カテゴリ:ゲマインシャフト( 5 )

多様性と共生社会

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パリの家にはカーテンがない、とか、知らない人と話す事が多様性を認め合う社会になる、みたいな内容の記事があり、SNS上でシェアしたら、いろんな意見が出ていて。
ただ、それらがかなり微妙な話である気もして、私自身がフランス通な訳でもないのですが、現代の日本人の他人との距離を俯瞰する上でも、あまりいい加減なコメントはしない方がいいな、と思ったので、別途、いくらか書いてみようと思った次第です。

他の方も書いておられましたが、海外に行くと気軽に挨拶されるのでほっとします。これは、翻って今の日本の、特に都会の事情をよく表している気がします。
逆に、日本のように表面上の愛想を重んじる社会も少ない。もちろん、一定の社交辞令や礼儀は存在するのだけれど、それを日本人ほど強い意識で維持しようとする世界は極めて稀です。

気に入らない相手には挨拶されても堂々と無視するような距離感は日本では珍しい訳ですが、そうすれば無視された側は無理しなくても、そういうところには近づかない方が無難だと知るサインにもなります。インドでも西洋社会でも、基本、多種多様な価値観や異なる人種、共同体の人がいますからね、日本みたいに一々相手に頑張って合わせようとする方が無理なんです。だから、その分、もっと割り切った面も大きくなる。

相手側の多様性を認めつつも、同じ空間に共生している、という、程々の距離が気持ちいい訳ですが、これは相手も自分と大きくは異らず、互いに気遣ったり忖度で協調性を図っていこうとする文化が根強い日本人には、体験しないとなかなか理解出来ない感覚かも知れません。

私が垣間見て知っただけでも、フランス人は相当特殊かつ複雑で、矛盾に満ちた興味深い人々でした。アジア的な共生社会の尺度とはまるで違うので簡単には言えないでしょうね。
私がフランス語が全く話せないのに、フランス人の彼女がいただけで超仲間扱いされたり、その私よりもドイツ語圏の人間を毛嫌いしていたり。複雑かと思えばアイコンタクトや微妙な動作だけでテレパティックに自分の感情や意思を伝える能力に長けていたり。

シャンペン職人のおじさんとも仲良くなりましたが、彼がなぜインドやムスリム圏が好きなのかという理由が「ムスリムの人達はとても親切で礼儀正しく温かい。インドでも年長者だというだけで、みんなホスピタリティが高くて丁寧に扱ってくれるし、気さくだ。でも、もし君がフランスにいたら、誰も君を助けてくれないだろうよ!」という事でした。
他の仲良くなった体育教師の夫婦も同じような事を言っていて、「フランス人は何かを信じているんだよ。もし、俺の庭をかき乱したら、俺はお前をぶっ殺す、うん、これだな!」と言っていました。

多分、それぞれのプライバシーを守る、自分達の家の空間を大切にする、というところを重視しているみたいなんですね。その代わり、その生活圏内部の同胞にはムチャクチャ開放的だし、気が利いている、といった感じで、日本人とまるで違う物差しな気がします。

でも、私もそれに近いところはあります。まず、知らない相手に話しかけるのは平気。ただ、気取ったよそよそしい雰囲気の連中とは、もう5分と一緒に居たくない気分になります。
ずっと一人暮らしだし、日本の学校が大嫌いだったので、集団生活は苦手なんだろう、と思っていたら、インドの瞑想センターとか、韓国人のルームメイトと共同生活する前にも韓国人集団の中に紛れ込むとか、病院生活が結構快適とか、どうにも毎回人一倍集団生活に順応が早くて。

なんでかなあ、と不思議だったんですが、よくよく思い返してみると、まず私は最初に母の実家の農家で育っていて、そこが大家族で、人の出入りが多く、私には自分の部屋がなかった。その影響は絶大な気がします。
反面、母の実家にもきちんと所属していない外孫という居候の立場、と位置付けられていて、そこに根を張って生きられない、というのも分かっていました。
また母の実家自体が蔵や納屋、田んぼや畑、川が周辺に並んでいるかなり独立した空間で、母の実家が一族の本家である旧家だったので親戚は大勢出入りする一方で、隣の別の農家とは長年仲が悪くて行き来がない、といった感じで、家風としてもまさにフランス人の「もし俺の庭をかき乱したら、俺はお前をぶっ殺す」の精神に近かったのかも知れません。

