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民主主義未満

例えば、最近なら森友学園問題で刑事告発するのは政治戦略として良かったか悪かったか、吉祥寺で反天皇制デモを行なうのは有効か否か、野党が共謀罪に対抗するのに審議拒否をすべき・すべきでない、といった議論がありました。どれも、何が合理的な手法か、といったところで意見が近しい者同士で割れていました。

ですが、その3つだけ取ってさえ、全部の判断がきっちり同じになる市民の割合なんて少しずつで、みんなそれぞれ一個一個は違う判断なんですよ。

そういう手法の違いで相手をすぐに感情的に、または関係のない人格攻撃も含めて対立し合う、という、極めて荒んだ空気がずっと存在しています。

みんな、その現実を分かっているから、市民運動に参加しつつ、自分の意見は言わない、と決めている人が長い人でも結構います。あと、いつもどこか特定の政党や活動団体の判断について行く、とか、どうしても、そういう人の方が長く安定して幅広く活動しやすい空気があります。

でも、個人個人が自分の意思と判断で動いていかなければ、結局別の次元と枠組みで権力闘争や利権構造が生じるだけで、民主主義社会を求めていく根本が成り立たない。

手法の見解の相違はどうしても出てくるものです。
ただ、それをやられたらみんなが困る、というテーマは確かにあります。
民主主義社会なら反天皇制デモも含めていろんな意見があって然るべきで、そこを出した上で議論するのが筋です。
でも逆に吉祥寺の街の人に、地元と関係ないのに、右翼の街宣車や機動隊が集まってきて暴力的な空気になって怖かった、地元の活動団体は平和的に活動して親しみを持ってもらおうとしていたのが台無しになった、みたいな言葉を言うな、とはもっと言えない。仮にそう主張するとしたらそれも無理があるでしょう。

森友学園問題の刑事告発や国会の審議拒否は、高度に政治的で、法律や議会運営の知識・専門情報がないと、素人には即判断が付かなかったりします。ところが、それが支持している政党や仲のいい人物の激しい煽りがあると、微妙で複雑な判断であるはずの事で、もうバトルが始まって、お前はどっちなんだ、みたいに聞かれる。

日本人は合わせるのが得意ですが、個人の意見を尊重するという考えがまだ育っていないですよね。
個人が自分でしっかり考えていない割に、明らかに不釣り合いなほどの対立をすぐに始める。ここの意識を変えないと始まらないでしょう。
それ、そもそも社会運動の正常なスタンスでも民主主義の正道でもないから、と。

民主主義や個人の自由をもっと理解していかなければ、ただの言い争いで終わって勿体無いですよね。子供のケンカと同じで。
そういう雰囲気だと社会運動がますます非日常的になってしまいます。

共謀罪などのように民主主義社会を根底から揺るがしかねない、かなり重篤な危機が迫っているからこそ、みんな余計に意見対立する、というのもあるようですが、もっと身近な問題として誰もが参加できると良いのに残念に感じます。
本来は、自主的に考える勇気、間違える勇気があれば十分なはずです。
でも言えない社会があるから、そこから変わらないと日本人はロボットになってしまいますね。国の思い通りで、今の日本人は凄い危機なんだと思います。


別に思想信条の問題じゃなくて、左翼臭い毒々しさって実際にありますよね。右翼臭さでも政党臭でも一緒です。自民党はもとより野党でも政党臭さってあるじゃないですか、キナ臭い独特の。

いや、どんなスタイルだって自由なんですよ。でも、ただ税金払ってこんな社会制度じゃ嫌だとか、原発事故怖いからやめて欲しいとか、そういうシンプルで当然の権利である願いを普通の人が意思表示したかった時に、政治の世界はこういうものですから、って顔で、デーンと構えてね、かなり多くの人が嗅ぐのも苦痛な何ものかで待ち受けている、みたいな現実は事実あるんですよ。
それで、皆それぞれに「俺の所に参加しろ」と実質言っている。

なんか、それってフェアじゃないじゃん、詐欺みたいなもんじゃないの、と感じている人が大勢いるのに、「なんで声を上げないんだ、国民として、有権者として、民主主義社会に生きる一人の人間として無責任だ!」と来る。

他の喩えで言うならですね、ビジュアル系も入ったグラム・ロックとか、ヘヴィーメタルとかの音楽とド派手な格好が好きな人は、それが個人の趣味趣向だからそれでいいんですよ。
でも、それで、ヘッドバンキングしない奴は非国民だ!とか、意見があるなら大音量でヘヴィーメタルがかかった集会に来てギターもライトハンド奏法くらい出来なきゃ発言権はない、でも集会に来ない奴は民主主義社会の一員としての義務を放棄しているに等しいから、何をされても文句は言えないぞ!なんて言われたら、どうでしょう?
やっぱりそれって違うだろう、と多くの人が思うのは仕方ないでしょう?私はクラシック音楽が好きだし、収入が減っているのに勝手に増税されては困るから、当然の主張をしたいだけなのに、ライトハンド奏法の練習をする時間なんてないよ、と。

あと、動く奴が一番偉い、来ない奴は能書きだけ垂れるな、みたいな言葉が多い訳です。ですが、ここ最近ずっと癌闘病をしていた私からすると、はっきり言ってそれ、意図しなくとも相当な障害者差別・病人差別なんだよな、と感じる場面が多々ありました。

