ねじれ続ける日本の「人権」について
昨今は、様々な局面でポリコレの名の下で、人々の尊厳や権利に奇妙な偏り、屈折が激増しているように感じる。
ところが、それと社会全体の様々な不平等やハラスメント被害は、どちらの弊害も並行して悪化している印象が強い。
男女の賃金格差は開いたままで、シングルマザーの家庭の貧困率は極めて高い。
東京など都市部の満員電車では、一般男性の多くは痴漢冤罪にならないよう、両手を上に上げ混在時でも女性乗車客と体が密着しないようにして乗るが、肝心の痴漢犯罪は一向に減る気配がない。
その一方で、現在、公共の場で男性が年下の女性からどんな失礼な態度や発言をされても、男性側が反発するとすぐ一方的に男性が若い女性を脅したとか、暴れたなどと言った話になるので、男性側はなかなか言い返せない空気が常態化してきている。
また、児童保護の基準はますます厳格になっている一方で、児童虐待は減らず、幼稚園に近所から子どもの声がうるさいなどと言った苦情が入る。
迷子になっていた幼児を自宅に連れて行き、お菓子とお茶を与えていた老婦人を警察がいきなり幼児誘拐容疑で逮捕する。
公共の場で明らかに野放図な行動を取っている子どもがいても、親が横にいて放置している様子だと、ほとんどの人が怖くてなかなか文句が言えないようだ。他人に干渉する大人は、全て不逞人物のレッテルを貼られてしまいやすい時代になったからだと思う。
社会の管理が余計に人と人とが気兼ねなく助け合える空気を削ってはいないか。人権保護にも死角を生み出して、社会の中により陰湿な形での精神的軋轢が拡大するのを助長している面はないか。
これはつまり、人々の権利を保護するためのポリティカルコレクトネスが、形式主義的で的外れだったり空回りしている部分が多いことを示しており、妥当な形で機能していないことを表しているのだろう。
この社会に住む人の多くの傾向として、形式や建前を重んじるので、空気やその時の社会で常識化している事柄には、自ら進んで疑問を呈していくのが苦手なようだ。事なかれ主義という風潮も大きい。
政治家の汚職追及や反原発運動、制度的に人権問題や労働問題に取り組んでいる人などでも似た傾向にあって、むしろそういう話題は避けたがる人さえいる。
この社会では誰しも空気を読んで、単独では社会の空気や同調圧力に抗ったり、積極的に正直な意見を述べていこうとしない。
おそらく言っても周囲が厄介ごとに巻き込まれたくないと尻込みしてしまうので、我慢している、などといった傾向が強いようだ。
日本は評価主義社会なので、良い学業成績、良い部活動での実績、良い営業成績、たくさんのお金を稼げるか否か等々といった他の誰かが決める評価の軸でその人の優劣が量られる。
ノルマをこなし、スペックを上げてそこでの競争に勝つことを子どもの頃から求められる。
それは自分がロボットか優秀な兵士のような存在になることを求められている世界でもある。
ロボットや兵士に自分の好き勝手する意思なんてあってはならない。だから、ありのままの自分が何か・何を主体的にしたいのか、というところが分からなくなっている人が多い。自分の意見なんて言わずに周囲の期待するものに自身を合わせていくことが自然と習慣化している。
それは人間がものとして扱われていることを意味する。
こうした状況では、差別や人権侵害、搾取的人間関係というものは自ずと量産されてしまう。
どうもこの社会は様々な形の差別や人権被害につながる根深い欠陥点があるように思えてならない。
近々のニュースで言うなら、都道府県立の共学高校で男女別定員が残るのは、全国で東京のみだったが、都教育委員会はその男女別定員をようやく2024年春の入試から全面廃止する方針を固めたそうだ。同じ高校の入試でも男女で合格ラインが異なり、「ジェンダー平等に反する」と指摘されてきていた。
21年入試では、男女別定員があった110校のうち、56校で女子の方が、18校で男子の方が合格最低点が高かったが、「男女別定員が原因の」不合格者は、男子の95人に対し、女子は691人だった。国際的にも、学業成績は概ね女性の方が高い傾向にあるという。
ただ数の上でだけ男女の定員数を揃えたところで、努力や実力に応じた平等にはならないのは明白ではないか。
男女平等を実現するなら、何より真っ先に変えなければならないはずの社会の制度的な大きな枠組みですら、未だにこの進歩の遅さだ。
そこにはやはり日本が評価主義社会であるという問題もあるが、現在の現実が評価主義社会であるからこそ、そこで対等なスタートラインに立てないと、社会に対して余計に挫折感を味わわされ、傷つくことになる。
しかし男性社会は、依然本心から女性と平等な関係を築こうと望む意志が弱い。
競争社会だから男たちは自身が既に確保している利権は手放したくないし、近年では男女の心理的軋轢の深さから、むしろ一般男性には逆に女性たちにいじめられているような感覚さえ増しつつあって、対等になるよう女性を労わりたいと思うどころでない心境の人たちも多い。