多様性と共生のバランスは国や地域だけでなく、一つの社会の中でも家庭環境や成育環境毎にも多種多様だ、というところでしょう。ですが程よい距離と緩やかな共存・協力関係を築く、という綱渡りを人間社会は模索するより他ないのではないでしょうか。


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by catalyticmonk | 2017-04-24 12:53 | ゲマインシャフト | Comments(0)

政党や宗教の共同体について

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宗教や政党といった共同体についてよく思うこと。
一般的に今の時代は疑心暗鬼の時代だと感じます。結局他人だし、バーチャルな世の中で対人関係の距離感が混乱している、という現実もあります。だから、他人を用心せざるを得ないんですよね。

ところが、宗教や政党組織といった単位の共同体は、その内部の人々にとってムラ社会的な信頼関係がある。
大きな部分では信条を共有しているし、そこの一員として自分が存在している、という選択をしている時点で仲間に守ってもらえる、ある程度までは個人的な事情にも付き合ってもらえる。
そこの部分で、私が子供時代に愛知県尾張地方の農村部で体験したような、素朴に相手を信じられる安心感みたいなものがあるのだな、とよく感じます。

ただ、私の育った家庭環境は複雑でしたし、預けられていた地主農家である母方の実家も、名古屋市近郊の工場城下町として新興の流入者人口が爆発的に増えていく中で、地元の何百年と続いてきた伝統社会が衰退していく真っ只中にあったので、理想郷であるかのように美化する過去の憧憬を私が持っている訳でもありません。

それでもやはり田舎育ちの素朴な人間性が私にも色濃く刷り込まれているので、割合と政党組織や瞑想センターの中の比較的仏教シンパの共同体、といった枠組みの交流に接すると、すんなり馴染む面もあります。結構ぱっと相手に心を開くし、無担保に相手を信用してみよう、と取り敢えずはしてみる習性があるからです。

ただ、そこの中だけに完結する訳でもない複雑さが今の時代には存在する点も強く感じているので、自分自身の感覚や着眼点に正直であろうとすると、どこかのそうしたサークルの中に浸り切ってしまおう、というほどのモチベーションも保てない、といったところです。
痛い目にもたくさん遭ってきているので、しばらく相手を観察して、この人は信用できない、となると、とてもドライに相手を見限る落差の激しさも私にはあって、まさに田舎の人間の型かも知れません。

ところで、日本人と並んで、人との付き合いが内向的である、と言われているドイツ人も、意外と初対面ではオープンに自分の事を語ります。ところが調子いい訳では決してない。
そこのあたりを面白く感じてどうしてなのか尋ねたことがあるのですが、彼らの答えはこうでした。
「初めて知らない人に会ったら、その人がどんな価値観で、どんな社会的・宗教的背景を持つ相手かは分からない。
だから、極力自分自身について語り、相手の言葉も引き出す。
その上で馴染む相手だと感じられれば順々に仲良くなっていけるのだし、そうでなければそれなりの距離をお互いに築いていけばいい」

政党や宗教の共同体などといった既存のサークルに対しても、最初から色眼鏡で毛嫌いしていても理解が深まるものでもないですし、互いの適切な距離も見定め難い。
ですから、そういった異質な未知のものへの接し方としては、その時にドイツ人から聞いた態度はなかなか建設的で妥当なのではないか、と今でも思っています。
日本人の場合は、異質なものと共存しようと言うよりも、可能なら極力同じ方向を「協調性」という美徳の名の下に向いて、不可能そうなテーマとなりやすい政治や宗教については、極力話題にしない、無関心を装う、若しくは本気で関心を持とうとしない、といった姿勢が今に至るまで濃厚な気がします。
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by catalyticmonk | 2016-12-26 21:24 | ゲマインシャフト | Comments(0)

IT時代の個人とゲマインシャフト

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最近のエアリプブームが、私には穏やかならぬものに感じる。
実際、今の社会は国家と市場によって、家族と地域共同体が縮小・破壊され、横のつながりが薄くなっている。
つまり、近代社会は相互不信と疑心暗鬼の時代でもある。

逆を言えばコミュニティや親族関係による個人への拘束が緩まることによって、自由恋愛や自由な職業選択、帰属していた共同体からの離脱や移動、個人を基盤とした幸福選択の幅・人生設計の権利が拡大した、とも言える。
ただし、「個」になった一人の人間存在は、一人で市場や国家というものに向き合わされ、結局、そうした形の社会構造や権力の前で非力ともなりやすい。