もちろん、そこも半分は分かるし、正当な主張である場合も多いんです。自分では何もしないで他人に文句ばかり言う、そういう無責任なマスに頑張っている人達が無益に疲弊させられる、という重大な弊害がありますから。

けれども、だから少ししか動けない人間は感じている事柄も口に出すな、というのでもやはり違うと思うんです。半分は同じ言葉と主張がある種の傲慢さである場合も多くて。
活動している人間が政治の主役、みたいなのって、忙しい人間や貧乏人も蔑視している、という、その程度の道理も分からない連中が人権とか民主主義とか言うのは矛盾じゃないか、と徐々に病状が悪化している最中にも行っていて何回感じたか分かりゃしませんよ。

だから、何かそういう次元でね、「政治の世界」の常識みたいなのが出来上がっていて、そこに乗るか反るかを前提に政治参加云々と言うのが少しおかしいし、今やっている人達が自分達の行動を広げていきたいなら、少なくとも後から来た人がこれって胡散臭い、とっつきにくい、と言っても怒っちゃダメだと思うんですよ。

結局、「オレ達のやり方に黙って付いて来い。でも、これが民主主義なんだ」なんておかしな理屈をずっと言っている面がある気がします。また、無責任に文句だけ言って主体性のない「お任せ民主主義」の風潮が、頑張っている人達をそういう所に自然と追いやってしまうという堂々巡り。
ここはやはり民主主義や個人の自由・尊厳が何なのか、一人一人が実質的に見つめて意識改革していかなければ、またそちらの方向に互いに声を掛け合って啓蒙し合わなければ、ずっと並行線のままなのが道理でしょう。

政治や運動に上も下もないはずで、それぞれの人がその人の身の丈なりに社会に関わり、各人の意見を言えるようにしていくのが民主主義の本来の姿なのではないですかね。

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by catalyticmonk | 2017-06-19 01:29 | 希望社会 | Comments(0)

市民共闘

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共産党支持者の多くは民進党なんて自民補完勢力だ、と思っているし、民進党も共産党には出しゃばらせたくない。
自由党や社民党は直近の都議選では大勝負がなく、無党派層でアンチ安倍政権寄りの人達も政党支持者同士の党派ごとにバチバチやっている感じに近寄りがたいものを感じて、白票を投じないまでも選挙応援を積極的にしにくい状況に置かれている。

党派対立が激しい局面で敢えて投票行為以上に能動的に選択する、ということは、その特定の党派に自身が組み込まれる形になるのだから、どっちにつくか、という空気は、結局最大多数派の無党派層を与党に対抗する勢力に取り込めなくする。
幅広い価値観の人々を緩やかに吸収出来なくなるのは自然な道理。

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私がこういう事を言うのは、自身の体験上の至って自然な実感がある。
私は去年から手術や入退院に明け暮れていて、選挙応援どころではなくなった。その前の年の2015年、戦争法案反対の抗議運動が終わった秋口くらいから具合が悪化したので、私があちこちの選挙運動に参加していたのはその前までだ。

その頃、私自身は何人かの特定政党候補の応援を末端でした。共産党候補の応援もしたし、同時に社民党や緑の党の候補の応援もした。
そういう事を現に多くの無党派市民層がしていたし、「野党共闘」という言葉が現実的な形を取り出す以前から、私が二度の都知事選挙で宇都宮健児さんの支持・応援をしていた事もあって、幅広い支持層と横のつながりが生まれた影響も大きかった。

宇都宮健児さんを支持した者同士が、互いにそれぞれ緑の党や共産党、社民党、生活者ネットワーク等々の候補者を応援し、宇都宮さんご自身も自分を都知事選で支持してくれた人々や野党の選挙応援に方々を回られていた。

ただ、実際にはその当時から政党間毎の様々な軋轢はあって、当初はその難局も緩やかな市民層のネットワークが互いを励まし合うような形で支え合っていたのだけれど、段々とその歪みが積み重なり大きくなっていく一方で、仲間であった人々がバラバラになり、あるいはどこか特定の政党の強固な支持者に収まっていく、という過程がどんどん進行していった。

SEALDsが野党共闘を呼び掛けて飛び回っている頃には、私はすでに手術台の上だった。
手術後間もなく少しだけ都知事選挙の街頭宣伝にも参加したが、野党統一候補をめぐって宇都宮健児さんが出馬を辞退される、という出来事が起きていて、以後、それでも宇都宮さんを支持し続ける人々と、かつては宇都宮さんを支持していたけれどどこか特定の野党についていく人との間に決定的な溝が生まれ、また宇都宮さんご自身も、以前のように野党共闘の看板としていろんな選挙に呼ばれる、といった機会がなくなっていったようだ。

私自身は宇都宮さんを都知事選挙で支持する事が市民運動参加の大きなきっかけとなった人間で、それ以前に311直後から反原発運動には度々参加していたものの、がん告知や諸々の個人的事情でそれどころでなくなっていた期間も長くて、あくまで病気の小康期に都知事選挙関連で徐々に広がっていった面が強い。

それでも独立独歩でものを考え行動する人間なので、自分を単なる宇都宮信者とか山本太郎信者みたいな分類に入れられる気はさらさらなくて、候補者や政党の支持もその時々の状況や具体的な政策を見て選んでいる。

