付きまといといじめ心理

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付きまとってくる人というのはいる。
いい人だと思われると付きまとわれやすくなる、という傾向はザックリあると思う。話を聞いてくれる、と思われたり。
で、付きまとう方にデリカシーがないと、こっちはブロックするしかないんだ。こちらのプライベートな時間と精神空間を侵食し、無理矢理自分の方を振り向かせようとする強引さ、それは形を変えた支配だ。

ただ、孤独な人のプライドを傷付けると激しく逆恨みされて危ういので、やんわりと、しかもなるべく早い段階で距離を置い方がいい。
私は不器用なので、昔からそのタイミングを見失って対応が遅れがちだ。いざとなったら弱腰ではないのがせめてもの救い。
いろんな側面がある問題だから、端的には言えない感じなんだが、このテーマで人間劇のドタバタが起きるケースは実に多い。当然、恋愛感情のいざこざも絡んでくるし、いじめ心理ともつながりが深い。

相対的に、男性が女性に付きまとうパターンが多いが、女性も年齢が高くなるとそういう人がかなり出てくる。まあ、ストーカーとかマウンティングなんて言葉がそうした状況を指している場合は多い。
ただ、こっちは普通に受け応えしているだけなのに過剰に警戒してきて、それが失礼だな、と感じるのような人も実に多い。
両方知っているから、ケースによるのだけれども、この二つがごっちゃ混ぜになっている場合もまた少なくないから、難しい問題だ。

子供だと、身近な友達に嫌われているようだから一生懸命その子なりに仲良くしようと無邪気に努力しているだけかも知れないし、本当に鈍感で無神経なのかも知れない。
その子の親が仲良くするよう、好かれるよう努力しなさい、とアドバイスしているのかも知れない。それを信じて、凄く嫌われている相手に無理に頑張って、ますます付きまとう、みたいな拗れ方もある。
まあ、親の助言とは限らないで、単に彼ら自身がそれをいい事だと信じているだけなのかも知れない。

e0296801_13512762.jpg大人になっても、純朴な人だと似たような行動を取る場合もある。いや、私自身は大人の人間のそういう振る舞いしか見た記憶がない。だが、いろんな人の話を聞いていると、子供時代のそういう延長線上の行動だったりするとも聞く。
そんな、個人的な「頑張りたい気持ち」に、付き合わされる側の気力や時間を奪う権利はないのだから、やはりそういうのは傍迷惑なんだが、程度にもよる。

過剰に何かを避けようとする人は、動機はその人なりの理由があるにしても目立つ、というのがあって、そういう子供や人物が相手の加虐性を刺激して、余計にいじめられる、という現象も珍しくない。
確かに、やたら自意識過剰で、こっちが考えてもいないような次元で先回りして用心しまくってくるような相手だと私でも逆に気疲れすると言うか、失礼だな、と感じる時はある。

いじめはいじめられる側も悪い、という理屈は間違っていると思うが、結構誰かに意地悪したい、揶揄いたい、そういうのが面白い事だ、と感じる人は世の中に多いので、防衛策として堂々と振る舞う、というのもある程度必要になってくる場面はある。
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# by catalyticmonk | 2018-10-15 23:50 | 意思疎通 | Comments(0)

議論と寛容

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例えばさ、排外主義的な主張の政治団体や宗教を信じていて、格差社会を推し進めたり、LGBTやシングルマザー、障害者、外国人、犯罪者の子供とかいった人達が生きていくのに困るような、決して人に優しいとは言えない強者の論理の社会風潮や政策をどんどん推進してしまうような人でも、個人的には娘に優しいいいパパで、飲む機会があって話すと気さくで、自分と趣味も合って、とっても付き合いやすい好感度の高い人だとかって、そういう事は現実にたくさんあるんだよ。

でも、だからその人を受け止めて仲良くやっていくために、自分が大切だと思っている意見も言わない、そっちの方が協調性があって大人な態度なんだ、っていう捉え方の混乱を、日本人の多くはずっとしている。

マイノリティーが全部一緒だとは全く思わないよ。当然ね。
でも、「マイノリティーの側の立場を意識するあまり相手を受け止められないと、それも思いやりのある態度ではない」という、優し過ぎる解釈を日本人てする傾向があるのね。

相手を受け止められない、と言うか、相手が他人の生存の権利や感性の自由を土足で踏みにじったり、しかもそれに対して無自覚で権威主義的でもある時は、「いい人だから」って次元で受け入れていたら差別や文化的偏見がなくならないんだ。
そういう次元のところをね、この社会に暮らす人々はもう少し落ち着いて見つめ直した方がいい。

言う事は言って、でも自分とは意見が違うからって、その人を人間的に悪魔みたいに思わない事、これが本当の寛容性だし、強い立場の人ばかりがどんどん得をして弱い立場の人達がさらに困っていかないための、もっと深い視点に立った優しさや公平性だと思うんだ。

誰しも自分が共感出来る範囲の人達のためなら、そこで簡単に表面的な空気や印象に流されないで踏ん張るんだと思う。
私にとって重要な部分、表現や感性の自由を軽んじる態度や勘違いには、曖昧に言葉を濁さないで言うべきところを言う、というのと同じようにね。

人それぞれ、自分にとって身近な問題に粘っていかないと、同じビルの建物にあんまり賛同しない意見の政党議員の事務所があっても近所付き合いくらいするだろうし、人間的に緩く仲良くやっていきたい部分は誰しもあるから、何もかも事なかれ主義になって逆に弱肉強食の世界だけが変わらずに進んでいってしまう。

そこなんだよね。私はいつもこういう考え方の話をする時に、自分とその人の関係だ、と思って言ってない。
その人との関係は、まさに空気とかが重んじられる事柄だから、それよりも筋を通して話すと、って部分の話なんだ。
日本人はその個人間の関係と、主義主張を出し合って議論をするディベートをきちんと区別出来ない、そもそもディベート自体も上手に出来ない、って日本を知る西洋人の知人から繰り返し聞いてきている。

だから、周りのムードに合わせて調和する事が正義なんだ、って思い込み過ぎていて、自分の意見と他人の意見を正々堂々と述べ合いながら、議論して合議していく、という民主主義の最初の一歩になかなか辿り着けない。
議論と寛容の狭間にある混乱が、日本社会という一個の強力な幻覚発生装置に浸かっていると見えにくくなるポイントだ。
その沼から抜けて自由になろう。
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# by catalyticmonk | 2018-10-01 00:24 | 忘れ物 | Comments(0)

トラウマを乗り越えることについて③:各段階の救済アプローチ

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でも、世の中、男女差別とか、虐待とか色々あるが、そういうかなり頻繁にある問題の要素の一個が地に足の着いた形でしっかり世に理解されていないと、どんな社会問題のテーマも実際の真偽が定かでなくなる。
結構、そういうことって多い気がしている。
今の社会の常識に安住していても始まらないのだ。
そのままでは、まるで古代ローマ人が昔、女性は感情の生き物だから、妻は叩けば叩くほどしつけられる、なんて言語道断な女性観を持っていたのと同じ、世の5%の人はLGBTとして生まれてくるのに、80年代まで精神障害扱いだったのと同じ。
必要な理解が十分にないことによる「野蛮」な混乱が起こり続けてしまう。

とにかく、人間の無知は一個一個紐解いて明らかにしていくしかない。
例えば自分の祖母の時代だったら、愛知県濃尾平野の農村部での大正時代や昭和初期の話という事になるだろうが、双子が生まれたら鬼子だ、と呼んで、片方の子の鼻を産婆が摘まんで殺していたそうだ。
実際には口減らしだったのだろうが、そういう行為にも漠然とした迷信や思い込みで深く考えないで済ますようにしてきた。
別にボーダーだけの問題ではない、当然。でも、目につくところから、着実にそういうことを減らしていかなければ、人間の無知による差別や抑圧、誰かへの虐待、ということもなくならない。

私は、やはり虐待家庭で生まれたから、そうした家族問題が自分の人生のテーマだ。
逆に、私の実体験からはピンとこない種類の虐待も存在するのを、4人もの子育てをされているベテランお母さんから聞いたりもしている。あまり、虐待に思われない形でこれ以上ない虐待は、「萎えさせる」でしょう、と。
親の子供に対する過干渉で、あれこれ「良かれと思って」手を回し、アドバイス、時に叱咤激励して、人生の舵を乗っとること。
母子がサシで暮らしてたら、ほとんどこうなる、とその方は言われた。そこら辺は私には正直実際どうなのか分からない次元の話だ。

昔の人は、妻を叩きまくって鬱にして従順な風にしたり、間引きをして食いぶちを減らしたり、まあなんと野蛮なことか!と大概の現代人なら認識すると思うが、今だって形を変えた野蛮なことは起こっているのだ。
学校教育だって、ある種類の学習入力の仕方をする子どもにばかり有利な教育システムだと思う。
成績が悪い、運動が出来ない、友達の輪に入れないなど、今なら、LD、知的障害、などの言葉が生まれたが、以前は、いつも叱られ、いじめられ、蔑まれる身分だった。性的少数者も同じく。

もっといろんな教え方で、指導できるようになれば、たくさんの人が希望を持てるようになるのは当然の道理だろう。
また、いろんな方々の家族史を伺っていると感じるのは、人間は人生に戦争が絡むと、どの家族史も流転の人生となって、発達障害と一般人の差異どころではなくなるのだろうな、という強い印象。団塊ジュニア世代である私が、周囲の人の混乱した家族史の出発点に太平洋戦争が絡んでいる点を薄っすらとでも確認出来る、ギリギリ最後の世代かも知れない。
もちろん、後年、平和な時代になって来てからは、それぞれの自分の家族がどんな精神構造の在り方であるか、というのは重要なテーマになってくると思うのだが、何より避けなければいけないのは戦争だ、といろんな方々の家族史を伺っていても感じる。
そうした意味でも、社会構造そのものに目を向けていくのは、ミクロ、マクロ様々な段階で、やはり大切なことだと思う。

それと、自分の子供の頃の不幸自慢は精神衛生上も悪いし、愚痴っているだけにも聞こえやすいので、理解出来る内容でこうした様々な実話を聞いておくと、社会的に対応する場合により熱を冷まして冷静に眺める余地が生まれる。
自分自身の現実からガチガチに縛られたところから、もう少し角度を変えて見れるようにもなってくるのだ。

しかしまたトラウマからの救済という次元では、やはり個人の内面の在り方になってくるとも思う。当事者も自分の過去をネタとして使うと、もうそれが済んだ過去の出来事で今は全然表立って問題になっていないことでも、またそれが心の現実として再現されてしまう部分がある。


社会問題を扱う時には、具体的な実話が説得力を持つが、他人の話であってもその扱いや距離の取り方みたいなものは難しいと思われる。
辛い思いがある場所には、濃い情念も渦巻くから、そうした感情の勢いというのは人を大きく吞み込みやすいものだ。
自分自身が、情念の外側に出れるような軽やかさをどこかで身につけないと堂々巡りにもなり兼ねない。
それは差別や人権問題、貧困問題を扱っている団体自体が、ともすれば毒々しくなりやすい理由とも関係していると感じている。

私も過去として持っているものは濃い口なので(笑)、その分、実は案外、修羅場や嫌な感情からポンと飛躍する能力もそれなりに身につけている部分もある。
私は虐待ネグレクトの家庭が人生の出発点だった。誰かと大喧嘩したり、何か重大なトラブルが継続している最中であっても、そんな修羅場の多い人生なら合間合間に精一杯気分転換したり楽しみたくなるものだ。
関係のない場面まで重い気分を引きずるよりも、一旦はギアチェンジ。その加減が結構激しいので、他の人には理解不能な部分もあるらしい。

一般の人は、苦しい時には苦しい、楽しい時には楽しい、と気分が全体的に変化していく頻度がもっと高いようなのだが、私の場合はいろんな喜怒哀楽を並行で抱えつつ、ちょっとずつ消化していかないと、怒りや悲しみの感情だけでも、馬鹿騒ぎだけでも身がもたない、というような感覚が子供の頃から支配的だった。心が脆い分、ストレスに対してもっと自分をどこか外側から観察している部分を確保しておきたい、という気持ちが強かったんだと思う。
健康管理に関してもそうだ。持病に苦しんで悶絶している同じ日の数時間後には楽しく笑って、体が許せば美味しいものをバクバク食べる図々しさ、これが私なりに身につけたサバイバルのコツだった。


だけれど、ベースが結局重いし、また、真剣に扱わなければいけないテーマも多い。
でも、そういうのを理性の上では合理的に対応しているつもりでも、深層心理としてはなかなか真に五感と情念の外側に逃れ難いものだ。
どこかで深く思いがとらわれていて、ぐーっと凝縮するような感情が内にあると、心を病まなくても早くにガンになったり、健康を壊しやすくもなる。そういうのも絶対あると思っている。

全共闘世代の活動家など、経過を聞いていると後にガンになるなど重い病気になって亡くなっている人が異様に多い。彼らの思想信条の是非はさておき、やはり追い詰められて過酷な人生だったのだと想像する。
だが、自分の思いに偽っていて安穏に快楽だけ貪ろうとしても、人間はすっきり生きれない。そういう綱渡りが人生なのだろう。

それこそ巡り合わせや運次第でも左右される、誰しも完璧にはこなし切れない、だけれどみんながそうしたバランスの中で生きている、そういうことなんだと折にふれて自覚して、自己の軌道修正をすることも大切だと感じる。
で、結局何が心と体を蝕むトラウマから人間を解放するのか、と言ったら、一つには穏やかな暮らしをしたり、恋をしたり美味しいものを食べるなどして、嫌なことを忘れて自分の人生を楽しむことだろう。

しかし、それでさえ拭い去れないものこそが本当のトラウマだったりもする。
そうした場合には、やはり邪心を捨てて何かに一生懸命になることが大切だと思う。五感や記憶、感情によって深く心の奥底に刻み込まれたしこりの外側に出る行為、どれだけ軽やかに飛躍できるかが重要になってくる。
山登りやスポーツを通してもスカッと出来るかも知れない。でも、それは徹底してやらなければならない。祈りのようなものでなければならない。
祈り、という感覚は、本来、現世利益的な願望のためにする加持祈祷の類いではなくて、そういう人間をしがらみやしこりの外側へ意識を飛躍させる精神性全般を指した、人間にとって普遍的なある感覚を示しているのだと私は感じる。

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# by catalyticmonk | 2018-09-30 23:08 | 忘れ物 | Comments(0)

トラウマを乗り越えることについて②:機能不全家族と人格障害

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ここで一旦「ボーダー」、境界性人格障害として知られている概念について説明してみようと思う。
現代社会では、各場面において頻繁に関連してくる要素であるのに、未だに十分に認識が社会知識として共有され切れていない問題だと思うからだ。結構、そういうのは、普通に知らない人に話すと「悪口」みたいに捉えられかねないから、知っている人でも口にしないでしまっていることが多いよう。
だからこそ注意が必要なのだ、現実にはたくさんあるはずなので、そういう人たちと関わることによって自殺したりうつ病になる人さえいる。
共有知として必要とされることの一つなんだと思う。ボーダー自体は思想信条・環境・場所の別に関係なく、どこにでもいる。

