治観を話したので話題にしただけだった、という事実を彼女が主張しても仕方のないことだった。ただ、それらを揶揄する人々の間にだけ通用する敵愾心なので、表立って正論で弁明しようもない次元の嫌な空気というものだった。
だけれど、そういう悪感情は根拠がなければないほど、身近な人間関係の間で起きると当事者の精神にこたえるものだったりする。そうした人間関係は絶えず日常の他の様々な事柄ともつながっているものだし、だからこそ吊るし上げ的な圧迫感も増してしまう。

彼女は思う。いったい、何がどうなったらこんな辛い目に遭わなければならないのだろう、自分がどんな悪いことをしたと言うのだろう、と。
だけれど、一旦広まった噂の流れの中では、そんな思いも、少し口走っただけで面倒なことになる。「あなたが不躾に自分の信条を他人に押し付けたからでしょ」「自分だけは何も悪いことをしていないつもりなんだね」などといった訳知り顔の辛辣な嫌味で返ってきて、さらに辟易するばかり。
共通の知人の全員がそういう反応であったわけではないけれど、かと言って、そうでもない人が積極的に彼女の擁護をしてくれることもなく、そうやって彼女を吊るし上げ誹謗中傷してくる社交的で顔の広い彼やその肩を無批判に持つ人々と他の知人が親しく楽しげにしていたので、彼女は身の置き所がなくなってしまった。やり場のない気持ちに彼女は自宅で一人嗚咽を漏らすばかり。
そうした現実に彼女自身が嫌気が差してしまい、彼と共通の知人から距離を取るようになり、しばらく塞ぎ込みがちな日々を送る。そうするうち、彼女は次第に心を病み始めてしまう...…。

******************************

以上の話は私の創作なので、別に彼と彼女の立場は逆でも構いません。話の伝えたい要旨に関係ないので、そのあたりは重要でないのです。
あくまで話を分かりやすくするために、かと言って私自身が現実で体験したり、見聞きした実話をそのまま例に出すわけにもいかないので、仕方なく作ったたとえ話です。
もちろんいくらかの実体験や知人の体験談をモチーフにはしているのですが、抑圧構造に関する現実というものは、描写するだけであまりに重苦しくなる上、多層的な説明を必要とする煩瑣なものになりがちなので、あまり込み入った設定にしないでおきました。

自分で直接相手に確かめることはしないで、一旦発生した何かしらの思い込みだけで過度に快・不快の感情を持つ、という態度は、ある種の理性的判断力の麻痺・視野狭窄を引き起こします。
そんなことを直接相手に確かめようがないじゃないか、というような発想を日本人はよくしますが、ある程度正面から語り合えば、善意にせよ悪意にせよ、だいたいは本当のところが分かる場合の方が多いものです。
また、そうした打開策が取れなかった場合に、思い込みを持った相手側の方に多数派を形成したり、小規模な人間関係の中でも有利に立ちやすい条件が最低限揃っていると、このようなことは簡単に起きます。
はっきりと表立って自己主張や議論をしない風潮が、思い込みの激しい社会も作るわけです。

現時点に於けるこの社会のマジョリティーの傾向としては、明らかに独立独歩で考える自発性の部分で未熟な性向が強く、それはまさに批判精神を欠いた固定観念やこの社会の差別・偏見の増殖と直結していると思います。
そこと日本の自殺率の高さは、おそらく極めてストレートに関係しているのでしょう。
要するに、ことなかれ主義や協調性を重んじる習性が、個々人を以ってして理性によって問題を打開する機会を封じ、その結果ストレスフルな社会を生み出している面が大きいのです。

それがこの社会に色濃い「集団圧力」とも当然密接に結びついていて、個々人に自分自身の主張・見解として総体的に自分が実感しているところを発言するのを躊躇させる心理作用を働かせてしまいやすいですし、また、相手の価値観の表明・自由の行使を村八分・吊し上げ的な論理で封殺する群衆心理の頻発ともつながってしまうわけです。

また、人のいい人は、たとえ差別や人権問題に関心が高くても、つい波風立てまい、相手を嫌な気分にさせまいとして謙虚になりがちです。
ですが、こうした社会環境の中で、もし本気で差別や偏見、個人の人権や尊厳への抑圧を減らしていこうと願うのなら、そうした部分ではこの社会の風潮に遠慮せず、もっと図々しくあっていい、というのが私個人の持論です。
相手を嫌な気分にさせまいとして自主的に黙ることが、結果として抑圧構造を温存し助長してしまうことにもつながってしまうからです。