ただ、この安倍政権が長らく高い支持率と議席率の中で盤石に続き、特定秘密保護法や安保法制、共謀罪といった重大な法案が数の力で強行採決されまくる難局の中で、そこに対抗している市民はまとまった力になるべきところを、ひたすら分裂していく一方だった。

e0296801_07542019.jpg何か結局のところ、ずっと昔から続く日本の市民運動の図式の流れそのものであって、それが変わるかも知れない、という空気が高まった時、311以降にも、特定秘密保護法や安保法制反対の頃にも、新しい積極的な政治参画層が一般社会から流入して、一部は既存の特定政治勢力に吸収され、大半は去り、ごく一部の人々がそれでも新しい流れを模索する、といった繰り返しが成されているのは間違いない。

だけれども、全体としては緩慢をつけながら弱体化する一方であったのも確かで、ただ昔から変わらない当然の流れだ、と受け入れていてもいけない気がする。
今、野党共闘という言葉は継続しているけれども、それが本当の意味での寛容な空気や多様な価値観・政治信条の融和性を示しているのだろうか。

一般人が、例えば民進党候補や共産党候補を同時に積極的に応援しながら、複雑な党派対立に巻き込まれ後ずさりしないで済むような、そうした空気作りがないままならば、ますます与党と既成権力の看板の架け替えでしかない勢力が、庶民置き去りの横暴な政治を続けることは疑うべくもない。

e0296801_08061295.jpgだから、現実的には既に「野党共闘」という言葉もほころびを見せ始めているのだと思う。
「野党共闘」と言った場合、それが「市民共闘」の象徴として正しく機能するのであれば健全なのだけれど、実際にはそれの意味する「野党」とは、既存の「国政政党」である民進党、共産党、自由党、社民党の四つを指しているに過ぎない。国政参加を目指しているその他の政党支持層や独自の政治見解を持つ人々にも息苦しいものを感じさせる。

それがどんなに合理的な判断と思えても、異なる価値観の人々への過剰なごり押しは禁物だ。それは安倍政権に対抗する市民層の分裂を招くだけでなく、政府に不満を抱きつつ政治参加には消極的な層に連帯の輪を広げていく事を困難にする。

「野党共闘」という言葉で括られている各党の支持者は、当然元々自勢力の拡大を政治集団の原則として持っているのだから、「野党共闘」の大義と共に、どんどん謙虚さを失い、野党四党支持層以外の有権者に以前よりも声高にごり押しをしている面がある。「野党共闘」という言葉を使って自党への勧誘を必死でしていて、それでますます全体としては安倍政権に対抗する仲間を増やしていけなくなる負け試合に向かっている。

いや、各党が頑張ればいい。出来る事なら野党共闘も無党派層やその他の政治勢力の取り込みも行なえるような融和的な形で行なって、与党打倒後の受け皿を健全に模索していって欲しい。
だけれども肝心な目的は、たった四つの「野党」が連帯し合うところに焦点がある訳ではなく、市民が、有権者が共闘するところにあるのだ、という点を今一度忘れないでもらいたい、と願っているのは私一人だけなのだろうか。
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by catalyticmonk | 2017-06-18 06:07 | 希望社会 | Comments(2)

私が病気をしてから日本の政治運動や社会運動について気付いた事柄

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単に病気になっていろんな所へ顔を頻繁に出せなくなり、市民運動も選挙活動も、物理的に遠ざからざるを得ない立場に長くなってみると、如何にそれが普通の人が関わり辛いものなのか、改めて障壁の大きさを痛感するところが増えていきます。
絶えず揉めて錯綜とした人間関係の市民運動界隈にたまに行くと、公平に振る舞っているだけのこちらが、ギクシャクしたイヤ〜な空気の緊張感を味わなければいけなかったり、どこの誰が選挙の候補者としていいのか、一般人にとって定かな情報は調べなければ伝わってこない状態なのに、こことそこを応援して!という段階からの勧めばかりが飛び交っていたり。
こんなのじゃ今関心のない外側の人達なら尚更関わりたくなくなるに決まっているし、広がらなくてむしろ当然だ、という決定的な印象を受けるのです。

じゃあ、代案を出せよ、ではなくて、それが外側の人の実感だ、という部分での話に恫喝したって始まらないでしょう。全体的に押し売り的な倒錯した論理の蔓延を感じてしまう。

例えば、デモだけやっていても政治は変わらない、選挙の時だけ野党に投票しようとだけ唱えていても都合が良過ぎる、もっと普段から地域のつながりを大切にして、選挙事務所とかでボランティアしたり、ビラ配りしろ、そういう横のつながりを自民党はしっかりやっているから勝つんだ、といった話も従来からどこの政党支持者でも熱心に主張するところで、全部正論なのですがね。
でも、そういう主張が出る団体や政党支持者は、大概同時に「こうしなければ無責任だ」くらいの強い調子の事までボロボロ発言しているところがあって。

そんなに押し売り的に二者択一でものを言ったら、「こちらは本心、政党はどこも言う事と立場がコロコロ変わるし、そこまで応援したいところなんかないんだよ」とその人なりな正当な理由があって積極的に支持する所がない人達を、端から侮辱しているのと変わらないですから、そういう事を言っている人達の活動全部に好意を抱けなくなるのも当然です。