心を病んでいる相手だと、理屈じゃなくて感情ばかりだったり、それが変に人を操る才能を発揮させたり、というのもある。それがままボーダーや他の人格障害の人たちだったりする。
ボーダーの経験は、手のひらを返された身になってみないと分からないところがある。
それまで、こんな人がいるのか?!と思うほど魅力的かつ、自分に力を与えてくれたりするのですっかり巻き込まれて、手のひらを返された人が、周りの人に助けを求めたとしても、信じてもらえないことがあったり、非難されている自分が悪かったのかも?なんてお人好しにも思ってしまう。

元々大昔から人間にある症状だったらしいが、発展途上国の方が少なく、文明社会ほど増える傾向にある、と言われている。
先進国になる程ボーダーの発生率が増えるという統計データがあって、統合失調症や普通の発達障害とも違う要素があるようだ。社会環境因に左右されやすいのだろう。

人格障害でもボーダーは女性の方が多く、男性はホルモンの関係もあって自己愛性パーソナリティ障害として発現しやすいそうだ。
ただ、半分は社会環境因子だろう。男は威張ったりわがままになって発散、みたいな。自己愛の男性は女性をさぞかし泣かしていると思われる。
先述の通り、ボーダーの人は、女子に多く見られて、また必ずしも一生続く症状ではなく、年齢とともに治っていく傾向にあるので、年代別に見ると、日本人女性の20代の9%がそうだとされる統計もある。

匿名の話としてしか書きようがないのだが、私の知人教師曰くボーダーの関わったと思われる事件として、男の若い先生がボーダーの女生徒の餌食になった出来事があったと言う。
私の直接の知人教師は女性の方なのだが、その方自身もボーダーと思われる若しくはそういう診断を受けた生徒にかなり振り回された体験を持っておられるようだった。

大体、ちょっと優しい先生が餌食になると言う。
はじめから、親しげに近づいてきて、「先生みたいな人、はじめて!ステキ!ステキ!」とか、始まる、と。
世界で二人だけ!みたいな接近の仕方をされ、女子生徒の家庭が不和だったので、金八先生よろしくうちにおいてやったそうだ。
そうしたら、何か、その子のイメージから外れたことがあったらしく、警察ならまだよかったのだが、某写真週刊誌に女子生徒は垂れ込んでしまった。
で、顔を隠し撮りされ、即記事になり、大問題に。

警察に連れていかれるも、証拠が一切ナイ。実際、なんの関係もなかったそう。
なのに、テレビ週刊紙は大騒ぎで、卑猥なことをした教師として、知れ渡ってしまったというのが、教師同士の仲間である知人女性教師の弁ではあった。
学校で、女子生徒のボーダーが男の先生を手のひら返しすると、友達に悪い噂を流されたり、被害妄想を周りの先生に吹き込まれたりと、可哀相なことになってしまう現場を多々目撃してきたと言う。マスコミにたれ込んだ彼女のようなスゴい例もあるけれど、過去の学校では、中小規模のトラブルがかなりあった、と。
「最初、可愛げに振る舞うので、グッと来ちゃうんですね。でも、そういう子こそ、危険なんですね」
私は成人のボーダーしか知らないが、高校生だったらそうなるのだろうな、と思わないでもない話だった。

女性差別や児童虐待の問題も大きい社会なので、逆にこうした別の要素が隠れてしまって、様々な混乱が生じている面はあると思われる。表面だけのセンセーショナルさだけで注目してしまうと、そういうことで周囲を操る才能に長けているのがまさにボーダーだ。
状況はよく分かる。ちょっとお人よしの人が引っかかる。女性同士の友人関係でも一緒。

あと、境界性人格障害の専門書は何冊も読んだが、ボーダーの女性は、独特な魅力があるそうだ。庇護を求めようとする気持ちが人間をそういう方向に発達させるのか。
「そう!そうなんです!本能的と言うか、生まれつきと言うか、魅力に吸い込まれちゃうのね。私を見てー!っていうオーラを出してくる!」と知人教師。
だから、生々しい話になって恐縮だが、ボーダーの女性に依存のターゲットにされた男性は結構すぐに深い関係になってしまう。
そういうのが機能不全家族の再生産ともつながっているらしく、アダルトチルドレンはボーダーに注目されて、不幸な家庭環境の再現をしやすいらしい。
子供時代にアダルトチルドレンだった人はボーダーにとってすごく気持ちを汲んでくれるし、ボーダーの側でも自分がどうして欲しいか、リクエストの出し方も上手くて、巻き込まれてしまう。ずっとそれが続けばいいのだが。
寄生虫と、吸い付かれた虫の家族になりやすい。

要求される無理難題をクリアし続ける愛情溢れる人物がいればいいが、個人的には、ある種の麻薬めいた魅力を放つ女性にはどれだけおだてられても近付かない、それしか分からない。
なんと言うか、目のあわせかたが普通と違う印象がある。じっと見つめてくる。
で、またそういう女性に限って結構注目を浴びる場所にいる。

ああ、みんな、大丈夫かなあ、と眺めていると、案の定大丈夫じゃない。事前に忠告しようにも人心を掴む才能のある人たちだから、下手に言っても理解されるどころか、自分が逆恨みされるくらいの可能性も高いだろう。
だから、黙って見ているしかない場合が多くて、かなり歯がゆい。
一度、孤独感に陥ったボーダーの人は、何を言っても、してあげても、裏に裏に取る。それは見捨てられ不安の強い境界性人格障害の大きな特徴の一つだ。

「子どもが不安になるのは、父親より、母親がポイントになるんじゃないかなあ。
安定して、愛を送ってくれる母か、それに代わる人がいれば、子どもはとりあえず安心して育つように思います。
仕事上の経験に照らしても、お母さんが子どもに愛情を注ぎ、かつ、客観的に見られる方なら、わりとひねくれない感じですね。
逆に、母親がちょっと、の場合は子どもの方が親を見切って独立の道を進めたら大丈夫ですが、孤独感を強く感じがちかな」

やはり、経済競争最優先の社会では、そのままでは人間の横のつながりが希薄になり、核家族化も進むから、ボーダーが先進国ほど増加する傾向を示しているのも、現代文明の問題点と非常にリンクしていると考える。

でも、あの人はボーダーかなあ、と薄々気付く人は同性の女性でも多いそうだ。
とにかくそういうのはボーダーの被害を身を以て体験した人でないと簡単には理解できない事柄なので悪口のように聞こえがちで、なかなか人に言えないし、明らかに病院でボーダーの診断を受けた女性でも、その前からの様子見ていると結構人気者だったりする。
だから、余計に言えないし、関わっただけ自分が危うくなる訳だ。

たまに正論と証拠でがっちり対抗すれば巻き返せたりもするが、ボーダーの餌食は次から次へと出るし、みんな、過ぎたことはすぐ忘れるから簡単ではない。
一度や二度巻き返すより、常時人を魔法にかける能力、まあ、人を操る、という時点で支配みたいに人の尊厳を踏みにじる行為だからやはり根本的に良くないと思うのだが、とにかくそういう悪い方法でも常時人を操る才能を発揮し続けている人間の暴走を、現実世界の中で止めるのは至難の業だ。
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# by catalyticmonk | 2018-09-29 00:12 | 忘れ物 | Comments(0)

トラウマを乗り越えることついて①:学校社会での貧困の連鎖

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知人の高校教師から話を伺っていたりすると、今の格差社会はますます安定してきているな、と思う。まさしく貧困の連鎖と階級社会の進行が教育の現場でも感じられるよう。
東京の私立に通える圏内では、よく知られた通り、裕福なうちの子達はお受験してどんどん公立から抜けてしまうという状況がある。
参考書を買ってきて、とかいった類の話でも、進学校なら何冊も買える家庭が主だが、偏差値の低い高校は生徒から苦情が出たり、ということがごく普通にあるようだ。
修学旅行に経済的に行けない子も毎年いるとのこと。

リアルに食べ物がない子は、お弁当がサバ缶と白ご飯だったり、1リットルの甘い飲み物だったりすると言う。
「男子で無頓着なこともあるのですけど」と仰っていたが、実際、私の中高生の時の食事もそんなものだったから、話を聞いていて意外な感じはしなかった。
私の時は、学校でパンを買うのだけれど、お金があまりないから育ち盛りの子供には全然足りなくて、教室でお弁当箱を広げて机を合わせて囲み合いながら談笑する他の生徒に言葉にできないほどの嫉妬を覚えつつ、一人で自転車置き場やプールの脇などへ行って時間をやり過ごしたものだ。

退学した一人は、親が教科書代以外は一切、高校関係のお金は出さない方針だったそうで、学力も低いのに、1年からがっつりアルバイトを入れたらお金に目が眩んで、単位を落として退学した、しかし、こういう子は毎年のようにいる、などという話を聞いていても他人事の気分ではなかった。
私も卒業はしたけれど、お金がなくてどうしようもないから、プレス工場やソニーの仕分けバイトなどをずっとして、終いには夜勤でフルに働いて学校で昼間寝る、という生活になっていたからだ。

理想としては偏差値と経済は関係ないと思いたいけれども、受験のために塾通いの必要があったり、今は関係あるように作られてしまっている感じがあって、中学校の先生が露骨に塾に通ってお金を使ってください、と親に話す現実がある、という説明だった。

学力が低い女子高の先生が、入学式の日に、「君たちは、40人で入学したのだから、ちゃんと40人で卒業しなさいよ。減ったり増えたりしないこと!」と、話したそうで、これがまた、冗談じゃ済まされないのだと。

現実として、裕福でない家庭の子に早くに妊娠して学校を中退するケースが増える傾向にはあるそう。
「高校で妊娠してしまう子の親もまた、10代の親だったことが多くて、ばあちゃん若いのは良いことだけど、子どもの素行にしっかりとした見方を示せない事が目立ちます」
そう知人教師は言った。

数年前も、子どもが産まれるからと周りが止めるのも聞かずに退学して、出産、ほどなくして離婚。
それでも子供と共に実家に身を寄せられたら良かったのだけれども、そうはいかなかった様子だったと。
「ちょっとボーダーなんでしょうね。母も娘も。あ、母もシングルマザーです」

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# by catalyticmonk | 2018-09-28 22:39 | 忘れ物 | Comments(0)

異なる正義のあなたと私が共に生き延びるために

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結局さ、一見温厚でも意見が食い違って口論になると、感情的に根に持つタイプが日本人には多い。
そうするとよほど自分の意見を言わないタイプでもない限り、どんどん対立していくから、それで日本は政治や宗教観みたいな主義主張の対話が日常でタブーになっていて、思考停止になるんだよ。
それでも話にならないので、言うことを言い合って、根に持たない姿勢って重要かな、と。

個人的にも数年間市民運動に関わってみて、なんで日本人が政治嫌いになるのか、よく分かったな。
分かったけど、政治嫌いなままでも一握りの特権層や権力者にやりたい放題されてしまう訳で、やはり緩くまとまらないとどうしようもない。

e0296801_15411238.jpgこの国で生まれ育った人達は、なんとなく空気を読んで、みんなが同じような方向を協調して目指すのが正しいんだ、って考え方を子供の頃から刷り込まれているんだよね。
でも、人間は自分の主義主張や信条に応じて他者を善人・悪人に振り分けるから排他的・独善的・横暴になりがちで、もうちょっと緩い別の視点が必要だと私は思っている。

人それぞれにこれが大切だ、と思う価値観がある訳で、それが多様性だ。無神論の人もいればクリスチャンやムスリムもいる。
だけれど、一人一人の尊厳や個人の自由があって、その上で生きている。
ムスリムだから、無神論者だから殺されてしまう世界ではダメだし、国旗掲揚して国歌を歌わなければ生活の糧である仕事や学校教育の場から追放されてしまう社会でも命や生活の基本が保障されている状態とは言い難い。

だいたいが一人の人間、一つの集団が唱える正義の中身も、実は時と場合によってどんどん移り変わっていて、そんなに即たった一つの正解を出さなければいけないような性質の事柄でもない部分が大きい気がするのだが、それでも同時に各々が、系統だった行動指針を持って動かないと立ち行かないのが人間社会だったりもする。

あなたと私の考えや生き方は違って、お互いに本当はこうするのがベストだ、と思うところは本心では一緒ではない。
でも、それを今すぐ強引に一緒にしようとすると、人間の考えはその人の立場や歩んで来た人生毎に大きく違うから、現実問題が不合理な潰し合いにしかならないんだな。

違いを認め合った上で、お互いの自由や尊厳、暮らしを蔑ろにする横暴に対しては一致団結していきましょう、という真口の広い合議の大枠が民主主義なんだと思っている。
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# by catalyticmonk | 2018-09-25 00:26 | 希望社会 | Comments(0)

協調性に満ちた吊し上げ社会


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この世の中で何が社会的動物たる人間の最も卑劣な行為だと思うだろうか?

私が考えるに、それは誰かを集団でシカトしたり、地域や特定のコミュニティーの中で村八分にすること、吊し上げること、つまりはそういった差別や迫害の一切合切だ。


で、残念なことに、日本人は特にそういう真似をする人々だ。

良い人も大勢いるが、極々普通の人達がそういうことをする。社会全体がそういう文化風土に長年浸かって来ていて、だからこそストレス社会だし、自殺率も高い。

物質的には豊かだが、文化度と言うか、自主的な判断力や権利の意識が弱い。


でも、何故そうした事が起きてしまうか、と言えば、まさに多様性を認めないところ、協調性の美徳の名の下に、不寛容な集団主義社会を続けてきたからに他ならない。

大多数の人間と均質性の高い人間を優遇し、何かしら変わった出自や個性、経歴の人間を不寛容に爪弾きにしてきた。またそうやって目に見えない圧力をかけ続けることで、立場の弱い人間、数の少ない人々を冷遇し、かつ従わせ続けてきた。


そして同じ事を、権力者でも富裕層でもない社会のあらゆる階層が、庶民に至るまで、あちこちの人間関係でも繰り返している。

私に言わせれば権力者以上に、そういった文化の総体の方が日本に蔓延る真の巨悪だと思っている。


安倍内閣の閣僚や自民党議員が度々口にするように、現代日本人は自由とか個性とか権利とか、目に見えないものばかり欲しがるから贅沢なのだろうか?

それはそんな余興みたいな軽々しい次元の話では決してない!!!!