もっとも、そうした対応自体が現在の日本社会の風潮の中では大なり小なり摩擦を生み出しますし、それは頻度が多ければ自身の許容量も超えてしまうことです。
ですから、自分を守る意識を持つのも否定されるべきでない当然の権利だとも感じます。
誰しもが自身の人生の幸福追求を目的として生きているのですから、人には皆自分自身とその仲間を守る自由があります。

ただ、その思いの一方で、この風潮を踏襲したままでは、ことなかれ主義の上での差別・偏見、集団圧力による抑圧の黙認といった弊害も続いていってしまうとも感じるのです。それは延いては自由と平等、個人の人権の尊重といった民主主義社会の基調を根底から脆いものにしていってしまいます。
集団圧力と、それを容易に助長する関連妄想という我々の体内に打ち込まれたトリックの楔を、日本人はもっと気付いて、自由になっていいのですよ、と私は主張したいと思います。
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by catalyticmonk | 2015-11-01 15:38 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

ファシズム向きな日本社会の風潮と自己主張

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自分自身で独立独歩な判断をして考えていくことよりも、すぐに何か誰かを特別視して、それに乗っかって勢い付こうとする。弱い者いじめや吊るし上げの論理ばかりなんだよ。
行き過ぎた連帯責任や過剰な身内保護を意識して暴走する群集心理が改まらないと、日本の民主主義なんて進まないよ。

別に誰がどう言ったっていいじゃん。どうやったら自分で望む社会になって行くか、ってことだけでしょ?
自分に降りかかった火の粉は自分で振り払うしかないんだし、何かのお題目だけ唱えていれば理想に近付くはずもない。でも、なんでかそういう風に思う人が多いみたいなんだなあ。要するに考えていないだけなんだろうけど、実際の状況とセットで。

向かう方向が違うだけで、どっち向きでも結局あまりにも多くの社会の空気と人の心性が、ネトウヨのバッシングを生み出しているものと同じことをしちゃう習性のままだから、当然黙らされる人が多くなるし、小手先の詭弁や小狡さだけで上手く立ち回れればいい、という人が増えて、社会全体が腐敗してっちゃうんだ。
そうしたもの全部が毒ですよ。

この、ファシズムにとっても向いている過剰な集団主義と忖度の文化・国民性、どうにかしないと。
それじゃどうにもならないんだ、自由や平等や一人一人の尊厳なんて得られないんだ、って、どう言いくるめられそうになっても、プレッシャーを受けても、どうにかして言い続けていかないと。


最近またよく思うのは、写真て、結局ひとのやること全部に何かしら気に入らない人がいるのだな、ということ。
揶揄されるのは対象が誰でもあり得て、若い女性などを扱った場合だけでもなくて、男性の渋い中年のおじさんの顔写真を何枚も焼いても変質者扱いでしょ、肖像権云々言われないよう自分の顔でやれば今度は変態ナルシストだ何だと面倒くさい(笑)。

自分や自分と家族や友達との写真を家中に飾っているのは、インドでもどこでも普通だったので、「自撮り、キモーい!」とか言っている日本人の感性は私には意味不明です。
本当に日本は、ありとあらゆる表現、自己主張が、きれいごとや建前か真ん中に寄っていないと叩かれる国なんだなあ、と常日頃から感じています。

せっかく作ったものは見せなきゃ記憶の彼方に埋もれるだけなのに、そういうのは裏で見せずにこっそりやってろ、なんて差し出がましいことまで横でチクチク言う手合いまでいるのがこの社会の結構通常。
聞き流そうにも絡んでくる相手はいるし、人の敵意が気持ちいいはずもない。

だから私が下手な絵でも文章でも写真でも、すべてに自己露出傾向を持っているのは、自己愛プラス反骨精神ですね。人間社会の中に生きながらも自分が自分であるためにやっているという感じ。
自分の生き方の問題だから、逆に誰かと自分の表現で芸とかステイタスとかを巡って競争したいと思わない。競争に乗ると、そのことによって自由じゃなくなるから。でも、自由は受け身で手に入るものじゃないというね。
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by catalyticmonk | 2015-10-24 12:01 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

強者の論理

やはり「話し合い」ではなく、自分の勝手な思い込みや決めつけで一喜一憂して、その上に相手を自分の基準から「普通じゃない」とか「失礼だ」と言う人は世の中に多いものだし、そういうことには疲れるものです。
最初のうちは誤解であればそれを解こうとして必死で説明する訳だけれど、それでも最後まで威張った態度を取っている相手を見ていると、なんであなたからそんな上から目線の偉そうな「助言」を頂戴しなきゃならないの、ってうんざりしてしまいます。
それであんっまりな態度が続くと最後はこちらもズバッと強く言って、その場の倒錯した人間関係のヒエラルキーみたいなものをひっくり返すしかなくなる。


e0296801_18405234.jpgなんだろうなあ。
まず自身の話からすると、要するに私はいじめられやすいんですね。
不器用だし、やることなすこと奇妙で、まったく悪意がなくても相手の了見の狭い部分を引き出してしまうみたいです。
人間て、とりあえず自分と違った相手がいたら警戒するじゃないですか。