いや、それでも、その時その場その状況で考えて具体的な候補者や一定枠内の政党を応援するのは大切だし、見ていても政治熱のある市民はすでにもうみんなガンガンそういう事をしている訳ですが、そこも点でしか関われない病人や、ニュースやネットもじっくり見ていられない忙しい人達は、それをしろと言われても正直ついていけないのです。

やはりどこの政党も運動も、それぞれに自分ところの活動を事業として大きくするといったところに熱心で、その引き入れを必死でするのですが、それに関われない立場の人が賛同しやすい姿勢ではないし、引き込むのに熱心過ぎて相手に傲慢になっている部分への無自覚が、さらに一般人を政治から遠ざけている、という視点が薄いままだと厳しい気がします。
相手のペースや立場も尊重しながら、その人が純粋な気持ちで意欲関心を持ったものを欲張って潰さないスマートさが必要なのだと思います。

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by catalyticmonk | 2017-05-23 23:37 | 希望社会 | Comments(0)

手法の相違と大同団結

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うーん、今日、衆議院本会議で共謀罪法案が可決されたわけだけど、社民党や自由党本会議強硬に抗議欠席、共産党や民進党は出席して牛歩もしなかった、と一部から非難轟々だ。
森友告発プロジェクトが安倍昭恵夫人含めての刑事告発状を東京地検特捜部に提出した話でも、そんな事したら戦法としてダメだ、バーカ、とかまで言葉が飛び交っていて。

いや、手法として一番効果的な正しい判断を見極めていかなければいけないのは当然の話なのだけれど、手法の判断がいろんな意見が出るのは当然のことでしょう。
そこで、共謀罪成立を阻止させたい、森友問題などの疑惑がうやむやにされるのはおかしい、だから安倍政権を退陣させたい、と大筋では願うところが同じ人々が、憎悪も露わに罵倒し合うという行為が何につながるのか。

私なんて素人だから、そういう手法の是非の判断がつかない場合は多いし、私よりも現状日本の有権者の大半は選挙に行かないくらい政治への関心が薄い。
そこで、なんとなく、「え~、そんなものも自由に言えなくなる法案なんじゃないの?テロのためって本当?」とか素朴な疑問や関心を抱いた人が、自分よりも詳しくて先に行動している人同士で辛らつな激しい言葉の応酬で言い争っている市民運動の人達のやり取りを見ると、「なんか気になるんだけど、よく分からないのにどちらかにつかないといけない」みたいな様子に行き当たった時点で、大概は脱落しちゃうんだ。
そういうの、本当にもったいないよ。

実際、自分も病気してから、それでもずっとそういうトーンで激しくやり合う市民運動の世界にガチで関わり続けたら、もう体が持たない、と実感する瞬間が何度もあった。
命がなければ、自分たちの暮らしを続けていけれなければ、もう政治への関心以前だからね。
多くの人が、暮らしや健康を維持しながら、なおかつ自分達よりも全面的に関わっている人達の活動に関わっていける、という形でなければ、手法をめぐっていがみ合っても、本質的なところではもっと負けてしまうんだと思う。

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by catalyticmonk | 2017-05-23 22:27 | 希望社会 | Comments(0)

外づらのいい日本人と共生社会

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市民運動関係者から何やらどこかから排除された、とか、吊るし上げられた、なんて話は定期的に耳にします。
まー、各人と運動体・組織毎の思惑はありますからね。そこが合わなければ考えが違うんだという事でしょう。

そういうのは、大概当人達から直接聞くと、どっちの話も「なるほど、そんな感じだったのか」となる場合が多いし、一番重要なポイントが当事者同士しか確認しようのない話だったりもするので、私は八方美人とかでもなく、簡単にどちらか一方だけの肩を持つという判断はしないようにしています。安易な決めつけや思い込みこそが、最も理不尽に相手を苦しめる事だ、というのも痛感しているからです。
でも、そこも自分との付き合いの浅い・深いだけで安易に決めてしまう人がとても多い気がします。それでは理不尽な差別や偏見は一向に減らないのも道理なのですが。

悔しい事も多いでしょうがね。例えば私も本人に許可を得て撮った写真を他の人達から削除しろ、と言われて、最初「構わない」と再度言っていた相手が、後から「色々と考えるところがあったから、過去のものも遡れる範囲でいいから消してくれ」と言われたり。そんなの、当人に頼まれたら消しますけどね、裏で圧力をかけたのが分かり切っているじゃないですか。
あれは胸が抉られるくらいに悔しかったなあ。何日間も、夜も眠れなくなるほど他人から集団で絡まれて筋を通すために粘っていたのに、そんな卑怯な手を使われたら、こっちが何も表立って反論出来ないまま、「あいつはトラブルメイカーだ」なんて形になって、不愉快な反響が後々まで続く。でも、そうと分かっていても、一回一回「待ってくれ、実はこういう話なんだ」なんて言う訳にも行きませんから強力な重圧です。

もっと露骨にデマを吹聴する人間もいますしね。
でも、びっくりするのは、そういう行為を結構評判のいい人物がしている、という現実に度々遭遇する事です。評判がいいからこそ、そういう思い切った事も出来るし、自分のメンツを守るのに必死だからデマでも言ってしまう、という話なのかも知れませんね。