だから、私は社会主義が唱えてきた資本主義発生以降の時代の個人の在り方として、権力の前に分断された非力な個人存在の弱さの補強となるような新しい別の連帯の模索の可能性について、今も一定の評価はしている。

だけれど未だに歴史上、その個人とゲマインシャフト(共同社会)の代用となる形態のバランスの取れた社会的な在り方は、明瞭に見つけ出されていない。
この、解決策のないままに現れたIT社会は、疑心暗鬼の時代にさらなる複雑化と波紋を投げ掛けているように思える。

例えばインターネット上のSNSなどで、不特定多数の人が見ることを前提条件に発せられた暗に特定の個人に宛てた、主に批判的な言葉は、フィジカルに個人対個人が接し対話する以上に、その主張に情緒的な暴力要素を付け加えてしまいがちだ。これを昨今では「エアリプ」と呼ぶ。
返事を当てにしないけれど、空であてつけがましい言葉を不特定多数の前に公開か、公開に近い形で曝す。だから、当然より多くの波紋が生じやすく、当事者同士で何かの意見や感じ方の相違を話し合うよりも、より深く相手の胸に忸怩たる思いを作り出しやすい。
私のこうした主張自体も「エアリプだ」と人々に憤慨され得るのだけれども、そこまで気にしていたら、もはや誰も何も意見を言えない、ということになり兼ねない点も、こうした問題の境界線の難しいところだと感じる。

私たちは皆、個人とゲマインシャフト、相互扶助・相互連帯の在り方に、安定した解決策が欠如した不安の時代の申し子で、その傷と警戒心や緊張を、一人一人がその胸の内に抱えている。
だからこそ、このIT文化が生み出した新しいコミュニケーション形態は、利便性の一方で、さらにその時代精神とも言える社会不安を強く刺激してしまう。憎しみが、恐怖と緊張が、さらに強化されやすいのだと思う。

そして、国家や市場以外の枠組みによる、新たなる相互扶助の試みをしている宗教共同体や政党組織、その他の連帯が、いや、そもそも国家主義や国家主義を標榜した偽の市場経済の覇者たちが、挙ってこの新しい文化を利用し、また自らの利益に有利になるよう利用しようと試みているのだけれども、その規模や数が大きく多いほど、個人情報への抑圧として自動的に機能してしまう。

曖昧な根拠による個人へのバッシングの過熱が頻繁に起こり、それぞれの主張があるにせよ、少数派の意見や感覚・趣好を、群衆心理的に攻撃してしまって、多様な価値観を認め合いながら個人の存在と活動を認めるという、近代が発展させてきた流れに逆行するような閉塞的な風潮や状況を容易く生み出し、増強してしまう。

また、そうしたことが常態化しているので、誰かに当てつけたのではない断片的な言葉のインターネット上での発信さえもが、しばしばまるで中世の魔女狩りのように人々の猜疑心を煽る。
ここで標的にされやすいのも中世の状況と酷似している。魔女狩りで社会的な弱者や少数派であったユダヤ人やハンセン氏病患者が故なき迫害を受けたように、マイノリティーや、個人的な事情や感性を持つ個人が、疑心暗鬼と被害妄想に駆られた不特定多数からの集団圧力を受けやすい。
そうした意識・無意識にかかわらず起きた働きによって、様々な側面から個人個人が自由にその創造性と生命力を発揮し謳歌する可能性を狭めてしまい、誰もが息苦しい、勝つか負けるか、征服するか隷従するかの社会環境が促されてしまう。

私たちが助け合いを必要としているのは疑いない。
人間は社会的な動物であり、狩猟採集の時代であれば余計に家族やコミュニティの存在を必要としていたのも知られている。また、この文明社会で永きに渡って暮らしてきた現代人が、今さら自給自足の時代に戻れるはずもない。

だけれども、同時に、社会は個人個人が自由に活動できることによって発展してきたのも事実であって、結局のところ、その両方を保障する形態は、個々人のおおらかな態度とともに、思慮深く幅広い視野を持つ訓練にある、と想定するのが順当なはずだ。それを社会全体で柔軟に継続していける環境を求めていく必要がある。