私自身はすべてそのせいだということにされたくないのですが、公平に考えればやはり前にも書いたことがあるようにアスペルガー症候群である影響も少なくないのでしょう。
奇妙と人様から思われる奴こそ社会のお荷物で、自分を相手に合わせていかなければならない、ということをずっと親や家族、学校、友達、職場で言われ続けて生きてきたのですけれど、正直、そういう考えがなかなか素直に受け入れられないところもあります。


私が以前酷いパワハラを受けていた工事作業用の重機のレンタル会社では、職場で「ステップアップノート」と称したノートにその日の自分の仕事内容の反省点と、何をどう変えていくべきかを書いて、就業後に上司に見せる、という義務が課せられていたのですが、そこで上司に四時間も五時間も説教させられるんです。短く済んで二時間。あの上司はどう考えても頭がおかしかったんだと今でも思うのですが、それでも熱心な企業戦士として会社の重役からも一目置かれている方のようでした。

e0296801_18302943.jpgその彼にニタニタとサディスティックな笑みを浮かべながら言われた一言が未だに私はどうしても忘れられません。

「三つ子の魂百までって言うのな、あれ、怖いくらいホントなんやな。
いじめられっ子はな、いじめられっ子のまま大きくなって、大人になってからもいじめられっ子で、ずーっと死ぬまで一生いじめられっ子のままなんやな

そんな言葉を聞く前にももう三時間くらい、人のいなくなった山奥の営業所で所長の椅子の前に突っ立って、恫喝するばかりで具体的には何が言いたいんだかさっぱり分からない、でも恐らくは部下を精神的に完全屈服させることが目的らしい彼の意味不明な話にネチネチやられて、頭は完全にトランス状態でした。
あまりに悔しかったんで心が折れてしまって、そう言われながら大の大人の男が子供のように「わーん」て、その上司の前で泣きじゃくりましたよ。

「いやいやいや、ここは小学校じゃないんやからな、ま、今日のところは帰れや。この悔しさをな、仕事への情熱に変えろや。
もうお前は子供に帰って今日ここで生まれ変わったんやから、お父ちゃん、お母ちゃんに育てられている時の素直な赤ちゃんの気持ちに戻って、身も心も会社に捧げるんや。
そうすることによってお前は世間知らずの泣き虫オカマちゃんから強い大人の男へ成長出来るんや。そのためにワシを憎みたいだけ憎んだらええ。そうやってお前が成長してくれたなら、それがワシにとっても何よりの喜びやナア。ワシ、そういう性格やし」

奴はそんな偉そうな言葉を自分だけは飲んでいる缶ビールを片手に、全然説得力のないとろけるような最高に嬉しそうな表情で吐いていました。それがインドに留学する前の話。
でも、彼の最初のほうの言葉はまったくその通りだったんですね。

e0296801_18560239.jpg出会いや環境、自分がどう上手く立ち回るかで色々変わってくるとは思いますし、実際それで私も筋力をつけたりすることに躍起になって、一旦は小さい頃のようにはいじめられなくなったものの、会社に入ったらまたとことんいじめられたわけです。
彼は世の真実を言ったのですが、それを彼が言うということは、自分のやっていることも権力を傘に着たいじめである、と圧倒的不利な立場にある私にこれ見よがしに宣言していたに他ならないんです。


どう頑張っても人から誤解されたり奇妙に思われやすい、という現実はよく分かっているんで、奇妙に思われても結果として認められるよう、自分は人一倍真面目に手を抜かずにやっているつもりなのです。が、それでも勝手に変なことを想像しては人の良心を仇で返す人々というのはたくさんいます。
なので、横暴な振る舞いを自分にしてくる相手がそれを無自覚にやっている様子であればあるほど、「どんなに普通だろうが、自分たちの意識している範囲では真面目だろうが、それってあんたらの心の影だよ!」と思う部分がどうしても湧いて出てきます。
職場に限った話でもなく、吊るし上げとか村八分というのこそ最も過酷な精神的虐待の一つだと私は見做しているのですが、そういうことを一番やるのがまたその「普通の人たち」だったりもします。

e0296801_17563103.jpg「遠慮したって気を遣ったって言いたい人は言うし、そこを利用して攻撃する人はするんです。好きなように言って好きなようにやったら良いんじゃないですか?」といった至極真っ当なアドバイスをくださる方は常々いましたが、そういうのも頻度と溜めの問題もありまして。