そこの部分で大きく不自由している人達にとっては、必要最低限のものが足りていない状態なのだ。


みんなが到達しようもない個性なき均質な人間性の世界を目指そうとすれば、力の弱い者、数の弱い者が弾かれ、理不尽な仕打ちに遭い続ける。

そして、完全に平均的で平凡な人などいないのだから、誰もが自分の個性を多かれ少なかれ抑圧し、歪んだ方向に、恐らくはいじめ的な陰湿な鬱憤晴らしの方向に人間性が向かっていってしまうだろう。


そんな心貧しい社会でいいはずがない。

目指すべきは、寛容な、多様性豊かな未来であるはずだと私は確信している。


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# by catalyticmonk | 2018-08-28 00:50 | 希望社会 | Comments(0)

エホバの証人

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あの信者の大半がとても善良で真面目なことは確か。
ただ、教義や組織の体質が、というところでカルト宗教視されているのだと思うから、本当はそれを言ったらアウトなものは他の宗教団体や政党組織も含め色々多い気がする。

私の幼少期、母がエホバの証人だった。
で、私の幼なじみのかよちゃんのお母さんに勧めて熱心な信者にしてしまい、それが原因で先方のお父さんと不仲になって離婚する、という事件があった。確かその前にかよちゃんのお母さんがバイク事故を起こして、入院した際に、エホバの証人の教義の問題から輸血拒否をして騒動になる、という出来事もあったように記憶している。

かよちゃんと、「かよママ」と呼ばれていた彼女のお母さんは、同い年のかよちゃんが小学校に入る前によその町に引っ越して行った。だけれど、私の母はというと、自分はさっさとやめていて、そういう騒ぎも「よその家のことだから」と冷淡なもので、そこらへんもやっぱり訳が分からない感じだった。
エホバの証人を信じていてもバプテスマの儀式を受けるまでは、聖書を研究している「研究生」と呼ばれる。母は研究生のうちにやめていて、バプステマは受けていない。

かよちゃんは哺乳瓶を抱えながら二人で床をゴロゴロ転げ回っていたような、物心ついて以来の一番の仲良しだった。保育園に入って気弱な私が地元の粗野なクソガキどもにいじめられているといつも飛んできて庇ってくれるような子だったから、その子が消えた経過に対して母が非常に薄情であることを子供ながらに強く恨んだ。

元々、近所にエホバの証人のコミューンがあって、母は膠原病という難病だったから、田舎の若者特有の浅い気持ちで近寄っただけなのかも知れない。母は後年、私が中学生くらいの時に聞いたら、「終末思想というものを信じていた」「病気である自分が救われたいという、藁をもすがる気持ちで引き寄せられていた」と端的に語っていた。

エホバの証人の信者は、とにかく「ハルマゲドン」を信じている。
創始者によって1914年に起きると予言されていて、その年にたまたま第一次世界大戦が起き、信者が拡大した。

ハルマゲドンが起こると、地球が崩壊し、その後、信者らが生き残る。エホバの証人の教えに反対した人たちは生き残れないから、毎週、地域を訪問して、「世の人」に生き残るチャンスを与えるため、彼らを救うために勧誘する、という理屈。
教祖はおらず、信者の集いという建前なので、正式名称が「ものみの塔聖書冊子協会」と言う。だから、みんなが「聖書研究者」と呼ばれている。

だから、私にとってエホバの証人と聞くと、教義の良し悪しの解釈は信仰上の問題として脇に置いたとしても、現実、入信すると家族関係が壊れかねないほどエキセントリックな宗教で、また逆に極端に問題のある家庭や、人間的にどうかと思うような行動をする人種も引き寄せる何かがあるもの、という印象は残っている。

30代になってから留学して数年を過ごしたインドでは、大阪出身のエホバの証人のコミューンで育った若者と出会った。彼は私が32歳くらいの頃に会った時、まだ21歳くらいだった気がするけれども、ドレッドヘア姿ながらすでに30代くらいの大人に感じられた。
彼は15歳の時にエホバの信仰を取るか、家を出て行くか、どちらか選ぶように言われて、家を出て行くことを選び、鳶職などをしてお金を稼いでインドに来た、と言っていた。
私の所属していた瞑想センターにもコース受講しに来たし、その後も、カルフォルニアのヒッピーコミューンっぽい集団と自転車でメキシコ旅行したり、タイ式マッサージ師としてイスラエルで活動していたり、とまさに世界中を飛び回っている様子だった。

エホバの証人では、信者同士のことを「兄弟姉妹」と呼ぶ。
兄弟姉妹で集まって毎週集会を行い聖書の勉強をしたり、「奉仕」と呼ばれる布教活動を行ったりする。争いや政治参加が禁止されている。
エホバの証人の「エホバ」は、全知全能の神ヤハウェのことを指す。エホバという神以外は崇拝してはいけないとされ、教えの出典はすべて聖書。エホバの証人とは、つまり「エホバが正しいと証明する人」という意味。イエス・キリストはその息子であり、代弁者である。
いずれ来るハルマゲドン、世界の終末の後に楽園がやってくるから、その楽園に行けるよう現世ではエホバの教えに従って生きましょう、という教え。

留学する以前にも海外放浪をしていた時期のあった私は、サルベーション・アーミーとかYMCAを安い旅先の宿泊場所として利用する機会は多かったし、そもそもロサンゼルスでは教会のホームレス支援ボランティアにも参加したりしたから、当然宗教のことは聞かれた。
幼い頃に母がJehovah's Witnessesに入信していた、でも今私自身は特にどこの宗教にも属していない、という説明をすると、みんなが100%私はクリスチャンである、と認識するらしくて、正直若い頃は戸惑った。

「神を信じているか」と聞かれればその答えは当時もyesだったのだけれども、なんとなく本物の宗教団体に所属している人たちのいる前、しかもそういう勉強会などで相手の受け取り方も含めて考えたら簡単に「信じています」なんて安易に答えていいものか返答に窮するところがあった。
そこら辺の考えがまだ整理がついていなかったので、「分からない」と答えると、みんな血相を変えて私の体に文字通り数人がかりですり寄ってきて、表情を見ると本気で心配して我がことのように動揺さえしているのが伝わってきた。
励ますように熱心に「信仰を復活」させようと説得しようとしてくるのが、なんだか悪いけれども困るのを通り越して苦笑したい気分だった。

それくらい、信心が一般社会にない世界の中でも特殊な環境に日本人はいて、自分もその環境なりの下地だった、というところなのだけど、多分、社会関係的に宗教を帰属する先として求めていたなら、それで誘われるがまま何かに入信したのだと想像する。
ところが虐待を受けながら育った私は、逆に自分の中で神との対峙を幼い頃からしてきていたので、だからこそ何かに教化され難い性質を持っていたのだと今なら分かる。
神的な体験を妨げるのが宗教団体や組織の中の権威である面も否めないと思う。しがらみ意識や知的理解をちょっと脇に置いた方が、内的な発火を妨げないで集中が促される側面がある。

母が研究生のままやめたので、私は地域訪問にも行かなかったが、王国会館と呼ばれる場所で緩く幼児向けの彼ら風「聖書教育」は受けさせられていた。
また小学校に入る前のことなので次の点も関係なかったが、エホバの証人では「偶像崇拝」が禁じられているので、国歌、校歌を歌ってはいけないそうだ。

とにかく「聖書原理主義」だから、色々なタブーが多い。
輸血は禁止。
争うことも禁止なので、もちろん運動会も参加してもいけない。
誕生を祝うことも禁じられているし、異教の行事への参加も禁止されているので、ひな祭りや七夕などの季節のパーティ、誕生会も不参加。キリストの誕生日のお祝いであるクリスマスもダメ、と言うエキセントリックさだ。

私が子供時代に誕生日を祝ってもらっていなかったことの原点は、母のネグレクト体質もあったが、やはりエホバの証人の影響もあったのかも知れない。
また、私は物心ついた時から一貫して球技全般やトランプゲーム、ギャンブルといった類の競争に一切興味が湧かず、案外、人生最初期の刷り込みは作用しているのかも知れない。

入信し洗礼を受けた人には、腐敗した現実社会が嫌いで強い厭世観を持つ人が多い。エホバの証人の世界は、争いや政治的苦悩もなくて、納得して所属している人にとっては、ある意味、楽園のような場所だ。
エホバの教えを知っている自分達が賢くて、反対している人は教えを知らない可哀想な人達だと本気で思っている。

だから善意で勧誘する訳だけれど、熱心に奉仕活動をするには普通には働けない。奉仕は平日にもあって正社員には難しいので、就職しない人が多い。だから、パートやアルバイトで生活費を稼ぐ人が多い。

ただ、うちの親は「兄弟姉妹」に馴染むには、あまりにも規格外の人間だったからこそやめたのかも知れない。
素行不良の癖に、元ヒッピーで胡散臭いオカルトな話に惹かれやすい父が最初に関心を持ち、母に教えたら病身だった彼女が救いを求めて一時期ハマっていた、というそれだけだったのだと思う。

今は、エホバの証人も二世が多い、とこの間渋谷駅前で布教活動している方に聞いたら言っていた。
コミュニケーション能力があって日本人的な意味での協調性も高いと、エホバの証人の共同体内で関係を作って、ある意味幸せに生きていってしまうのかも知れない。
みんな肯定してくれるし、居場所になる。
しかし、「世の人」と何かと違いを感じて、自分達が正しいと信じている自縛があるからこそ、余計に窮屈なものを感じつつ生きている様子は、脱会した信者からも伝わってきた。
恋愛も、信者の間だけで、外部の人との恋愛は許されないそうだ。デートにも親がついていくとか。二人きりになって聖書の教えに反する婚前性交渉をしたりする事がないように気を付けているからだ。

また、母が入信していた頃、私はよくベルトなど鞭状のもので生尻を打たれた。父親は元来粗暴な人物で、感情の赴くまま暴力を振るう人間のクズだったが、母はそうでもなかったので、突然そういう激しい行動を取るのがショッキングだった。
最近になって知ったが、エホバの証人は聖書原理主義なので、これまた聖書に「子供の躾けには鞭で打つ」と書いてあるので、特に自分達の子供が教義に背くような発言をすると鞭か鞭状のもので生の尻を叩くそうだ。
聖書が書かれた時と現代の違いという時代考証も出来ない彼らの頑迷な考え方は、鞭ではなくて無知だ、と私的には感じる。

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# by catalyticmonk | 2018-08-16 23:02 | 忘れ物 | Comments(0)

信頼と絆の根

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①豊かさ・便利さと助け合いの希薄化

結局、身の安全に直接関わる部分を相手に委ねる体験が強い信頼を生む。
夢見心地にさせたり趣味で意気投合するのも親しくなる手だが、それだけの関係は脆い。簡単に崩れる。
相手を有頂天にさせるような言葉を言えて、何かの芸に秀でていて尊敬崇拝される事があっても、あなた自身にとって、その人がどういう振る舞いなのか、というところが最終的に人間関係の質を決める。

だから、日常的に協力し合って行動する時間の長い職場恋愛はどうしても多くなるし、それだと後からドロドロすると言うなら趣味でスキューバダイビングとか登山とかね、そういうのはいくらか健全かも知れない。
ただ、日本って、総体的に安全で物質的にも豊かだから、インドみたいに日常的に災害や交通事故、停電、病気等々で互いに助け合わなければならない出来事が頻発する社会より、かえって人間関係が希薄になりがちな傾向が強まるんだな、というのも私は感じている。

インドでは停電したり、バスが定時刻より早く出発してしまったり、途方に暮れる不意のトラブルは多かったが、その不満を分かち合え、親密に知恵を捻り出し合う相手が大勢いる日常は、愚痴が多かった割に現代日本より幸福であったのではないか、と思わされる事度々である。
生きている実感や充実感も、間違いなくそうした日常の方が濃密に存在していた印象は否めない。

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②身を託すハードルと絆の源泉

あと、人間が相手を信頼する気持ちは、必ずしも相互に対等ではない。
自分が相手を本当に困っている時に助けていたりすると、相手からは絶大な信頼を得るのだけれど、同時に、何故か自ら信頼している相手を裏切ってしまう人間もいるんだな。
どういう事かと言うと、何が相手にとって許しがたい行為なのか、その基準が人それぞれ違うからでもあるのだと思う。

ある種の人はお金にルーズだとか、相手のメンツを潰すとか、浮気するとか、そういうのが致命的な信頼喪失になると十分な自覚なしにやって、結果見限られるのだけど、自分では相手に助けてもらった時の気持ちが忘れられなくて未練がましくなる、なんてパターンもあるようだ。

e0296801_12280729.jpgいくら相手に慕われたところで、こちらの身の危険につながる無責任・利己的な行為を何度も繰り返すような人物だったりしたら、その相手を口で「許す」と言うのと、実際に自分の身の周りの人間にまで迷惑が及ぶかも知れない人物を「信頼する」と言うのでは、また次元が変わってくる訳だ。
信頼が身の安全と深くつながっている源泉はそこだ。そして、信頼し、相手と安心して協力関係を築けるから、そこに絆も生まれてくる。

また、恵まれた境遇が他者に身を託すハードルを上げてしまう側面もある。
お金でほとんどの問題を解決出来てしまう立場の人は、音楽や芸能のファンになるとか、趣味の交流面などでは自由に楽しんでいける余地が増える訳だけれど、それ以上の本質的な信頼関係を他人と作りにくい。
だから、かえって孤独な人が多いのだと思う。必要に迫られない限りは、誰しも身の安全を他人に軽々しく託したくならないものだしね。
でも、いつもギリギリのところで暮らしている庶民は、身の安全を他者に委ねるのを躊躇していられない場面も増える。

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③「人間」という生き物の器と多様性

私だって自分と考えが近いとか、いい人そうだ、というのよりも、がん闘病している最中に積極的に助けようとしてくれた相手には、未だに扱いが他の相手と段違いでリスペクトだ。一目置いているどころか、五目くらい置いている。

逆に、私には親子の信頼関係というものが分からない。お世辞にもノーマルな家庭環境で育ったとは言い難く、半分養育してくれた祖父母にすら、本当に困っている時に田舎の旧家のしきたりとかの方が優先され、全幅の信頼とは言い難い心の距離があるままだったから、人間の信頼感情を家族関係からは十分に学べなかった。
でも、そういう信頼と感謝の気持ちが、いい家族関係の人にはたくさんあるのだろうな、と思ったりはする。

e0296801_12350127.jpg自分が一般的な家庭環境に育った人の感覚が分からないし、人生経験上もスムーズに生きてこられた訳ではないので、こうした事柄に関心が高い。
多くの人がなんとなく疑問も持たずにこんなものだろう、と信じている安定した前提がないので、観察し掘り下げる事でしか外の世界との溝が少しも埋まらないし、あまりにも不可解なままだと交流する意欲自体失ってしまいかねないと言うか。

ただ、いろんな種類の文化や人間を見ていると、他人や社会に対する何かしらの確信なり実感・手掛かりが生まれてくる面がある。
多様な社会と人のありさまから、より一層それぞれの性質が明瞭になってくる部分もあるし、こんなに違っても「人間」という生き物の器には、これだけの共通点があるんだ、とそれまで雲をつかむようだった自分の人間性への欠落感が補われて自信がついてくる部分も大きかった。

私の場合、それは主に異国社会に触れる事によって生まれてきた見識だったが、地域・国毎の習慣や文化差といった次元にだけある話でもない。
単にその社会の中で個々の人間が、自分と社会との間にその人なりのスタンスを確立していく次元とも重なる話なので、結局すべての人に大なり小なり起きてくるプロセスなのだとも感じる。
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# by catalyticmonk | 2018-08-16 12:36 | 忘れ物 | Comments(0)

このいじめ体験の告白動画、感動した。

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【差別】実は僕いじめられてました。

彼の話はいじめ問題の本質をついている。いじめが始まるのは、絶対何か浮いている人なんだよね、と。
太っていたり、外人だったり、何かしら目立つといじめの標的になるんだ、キモい、と思われちゃったりするとすぐにいじめの標的になるし、逆に可愛過ぎるとかでも女の子の嫉妬が始まるのでもある、とこのエドというYouTuberの若者、的確な分析を語る。