それには、まずは安易な個人攻撃を慎む事と、極端に敵対的な態度を個人が取らない事、といった態度の試みから始まるのではないだろうか。同調圧力と罵倒主義はファシズムや弱肉強食の世界しか連れて来ない気が私はする。
制度的にそれを整えていくのは、まずそういった慎重で融和的な空気があった上でなければ難しく、おそらくは同時進行を模索すべきテーマなのだと思う。それが民主主義を求めていく土台でもある。
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by catalyticmonk | 2016-11-14 00:04 | ゲマインシャフト | Comments(0)

東京を変えるキックオフ集会

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「誰かに愛されている、結局人間はそう思うことによって生きていけるものなんです。
私たちが互いに愛し愛され、助け合っている、だから頑張れるし幸せで生きていられる、そう思える世の中を作って行かなければなりません。
うわべだけのお金儲けを、一部の限られた人たちが出来るだけでは、決してより多くの人々が幸福を感じられる世の中に近づいていけないんです。
誰も頼まれもしないのに、お金の力や権力によって、あなたをモノか道具のように扱う支配者のために喜んで頑張れるものではありません。

e0296801_11333253.jpgだから、私たち自身の手で、それをあなたと私が一緒になって実現させましょう。
また、ある方が『日本は独裁国家と言われている北朝鮮とある側面ではそんなに変わらない』と仰られていました。
遠く離れた国の問題は、私たち個人の力ではすぐには変えられません。ですが、今ここから始めれば確実にそれは広がって行くんです。中国や韓国といった隣国に自分たちの不満の矛先を向ける前に、まず私たち自身の住む国をより良く変えて行こうではありませんか。
結局、社会にこれほど腐敗や横暴が蔓延っていてもなかなか変えられないでいるのは、人々の意識と情報・報道の質の問題なんです。それをあなたと私から変えて行きましょう。それを乗り越えれる連帯と運動を盛り上げて行きましょう!

一部の恵まれたお金持ちや企業、権力者の独裁から、子供からお年寄り、子育てをされているお母さん、障害や病気などでお困りの方、みんなが助け合って、明るく生きていける社会を取り戻しましょう。そのための戦いをしようではありませんか!
支配する者と支配される者などという区分けをこの社会からなくして行こうではありませんか!
そのためにはみんなの、あなたの、一人一人の力が是非とも必要なんです。一緒になって頑張りましょう!」


......と、いう内容のスピーチ原稿を宇都宮けんじ氏の政策フォーラムで提案しようかと検討中。
私はチャップリンの「独裁者」ラストの名演説を中学生の頃観て感動したので、自然とこういう内容になるのだけれど。

いきなり、なりすましをやってスミマセン。人間は心を打たれて感動すると、自分も同じように何かが言いたくなるものです(笑)。
そして、告示前は公職選挙法によって選挙活動が禁止されていますから、私自身の信条による政治活動として書く必要性もあります。本当はそんな今の選挙制度を不合理で馬鹿馬鹿しいと思っているのですが、現時点では仕方がありません。
ですから、なりすましというのは実は冗談と照れ隠しに過ぎません。私は本気でこういうことを思っているし、そういう希望を間違いなく託すことの出来る今回の東京都知事選挙の候補として宇都宮けんじ氏を応援しているのです。

実際の、昨夜1月8日豊島公会堂で開かれた東京を変えるキックオフ集会での宇都宮けんじ氏の演説の模様はこちらの動画で観ることが出来ます。
http://www.youtube.com/watch?v=4r-152kZ3t8&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3D4r-152kZ3t8&app=desktop

「都民から遠かった都政を取り戻し、皆さんと一緒に都政を変え、東京から日本を変えましょう」
と、気迫溢れ圧倒されるほどのスピーチ!
集会の前後には池袋東口前でも街頭演説があり、あいにくの雨にも関わらず、数多くの人々が足を止め耳を傾けていました。

小池晃議員、福島瑞穂議員、村松まさみ議員らのスピーチ。
http://www.youtube.com/watch?v=RzPjXNGSAoc&feature=youtube_gdata_player&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DRzPjXNGSAoc%26feature%3Dyoutube_gdata_player&app=desktop
ここだけでも如何に熱気に満ちた集会だったか伝わるはず。この後に続く緑の党のすぐろ奈緒さんのスピーチ部分は未収録なものの、場内の団塊世代ほどと思われる参加女性の方々からは「えっ?!あんな若くてきれいな人が緑の党共同代表なの?」などとどよめきの声が。様々な組織と幅広い年齢層の方たちからも支持が集まっているということなのでしょう。
小池さんや瑞穂さんの演説が力強いのはいつものこととして、あの村松まさみさんという小平市の無所属議員のスピーチも凄かったなあ。全然知らなかったけれど、小池さんや瑞穂さんの後であんなにのびのびと説得力のある演説が出来ちゃう31歳って何者?と驚きました。ここでの彼女の言葉は、無党派層への呼びかけとしてもとても説得力のあるものだったのではないでしょうか。