だから、楽にやりたければ目立っちゃいけない。昔から左翼やリベラル派と日本で呼ばれている人達の世界は、集団主義の恫喝集団みたいな負の側面があるようです。
特殊なクレイマーだけの話ではなくて、大きな組織や運動体ほどそういう事が増えがちなんです、日本の市民運動の傾向として。
自分が「これではいけない」「こういう願いを叶えたい」と純粋な動機で関わったのに、そんな事ばかりで疲弊していたら願いや希望以前のところで空回りする訳ですから、馬鹿馬鹿しくなって消えていく人が多いのも無理ないんです。実際、そういう風になったら意味が薄れていきますからね。

また、その中で上手く立ち回って行こうとポジション確保に囚われていく人も多い。政治の世界が汚い、と言うのも、目の前にある現実なりに生き残っていけるように妥協や権謀術数を重ねるからでしょう。

そういう事にほとんど遭遇しない人もいます。
でも、私が見てきた限りでは、自分自身の判断で行動したり、意見をはっきり言う人ほど、かなり明白にそういう酷い目に始終遭っています。
何が違うのでしょうね?
みんな、自分のところのイエスマンを欲しているのですよ。余計な事を言わないで、裏方を黙々としてくれるか、自分達の活動をひたすら礼賛してくれる人だけが欲しい。活動が大きくなるほど、その傾向が集団の中で高まっていく。

日本人は元々、違う意見を言う相手ともゆるくまとまっていく、という事が苦手なんです。違う宗教や民族の人達と、同じ生活空間で日常的に暮らしている、という環境が薄かったからこそ、意見や価値観の異なる人達と互いの多様性を認め合ってマネージしていくという行為が上手く出来ない。
むしろ阿吽の呼吸とか忖度、「だよね」の精神で、みんなで空気を乱さないようにしていくのが社会と人間としての美徳だと思い込んでいる。

だから、実際、日本人が他文化の環境へ行くと酷く自信なさげにオドオドして、よく分からない相手と話し合っていくよりも、ニコニコと愛想笑いを絶やさす礼儀正しい日本人を演じて好かれようとする。
これで騙されて「日本人は素晴らしい理想の国民だ!」とある意味憧れて、日本に来てから「外で会った時の日本人はあんなにいい人ばかりだったのに、日本にいる日本人は全然違う。どうしてなんだ!」と言う外国人にいったい何人出会ったんだか。

でも、その集団毎の、事業的な部分に賛同してくれる人ばかりを求めがちになると、総体的な部分では多様性を認め合った寛容な共生社会に近付いて行きません。
そうした非民主主義的な性質が改まらないと、いつでも経っても同じ事を繰り返すのだろう、と私なんかは思っていますよ。
どちらを多くの人が望むか次第なのですが、集団の忖度で和やかな世界が実現出来るか、と言ったら、実際には権力を手にした人達の腐敗をまるで止めていけないので、社会の大部分の人達がますます横暴に耐え殺伐としていくばかりなのは間違いない気がします。
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by catalyticmonk | 2017-05-09 00:07 | 希望社会 | Comments(0)

個人の自由と公共性の間にあるもの

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私の友人の知り合いが、ゴールデンウィークの家族との休暇をFacebookに投稿したら、「休み取れて羨ましい」とか「自分は仕事」みたいな、なんとなく感じが悪いコメントがあって、「人の楽しい姿や、充実してる様子って見たくない」感がコメントから伝わってきてげんなりした、という話を聞いた。そして、その後、知り合いの人も休んで申し訳ないようなコメントを返していたという。

e0296801_10553957.jpgよくある話だ。
「リア充」という言葉にもつながるところで、要するに日本人はひがみや妬みが多い。それこそ恥ずべき事だ、という意識が不思議なほど弱い。
楽しそうにしておいた方が他人は関心持つものなのだけれど、同時に妬みも付いてくる、と。

そういう変な批判は政治家の豪遊にでもぶつければいいところだが、結局、政治家は遠い存在だと思って免罪にしているんだろう。
また、前述の例なら、SNSの性質の問題もあって、本当に気の合う人とだけのSNSにしたいのが本心であっても、そうすると不特定多数から情報を集められないので、広く開かれた世界への窓口、というSNSの利点が失われてしまう。千の無為の中から一の中身を取るのがSNSだ。

e0296801_11213830.jpgだから、例えば私なら、お金と異性関係に関しては言葉が重くなる。
それを個人名で知られると相手に迷惑がかかるかも知れない話や、セキュリティー上の問題が生じる事情は、あまり具体的に話したくないのだけれど、「ちょっとくらいいいじゃないか、水臭いな」なんて食い下がられて教えた結果、物凄く大変な目に遭った経験が何度もある。他人の事を訊かれて話したら、回り回ってその人の耳に入った時には全く違う話にもなっていたりもする。
そこで怒ったところで、たいてい相手は構わないし、何が不可抗力でそうなるかも極めて雑にしか理解していない場合が大半なので、自分自身で事前に厳格な線を引くしかない。
プライバシーとは、気分の問題だけではなくて、現実的にはそういう問題であったりもする。だけれど、特定の共同体の中でどっぷり生きている人間ほど、こうした事情に疎かったりするので、余計に自分とは異なる相手への想像力が乏しくなる。