彼はポルトガルと日本のハーフだそうだ。日本で育ち、母親が外国人である事から日本の普通の小学校でいじめられ、小5でインターナショナル・スクールに移ってからもポルトガル語や英語を流暢に話せなくてまたいじめられたという。

そして、彼は外国人の血が入っている分、幼い頃から少し体躯も大きかったそうで、保育園の時でも最初のうちは、他の日本人の子供が彼を戦隊ものドラマの悪役に見立てて殴っていたと言うが、ある時、殴り返したら止まった、とこの動画の中で語っている。
彼からすると一方的に殴られているのだが、反撃するとがたいも大きいものだから相手のいじめていた側の児童が泣いちゃったりして、先生が来ると自分が悪者にされ、親とか呼び出されて怒られ、家でも叱られる、みたいな理不尽な流れがあったようだが、そこで彼はある事実に気付いてしまう。「ビビらせれば、いじめって止まるな、と知っちゃって」。

そうした事は小学校に入ってからも続き、喧嘩に明け暮れる日々が小学校時代には続いたらしい。

私にそっくりな経緯ではないか。
私は外国人の血は入っていなかったが、家が虐待ネグレクトのぐちゃぐちゃな家庭でもあったし、やはり何かと個性的で目立つから、小学校低学年くらいまでは絶えずいじめの対象にされていた。
だからそれに対抗するうちに同級生を骨折させたり、やんちゃな仲間が意図せずにして近寄って来て、でも要領が悪いので、いつの間にか学校教師から彼ら以上に目の敵にされて、やってもいない盗難事件の犯人扱いされたり、そうかと言って田舎のヤンキー文化に染まるには感性が鋭過ぎたと言うか、結局、一方的にいじめられていた時以上に周囲から孤立していった面もある。

そこら辺も含めてあまりにも彼の語る体験が一々私も身に覚えのある話で、スタートが早い分、小学校でやんちゃな時期を卒業した、というペースまで似ている。
とにかく、こういう一連のパターンは一つの典型としてあるのだな、と再確認させられる動画内容だった。

「僕みたいに暴力で立ち向かうと、もしかしたらそれで止まるかも知れないけど、それで自分が社会的にとても嫌な辛い思いをする」とそっくりそのまま私の実感でもある言葉をこのYouTuberは言うのだが、「でも、立ち向かう方法はたくさんあるから、僕としては立ち向かって欲しいな」とも語る。いじめた奴らを見返す方法はたくさんあるんだから、と。

そこに関しては彼が語っているメッセージは直接動画を観てもらいたい。
私もこれまでに似たようなテーマで色々と言って来て、ブログなどでも大量の文章を書いてきたが、彼の言葉は彼の思いなのだ。
理屈でどうこうではなく、同じような体験をした者として、今現在そうした苦労をしている子供達への本心から出る励ましと思いやりの言葉が発されている。
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# by catalyticmonk | 2018-08-07 00:44 | いじめ問題 | Comments(0)

私がトンデモ情報に慎重な理由

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私もがんになった時に思ったが、ああいう最先端医療って、要するにギリギリな事をやって、それでも完治出来ないから、患者も藁をもすがる気持ちになる訳だ。

そういうところに、良かれと思ってだろうが、いろんな人が民間療法の色々とそれぞれ矛盾する方法の話を持ってきて勧めるものだから、それで大金を使ったり、かえって判断を誤って必要な治療を遅らせたりする場合があるんだよね。がん病院なんかに入ると、みんな正規の病院選びですらそれぞれ処置方法が違うところに混乱させられる話を知り合いが持ってくるから、散々右往左往してきた、という話が多かった。

そういう体験があるので、私は民間療法の中にも一定効果があったり、特定の症状と体質の人に効く方法も多々あるだろう面は認めた上で、定かでない話にはかなり慎重でいる。
その人自身が試してもいない話を勧めてきて、乗らないと明らかに不機嫌になる人までいた。トンデモ情報を簡単に信じる人ほど知的に冷静でなく、思い込みの激しい傾向があるので、そうした理不尽な態度につながりやすいようだ。

また、勧めてきた相手が仮にがん経験者であっても、それぞれの治療法が矛盾している中でたまたまその人に効果があっただけであって、やはり効かない人もいる話を強く勧められると、罪作りな面もあると思う。ただでさえ気力のいる選択判断を、病状で消耗している中で必死にしている時に、相当迷惑な時があるものなのだ。

そういう一切合切が、他人の善意なんだから、ぞんざいに扱うな、と当事者でない人の基準で語られる空気も日本社会にはあって、がん患者が治療中に自分から外の世界の情報を遮断する事につながる場合もある。
私はがん治療の専門病院にいて、病棟でいろんな他の患者さんと話したが、みんな、ほとほと困り果てていたのが強烈な印象として残っている。

また、私がトンデモ情報に慎重な理由全体は、個人的な育ちから受けた影響も小さくない。
母親は、私の子供時代にカルト宗教に入っていた事でも分かるように、かなり眉唾モノの精神論や迷信に振り回される人で、父親もドラッグなんかにも手を出していた癖に60年代後半にヨーロッパやアフリカ、インドに行ってヒッピーのような事をしていた人物で、オカルトがかった話に惹かれやすい人だった。

母は膠原病という免疫不全の難病に罹っており、救いを求めていたのだろう、とにかく嫌な事は意識したり口にしなければ物事が良い方向に転ぶ、という観念論を信じていた。
それで実際の態度はどうかと言うと、例えば自分が新興宗教に勧誘した事により私の幼馴染の両親が仲違いして離婚した事に関しても、それは他人の家庭の事だから、と一切気に留めている様子がなかったり、困った事があっても具体的に解決策を模索せずにすぐに現実逃避をする、という呪術的な対応の域で、結果非力な感じでどんどん追い詰めれていくのだった。

夫の実子への暴力に対しても自分でもおかしいと思っているのにただ黙認服従、自分がきちんと子育て出来ない事にも強いコンプレックスがあったようで、私が母の住む平屋に来ている間に自分の体調が悪くなって寝込み出しても、母方の実家から祖父や叔母が心配して訪問して来るまで幼い我が子に食事も与えず、また私が一人で勝手に祖父母の家まで行くのを禁じる、といった感じで、私も早くから彼女に母親らしい庇護を期待するのを諦めていた。

彼らは人間的には虐待ネグレクトの破綻した親で、私の面倒も母方の実家に依存していたし、父親に関しては実家の家業を継いでから保守化と横暴な支配性が高まって、最後は母親に慰謝料も払わずに愛人と再婚していった。
だいたいが、父がヒッピーだったと言っても、彼は最初空手の指導員としてヨーロッパに行って、そこで向こうのチンピラと喧嘩に明け暮れながら時代の風潮でドラッグに手を出し、ヒッピー文化にも自然に触れていた、という人物で、高尚な理念なんて端からなかったのだと思う。だけれど、受け売りで中途半端に様々な観念論を母に吹き込んでしまったよう。
つまり、私には彼らの唱えていた精神論が徹底追尾説得力がなかった訳だ。

でも同時に、そうした子供時代から、神を信じていた事が私の精神をギリギリのところで支え続けてきていた。
だから私は無神論者でも唯物論の立場でもなく、長年の屈折した思いを見極めるためにもインドまで行って東洋の精神伝統を文化学校や瞑想センターなどで学んだ。その中で私の中では解消された葛藤や確信もある。

だから、現時点で知られている、または正しいと多数の人が思っている情報や常識のみが必ず正解であるとは決して考えないのだが、そういった自らの諸々の体験と実感の総合として、すぐに刺激的でワクワクするような情報を確証もないままに信じ込むという、所謂陰謀論、トンデモ発想には慎重で懐疑的なのだ。
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# by catalyticmonk | 2018-08-06 00:03 | トンデモ情報 | Comments(0)

強い個性を求めない日本の大衆文化

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別にそっくりな人同士に文句はないんだ。
でも、歌とかでもそうだけど、そっくりだと私はまず真っ先にそれが意識に上るのに、日本人は奇妙なくらい、そういった事柄には低反応・無頓着なものだから、それが私の感覚だと不思議で仕方がない。

昔、レッド・ツェッペリンにそっくりな曲調と唄い方のキングダムカムとかいうバンドがいて、結構違ってもいて同じテイストなだけ、という印象を私は持ったけれど、海外ではそっくりの二番煎じだ、とボロクソにこき下ろされていた。
ところが、日本だとそれどころじゃないくらいに瓜二つなタレント、歌手やバンドだらけでも何も言われない。最初からそれが当たり前くらいな感覚だとしか思えない。

たまたま似ている分には仕方ない話で自然体でいいと思うのだが、これだけ似通ったスタイルが溢れ返っていると、一般大衆も表現にオリジナリティーなんか求めていないのかな、自分がただ流行の服を着て、一定の固定観念の枠内で他人から品定めされて選ばれたりする事に自己の尊厳に対する屈辱を感じないのかな、と考えさせられてしまう。

政治的な分野でもそういう気配は濃厚にあって、以前ある人が「公共性が重要なのであって『個人』なんて意味がないんだ」と堂々とFacebook上に書いていたが、それを私も見知った人達がたくさんいいね!を押しているので愕然とした事がある。

そんな観念なのでは私は全くついて行けない。
日本社会の理念は、保守でもリベラルでも、「個を重視しない」という姿勢では似たり寄ったりであるのなら、私はこの社会では用なしの存在なのかな、と思わないでもないが、結局はそういう文化体質が改善されていかない限り「誰かの一方的な身勝手に多くの人が振り回される世界」という堂々巡りしか待っていないのではないか。

なので、ジャニーズのタレントはそれはカッコいいだろうし、同じような制服姿に同じような歌声と芸を披露するAKBでも間近で見れば魅力的なのだろうが、私的には何か食傷気味に感じる文化風潮でもある。

「ダサい」と言うとその言葉を使う人のセンス次第になるので、おそらく現代の若者からしたら昭和歌謡は大概「イモっぽくてダサい」のかも知れない。でも、スタイルが決まりきった範疇で洗練されていたとしても安易にコピーをよしとするのであれば、それは「文化度が低い」と見なされて当然だ。
「 寄らば大樹の陰」なんて発想も非常に日本的だ。一応、yes-man、何でもはいはいと目上の人の言いなりになる人、というのは英語にもあるが、頼るのなら勢力の大きなものに頼るべきだ、と肯定的に表現する言い回しが一般的にあるとはあまり思えない。
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# by catalyticmonk | 2018-08-05 11:29 | 忘れ物 | Comments(0)

忘れ物

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本当を言うと、それを知った時は、少し残念だった。
それは深い悲しみと優しさと懐かしさが入り混じった変な気持ち。

眩いばかりの光と、覆しようのない永遠の荘厳さが、自分の存在など全く意味がない事を自明のものとしていた。意味があるのは命あるこの世の中だけだ、と。
そして、無限の時間の中では、神がこちらを見ている事にだけ、その虚無を覆す救いがあった。
個々の存在は極小だが、同時に神の前では平等で、それぞれがその一部であり、上も下もなく、統一された連続体であると開示されていた。

私は迷い、私は不完全だ。
しかし、私が神を敬う気持ちは理屈抜きの明らかな実感に基づいている。世にある宗教や人の言葉とは無関係であり、だからこそ揺らぎようがない。

簡単と言えば簡単、難しいと言えば難しい。

光より速く、一瞬の中に永遠があり、重くて軽かった。
要するに、人間の器では感じ取れない遥か先があった。

だから、この肉体は滅ぶ必要があり、無限の中での不可逆な流れとして、誰もが必ずいつかそこに行き着く、という、説明不能な実感の中に放り込まれていた。
のほほんと暮らしている日常が、全て夢だと知った。

それは、この世界に戻って来ると、途方に暮れてしまうような扱いにくい話。

通常、人々が神に対して抱いたり期待している事の大半は錯覚で、見当違いだと知った。
地上の権威や知識など取るに足らないが、地上は地上の中で模索するしかなく、神がこの世での決定権を裁量する事はない。ましてやそこに不満を持つような性質の理でもない。
つまり魂の不滅を思い出せないうちは、その人には関係がない。意識の中では。
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# by catalyticmonk | 2018-08-02 22:46 | 忘れ物 | Comments(0)

人間存在の自由尊厳と政治制度の関係性について

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「制度」や「ルール」というものの捉え方について、私は日頃から既存の左翼運動や国内リベラルの文化風潮に大きく違和感を感じているので、そこを改めて言葉にしてみた。

うるさがた相手に議論を吹っかけているのではない。正直、相手にもしたくない。
ただ、ここに書いてあるような側面について違和感を感じている人々に向けて、思いを整理してみた。別に求めているものはそこじゃないよね、と。


人間は完璧じゃないから。
必ず過ちを犯す存在だから。
だから、完璧な「制度」なんて作りようがない。
作った「ルール」も、ずる賢い連中が何かしら抜け道を考え出して、またそれを盾に、自分達のエゴや思惑で他者を操るように利用し出す。

それでも人間はより良い社会を諦める訳にはいかない。だって、実際に死活問題なのだから。

そこで必要なものは、本当は社会全体の「文化度」なんだと思う。
だけれど、その「文化度」が発展し、自由闊達に柔軟性を持っていろんな事態に対処していけるような、そういった意味での暫定的な取り決めを作っていく事は大切なのだろう。それが終わる事のない政治の課題でもあって。
永遠に改変する必要のない解答があるなら、政治はコンピューターにでも任せておけばいい。でも、そうではない訳だ。


左翼の人達って、基本的な傾向として、絶対的な正義がどこかにあって、それを全ての人が守ればいい、と思っているところがある。
でも、それは愚かしいし、自らのルーツとも大きく矛盾している。マルクスは弁証法的に物事を不断の努力で捉えていく事を説いた。自分の理論さえ、時代時代、その場の状況によって、乗り越えられていくべきものだ、とはっきり言っていた。それが、マルクスの思想家としての器の懐深いところでもある。
だけれども、そのマルクスを信奉したり、そうした思想運動によって広がった潮流の左翼文化の趨勢は、青臭い青年期の若者のように迷妄で、擬制社会主義国家という体裁の専制的全体主義社会を生んで、その結果自滅していった。

自分達では「私達は市民派・リベラルなだけであって、特に左翼運動に特化しているのではない」とするような人達の中にも、やたらとエキセントリックで厳しく、偏狭かつ独善的で、息の詰まるような人々が多くいる。

左翼運動は、宗教権力が衰退し、産業革命と資本主義経済の勃興によって人間社会が地球規模で激変し始めた時期に、その時点で人智が理性によって到達出来る最善の判断と、その可能性を提示したので、特に20世紀に世界の歴史を大きく動かした。
しかし、実際に生み出された政治制度、文化は、人間存在への理解が色々と欠けた偏狭なもので、世襲制資本主義とも言える勢力の頑強さもあり、十分な試行錯誤の余地もないまま、そこを乗り越えられず衰退した。