木内みどりさんの司会、松本ヒロさんの軽快なトーク、孫崎享さんや水野誠一さん等々、他にもたくさんの方が応援演説に駆けつけられ、大変盛り上がったキックオフ集会でした。実のところ、あんなに熱気があって励まされ勇気付けられる集会は滅多やたらにあるものではありません。
最後にもう一言書き加えたいのですが、公選法があるので自重します(笑)。
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by catalyticmonk | 2014-01-09 11:56 | ゲマインシャフト | Comments(0)

郷愁と擬似ゲマインシャフト

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私は愛知県尾張地方出身なのでギリギリ納豆が食べれるが、木曽川・揖斐川・長良川を挟んで向こうの三重県ではもう納豆を食べる人はあまりいない。さらに言うと三重県から関西弁だ。
三重県や三河地方からの通学者も多かった三大河川近くの高校時代は教室の中を関西弁と名古屋弁及び尾張弁と三河弁が飛び交い、互いの文化を揶揄し合っては面白がり、仲良く遊んでいた。名古屋市内から通学する生徒の他地域に対する優越意識はかなり露骨だったが。それぞれ方言も生活習慣も大きく違い合った異文化圏だ
(名古屋及び尾張地方の土地柄については、以下の記事で以前にも少し書いている。『名古屋』:http://catalytic.exblog.jp/18785242/)。
文化的に言うと愛知県三河地方は静岡に近く、方言も尾張弁・名古屋弁ほど強烈ではない。逆に岐阜県南部と尾張地方の方が訛りも人柄も近い。やはり濃尾平野と木曽・揖斐・長良川の木曽三川といった地形上の要因が大きいようだ。

この濃尾平野というのがなかなか曲者であって、夏は高温多湿で非常に蒸し暑い。全国でも有数の酷暑地帯として有名な上、冬は乾燥した晴天の日が多く、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹く。
このため体感温度が北日本並みに一気に低下する日も珍しくない。日本海側と太平洋側を分ける伊吹山地と鈴鹿山脈が濃尾平野北西の関ケ原町付近で途切れているため、強い冬型の気圧配置になると雪雲がそこから濃尾平野に流入し、岐阜県南西部や愛知県北西部などでしばしば局地的な大雪に見舞われることがある。
しかし木曽三川により形成された沖積平野であるため、その土壌は肥沃で、古くから稲作を中心とした一大穀倉地帯だった。
つまり、名古屋市や岐阜市、一宮市などの中心部を除けば真っ平らな土地に広大な水田を中心とした田園地帯が地の果てまで続いているような片田舎なのだが、同時に穀倉地帯とは人間が作り出した人工空間に他ならない。野山も森もなく、生活環境の中に瑞々しい自然本来の姿があるわけでもない、ある種恐ろしく単調な世界がそこにはある。
肥沃な土地が多くの人民を養えた故に、気候的にも決して住み良い環境ではない土地に古くから大勢の人間が暮らしてきた。戦国時代に尾張から織田信長や豊臣秀吉などの有力武将が輩出されたのも、彼らの個性もさることながら、まず国力が豊かであったことの優位性も大きかったのだろう。また、本音を言わず、おだてにも乗らず、お金にも極めて細かい尾張人の性質がその時代にすでにあったとすれば、戦国時代には何かと適合する側面があったことは想像に難くない。
そうした永年の歴史の末に発酵醸造された伝統社会なので、田舎と言っても人間は非常にねちっこく、まるで素朴ではない。良くも悪くも凝縮された強烈な地域性があそこで生み出されるのは必然的な話なのである。
実際、同じ愛知県でも濃尾平野の外の三河地方の人達の雰囲気と尾張地方の人間のそれはまるで異なっていて、堅実志向である部分では両地域とも似通っているものの、三河人がのんびりして実直、純朴な傾向にある点は尾張地方の特色とかなり好対照だ。