私個人は瞑想センターなどインドで、同じベッドに男3人でゴロ寝していたくらい超の付く集団生活も経験してきたので、別に閉鎖的な風でもない。だけれど、日本だと何かと用心深くならざるを得ない面がある。反面、本来の性質は開放的なので、機会があると無造作に話しかけるから、結構謎の人扱いかも知れない。

e0296801_10524850.jpg結局、みんな、それぞれのゲームのルールに則って行なっている訳だ。サラリーマンならサラリーマンの、政治家なら政治家の、学者なら学者、医者なら医者、政党関係者なら政党関係者の、それぞれのネットワークの中の常識で測ってやっている。
そして、他のゲームのルールが存在してそうなネットワークへは滅多に越境していかない。記号表意作用のようなもので、「必然性がないにもかかわらず、それが了解される体系の中では必然とされているもの」に強く依拠して日本人は暮らしている。

だから、自分の周りに仲間が大勢いて、そこの流れに乗ってやっている分には楽だとも言えるし、ネットワークの中のルールには合わせていかなければ嫌味を言われたり、吊し上げられる恐怖を気にしなければいけなかったりもする。
そういう人目を気にしないといけない、個人主義的でない不自由さが、日本には色濃くついて回る。

e0296801_10583046.jpg個人行動で、あまり仲間を引き連れないで動いているタイプの人物は、いろんな憶測の的になるし、守られるクッションの役割を果たすものが少ないから、非常にこの社会では生き辛い。必然的に一人では対処し切れなくなって、ますます影のようにひっそりと行動せざるを得なくなる。
じゃあ、仲間をたくさん作ればいい、となった時に、すぐに出来上がったネットワークの中で非個人主義的な過干渉の日本文化が顕在化してしまうので、ずっとそことの兼ね合い・都合の話になる。

e0296801_21194176.jpg従来の日本的な妬み文化と過干渉な社会関係のあり方は、個人個人がその人の個性と能力を最大限にのびやかに活かしながら、幸福に、そして建設的にゆるやかに広い社会とつながっていく上でとても不都合だ。
ありもしない、緊密に他人と自分が同じ価値観や感覚だという前提を、みんなが「普通」に合わせて忖度し合っていく「普通教」という日本型カルト信仰の中に築いて、自分とは異なる人々と社会の中で共生していく不安感を日本人は払拭しようと必死でいるようだ。最近なら、「私、日本人でよかった」とかいうポスターを街中に貼りまくって、なんだか排他的な優越感込みのナショナリズム精神の鼓舞という形でそこを煽ろうとする動きが強まっている。

だけれど、それはいつか来た道、全体主義の、ファシズムへの袋小路に他ならない。
やはり人間が自由で平等に生き生きと人生を謳歌し、真の意味で建設的な社会で暮らしていきたいのであれば、個人主義を受け入れつつも、自己を確立してゆるやかに他の多様な人々とつながっていくという、多様性を受容した共生社会、民主主義の世界という方向に脱皮せざるを得ないのだと思う。

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by catalyticmonk | 2017-05-04 10:38 | 希望社会 | Comments(0)

陰謀論と社会運動

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「小沢一郎前幹事長は、原子力潜水艦でやってきたマイケル・ジョナサン・グリーンに米国債購入を懇願された」とか書くガセネタを有料でばらまく稀代の詐欺師とさえ呼ばれた板垣英憲氏が、今さら最近またたまにSNS上で持て囃されていて、ちょっと気になります。

ガセネタ連発している人の情報でも、結構市民派の人が反応しているんで、あまりにも真偽不明のものを内容の刺激性から持て囃す姿勢には、もっと慎重になっていいと思うんですよね。
もちろん、私も知り得ない事柄は山ほどあり、驚くような内容が真実である場合も世の中にはたくさんあります。そして、いつも正しい判断なんて人間は誰も出来ないのです。
ですが、期待と情報の確証性、そこはきちんと分けて考えないと、社会的なメッセージそのものが信頼度の薄いものになるリスクがあります。

板垣英憲氏に限らず、確認可能な情報だけでも明白にデタラメを垂れ流し続けて、それが持て囃される人種というのが結構います。それでは、何か人の注目を集められるようなデマを発信して、なんでも言った者勝ちという事になります。
反面、原発は危険であるとか、内部被ばくのリスクとか、公正に危険性が明らかにされなければいけない情報や、安倍政権の税制がどういう風に一般人にとって負担増となるか、といった訴えが、雑な情報を多用する事により、今現在関心を抱いていない人にとって混ぜて語られているメッセージ全体が「怪しいもの」と捉えられがちになります。

実際、言う事の大半がいつもデマだったり、的外れな見識である人があなたのそばにいたら、その人の意見を話半分にしか聞かないでしょう?
それは当然の反応なんです。だいたいが、すべての人の意見を公平に聞こうにも、誰しも時間にも気力にも限度があります。
何か耳慣れない変わった主張ばかりする、というような印象だった人でも、言っていた内容が事実に裏付けられたものだった、現実的に参考になる頻度が高い、と感じられる人の意見は徐々に信頼するようになるでしょう。