日本では、リベラルの影響力が極小のマイノリティーなので、結果的に現政権や政府、既存の権力層へのカウンターの立場を取ろうとした場合に、必然的にそういう左翼文化の偏狭な部分を継承しているような人種との接点が増え、またその狭い世界の中で彼らの干渉も受けやすい。
でも、そんな文化に未来はない。
一般市民が政治に興味を失ってしまった事の大きな原因は、既存の権力層が盤石に揺るがない現実に対する諦めの感情と同じくらいに、そうした感情を増幅させるような運動の高慢ちきで共感し難い姿の影響があった。

だから不満があっても社会的関心への思いが行き場を失って、まず個々人が既存の社会の中でなんとか上手く行く抜く事を優先事項とせざるを得ない流れが生まれ、それは経済競争という名の倫理なき弱肉強食のサバイバルゲームに、十分な規制をかける抑止力の低下にもつながって、今のような腐敗した世界がある。

ただ同時に、人間存在の自由尊厳を守る視野を持って、無秩序な経済競争にブレーキをかけ得る潮流が生まれてくるのなら、それが過去の左翼運動なり宗教哲学なり、何の集団や思想を母胎として出てこようが、それこそまたレッテル貼りなど無用だ。


「ルール」や「制度」の改善は必要だ。
しかし、「ルール」や「制度」を「掟」ではなく、発展性のある未来への暫定的な礎として見なす事。その視点がないと、新たな人間抑圧のシステムが生まれるだけだ。
それは神聖な、唯一絶対で普遍の正義を記した「掟」を作って、他の人々がそれにひれ伏していけばいいようなものでは断じてない。我々人間が、人間らしく、自由闊達に柔軟性を持っていろんな事態に対処していけるような基盤を作り、文化としてそれを押し広げていける土台でなければいけない、と私は思う。

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# by catalyticmonk | 2018-07-30 00:17 | 希望社会 | Comments(0)

公衆道徳の劣化と混乱②

公衆道徳に関して、やはり大きなポイントの一つは、やはり子育てだろう。

日本も昔ほど厳格な躾が為されていたようだが、今の日本人の目で見ると、ドイツ人やアングロサクソン系の人達の躾の厳しさには驚くものがある。
例えば狭い屋内や公共交通機関などの人前で走り回って騒いだり、大声を出してはしゃぐなどしていても、最近の日本の親はあまり厳重に注意しない傾向にあるが、彼らはそうしたマナー違反には断固とした調子で叱る場合が多い。
ただ、厳格過ぎる子育ては、虐待や差別と紙一重でもある。

反対にインドでもタイでも、子供はのびのびさせて、本当に危ない事以外は滅多に注意しない。大人が子供を温かい目で見守っているような歴史的文化背景の集団や地域もある。
そのあたりは子育てって色々なスタイルがあるんだなあ、と感じてきた。

でも、大前提としておおおらかな社会は、そこにお互いの信頼関係や相互扶助、善意が存在するから、それで成立するのだと思う。
現代日本はそれもないし、西洋社会みたいに文化の基底に宗教道徳があるのでもない。だから、本当にモラルやマナーの自律性が低い。自律性が低いから、過剰な管理主義に走って、また倒錯した殺伐とした社会になる。

でも、厳格なモラリストなら卒倒しそうな渋谷のような掃き溜めにも、外からは見えない独自のモラル、彼らは彼らなりに理屈じゃない合理性があったりする。
家出少女に家に帰るように説得するのは、真面目な人には逆に難しいと思うんだが、超チャラチャラして大馬鹿だと見えていた奴がそれを説得出来ちゃったりする。
私が聞いていても、そんなスカスカな理屈でなんで説得出来るのか分からなかった。でも、経験なんだろう、そこは。

何かしら相手にシンパシーが持てて真心が伝わるトーンで言えたら、どんな頭の賢い人の完璧な理屈よりも効果がある。
だから道徳って難しい。規制でありながら、結局は当事者と周囲の人間、社会との心のやり取りでもある。

なので私は、ある程度おおらかでいい、という考えでいる。人の都合や基準なんて色々なのだから、ある程度はお互い様で、大切なのはトータルな部分での意識のあり方、気持ちじゃないかな、と。
実際、日本人よりは社会道徳がずっと機能している西洋人だって、その価値観や判断基準には幅があって、多様性があるんだ、というのは意識されている。
日本だと正しい事は一つ、と思い込んでいる人が多過ぎるのも窮屈になる大きな原因だと思う。窮屈過ぎると、今度は本気でそれを守らなくなるんだ。

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# by catalyticmonk | 2018-07-03 01:43 | 意思疎通 | Comments(0)

公衆道徳の劣化と混乱②

公衆道徳に関して、やはり大きなポイントの一つは、やはり子育てだろう。

日本も昔ほど厳格な躾が為されていたようだが、今の日本人の目で見ると、ドイツ人やアングロサクソン系の人達の躾の厳しさには驚くものがある。
例えば狭い屋内や公共交通機関などの人前で走り回って騒いだり、大声を出してはしゃぐなどしていても、最近の日本の親はあまり厳重に注意しない傾向にあるが、彼らはそうしたマナー違反には断固とした調子で叱る場合が多い。
ただ、厳格過ぎる子育ては、虐待や差別と紙一重でもある。

反対にインドでもタイでも、子供はのびのびさせて、本当に危ない事以外は滅多に注意しない。大人が子供を温かい目で見守っているような歴史的文化背景の集団や地域もある。
そのあたりは子育てって色々なスタイルがあるんだなあ、と感じてきた。

でも、大前提としておおおらかな社会は、そこにお互いの信頼関係や相互扶助、善意が存在するから、それで成立するのだと思う。
現代日本はそれもないし、西洋社会みたいに文化の基底に宗教道徳があるのでもない。だから、本当にモラルやマナーの自律性が低い。自律性が低いから、過剰な管理主義に走って、また倒錯した殺伐とした社会になる。

でも、厳格なモラリストなら卒倒しそうな渋谷のような掃き溜めにも、外からは見えない独自のモラル、彼らは彼らなりに理屈じゃない合理性があったりする。
家出少女に家に帰るように説得するのは、真面目な人には逆に難しいと思うんだが、超チャラチャラして大馬鹿だと見えていた奴がそれを説得出来ちゃったりする。
私が聞いていても、そんなスカスカな理屈でなんで説得出来るのか分からなかった。でも、経験なんだろう、そこは。

何かしら相手にシンパシーが持てて真心が伝わるトーンで言えたら、どんな頭の賢い人の完璧な理屈よりも効果がある。
だから道徳って難しい。規制でありながら、結局は当事者と周囲の人間、社会との心のやり取りでもある。

なので私は、ある程度おおらかでいい、という考えでいる。人の都合や基準なんて色々なのだから、ある程度はお互い様で、大切なのはトータルな部分での意識のあり方、気持ちじゃないかな、と。
実際、日本人よりは社会道徳がずっと機能している西洋人だって、その価値観や判断基準には幅があって、多様性があるんだ、というのは意識されている。
日本だと正しい事は一つ、と思い込んでいる人が多過ぎるのも窮屈になる大きな原因だと思う。窮屈過ぎると、今度は本気でそれを守らなくなるんだ。

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# by catalyticmonk | 2018-07-03 01:43 | 意思疎通 | Comments(0)

照れずに自己アピールするか、腹に一物あって、謙遜し合いながら小声で他人を揶揄するか

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なんかセンター街でさ、韓国人の若い女の子に英語で話し掛けられて写真撮ってくれ、ってスマホ渡されたのはいいんだけど、一枚一枚モデルポーズでキメるんだよな。知ってたけどさ、その習慣。
ついwhat I wantって感じで大喜び。日本人もこうなってくれよ、頼むから。

腰に手を当てたり、横向きになって腕組みしたり、サングラス片手で上げたり、ベタなんだけど、そういう挑発的なナルシスティックポーズを一切照れずに堂々とやってくれるのって、私的には安心するのだ。
腹に一物あって、謙遜し合いながら小声で他人を揶揄するような日本的みみっちさが私は大嫌いで、それがいつもストレスフルに感じるから、渋谷の若者もこういう社会の中にあっては、そういう地点からかなり脱線している率が高いので、そこで安心しているんだな、実は。

照れる人の心理は心理で分かるんだけどね。でも、その真逆を眉をひそめてなじるような人々が多過ぎて、「ああ、息が詰まる」ってのが、愛知県の田舎町にいた子供時代も、東京のような大都会でのほとんどの人間関係にも変わらず感じる窮屈さなんだな。
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# by catalyticmonk | 2018-07-02 00:23 | 忘れ物 | Comments(0)

就活と異端者

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日本の大学での就活に幻滅してエストニアに留学したら、違う展望が開けたと言う若者の体験談と、日本の就職活動の不毛さを俯瞰するような記事(http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1806/06/news005.html)を読んだ。
話には度々聞いていたけれど、改めて思ったのは、こんな馬鹿な事を日本の大学の就活ってしているんだな、という思いが大きい。
そりゃあ、ロボットみたいな社畜ばっかの気持ち悪い世の中になるのも無理ない。日本型奴隷民の量産にそこでも寄与しているのだ。

e0296801_00273878.jpgでもここから先は、そこをきっかけに思い出した個人的過去の思い出を書き垂らしていく文章なので、あまり硬質な社会論を期待しない人だけが読み進んで欲しい。
思い出したのは、自分が高校時に学校で就職活動の面接の練習があった際の事柄と、その後の流れ。あれはまだ17歳の1989年頃だったのかな。

その面倒練習で、学校教師達がわざと意地悪な質問を得意げに投げかけてきた。
「好きな本は何ですか?」
「その本が好きな理由は?」
「へえ、モノへの真心がこもっているのが好きなんですか。真心って立派な言葉ですね、真心って」
みたいなねちっこい嫌味ったらしさ全開の精神攻撃に耐える練習とかあって、それに耐えて、優等生的な模範回答をする訓練だったのだが、当時の私はもうそこでブチ切れちゃって。

愛知県の田舎の価値観だったから、先生達も大真面目にやっていたんだろうが、要するにど田舎者の価値観の訳だ。そこでの就職練習、となると、結果的に社会の偏狭さが一気に剥き出しになるような面があった。
実際にそれが地域で就職活動するには必要とされるレベルだったのだろうし、しかしまた同じトーンが29年後の大学生の就活のみならず、日本全国のアルバイトの面接にすらないか。

e0296801_00111129.jpgでも、私は虐待ネグレクトの問題家庭だったから、誰かに屈服服従するのが大嫌いで、若い頃の座右の銘は「威張っている奴はみんなぶっ殺す」だった。
その高校生当時も既に家を出て、自分で夜勤で働いて生活していたし、そういうので大人の偽善性に怒りでいっぱいの若者だった。特別な環境だったから、そういう田舎社会の空気にも染まらない素地が強かったんだろう。

まだ高校卒業したらアメリカに行こう、と決める前だった。でも、それで就活はしない、と宣言したら学校側が慌てちゃって。周りの生徒に悪影響があるから、形だけでいいから就職面接に行ってくれ、と言う。
本気で就職する気もないのに、面接だけ行くなんて、詐欺みたいな行為で、相手にも失礼じゃないか、と子供ながらに正論を言ったら、親にも連絡して、それでもいいから行ってくれ、と頼む訳だ。

こいつらの「生徒の将来を考えて」とか言うお題目はこんなに浅ましいものだったんだな、と軽蔑の念を沸き起こしつつも、まだ高校生の子供だったからそれ以上は面倒臭くなった。
それで、1年だか3年間だかで離職率が90%以上と言う、日光鬼怒川温泉ホテルという遠方の求人募集が来ていたから、これならまだしも相手への不義理も軽くなるのではないか、と考えた。

愛知県から就活名目で行く、となれば実家も旅費を出すという事だった。
愛知県尾張地方は、どんな滅茶苦茶な家庭でも、社会的体裁に関わる事を異様に重んじる風土だ。見栄を張るし、人目を非常に気にする土地柄なのだ。
中学の時から子供に昼の弁当代も渡さないで放置していたような異常者達でも、そういう事を学校など外から言われると例外的な対応をする。
それで母親にも説得されたので、ついでに関東旅行も出来るからいいや、と思い、途中で渋谷の街で遊びつつ(なにせ自分で働いている少年だったから、高校生にしては結構お金は持っていた)、日光鬼怒川まで電車に迷いながら行ったのだった。

日光鬼怒川温泉ホテルに面接を受けに来た他の高校生も、全国各地の遠方から来ていて、素朴な田舎者、という感じの子が多い印象だった。自分も田舎者の癖に、そういう目線が既にいくらかあった。
当時の私はある部分で変に大人びていて、可愛くない子供だった気がする。半分は母方の実家の保護で育ったので、祖父母と近しい子供の特徴である柔らかな人間性も持っていたのだが、何せ実の親が完全に人間性が振り切れている危ない人達だ。なので、やはり安定して所属し甘える親や家庭のない状態だったから、普通の穏やかな家庭で育った同世代の子供とは根元から質が違っていた。

その前にも愛人囲って、母子を長年放ったらかしだった父親がしゃしゃり出てきて、企業ヤクザである親族経営の土木会社に入れるだの、お前は絵心があるから四国の陶芸家の窯に修業に行かせるだの、話にもならない狂った事を言うし、親父に暴行を受けて腰椎二つ潰して入院したり色々あった末に家を出て、一人暮らしを始めていた。
夜は工場で働き、朝方に自分のアパートで制服に着替えて学校に行き、昼間中ずっとそこで寝て、暴力親との緊迫したやり取りも時折ある、という状況だった。
だから、子供らしくリラックスしている隙がないし、学校で寝る生活になってから同世代の友達付き合いもなくなって孤独な訳だ。なんだかいつ凶悪事件を引き起こしてもおかしくない程、捨てばちなところもある鬱屈とした少年だった気がする。

e0296801_00252120.jpgそこにさらに就活旅行の前後の経緯を機に、私の中の既存社会への不信感が高まった。親父が「日本にいる限り、東京だろうが北海道だろうが、どこに行こうが俺の目の黒いうちはお前一人の先行きはどうとでも出来る」と豪語したのも大きかった。
そこで日本に居てはダメだ、と確信し、追い詰められた若い心の強情さと少年らしいシンプルさで「じゃあ、アメリカに行こう」と決心したのだった。

私の人生に立派で他人の参考になるようなものはない。
正規のルートで留学するのでもなく、英語力もなかったから自殺行為に等しかった。家族の前から失踪する目的もあって、つてもなく渡ったアメリカであって、私は向こうで中国人の世話になりながら不法就労し出すなど、アウトサイダーな人生がそこから始まっただけだ。

でも、愛知県の土地柄の特殊性とか、当時は外の世界と比べてよく理解出来ていなくて、事態の経緯を第三者に整理された言葉で伝える術が分からなかった。それも手伝って高校を卒業するなりアメリカに逃亡する、というとんでもない展開のスタートラインに、実は就活の面接練習でヘソを曲げた、なんて偶発的な要素が大きく関与していた、というところは上手くつなげて語る機会もなく、長い年月が経っていた。

しかし改めて考えてみると、特殊過ぎて共感されもしないだろうから語るに値しない、と思っていたような私の体験の中にも、普遍的なテーマが含まれていたのだな、と分かる。
29年前の田舎の特殊な家庭環境の少年も、今の時代に普通の家庭で育ち大学進学している若者も、日本はその絶大な開きを飛び越えてずっと似たような問題に直面していると思う。それって、凄い話だ。