こんな考えを持って発言したり書いたりしていると、「大人げない」「全部、お前の心の闇の投影だ」「甘えている」といったニュアンスのことをチクチク言って来られたり、またそのことで疎まれたりします。
ですが、卑怯で、数や権力を笠に着るような行為を無自覚にしている独善的な人物こそ本当の意味で「大人げない」んじゃないでしょうかね?自分ではそれなりに真面目なことを考え言っているつもりで他の多くの周囲の人間と同じな「普通のひと」だと思いながらね。

自分たちの境遇の上に胡坐をかいて、不利な立場にある人々を虐げ、自らの行為を省みることもしない連中が、同じ口で虐待した人達に「甘えるな」「文句を言うな」「黙っていろ」と言う世の中って、やっぱり平均的なポジションにいる多くの人々にとっても生き辛いと思うんですね。

ですから、そこのところを生まれ持った不器用さのためにビビッドに感じている自分が、それに対して「おかしいでしょ?」と主張しているのは、特別矛盾しているのでも自己欺瞞なわけでもないという自負はあります。
また、多分、私がこういう告白をすることによって、一人で悩んでいる誰かの苦痛が軽くなることもあると思うんです。私自身がそういう誰かの告白に気持ちが楽になった経験がたくさんありましたから。

でも、ここに書いた話はほんの一部ですし、残念なことに世の中にはその上司みたいな人がゴロゴロいます。
元を辿れば経済と権力の腐敗ということになっていくのかも知れませんが、それで本当に精神的に極限に置かれている実際の現場はこういう話だったりするようにも見えます。

e0296801_18065867.jpgだから、「こんなもんなんだ」ではなくて、数や力があれば正しいわけじゃない、と正当なことをどんどん言っていっていいし、そうやって助け合わなければいけない仲間はたくさんいると思います。
私達はそれくらいに追い詰められています。高尚な考えを主張したり語ったりする余裕もないような土壇場にいる人が大勢います。仲間はいるんだ、自分一人がおかしいんじゃないんだ、と知ることで死ななくて済む命だってあるかも知れません。

お笑い芸人の松本人志氏は、いじめを笑いのネタとして許容させるような文化を作りました。彼が流行らせたいじめネタで敷居を下げられた虐待行為への罪悪感、それによってエスカレートして自殺に至った子供や社内のパワハラ被害の影響はどれほどの規模だったのでしょう。
彼が文化として許容させた発想に「イジリ」というものがあります。これは「いじめ」ではなく「イジリ」だ、と言う訳です。ですが、その「イジリ」の対象となる人物は、ちょっと不器用で当為即答な切り返しが出来ない性質の人や、何かしら他の多くの人と行動様式や素性が違う人々であることが多いようです。つまり、そうしたマイノリティーの存在を面白おかしく笑い飛ばすことによって、自分も集団の側に属さないといじめられる、という暗黙の集団圧力を広めてしまうようなもので、それはまさしく強者の論理と正義に基づいた「いじめ」であり「差別」であり「虐待」です。
多くの場合、いじめる側は、相手の深刻な心の傷を理解していません。被害者の心の傷は、深く長く残ります。

作家の曽野綾子氏は「いじめは『楽しい』ものでもある」からなくせない、と語り、「いじめに耐えて生きてゆける強い子どもたちをどう育てていくか。これこそが大切」と説きました。
「産休制度は会社からしたら迷惑千万な制度である」
「震災被災者は、なぜ支援を待ってばかりなのか。私だったら余震の間に材料集めてすぐにご飯を炊く」
等々、強者の論理で一貫しています。
そして、 「カラードはカラードと結婚するのが一番幸せ」などと堂々とアパルトヘイト提案をするこの人種差別主義者は、嘆かわしいことに安倍晋三政権で教科化が決定した道徳の授業で使用される国指定の教科書に、「誠実」のお手本として登場しているのです!!(http://lite-ra.com/2014/10/post-575.html

強者の論理は、未だ社会の中で恐ろしいほどの影響力を保持しています。私たちは微力であっても人間の尊厳と個人の人権を尊重して民主主義社会を守っていくためには、そうしたものと違った言葉を少しでも多く発信していかなければなりません。

なのでリスクを負うのと恥をかくのは承知の上で、敢えてこういう話を言葉にしてみようと考えた次第です。
いじめられっ子だった人は、今現在パワハラを受けている方も、自分がダメだなんて思い続ける必要はちっともないんです!悔しかったら叫び声を上げてもいいんですよ!
一緒に生きていきましょう!
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by catalyticmonk | 2015-08-10 21:38 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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