人はコマーシャルな耳障りの良さや態度に引き寄せられやすくて、それは必要な場合もあります。
ですが、特に今自分とは異なる意見の相手の人に、「安倍政権はこれまでの歴代自民党とは違うんだ」とか「男女の役割分担と簡単に言っても、人間は千差万別なのだから、それを個人が自由に選択していけるようにすべきだ」などといった主張を伝えていく時には、面白おかしいだけではない中身のある「信頼性」といったものが重要になってきます。

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by catalyticmonk | 2017-05-01 00:38 | 希望社会 | Comments(0)

民主社会と内輪ノリ

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なんか、みんなの代弁者として頑張ってくれそうな人を議会に送るために応援するのはいいんだけど、基本的に政治家が偉いとか1ミリたりとも思っていないんで、「議員さん、スゴイ!!」みたいに持ち上げる世界が、どうにも生理的に受け付けない。
どうもフランクな感じじゃないとね、芸能人スゴイ!とか学者先生スゴイ!とか、どうしてもわざとらしい虚飾の世界に見えちゃうんだな。

それをやっている人をダメだ、なんて言う気はないけど、政治的に何か希望があって行動に参加する人が、イヤイヤ好きでもないノリに合わせていかないと、イコール政治や社会問題に無関心だ、と決めつけるに等しい態度や行動の人がたくさんいる。
別に人気者がいて、みんなで盛り上がり楽しみながらやっていくのも全然いいと思うんだけど、築いたり訴えたりしていく中身が大切なんであって、そういうノリが苦手な人も結構世の中にたくさんいるのに、そこまで巻き込んでいくつもりはあるのかな、とはよく疑問に感じている。

生活に関するテーマ、消費増税とか年金問題とかに関心があって、戦争は嫌だ、大企業や一部の特権層ばかりが得する世の中はおかしいじゃないか、と思っている人は普通にそこらじゅうにいるんだよ。
その辺の飲み屋や公園で知らない人と話し込むのは露天商なんかもしていたから得意な方なんだけど、日本人が何も考えていない訳でもないの。
だけど、ある意味まともな感覚があるからこそ、政治や市民運動のわざとらしさや権威ぶったところ、毒々しさや特異な専門家達の流儀・雰囲気のある世界には、そこを察知して近付かないんだな。
それで、選挙とかデモとかに参加するのは冗談じゃない、知った事じゃない、遠くの特殊な世界だ、と思って何も行動を起こさないから、結局、踏み込んだ情報にも疎いままになって、棄権したり自民党になんとなく投票する人が大勢いるようなんだ。

いや、スゴイ人はいっぱいいるよ。尊敬したくなる人もたくさんいる。で、みんなで盛り上がるのが好きな人もいる。でも、いつも無理に持ち上げなきゃいけない話でもないし、それを民主主義の拡大と同質に見做すのはまた話が違う。

それが票田を固めなければいけない政治家や議員を志す者、政党にとっては現状必須なのも分かるよ。それでも、そんなのが趣味じゃない、って感覚の人達がまるっきり馬鹿な訳でも愚かな訳でもなく、彼らなりの正当な理由や仕方のない事情があるんだな、と最近ますます痛感している。
それをザックリ無関心だとか、なんでこっちに参加してくれないんだ、という視点の論調で言っていても、時として有害ですらある、という話。
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by catalyticmonk | 2017-04-24 01:43 | 希望社会 | Comments(1)

世の中は偉い人が治めてくれる

以前、どこかの飲食店でこんな会話をしているスーツ姿のおじさんがいました。
「仮にもこの日本国の代表を務められている、賢くて家柄もいい紳士の方々を、けちょんけちょんにマスコミ如きがいい加減な噂で書き立てるなんて、とんでもない話だ。
あの人たちは、いわば日本国の社長様であり、重役なんだから。ヒラ社員が自社の重役を外に向けて小馬鹿にするんじゃなくて、一丸となって頑張る事が社会には大切な事なんだ」
この人は何を言っているんだ、と呆気に取られましたが、仲間の人たちも特に違和感なく会話を続けている様子でした。

議会制民主主義の意味を全く理解していない、封建時代さながらの価値観ではないですか。ですが、似通ったトーンの言説を耳にしたのは一度二度の話じゃありません。
これが石原元都知事が暴言を吐きまくり、国が年金を蒸発させちゃったり、原発事故の後に計画停電を電気は足りているのにパフォーマンスで強行して、それでも大企業や政府・行政の内実が徹底糾弾されない、この国の大衆意識の実態です。最初から腰砕けでいるんですね。
ちょっと批判する以上にやってはいけなくて、自分たちは既存の社会に、親や学校の延長で居場所を与えられ、暮らしを多分に受け身で貰っている社員か従僕のつもりでいる。

だから、お茶の間の話題的に森友学園問題のように民間人を叩くのは盛り上がっても、なぜ検察は政府内部の関係者をもっと追及しないんだ、と国民の声が自発的に高まっていく事もない。
このメンタリティが大きく変わらない限りは、世論の流れも簡単に操作され続けます。マスコミなどが大々的に叩いて、具体的な動きが出てきたら、乗り遅れないように一斉に同じ方向を向くだけ。
そんな、いつまでも従順な考えでいては、やられたい放題です。目を覚まさなければ、何も守れない。
ですが私たちは主権者として、この場所に存在する者として、主体的に自らの希望を建設していけるのです。
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by catalyticmonk | 2017-04-12 01:31 | 希望社会 | Comments(2)