そして、総体的には、本気では人権保護や平等に理解・共感をしていない層が、絶えず社会の大きな決定権を掌握し続けてきていることの社会的影響が大きいのだろう。もちろん、それは男女間の軋轢といった問題にとどまらない。
大衆の側も構造的欠陥や為政者への掘り下げた批判・議論よりも、適当なところで痛み分けしてしまう形で中途半端に折れ、結果、次から次へと新たな歪な理不尽が再生産される、といった悪循環の弊害が大きいように思える。
人々の平等や権利を求めるなら、一人ひとりが目の前に横たわっている、今現在の社会に根付く常識や文化自体の問題に主体的に目を向けていく必要があるのは言うまでもない。
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by catalyticmonk
| 2023-09-12 00:10
| 群集心理
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反骨
俺は男社会の横暴に怒り、女社会の理不尽に怒る者、自由を求めつつ踏み躙られた異端者の味方であって、本来の意味での反社会的人間、反骨・叛逆の徒である。
若い頃は、と言うよりも、多分少なくとも小学生の頃には、俺は生い立ちや実際目にしてきた世の中の現実から、既存の社会なんて悪だ、と本気で思っていた。
テレビに出てくるタレントなんて全部興味なかったし、芸能界もテレビも全部茶番で闇だ、社会は悪なのでドロップアウトする人間の方がよっぽどまともだ、という意識だった。
だから、ネットのない時代にテレビや新聞、雑誌なんかで伝わってくる政治ニュースなんかも胡散臭いと思っちゃっていたよね。
学のない貧乏人にはさ、政治の話なんて、せいぜいテレビのワイドショー越しくらいにしか入ってこないんだよ。そんなの、どうしようもなく低俗にしか感じなかった。
ただ、何のモラルも人権もないチンピラの世界も心底嫌いだったから、どこに行っても自分で望んでいるより遥かに粗野で不道徳な連中に囲まれる暮らしにも辟易していた。
そうやって社会に不満があったからこそ一周回って政治にも関心を持ち出したんだ。
俺はそれを「反省する」気などさらさらない。だって、実際そういう風にしか思えない現実しかなかったのだから、そこが改善されないなら、これからも状況変わらないでしょ、って感じるばかりなんだよ。
だいたい俺は人生で一度だって誰かに意地悪してやろうとか、悪事を働いて他人の犠牲の上に得をしようなんて考えたことがない。
だから、なんで酷い目に遭ってきた側の人間が社会に懺悔しなきゃらないんだよ、と自然に思う訳だ。
そこなんだな、現実として政治に関心を持たないとみんなが困ることになっていくんだけど、だからと言って、果たして今現在政治に関心を持っていない人たちをただダメで低級な奴らみたいに侮辱するのも違うんじゃないか、って思うのは。
今この社会で正義漢ぶっている連中のかなりの割合が、不遇な環境にある多くの人にとって、ズレた姿勢でいる部分がある。
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by catalyticmonk
| 2023-09-09 02:38
| 忘れ物
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長髪
相手へのウケが良くさえなればそれでいいのか、それが正義なのか、って部分で、日本人の多くは安易に考え過ぎだよ。
それは分かりやすく言えば、髪を伸ばすことでもそうさ。
俺は人生の大半を長髪で来ているから実感するんだけど、たまに髪の毛を短めに切ると、いつも周囲の反応が一変して、扱いが良くなるんだ。概ね、みんなが親切になる。
でも、それっておかしなことだな、と思ってね。
男が髪の毛が長いだけで、そんなにも邪険にしたり差別しているんだから。
あの、DJ SODAって女性も、露出の多い格好をしているから痴漢に遭うんだ、みたいな言われ方を日本でしたけど、どんな格好するのも自由だからね。
その服装を選択した結果の社会的反応も自分で背負うべき、とか非難がましく言う人もいたけど、だから痴漢していいとか、その人を差別していいなんて正当な理由にはちっともならない。全くおかしくて盗人猛々しい理屈なんだよ。
そんな声がたくさん上がる社会に住んでいることを、俺は恥ずかしく思う。
だから、差別する常識を継続させる側に加担してはいけない、と思ってきた。
だって、俺が髪が長くても短くてもどっちでもいいなら、どういう風でもいいだろうけど、俺は自分で髪の長い方が好きなんだから、そこで折れたら社会に屈服していることになって、多少待遇が良くなったところで、ちっとも自由じゃない。