しかし、ここがまた絶妙な部分なのだが、同時にゲマインシャフトが強力に働いている世界なので、そこの社会に所属している限り、誰もが家族のように気さくな態度で接してくれる。冷たく突き放した態度を取られる、ということはあまりない。
大小様々な不満や悩みはあっても、基本的にはぬるま湯のような安心感の中に浸かって暮らしていられる、堅実で安定した土地柄なのだ。
人対人の付き合いは、決して大らかでも開放的なわけでもないのだが、よそよそしい緊張感は感じさせずに本音は漏らさない社会と言えばよいだろうか。知らない人にとっては益々謎だろうが、実際にそうなのである。
本音を語らない、と言っても、それはあくまで露骨な対立は避け、家族的親近感を崩さない範囲で行われなければならない。都会的なドライさとは似て非なるものなのだ。
あの土地に生まれ暮らしている者なら、個人差はあれどある程度はごく自然に、さして力まずにそうした振る舞いが出来る。そのように、ある意味優しい気持ちを捨て切らずに振る舞おうとするからこそ、尾張地方の人々には竹を割ったような単純明快さとは程遠い、煮え切らない雰囲気が滲み出てしまうのだが。
18歳であの土地を出た私でさえ、22年の歳月を経ても未だにその感覚が深層心理にまで染み付いているようで、話すべきでない事柄があったとしても、それを如何にもよそよそしい態度でシラを切るという行為がどうにも苦手だし、そういうのが見え見えの場面に遭遇しただけで息苦しくなる。

黙っておく必要や義理があるのであれば、あまりそのことを仰々しく構えて意識しないで、さらっとやり過ごしたい。そんな感覚が条件反射的に身についているだけで、別段尾張地方の人々のすべてが鉄仮面を被って腹黒い算段を持っているわけでもないのだが、このあたりが他地域の人には最も理解しにくい点の一つであるようだ。
それ故に外部の人間の尾張人に対する印象は、両極端な評価の間を揺れ動きがちなようである。最初のうち、現実以上にものすごく正直で開放的な人々のように誤解してしまうか、逆に後からそれが間違っていることに気付いて騙されていたように感じ、ひどく不気味な人種に思い込んでしまったりするか、といった調子である。
実際に他地域の人が騙されて一杯食わされた、とか、私のように間抜けな人物でも現実以上にしたたか者であるかのように錯覚される、ということもないわけではないのだが(笑)。


e0296801_14171252.jpg私はその土地で企業ヤクザの家柄の父に膠原病の母という組み合わせの両親の元に生まれ、主に兼業農家を営む母の実家に育てられた。
母の妹も父の実家が親族経営する土木会社の父の部下と結婚し、やがて母の実家は叔母夫婦の世代になったが、私の両親は離婚、会社で板挟みになった叔父は父と敵対する派閥へつき、それ以前の話としてもそもそも父方の親族内の地位競争自体が熾烈だったので、身内はいつも犬神家の一族状態。こうした経緯でたまたま宙に浮いた立場となった私は実家と呼べる場所がない。
基本的に、そんな話自体が過去のことなので感情的にはもうどうでもいいし、ささやかな財産などもらえなくとも、そうした面倒の蚊帳の外で人生を送ってこられたことこそ自分の幸運だったと思っている。
だが私の生い立ちは、まさに血縁による横のつながりが愛知県尾張地方でどれほど濃くて複雑なものかの分かりやすい実例だ。私の家庭環境は父母双方の実家が旧家だったことも手伝って、特別厄介なケースだったとは思うが。

そうした古い社会のあり方は家族間の個々の関係より「家の存続」を重視しているので、例えば祖父母と孫という個人間の情愛より「内孫」か「外孫」か、といった枠組みのほうが最終的には優先されやすく、結局崩壊した家庭の子供は帰属する場所を失う。そうした融通の利かない世界なのだ。
私が早くから社会の構造に疑問を抱き、心理学など人間性の観察に深く興味を持つようになったのは、大体こうした成り行きによる。

私は高校時にすでに一人暮らしを始めていたし、卒業後渡米したので、独立がやや早かった。十代のうちに地元を離れてしまっているので、実のところもう尾張弁が話せない。家族の半分が関東出身者だったというのもある(私の幼少期、両親は標準語で会話していた)。
なので、同郷の人に出会って愛知県出身です、と言ってからドメスティックな話題を振られてもまったくついていけず、産まれたのは名古屋市内なのだが、名古屋に何区があるかも判然としない。
極貧生活を送りながら二十代を最下層の労働者として東京で暮らしていた頃、よく田舎に帰ればいいじゃん、と周囲から言われることがあったが、元より帰る場所などないし、そのように私にとってもう馴染み薄い遠い世界であることを言葉足らずな若い時分に的確に説明することは難しかった。