世知辛き時代

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最近、園児がうるさいから近所に保育園を作るな、とか、地元の小学校で運動会の音楽禁止になった、なんて類いの過剰な社会の管理体制が激化しているようです。卒業式後に校門付近で皆が写真撮ったりして別れを惜しむのも禁止、在校生と先生達が卒業生を拍手で送り出す伝統も廃止、年一の行事に伴う音やひとの声さえ騒音扱いして得られる静寂、それがどれほどありがたいんだか。
そう言って怒っている人のツイッターの投稿が話題になっていたそうですが、まったくです。
全部うるさいという苦情への配慮からだと言いますが、うるさいと苦情を入れた人は、学生時代にこのような行事ごとをやって来なかったのか、自分が無邪気に騒ぐ子供時代がなかったのか、本当によくそんな事が言えたものだと感じます。

このような小学校への苦情は、全国的に広がりを見せているらしく、ある小学校では、授業の開始や終業を知らせるためのチャイムを、うるさいという理由で鳴らせなくなった、とか、何かの冗談か、という印象です。もう私には狂っているとしか思えないのですが。
常に時計を見て動く癖はついたとしても、非常に不便だし、理不尽です。

でも、こういう流れが日本では長い間ずっと続いている気がします。
私が主に育った母の実家も、愛知県尾張地方南部に古くからある農家で、でも名古屋市の隣町にあったものですから、名古屋市内の湾岸部の工場に土地を貸して経済面では得するところもあったようですが、高度経済成長期以降、特に70年代後半に大規模な開発があって、その影響を被るようになりました。
名古屋市の工場などで働く労働者の家族が大量に流入してきて新興の団地なんかに住んでいて、数の上では昔から地元に住む農家の家庭の子息の方が少数派で、数の力に押されて地域の伝統文化がズタズタにされていく過程を目にしていました。
団地の子供たちは粗野な子が多かったし、その割に親は塾だ町内会の仕切りだ、と何かと声高な人たちが多くて、一言で言うとあまりにも著しく「嫌な感じ」でした。

別に流入者もそれで糧を得ようと必死だった訳ですから、彼ら自身を悪く言うつもりはありませんが、構造の問題ですよね。文化意識も何もなく、お金だけの物差しで開発主義で野放図な開発主義をやるから、それでいろんな歪みが生じるんです。
結局はどちらも俗な欲望に基づいた屈折と軋轢、対立なのでしょう。
自分たちが何かの利権と結びついてただお金が儲かればいい、有利に便宜を図ってもらうために裏で談合する、対して労働者の立場で組合だ、学界の叡智によって優れた社会を築くんだ、と鼻息が荒い人たちも、そういう狭い身内主義や日本的な集団主義の原理で動いている部分が現実的には大きいので、一人一人の人権とか地域毎の文化と多様性の尊重なんて本気では考えていなくて、堂々巡りな騒動が継続してしまうのです。

彼ら・彼女らの親や、そうやって流動化して不安定化した地域社会全体が、新しい秩序を求めて、愛知県で全国に先駆けた管理教育を始めて、正直、今の安倍政権級に横暴で管理主義的な指導を私たちの義務教育期に押し付けてきました。
だから、なんだか学校の先生も同級生の親も、大人はみんなクソッタレだ、というのが少年時代の私の感覚でしたね。
そういう社会の正義や大人たちの言い分は信じられないのだけれど、力でいつも圧倒される成長期だった管理教育を受けて育った私と同じ団塊ジュニアの世代には、その場限りで上手く立ち回ればいい、という感覚の人間が多いのですが、そうなった理由も、なんとなくは分かる気がします。
私は今でもその少年時代に団地の流入者家族から察知した「嫌な感じ」と同じトーンを市民運動層の空気に感じる時があって、正直不快な時が度々あります。でも、表立った主張とは別の、人間的な振る舞いの実際の部分の話だから、なかなか言いにくかったりするのですが。

祖父母はいい人たちでしたが、私が団地の同級生を家に連れて来るのを嫌がりました。私も学校が嫌いだったから、小学校の夏休みなんか、ずっと同世代の子供たちと会わずに母の実家の親類縁者といった大人としか会話しなかったりしました。
私も、ある種、そうした形でナショナリズムの土台になるものが少し感覚的に分かる部分があるのです。

そして、利己的な経済競争と嘘くさいコマーシャリズム、プロパガンダ、腐敗や欺瞞だらけの姿で叫ばれる正義の言葉の狭間で、その両方に冷めて無関心になってしまう人たちも大勢います。
彼らは、乗りたくても乗り切れないもどかしさを感じるだけの感性を持つ、本来一番冷静で理知的に物事を眺めている人々であったりもします。
ですが、双方の軋轢と弊害があまりにも高く、あまりにも数が多いので、その人たち自身の疑問や違和感が独自の声に育ち、具体的な動きになる前に潰されていく、こういう一連の図式が日本の社会的な悪循環と政治の麻痺状態へと繋がっています。
了見が狭く世知辛い監視社会、全体主義的な管理国家、そういった形態になればなるほど自分たちの首を絞めるだけなのだ、とどうしたら日本人は気付けるのでしょうか。
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by catalyticmonk | 2017-04-12 01:24 | 希望社会 | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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