誰のための人生なんだろうか。
人生は個人個人が自分で切り開いていくものであって、教育や社会がそれをサポートする事で希望ある未来を積み重ねていける。それは別に綺麗事でもなくて、至って単純な道理のはずなのだ。
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# by catalyticmonk | 2018-07-02 00:15 | 自己経歴 | Comments(0)

政治や文化環境が助長している言語能力劣化

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論理的整合性からしたら、その誤読は普通起きないだろう、というパターンが増えている気がする。
多分、短いセンテンスで捉えているし、全体の構成を通して理解する力が衰えている。最初からイメージが湧いている思い込みの範囲で解釈しようとしていて、言語を自分自身のオリジナルな主張のために組み立てる訓練が不足してきている、そんな印象を昨今日本の東京で暮らしていると感じる。

コピーライター的な予定調和で言葉を操るので、自分が予め想定出来ていない言葉に出喰わすと論理的整合性を追って会話を進めていけない。自分の偏見や戸惑いがそのまま露呈される。
つまり安倍政権が国会で言っている言辞と全く同じだ。それが国民規模で拡大しているように強く感じている。その辺りが、安倍政権が国家のトップに長期政権として君臨し社会的権威を持続させている中では、一番ヒートアップしている文化的劣化要素な気がする。

会話していても相手の読解力の低さに辟易する事が増えている。でも、若い子でも物分かりのいい子はいて、中高年のすっとこどっこいぶりが加速している印象。もし、そうした傾向が一定あると仮定したなら、当然読解力の低下は、教育の劣化だけが原因ではない。

私も時折物分かりが悪い、と捉えられる場合もある。私の場合は、要するに安請け合いを嫌うのだ。
論理的な整合性を踏まえようとするので、多分こうかなあ、と推測がついても、解釈次第で意味合いが真逆になりそうな時は確認する。また、曖昧な匂わせ発言で相手を萎縮させて、暗黙の同意・忖度を強いているような気配にも敏感だ。
物事をきちんと整理して考えない人ほど無意識・無自覚で利己的な押しつけがましい行為をする傾向が顕著に表れがちだ。だから、そういう無思慮や同調圧力には抗いたくなるのだ。

若者もそのような社会の文化環境に置かれているのは間違いないのだが、相対的には若いほど最初から自身にとって未知の主張や論旨・論法が多い訳だ。
なので、それまでの人生の積み重ねやその中での持論・思い込みが形作られている中高年ほどには凝り固まらないで、真っ白な次元から考える事がまだしも出来る。
反対に、こうした社会的な文化風潮がある時に、一気に劣化するのは我々中高年である気がするのだ。

若者に誤解や早とちりが多いのは、不確実な経験値の中で思考している訳だから、ある意味当然であって、それほどおかしな事ではない。
なんとか意味合いが伝わる程度に、彼らに論理的整合性の過ちを指摘し説明出来ると、案外素直に受け入れてくれて、割合簡単にフラットな次元にひとまず戻る。
ところが、ただでさえそれまでの人生の経験値の反復の中で生きている中高年が、論理的整合性を厳密に問い質し合わない社会環境に置かれて、その状態に慣れてしまっていると、本当に見苦しい思考停止の偏見と動揺のオンパレードになる。
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# by catalyticmonk | 2018-07-01 23:37 | 意思疎通 | Comments(0)

自分完全正義偉い!の人

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病気とか怪我の話とか、SNSでそんな話は聞きたくもないと投稿している人がいた。
その人を少し辿ってみたら、こういう美味しいものを食べたとか、こんな綺麗な場所に行ったとかいう投稿にも同様のトーンでいて、代わりに自身の政治への不満に関する投稿ばかりが並んでいた。
自分の意見だけが正義、って発想の人がそういうものの見方になるんだろうな。

だいたい、SNSが個人的日常や感じているものを気軽に呟く場所でなくて、公式の場で社会的メッセージを発するような場所だと思い込んでいる視点が意味不明なんだが。ただ、結構こういう視点の人っているのだろうなあ、と予期する面もある。

私自身も自己愛たっぷりな性格だが、他の人が何をどういうふうに喜んだり悲しんだりしているか、という点に関しては尽きない関心がある。
そこに共感もあれば反感もある。そして、それら全部を包含して世界の多様性が存在する、と理解している。

他人の喜びや悲しみの実際に興味がない人の言う正義こそ、全部その人の独善なのではないか。
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# by catalyticmonk | 2018-07-01 23:21 | 忘れ物 | Comments(0)

公衆道徳の劣化と混乱

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本日、渋谷ドン・キホーテの男子トイレで小用を足していたところ、突如ロングヘアに白のホットパンツ姿の中国人女性が真横に闖入。
最近の男子小便器は縁が浅く、横から丸見えなのである。こちらを一瞥して、動揺した様子もなくそのまま無造作に手を振りながら出て行った。
これが、中国人が増えた渋谷的日常の一例。

私的には平気なんだが、ほとんどインドと変わらないなあ、と。他の現代日本のマナーに細かい風潮と真逆なので、結構落差に驚く。
多分、日本人なら、もっとおおらかな昭和40年代でも女性がそういうことに動揺していたんじゃないか、と思うので、同じアジア人でもこのギャップはなんだろう、とよく思う。

そう言えば、細かい癖に、最近の女子高生、電車の中で鼻くそほじっている子がちょくちょくいる。ネイルアートをテカテカに施した爪先で、だ。
盗撮を気にする割には真夏にミニスカートでホームにしゃがみ込んで、向かい側ホームから丸見えだったりするし、自分の面識ある子達だとまるっきりパンチラなど気にしてない。昭和生まれの日本人男性としては落ち着かなくなるので、もっと隠してくれないか、と正直に言うんだが、隠したり隠さなかったり、相当テキトーだ。
なんかやっぱり全然基準が分からない。
なのに、意味もなく中年男性を敵視して汚ないもの扱いしている事が多くて。
少なくとも私は公衆の面前で鼻くそをほじったりしないから、ずっと清潔な自信はある。


こうした話は、もっと笑えない深刻な現実を反映している面もあると感じている。逆に渋谷はまだ何か明るいし、救いがあると言うか。そういう中国人のマナーに関しても、文化的な多様性と捉えられなくもない。今の時代に病んでいるのはヤンキー系や少々頭が悪くて元気なパリピの子達じゃない、と感じるのだ。
むしろ、もっと従順でおとなしく、一見常識的なマジョリティー側に属する若者層の偏狭さが、一番危うい、と私は感じていて、それはハイコンテクストなコミュニケーションの問題の中で生きている新しい世代の特徴も相まって、年長者の世代には簡単に見破る事が出来ない。

例えば、先日、ランドセルを背負った制服姿の女子小学生の集団5名ほどが、飛び飛びで電車内に空席はあるのだけど並んで座れないので、座ろうかどうか躊躇している光景に出くわした。
そこで私は彼女達が並んで座れるように促して席を譲り、向かい側の席に移動した。
そうしたところ、その中の一人が、向かい側でiPadを操作しているこっちの方をジロジロと刺すような鋭い視線で見てくる。最初、席を譲ってあげたのに何なんだ、と意味が分からなかったのだが、彼女がしきりにスカートを直しているので、タブレットでパンチラを盗撮されないかと警戒しているんだな、とピンときた。

席を譲ってあげた紳士な大人に対して、小学校低学年くらいの女の子が感謝の気持ちよりもまずそんな警戒をする社会って、殺伐としている。
小さなうちから、そんな事を意識しなきゃいけないくらい男性のセクシズムが酷いのだ、といくら主張されても、実際にそんなつもりもないのに同様の扱いをされる男性側だって、そんな風では常識的に子供に親切に対応しにくくなるし、いい気持ちもしない。

私のように髪の長い成人男性が、善意だけで席を譲ってくれたりしない、みたいな偏見なり猜疑心に結びつく考えを、親や周囲の大人から吹き込まれているのだと想像する。
こうした事を私が想像するのも複数の体験の総合としての結果であって、似通った出来事がしばしば頻繁に起きているからだ。単にカメラを肩からぶら下げたまま電車に乗っても、同じようにジロジロ見てくる小さな女の子が昨日もいた。しかしこちらにしても混雑したホームで、やって来た電車に乗り込むのに、必ずしも毎回カメラボックスにしまえるタイミングばかりではない。

そんな、もし相手が危険な人物なら、分かりやすくジロジロ見る方がリスキーな訳だ。私が本当に悪意のある人間だったら、そういう態度を取られた事で逆に何か危害を加えてやろう、と考えるはずだ。実際、相当不快な気分になるものだからだ。
が、子供だから、大人から吹き込まれるがまま、素直に出してしまうのではないか。経験値に基づくリスク回避ではなくて、他人から何かしらの偏見を吹き込まれた結果の反応だから、そういう矛盾した行動を正直で幼い子供が取る、と推察出来る訳だが、これは彼女達の安全面を考えても、非常に危険を呼び寄せる間違った対応だと分かる。

色々と思考停止な思い込みだらけになっているから、警戒はしても互いの助け合いの精神は劣化する一方だし、このような矛盾した行動が増えているのだろう。
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# by catalyticmonk | 2018-07-01 22:09 | 忘れ物 | Comments(0)

日本文化について日々思う諸々

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【男共に言いたい伝言】

命に対して思う事全般の話や考え方に、やはり自分が大病してからそれ以前よりもずっと関心を持つようになって気付いた事がある。
そういった日常の体のケアや命を大切にしようと言うリアリティーや、そこへの真摯な関心の部分が、まだまだね。女性は十分理解している人が多いのだけど、男が全然ダメ。

がんをしてからこういう事に気付くようになった、もっとこういうところにも制度改善や意識を変える必要がある、みたいな話をしただけで「同情されたいのか」とか、「弱音を吐いている」とか、同様の意味合いをまたチクチクと遠回しで皮肉な物言いで匂わせたがったりね。
こっちが自分の体験を通して重要だと思うようになった社会の福祉環境やホスピタリティーについて語っていても、まるで違う方向に解釈する馬鹿が本当に大勢いるんだ。

いや、私自身はそんな態度を取られたって負けていないから平気だ。そんな、人畜無害な優男じゃ生きていけないしね。
でも実際に、それほど自分では健康や病気・福祉・医療に関する大きな体験をしていない男社会の中で生きる多くの男性の意識が、世の中がそうした方向に向くのを大きく妨げている、とはっきり分かるから腹立たしい。

e0296801_12031979.jpg都合のいいところでだけ観念論を持ち出してきて、カッコつけた事を言うのだけれど、同じ人物が病気やトラブルに遭った事後まで観察していると全然ダメで。ただその場で粋がって自分が立派な人物であるかのように吹聴するために、「根性が」とか、「明るい事だけ考えて生きるんだ」とか言っていたのだと分かる。
薄っぺらに見栄を張る事こそカッコ悪い、と私は思うのだけど、違うのかね?

中には、自分でも病気をしたり、家族に問題があった人でさえ、何故かそういう事柄に粗雑なままだったりする人物もいて、まあ、そういう人は余程頑丈か健康な暮らしを出来る環境にない限り、いずれ自分自身でそのツケを払う事になると思う。
弱肉強食の強者の論理みたいな物差しを、自分が強者でもない社会の底辺にいる男まで自分の美学として受け入れちゃっている傾向があって、そうやって弱い立場の人を無自覚かつ粗野に苦しめているのが許せない。
馬鹿で粗忽な奴はひと迷惑だから、全然カッコよくない。それを男らしさと勘違いしている輩を真性の馬鹿と呼ぶ。

この社会でホスピタリティーや医療制度、福祉社会の実現を妨げているのは、男性社会の変な意地、という形で継続されてしまっているオトコ文化だね。
そこは、本当に全面的に改められた方がいいと思う。


【名前に便乗した優越感と反知性主義】

名前に便乗するコマーシャリズムや権威主義に怒りを持つのに、自分の変な虚栄心やプライドが基準になっていたらもっと陳腐だ。

例えば、ワールドカップで「ニッポン!ニッポン!」と叫んで高揚するのも個人の自由ではあるのだけど、オリンピックのスケート競技の盛り上がりとセットで、事あるごとに韓国人選手を感情的に馬鹿にしている人がいるのも見た。そういうのは要らない感情だ。

昔、東京の下町育ちの奴が、私が路上販売の口上でインチキ下町言葉を使ったら、特に間違った言い方でもなかったのに、こんな文句を言ってきた事もある。
「江戸っ子でもないのに、そういう事を言うのは不愉快だ」と。別に人形に調子のいい能書き言わす台詞として言っただけで、東京生まれを詐称した訳でもないのに、だ。
そんなに東京に生まれ育った事が偉えのかよ、って思ったね。

ちなみに私は父親・父方の祖父母が東京生まれだったり、途中まで東京育ちだったりして、それで愛知県出身でも家庭内では標準語で育ったものだから、「坊ちゃん言葉だ」って馬鹿にされて、田舎の工場城下町の粗野なガキ共に小学校入る頃くらいまでいじめられていたんだ。
愛知県では坊ちゃん言葉だといじめられ、東京生まれの奴からはよそ者が東京の言葉を知ったかぶって使うな、と言われたら、じゃあ、私自身の自由はどうなる?
人の権利が、何か育った土地とか、家柄とか、特定の評判・地位に依拠するという誤った思い込みがあるから、そういう発想が出てくるんだ、と私には分かる。

名前に便乗した優越感、みたいなのは反知性主義の大きなサインでもあって、考える力が低下してくると自ずと拡大してしまうものだとも思う。狭量なナショナリズムも、結局そうした社会的土壌が強いほど広まりやすい。それが今の時代だ。

この国は教育やメディアの情報発信が、そもそも自主的な判断力や思索の成長を妨げているところがあって、最近ではそこにインターネット文化の影響も絡んできている気がする。
政府からの払い下げ土地に大手新聞社の社屋を建てているから、彼らの権力への追及は本気ではない。そういう出来試合から抜け出すためにインターネットと読書だ、と言う人も増えてきている。

e0296801_11512001.jpgただ、ネットの情報は不十分で浅い事が多いし、いい本屋が減っている。身近にある程度ジャーナリズム精神のあるメディアの情報が有ると無いとでは大違いだろう。
本当に、今の若い子、言葉を知らない。日本語しか知らない上に、自分の母国語もよく分からない、というのは、考える能力の土台そのものを損なうので非常に危うい。
その意味では、新聞文化世代の方が言葉をよく知っている。情報は偏るかも知れないが、日常生活に近い場所にある活字文化、しかもそれが日々アップデートされる価値、と言うのは、やはりインターネット文化では弱い。

一人一人がきちんと考えていく文化、というのは、やはり制度的に教育が変わっていかないと難しいのか。


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【なぜ政治に興味を持つか】

若い奴に、
「河元さんは、なんで政治っぽい事に興味あるんすか?そんなのだるいじゃないっすか。自分は自分でいいんじゃないですかね。
俺、嫌いなんすよ。自分の不満を社会のせいにしてギャーギャー騒いでいるような連中が。ああいうのウザいじゃないっすか。河元さんはまるでそういうタイプにも見えないんで、不思議なんですけど」
と、割と直球勝負な質問を投げかけられた。