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by catalyticmonk
| 2023-09-09 00:25
| 忘れ物
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「ヤバい人」を増やしてしまう「デキる人」でないと生きづらい社会
借金や窃盗を繰り返してしまう人を、生活破綻しているので、本人の人権を守ることと、地域社会の住民の安全を守ることと両方の観点から、なんとか支援に繋げようと努力している地方議員のSNS投稿記事を読んだことがある。
こうした問題に関連して、その方が紹介していた境界知能についての記事も読んだ(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210730/k10013164861000.html?fbclid=IwAR0AfY31JhG6VJBXcr0PebUKwFTu84OWwSi5Ai7YlaXRi-2pGhNinZ-6pO4)。
沖縄タイムスの記事で、ゲームの光と影に接した経験から、生きづらさを抱える不登校の子どもや引きこもりのゲーマーの居場所づくりに取り組んでいるという、中学1年の1学期で不登校になり、オンラインゲームに熱中して引きこもりの日々を送った新里渉さんを取材したものがあった(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1164216?utm_term=Autofeed&btag=true&utm_medium=Social&utm_source=Facebook&fbclid=IwAR1YIP7EjsuARl4qIgd5Rx1VqqJ3KH9CKQGaZ-Xp3viVnMLs3eLiHSvHaV4#Echobox=1685837674)。
まず、凄いなあ、そういう人でも助けようとするのだな、というのが最初の素直な感想だった。
調べていくと、その問題人物は知的ボーダーの人らしい、という話だった。確かに知的ボーダーで危うい人は社会の底辺に珍しくもなく実在する。
俺も若い頃から歌舞伎町やクラブハウス関連、肉体労働の現場などで、おそらくそうだと思われる人たちと遭遇していた。その際には、こちらが身を守らなければいけない危険人物、という認識の優先度が高くて、通常は助けてあげようと考えなかった。
広域暴力団に追われている養護施設育ちの人物の身の上に同情して、リスクは承知の上で自分の当時暮らしていたアパートに匿って助けるようなこともしたが、知的ボーダーの人とは難しかった。
コミュニケーションの次元で既に問題が発生しやすいし、彼らのそれまでの過酷な境遇が影響していたのだろうが、人格が荒廃し過ぎているように感じた相手も多く、人間的な最低限の信頼関係を築くきっかけ自体なかったような記憶だ。
なので、これほど普通に生きてきた人でも高齢になったり傷病を抱えただけで容易に転落する社会で、そこまで向き合っている活動もあるのだな、と感銘を受けた。
しかし、その地方議員の方でも、さすがに地域に若い子たちも引きこもりの人もいて、また、全国からの相談もあり、私の無償労働では限界があると言う。
「自分がバーンアウトしないことも大切にしています。それ以上に私の経験値を上げるよりも、地域の福祉の社会資源の経験値を上げていかないと埒があかないと感じます」という話だった。
「境界知能」は、知能指数(=IQ)に関係して、専門家の間で用いられている言葉だそうだ。「知能指数」で、「平均的」とされる部分と、「障害」とされる部分の「境い目」にあたるところが、「境界知能」と呼ばれている。
IQは、一般にIQ85-115が「平均的」とされている。おおむね70以下は、「知的障害」の可能性が考えられる範囲。ただし、「知的障害」の基準は、自治体によって異なっているという。
その境い目にあたるのが、「境界知能」と呼ばれる領域で、その数は、統計学上は実に人口の約14%、1700万人に上るとされているそうだ。
また、別の記事によれば(https://tokushi-tobira.jp/special/001.html?fbclid=IwAR3fHO7tRW673k7DHCkjkkQB1_avlOjJVg2537zA07E7fO5miqDs6DGOnSU)、境界知能やグレーゾーンの子どもたちは、勉強や運動、コミュニケーションなどに苦手意識があることが多いそうで、そのことが原因で、自信をなくして被害的な意識を持つようになったり、思うようにできないイライラから怒ったり暴れたりといった不適切な行動を起こすことにつながったりすることもあるという。
そして、そうした行動が周囲の偏見や誤解を生んでしまい、周りに理解されないさみしさや孤独から、場合によっては非行に走ったり、犯罪に手を染めてしまったりする子どもたちも少なからずいるという。