しかし、それでも子供の頃に育ち、人生の初期設定を刷り込まれ、色々な動機付けを受けた環境として、私が愛知県の、それも尾張地方という土地柄に生まれた影響は絶大である。
今はどうなっているか知らないが、尾張地方は養子婿を取る風習が強く残っていた。大体私の母の実家も女系家族で、男の跡取りは曽祖父の代まで遡らないといなかった。それで代々養子婿を迎えて「家」を存続させるのである。
どれだけ古めかしい世界で私が育ったか分かろうというものである。

私がアジア的なゲマインシャフトに郷愁を持ちつつも、個人の尊厳が軽んじられる因習に強い抵抗を感じる、といったアンビバレンツな感情を持っているのも、結局は自分のこうした生活史に影響されていた結果なのだなぁ、と三十代半ばくらいからは次第に実感を伴って気付くようになった。
年の暮れが近付く今の時節、帰省の話題も巷に溢れるので、なんとなくこうしたことが脳裏に浮かぶ。


私の育った時代の尾張地方を単にゲマインシャフトとだけ定義して済ませても無理があるだろう。
人間関係が最重要視される世界ではあったが、そこで重視されていた人間関係とは、利益面や機能面での都合を取り入れ社会慣習化した上での「家の存続」なのだ。その意味ではゲゼルシャフトに半ば移行した伝統的共同体社会だったと見做せるのではないだろうか。
__ここまで書いてきたように、私の個人史や尾張地方の地域性はそれなりに独特で、個別の事情・特徴があるものだ。決して平板で画一的なモデルではない。
にも関わらず、そうした細部の性質を検証していけばいくほどに、逆に大きなところでは、私達現代日本に生まれ育った人間が生育過程で体験する地域社会の状況といったものには、どこかとても似通った部分があるようにも感じられたはずだ。

かつて日本全体は企業そのものが家族共同体のようである、ゲゼルシャフトに半ば移行した共同体社会だった。つまり様々な理不尽や不合理を抱えながらも、地縁や血縁、友情で深く結びついた自然発生的なゲマインシャフトの名残りがあったわけだ。
それがバブル崩壊、経済のグローバル化、終身雇用制の崩壊、派遣労働者の採用の増加を経てより完全なゲゼルシャフト、機能体組織、経済至上主義的な利益社会に変貌しつつあるのがこの島国の現在である。
しかし、それが理想的な近代社会であるなどと私には到底思えない。人間性の幸福を考えた場合には、目指すべきものはやはり洗練されたゲマインシャフト、愛の共同体であるはずだ。
しかし主観的感覚としてそうは感じても、「洗練されたゲマインシャフト」なんていうものは実は具体的指標にするには曖昧過ぎるもので、簡単に擬似のゲマインシャフトにすり替わってしまう。例えば私は、日本の戦後文化の脈絡の中で築かれてきた愛社精神も、明治維新以降の天皇制国家共同体も、擬似ゲマインシャフトだった、と思っている。
だから「洗練されたゲマインシャフト」という理想は、対社会的なスローガンには適さないのかも知れない。曖昧な観念ほど詭弁に悪用されやすいからだ。
愛社精神も天皇崇拝も、それらが個人の内側の美徳に留まっているうちはいいが、社会的通念として外部の人間や集団を抑圧し出すとタチの悪い話になってくる。

私の中にもある、この失われたゲマインシャフトへの憧憬が、現に昨今日本人を右傾化と排外主義に走らせている火種の一因になっているとも思う。
それは投影心理的な倒錯現象と言うべき群衆心理の状態であって、非常に盲目的で危険なものだ。そうした倒錯心理は理性を失った衝動的なものであるからこそ、権力に利用されやすい。そして愛の共同体を切望する人々をむしろさらに社会の分断と疎外といった窮地に追い込む。
人間は宗教的共同体であれスポーツであれ、絶えず連帯感を求めるものなのだが、やはりそれがどんな幻想であるかについて、情緒的な勢いに流されて見失ってしまわず一瞬立ち止まり見極める注意深さが、今、とても必要とされている気がする。
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by catalyticmonk | 2013-12-25 13:59 | ゲマインシャフト | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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