金にがんじがらめだと人生に何もない訳よ。やっぱり、そこの虚しさを埋めるために政治に目が向く、というのは多いと思う。

大した金にならない労働でも「遣り甲斐を持て」とか奴隷労働を強いられるでしょ。それが馬鹿馬鹿しくなった人が、自営業始めたり、職人でもない底辺の日雇い肉体労働者になったり、テキヤやギャンブラー、犯罪社会の人間になる。
社会の外側で金もないんだから孤独だよ。それでまた、無理してサラリーマンになったり、職人、ヤクザになったりする。

そう、私の頭の中の分類では、職人、ヤクザ、サラリーマンは集団主義の社会に埋没して安定と所属を確保する、という意味に於いて同種だ。
最近は、ヤクザは絶滅危惧種になってきて、安定もないけど。でも、ヤクザとチンピラの境目って、やっぱり組織に身を置くかどうか、が大きい訳だ。

で、まあ、大概の庶民はそうやって生きていくのに精一杯。
なので、大雑把には二択になるのさ。
①社畜・労働奴隷になるのと引き換えに少しの収入安定と社会的地位、居場所を得るか、
②それを嫌って多少の自由の代償に、孤独でさらに貧困だったり日々が賭けだったりする安定とは無縁な暮らしを選択するか、
どちらも結局楽じゃないから、みんな、その瀬戸際で行ったり来たりする。

e0296801_12022966.jpgでも、そういうのは結局、政治や文化の問題なんだね。個人が自分の人生の中で解決しようとして、精神論に行ったり、直接的に経済的成功を求めようとするんだけど、堂々巡りになる部分は多いからさ。

精神的な理想を求めてどっかの島に移住して、地元の人の狭い村社会意識にやられて失望して帰ってきた奴とかもいたし、それで、なんとか居場所を見つける人もいるけど、選択肢が狭い中で視野狭窄気味になって保守化する人が多いのも知っている。

じゃあ、なんでそこまであがいているのか、ってなった時に、そこには既に出来上がっている社会の文化の問題だったり政治の構造というものが厳然と立ちはだかっている訳さ。
そこで直接政治って部分に目を向け出すと、自分が人生に感じている虚しさや胸のつかえが軽くなる、そういう事が多いんだよね。
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# by catalyticmonk | 2018-06-25 00:24 | 希望社会 | Comments(0)

ムルガン様

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今回の記事は、2013年秋に見た自分の夢とその数年前の現実の記憶が交錯するという、内容を追う上でやや紛らわしい構成になっている。
もちろんそれは私の能のなさによるが、こうした形でしか私は自分の中に根付いているインド世界から受けた影響の実際を、心理状態に即したものとして書き表すことが出来ないように感じている。
なので、今回の主題はそうした性質のものであることを予め断らせていただき、己れの至らなさを懺悔したいと思う。


夢。
e0296801_251326.jpg私はまたインドにいる。私は庇のついた屋台のような建物でインド人家族と歓談している。目の前には川が見えて、周囲は何処となく古い町並みに感じる。
私はたまたまの流れで簡単な読心術を家族の前で披露する。ヤマカンか状況を読んでか、自分でも判然としない感じで、しかしかなり具体的かつ正確にズバリ相手の行動や考えが読めてしまう、ということが私にはたまにある。
その家族の、そう若くもない知的障害者らしき娘が、片言のヒンディー語と英語で私に話し掛けて来る。

最初、ヒンディーの拙い私は娘とのやり取りがスムーズにいかなかったのだが、それでも段々意思疎通が可能になって来た。どうも彼女は私が先ほど家族の前で読心術を披露してから何か思うところがあってこちらを注視していたらしかった。そのことがあやふやな会話を通じてなんとなく伝わって来る。
そして彼女はシヴァがどうのこうのとしばらく不明瞭にごにょごにょ言った後で、唐突にムルガンダ、と言い出す。

もし、彼女が言おうとしたのが「ムルガンダ・クティ寺院」のことならば、それは仏陀が悟りを開いた後、最初の雨季を過ごしたとされる場所に建てられた、サールナートにある寺院のことだ。夢の中のその川がある古い町が仮にバラナシであればサールナートとは距離的にも近いし、おまけに私は仏教徒の多い日本人。彼女が話の引き合いに出しても不思議ではない。
しかし、私は咄嗟にムルガン神とスカンダをごちゃ混ぜにして言っているのだろう、と推測した。ムルガン神とスカンダは同一視されているからだ。そしてムルガン様はシヴァ神の息子。彼女の事前の発言とも符合する。

e0296801_01300242.jpgスカンダはヒンドゥー教の軍神で、戦争以外はあまり考えていない上、女性すら近付けず、自分の神殿に女性が入ることすら拒む。カウマーリまたはデーヴァセナという妻・パートナーがいる場合もある。
ムルガンとは「神聖な子供」という意味で、元々はドラヴィダ系民衆が信仰する土着的な山の神だった。現在も南インドのタミルナードゥ州などで盛んに信仰されている。無類の強さを誇る山の児童神だ。
何の変哲もない子供の姿をしているため、油断してやられてしまう悪魔も多い、というのがこの神様の基本設定。ムルガンは孔雀を連れていることが多く、そのためスカンダと同一視される。

「ムルガン?」
私が彼女にそう確認すると、彼女は我が意を得たり、といった感じで同意してうなづく。そして急に滑舌が明瞭になってきて驚くべき発言をし出す。
「お前は今、ムルガンと共に旅をしている。そして、それを彼は楽しんでいる。お前は今『ダブル』だ。」
衝撃的だった。夢を見ている私は一人でガーンとなっているわけだ。
実は私は、12年ほど前からそのムルガン神という南インド土着の神様に纏わる様々なエピソードを体験して来ていた。


タミルの山にはムルガン神の立派な寺院があり、民間の宗教画にはよく山の上に立つムルガンの姿が描かれる。
12年前、スリランカ南部のウナワトゥナという沿岸の町を訪問した際に、突如夢枕にムルガン神に立たれるということがあった。彼は一言も言葉を発しないのだが、私の夢の中のいろんな場面に何の脈絡もない感じで闖入してきては佇んでいる。
その感じがなんとも名状し難い面白みと魅力、インパクトがあったので、以来、急激にその児童神に親近感を覚え出し、アイドルのポスターを買い漁るファンの如く行く先々で彼の神様ステッカーやポスターを集め出すように。
尚且つなぜか私自身が、道行く南インドの現地人に「ムルガン、ムルガン」と騒がれるという珍妙な出来事が度々続いた。
それで自己暗示にかかるほど自分が単純な性質であるとも思っていなかったのだが、どういうわけだか時々自分にムルガン神が乗り移ってきたような変な感覚に襲われることまで起こってきてやや当惑。道行く人になぜ私のことをムルガンと呼ぶのか直接理由を尋ねてみたこともあるのだが、どうも一昔前に普及していたムルガンのポスターの風貌と私がそっくりであるというのが主たる原因のようだった。
それで徐々に好奇心を抑えられなくなってきて、気が付けばとうとう南インド各地のムルガン寺院を巡礼し始めるまでに。

e0296801_01452496.jpgそこまでの行動に至ったのも数々の偶発的な出来事に促された結果であって、どうにも奇妙な具合だった。
例えばマドゥライの軽食屋でたまたま知り合った現地人から頼んでもいないのにムルガン寺院のある聖地までの行き方を懇切丁寧に教えられて、最初はいきなり初対面の相手に聞いた情報だし、互いの会話自体も片言の英語しか話せない現地人と、タミル語の話せない図々しい来訪者である私との間でなされたあやふやなものだったのでリスクを鑑み尻込みしていたのだが、相手があまりに邪心のない素朴そうな感じで、ニコニコ微笑みながら神の御告げの如く決然と勧めてくるので、何か強く心を動かされるものがあって思い切って行ってみると、そこでまた次の場所へ行く情報が向こうからやって来る、といった調子。

「え~、ウソでしょう?!」と目を丸くしてしまうような出来事の連続だった。
まあ、ただ、こういうのはインドにいくらか行ったことのある人ならば、誰しも多かれ少なかれ身に覚えのある種類の経験だとも思う。いろんな出来事が絶えず重層的につながっている日常、とでも言えば良いのだろうか。

ムルガン神信仰の総本山であるパラ二を訪問した際にもトントン拍子の展開だった。
感じるところがあって描いた自筆の絵を奉納しに行ったのだが、そのことを寺院の神官達に伝えたところ、どういうわけだか即ちょっとした騒ぎになって、なんと得体の知れない外国人である私が何時間と並んでいる他の参拝者の大行列を尻目に、御神体のある本殿まで直行で通されて参拝させてもらえるという厚遇を受けることに!そこは山丸ごと一つの大寺院の深奥であって、当然現地の一般参拝客でも入れない。

根がチキンな私は、石造りの荘厳な神殿の仄暗い奥へと連れて行かれる途中、内心、一瞬本気で走って逃げ出してしまおうかと考えたほどだ。今から振り返ると、何か得体の知れない事態に巻き込まれつつあることへの本能的恐怖だったのだと思う。
__でも、ダメだ。もう今さらどうしようもない。そんな冒涜行為が許されるはずもない。誰に対して?異国の神様に?この場所にいる周囲の人達に?自分自身のプライドに?
はっきりとは分からなかったのだが、とりあえずそれらすべてに該当してしまう気がした。覚悟を決めて臨むしかないようだった。しかし心臓の高鳴りは止むことがない。
そしてそんな私の期待を裏切らないかのように、あろうことか本殿の御神体の前にはロウソクの炎に照らし出された神憑りの神官がバキバキの眼つきでいて、その人物がまた物凄いのだ。
タミル語を解さない私には何を言われているのか明確に分からなかったのだが、それでもトランス状態の神官の抑揚のあるボディーランゲージと分かりやすいセンテンスの連呼はまさに言語の壁を乗り越える力があって、あれこそシャーマニックとでも呼べばいいのだろうか、神秘を肌で感じる体験だった。
ムルガン神がスリランカで私の夢枕に立ったことや、私がムルガンと呼ばれババジー(賢者・聖者)扱いされたこと、ヒマラヤでとある女神に会ってきたこと、私のそれまでの人生のあらましなどを彼がかなり具体的に次々言い当てているのがはっきり確認出来た上に、そもそもその祝祭的で猛烈な祝福の仕方は、もう理解どうのこうのを必要とする次元ですらなかったのだ!

も、もう降参です。煮るなり焼くなり好きにしてください!私は御神体の前にひれ伏した。
そして、頭上からザバザバと夥しい量の聖水を浴び、豪勢な花の首飾りを掛けられた私が本殿から表へ出ると、予定調和的な流れだが、スーパースターが登場したかのような凄い注目の的に。現地の人達から次々記念撮影をせがまれることになり、一列に並んで参拝客の団体様ご一行と写真を撮ったりして、なんだかよく分からなかった。

これはあなたが信じようが信じまいが全部実話である。


e0296801_146965.jpg夢の続きに戻る。
私がその知的障害者の女性を、途中からある種の神憑り的な人物として見做し出したのは、ここまでの過去の実体験の経緯説明によって理解してもらえると思う。パラ二で会った神官のような種類の人間の言葉として、私は彼女の発言を傾聴し出す。
ひょっとしたら「ムルガンダ」という言葉にも複合的な意味合いがあるのかも知れない。トランス状態や譫妄状態の人間が言葉を扱う時には、瞬時にそういう掛け言葉のようなひらめきを含んだ重層的な内容の会話をぽんぽん繰り広げてくる、ということがままあるからだ。
彼女は続けて言う。
「お前はやがて『ゲットー』に行くことになる。それをムルガン様も理解されている。」

ゲットーだって??
ゲットーと言えば元来はユダヤ教徒を強制隔離した一定の居住区をいうが、これを一般化して少数者集団が密集して居住する地区について用いられることもある。
アメリカで言えばスラム街(貧民街)というより、暴力や犯罪がはびこる危険地帯、といった意味合いの方が強い。現在のアメリカ人の平均寿命は大体79歳くらいとされているが、ゲットーの平均寿命は35歳程度だという話もある。
何にせよ不安に駆られる話ではある。だから彼女にその私が将来行くゲットーはどんな所なのかと聞いた。すると唐突に片言の日本語で返答が返ってきた。
「サッムイ〜(寒い)場所。」
そう言って彼女はふふふふふと笑った。

e0296801_1425438.jpg日本は私にとって十分北の国に感じる。況してや、その夢を見た季節はこれから落葉の季節になる頃だった。南インドに住まわれるムルガン様ならさぞや寒い土地と感じられることだろう。そもそも人類の祖先は元々熱帯地方のジャングルの中にいた猿なのだ。
ただ、自分が四季のある日本の環境に生まれ合わせたことを特別不運だったとも思ってはいない。人類は疫病や競合動物の多さから頭打ちだった故郷アフリカを出てユーラシア大陸へと進出する過程で新たなニッチ(生態的地位)を獲得して飛躍的に発展した存在なのだ。だからいくら南国趣味の私であっても、人類が今日世界中に住み広がっている現象自体を変なことだなどと言うほど野暮ではない。
さりとて今、私は自分にとっては結構「寒い場所」の大都会の片隅で、比較的この国のマイノリティの側に立って暮らしている、というのは紛れもない現実で、そこの部分を拡大解釈して言うならば確かに「ゲットーのような環境」にすでにいる、と言えなくもないし、「それをムルガン様も理解されている」というのなら、何か励まされないでもない。

なるほど、そうか。
何かいたずらっ子みたいな茶目っ気さえ感じる言い回しではないか。やはり夢に登場した彼女もあの児童神に仕える者だったのか、なんてアニミズム的思考で考えてみたりした。
しかし、私が帰国後に恋人との入籍・離婚・がん闘病と、なかなか壮絶な人生体験をしたのもまた事実である。

私が勝手にこうした夢を見たのであっても、児童神ムルガンに関わる出来事はインドでも毎回なぜか今回の夢と同じような、ユーモラスでトリックスター的なトーンで起きてきたのも事実で、だからこそ今でも時折このような形で夢を見るのかも知れない。
インド的なものが自身の人生の中に徐々に浸透してくると、個人差はあれど皆いくらか似通った文化的・精神的同化作用の体験をするとも思う。

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# by catalyticmonk | 2018-06-12 02:08 | インド生活 | Comments(2)

アブナイ世界の裏事情を少し

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インド北部にあるヒンドゥー教の聖地バラナシに、日本人バックパッカーの伝説的な安宿「久美子の家」がある。約40年前にインドに渡ったガンゴパダヤイ久美子さんが経営している。
最近は、日本人旅行者の減少で中国や韓国の青年も主要客だそうだ。
しかし、宿の人気者だった夫のシャンティさんは2017年の1月16日に死去していた。

日本人のバックパッカーの聖地だったかも知れないけど、私は27年前の1991年に行った時、シャンティさんに面接されて宿泊拒否されたんだよな。
シャンティさんに日本語でこう言われた。「あなた、ガンジャ(大麻)吸って何年になりますか?」