境界知能でさえ、そのように生きづらいのなら、この社会で切り捨てられる人々は、知的障害と境界知能全体を合わせると知能面だけで捉えても2割くらいいそうだ。
やはり、社会が高度に訓練された知的適応力がないと排除してしまうハードルが高過ぎる気がする。
インドや東南アジアでは、日本だったら知的障害者や精神障害者としてどこかに隔離されていそうな人がその辺の日常空間に普通にいた。
向こうだけそういう人の率が高いというデータもないので、おそらくは社会全体で緩やかに受け入れられていたら、日本でも本来あのくらいそこらじゅうにいるはずの人々なのだろう。
それが街中ではなかなか分かるような範囲でいない日本は、機能性や効率を重視し過ぎて物凄く弱者が抑圧されているということなのではないか、と思ったりする。
「ヤバい人」を増やしてしまう「デキる人」でないと生きづらい社会、それが日本という、非常に管理され機能的には優秀な社会の闇の面だ。
そうした一定の水準に満たなくて疎外されてしまう人々を社会全体で緩やかに受け止め、受け入れられる状況を作れる姿勢は、これからの社会に必須なのではないかと思う。
引きこもりの子どもがここまで増えてしまったのも、結局そういうハードルがどんどん高くなり、不寛容な社会になり過ぎた結果であって、それは社会全体にも損失だ。
効率性重視ばかりでない価値観で生きられる場がもっと必要だし、生き方にも多様性が認めらるべき。それぞれの子ども、それぞれの人間が、その人の持っている力を伸ばせる機会が求められているのだろう。
ある時、新里さんの不登校の頃から親しくしていたオンラインゲーム仲間が亡くなった。久しぶりに彼の携帯電話に連絡を入れると、彼の父親が電話口に出て、自死だったことを伝えられた。遺書には、将来への絶望がつづられていたという。同じ年齢だった。
自身が引きこもりを脱して、妻あかねさんと家庭を築いた約15年の間、友人は引きこもってゲーム漬けの日々を続けていたと初めて知った。
新里さんは言う。
「彼と私に分かれ道があったとすれば、外に出るきっかけとなる出会いがあったかどうか、それだけの話。引きこもりの頃の生活が10年以上続いていたら、私も命を絶ったかも知れない」
個人的にはゲームをしない人間なのだが、「ゲームに引きこもりを救う力はあるか」と投げかける新里渉さんの問いは、今の時代に求められている試みの一つを示す端的な例に感じた。
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by catalyticmonk
| 2023-09-05 23:57
| 忘れ物
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個を貫く大切さ
明らかに人間社会は、文章を書くという行為を覚えることで、飛躍的に知性的になったので、会話で表現できないことを文章で可能にすること自体は何も嘆かわしいことではない。それが物事をきちんと整理して冷静に考える機会になるならいいと思う。
ただ、ネット社会では、物事を冷静に考えるどころか、真逆にインターネット空間でだけ気が大きくなって暴言・暴論を吐いたり、無闇に集団心理で個人攻撃するなど、暴走する人は実に多い。
そして集団心理の衝動性や横暴さを増幅させてしまう舞台は、何もネットの中だけに止まらない。
社会的な運動自体が、そうした日頃の鬱憤を晴らす場所になっている人も大勢いる。
そういう人の唱える正義は、実は公共の福利を優先していなかったりする。
また、そのような人物でも、実際に会うと非常に人の良さそうな人物である場合がままある。だが、「いい人」に見えることだけでは、何の賛同保証にもならない。むしろ、彼らに釣られて判断を誤る落とし穴になりがちな要注意箇所だ。
「熱狂する集団心理の危うさと、個を貫く大切さ」を考えていく慎重さがこれからの時代に必須だと思う。
そうでないと、いつでも個人としては善良な人物が、関東大震災直後の朝鮮人虐殺やナチスドイツのユダヤ人虐殺のような行為に簡単に加担するだろう。
これは大袈裟な脅しではなくて、日本人にはその危険性が極めて高いと感じている。個人の善良性が、集団からの同調圧力の前では極端に脆いのだ。
また、そういう構造だから、特別エゴの強い狂信的な人物の意見に全体が引きずられやすい。
人がどう言っていても、自分がおかしいと感じることには加担しない、正しいと思うことを貫く、そういう胆力がもっとこの社会に暮らす一人ひとりに必要なのだと思う。
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by catalyticmonk
| 2023-09-05 22:47
| 忘れ物
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