私はドラッグをやらない旅行者だった。だけれど、その前に初めてのインド旅行でマラリアに罹り、バラナシで一ヶ月死線を彷徨っていたのだった。
その若干19歳ながら幽鬼のように瘦せ衰え憔悴した私が、日本人宿の噂を耳にし、少しでも楽な環境で静養出来るように、と宿泊を試みたのがその時だった。

e0296801_11594994.jpgだから、私にとっては随分無慈悲で残酷な誤解だったのだが、もう時間が経ったからすべて話していいだろう。
インドを訪れる旅行者、特に貧乏旅行者は、その大半が大麻などの麻薬に手を出す。バラナシなどの聖地では合法で、政府公営のガンジャショップ(大麻販売店)があるくらいだったから違法でもなく、仕方ないと言えば仕方ない。
お祭りの日には警官が道端で大麻入りのヨーグルトジュースを飲んでいるような土地だったのだ。日本人がお祭りの日や正月などに神社の境内でお神酒を飲んでいるのとまったく変わらない性質の事柄だ。

しかし、合法・非合法の境目は微妙で、インドの中央政府的には公営店以外で一般大衆が外国人旅行者などに密売しているのを取り締まりたかった。
そこに外国人旅行者、分けても海外旅行慣れしていなくて不器用な若い日本人旅行者が集まる久美子ハウスは、宿泊した人から何度も聞いたが、中ではシャンティさんや久美子さん公認で堂々と大麻を吸っていたし、密売人との交渉・トラブル諸々で地元マフィアが支配するバラナシで他のインド人から目の敵にされ、何度も警察ががさ入れに入り、久美子さんも拘留されて、精神を病んでいたりしたそうだ。

だから、私がたまたま訪れた頃には、ちょっと嗜む程度ではない、危ない薬物中毒患者みたいな旅行者は面接で振り分けて宿泊拒否していたらしい。
繰り返すが、私は全くやらない人間で、重い伝染病に罹って異国の地で闘病して衰弱していたところ、その姿が怪しいジャンキーに見えてしまったという話だ。病人をそんな視点で解釈する事自体、如何にバラナシがそういうものに溢れているかの証左なのだったが。

しかし、おかげで私は若い時分に海外を放浪する中でいち早く母国日本人集団と離れ、他の地元の人々やインドなどを旅する西洋人旅行者の集団の中に飛び込む事が出来た。
なにしろ、特に疫病に罹って病気をして弱っている間に母国の人々のいない緊急事態に陥ったのだから、生き残ろうとする動物の本能が最大限に発揮された。特別な語学勉強など何もしていない無学な私が無国籍風な人種に飛躍する大きなきっかけになったのが、あの19歳の時のインド・バラナシでの闘病期間だった。

そんな訳で、私は実のところインド絡みで自国民の有名人の裏話をたくさん知っている。
ただ、暴露する気は一切ない。それは、インドの歴史を知ったからだ。

インドでは古来宗教的にお酒がタブー視されていた。自然に自生している大麻や阿片などを民間で嗜好品として嗜んだり、宗教儀式に取り入れる、という事は長い歴史の中でされてきた。
しかし、西洋人がインドを侵略し支配するようになると、徐々に彼らの価値基準を強制するようになった。日本人がお酒を飲むように、嗜好品として民間で大麻を嗜む環境があったのが、力の強い異国の支配勢力の価値観によって制約を受けるようになり、代わりにタブー視されてきたアルコールが入ってくるようになった。

しかし、民間信仰の次元にまで浸透している様々な習慣は、インドの民衆すべてを西洋の一神教に改宗でもさせない限り完全には変更出来ない。
それで長い間、西洋の大国が国際政治をリードする中で玉虫色に黙認されてきた、という実態がある。

e0296801_12015503.jpg体と精神を蝕む、という観点からしたら、お酒も同じようなものだ。ただ、それぞれの文化の習慣と歴史が違ったというだけ。しかも、その中で、西洋の列強に侵略されたインドが、自国の文化を妥協するような形まで強いられてきた。
しかし、現在では「経済効果」の面で国際的に大手を振って商売に出来るアルコール産業と、色々な圧力を受ける文化とでは、受けられる社会的庇護も桁違いなので、インド中央政府の開発至上主義の方針と共に駆逐されているらしい。

そうした経緯を踏まえると、インドの環境の中でそうしたものに近付いた同国人を非難するのもおかしな事のように感じる。日本の基準をインドの中にまで持ち込んで「いい・悪い」と騒ぐのは、如何にも横暴な理屈だからだ。

ざっくり言えば、嗜好品はコーヒーでもお酒でも大麻でも阿片でも、すべて身体を少しずつ麻痺させて陶酔感を得ようとするものであり、その観点から言えば健康上は全部良くない。これが真実だ。
ただ、それでも人間は何かしらの息抜きをそれぞれの生活の中に取り込もうとする。それが行き過ぎるのはやはり何事も良くない、そういう話だ。

ただ、こういう事を堂々と言える人は少ない。事情を知っている人の大半が、自分達でも大麻などを嗜む人達だから、日本で言えないのだ。
私は全くやらない人間なので、敢えて微妙な現実でも語れる、というだけだ。嘘だと思うのなら私の毛髪を検査すればいい。私の髪の毛は長いので、何年も遡っていつ頃風邪薬を飲んで、手術時の麻酔薬を入れたかなどが詳細に分かるだろう。

取り敢えず記事のタイトルを「アブナイ世界の裏事情を少し」なんてつけてみたが、本当を言えば「アブナイ世界」が私達の慣れ親しんでいる世界の外側にある訳ではない。
実際、聞くと見るのじゃ大違い、という話の通りで、その場所に行って実情を知ると想像していた事と全然違った、という現実は多くて、世界が本当の意味で平等で公平になるには、今自分が知っている現実や習慣など取るに足らない程断片的なものなのだ、という認識が大切なのだと思う。
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# by catalyticmonk | 2018-06-12 00:57 | インド生活 | Comments(0)

神道とヒンドゥー教

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「日本の神道って女神が主神なのに、なぜ神道系の政治団体の人たちはあんなに女性蔑視の発言しているのか」という意見を聞いて思ったのだが。

まず神道の最高神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)、宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)の、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々・別天津神(ことあまつかみ)を云うので、彼らはいずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神)だ。

e0296801_00325556.jpgただ、国家神道は伊勢神宮が明治期に中心的地位を獲得したために、伊勢神宮主神の天照大神が国家神道の主神扱いされる趣を持ってしまった。
そして、伊勢神宮は、明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、すべての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされていて、戦後も、伊勢神宮が神社本庁の本宗とされている。

伊勢神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強く、現代でも内閣総理大臣及び農林水産大臣が年始に参拝することが慣例となっているなど、まさに神道と権力の癒着の根源はそこにあって、そうした俗世間的なカルト宗教であるからこそ、その主神が女神であっても、天皇家を中心とした権力主義が中核にあるので、女性の地位向上などには結びつかない、というところだと理解している。

日本の宗教界は江戸時代に世俗権力に整理されて、キリスト教への対抗として神道と仏教の二国教化政策が行われた。
思うんだが、そこで神道と仏教集団の社会的地位や経済的運営の安定が得られたと同時に、日本で本当の意味の宗教的精神性が骨抜きにされていった。明治政府の国家神道というカルト宗教が生まれ、それも太平洋戦争の敗北で実質終わるでしょう。そういった流れで、日本人は著しく精神的伝統の劣化した文化になっていると感じる。
そこの空白に支配的になっているのが、付和雷同で日和見的な事なかれ主義の世俗宗教「普通教」だ、という認識で私はいる。


e0296801_00490357.jpg私個人は母が幼少期にエホバの証人で、それとは関係なく自身で神を信じてきたのだが、自分が生まれ育った日本自体の精神的伝統の状況にも大きな疑問を抱いて、そこを俯瞰するためにインドまで留学して東洋思想を学びに行った。
あまりに私が反権威主義の頑固者過ぎてどこの集団とも着地点が見つからず、それを通して実質的に何かのポジションを得ることもなかったが、真に精神的な探求心は打算とは無縁なので、そういう路傍の石みたいな人生が時折存在するのも、これまた世の常だ。

インドでは仏教は衰退してほとんど一般社会に日常的影響を与えていないのだが、学校を辞めてから私が瞑想センターやヒンドゥー教の聖地巡礼をするなど精神的探検をしていた時分に感じたのは、ヒンドゥー教の寺院や聖地が、非常に日本の神社の雰囲気に似通っていたこと。

実際、ヒンドゥー教は神道と同じように天地の昔からそこにあって、教祖などはいなくて、多神教で、地域毎の土着の信仰が大小に発展し雑多にある。
それらを、取り敢えず西洋人が植民地支配にやって来た時に、イスラム教などの一神教と区別するために「インド人の宗教=ヒンドゥー教」と名付けただけの話だ。

ヒンドゥー教には、アジアの太古からの宗教精神が、神道のように国家権力に大規模に管理統制される事のないままに今日に残っている、といった印象を受けた。
故に、意外なまでの自分とヒンドゥー教世界の親和性の中に、自身の中に眠っている日本的な感性を再確認するような面があった。
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# by catalyticmonk | 2018-06-12 00:40 | 神道とヒンドゥー教 | Comments(0)

文化・生活環境と美意識の変動

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この間、代々木公園で開催されていたラオスフェスティバルで、ラオス人のコーヒー農場経営者のシーサイさんという方と知り合ったのだけれど、経営者と言うより看板娘かアイドルみたいな光りようで、正直驚いた。
だが、現地での出で立ちの写真を見たら、清々しいまでに別人。タイの農村部にでも普通にいる感じで、まさか煤けた顔に化粧をして綺麗な服を着させたらああなるとは、まず想像しない程のギャップだった。やっぱり女性は変身する生き物なんだなあ、と再認識。
逆に言えば日本人女性は西洋人にも人気だが、他のアジア人と比べてオシャレの威力で変わっている部分が大きいと思う。


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ネパールでポカラ盆地の農村部に行った時もカルチャーショックだったものだ。
物凄い若くて綺麗な女性が雨宿りしていた斜面の土をそのまま掘っただけの祠に来て、物々交換でバナナなんかくれるんだけど、その格好が衝撃的で。
ぼさぼさの髪に背中に背負った網篭、縄文時代の人みたいな衣服を着ているのだが、その服も顔も煤けていて裸足。
だけれど、その一枚の布しかない服の下には、若いアジア人の女性の肌があってスタイルもよく、ぶっちゃけ胸の谷間もモロ見え、そのぼさぼさの髪を縛って見えているうなじや精悍な感じの彫の深い美形の顔が、なんともエロティックだった。

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とにかく全部の設定が現代日本から来た私にはぶっ飛んでいて。
でも、ネパール内戦中で、周辺の山もマオイストが支配するエリアに入ると盗賊に遭うとか、そんな状況で、私自身も滞在中に細菌性赤痢になって寝込むなど、衛生状態も悪かったと思う。
当時のマオイスト達は......また思想云々以前の微妙な状態だったかも知れない。実際、内戦と言っても、要するに戦争状態だから、怪しい奴が突然自分達のエリアに入ってきたらぶっ殺すし、外国人で金持っていそうなら通行料金だ何だと言って盗賊の真似事もして資金源にする、一旦戦争になっちゃうとなんでもありなんだな、と思った。
だから、到底そんな浮かれた気持ちで徘徊出来る時期でもなかった。

日本の江戸時代の山村にでもタイムスリップしたかのような光景の人物が、目の前で生きていて、無造作な警戒心のない振るまいで外が土砂降りの中、狭い湿った土と草の匂いが充満する縦二メートルもない穴倉の狭い空間に一緒にいるのだ。呼吸の音まで聞こえてくる近さだった。あの圧倒されるような驚きを、どう言ったら伝え切れるものか。
警戒心がなかったのは、もう一人いたガイド役を買って出ていた地元人男性と顔見知りで、私が同じアジア人の顔だったからだろう。また、もし二人きりでも、籠に入れてある鎌でいくらでも自衛出来るくらいの自信はあったのではないか、あれだけワイルドな世界で暮らしている農民の女性なのだから。

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結局、人間はどこで生まれ、どんな成育環境と文化の中で暮らしているか次第で、見られ方、扱われ方が大きく変わる。
そのネパールの山村の女性も、もし同じ親でも日本の東京で生まれ育って、モデルにでもなったら、はっきり言ってとんでもなかったのではないか。だけれど、実際貧しいアジアの山奥の農民の娘で、着飾る事とも全く無縁の人生を送っているから、周りもなんとも思っていない。見向きもされていないのは、あの男性二人と狭い祠の中にいても全く動じていない様子から察するものがあった。

着飾っているから、変に性的に意識したり、警戒し合ったり、というテンションが高くなる、というのが現代の文明社会だと顕著にあるとも思う。
本来、着飾るのって、お祭りの時とか公式の特別な機会にドレスアップするくらいなものだったのだが、文明社会、分けても日本なんか特に、普段の生活からラフな格好はしないで着飾っているでしょ。それは、やっぱり不自然な状態ではあると思う。個性の自由というのはあるし、渋谷の街は、ああいうまた特殊な文化だから、そういう多様性の一つとして面白いんじゃないか、とは思っているけど。

e0296801_17594383.jpg本来の人のあり方を目の前に示されているような場面に、過去多少なりとも触れた私の視点で今の先進国日本の、特に東京なんかでの人間関係のピリピリ感を目にしていると、ナンセンス、の一語だ。
それこそインドの乞食の娘だって、顔だけ見たら日本のタレントで言えばローラみたいな顔の子供がゴロゴロいた。でも、乞食の子供だと思って誰も近寄りたがりもしないし、どうにかしてそれがピカピカに着飾らされると、急にまたみんなチヤホヤする。

「美」というのは性とつながっている点において、子孫繁栄・血統の問題とも根深く通底しているが、我々すべての人間の祖先だって、みんな猿みたいなところから出発して、今の自分に至るまでの何百万年もの間には、略奪・暴行・飢餓・極貧、一通りの修羅場は経験してきたはずだ。本当の意味で高貴な血筋なんてものはどこにもない。
その中でも、ふと気付くと聡明さを身に付け、人間らしい振る舞いをし、新たな文化を生み出して、また、その出で立ちに美を漂わせたりする。

命の輝きとありようそのものが、そうした自由で平等なもの。
文化・生活環境と美意識のありようなんて、そんな茫漠としたもの。
それが世界の現実だというのを、素朴なアジアの農村文化の空気が濃厚に発散されているラオスフェスティバルに行ったのをきっかけに、また改めて再認識したのだった。

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# by catalyticmonk | 2018-05-31 19:49 | 忘れ物 | Comments(0)

目的追求と和やかさの折り合い

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訳の分からんイカレポンチで軽薄な人種とはいるものだ。
私は遊びやボランティアじゃない時は、パワハラなんてせず迷わず最速で切る。
しかし、これをやりにくい世界もある。
付き合い、建て前、人手不足。別々の道を簡単に行けないしがらみも軋轢の温床。大概そこを抱えたままぐずぐずになる。

簡単に切れない理由は色々だ。
惚れちまった男がダメ人間とか、心に闇を持つ女性とか、本人が好きだと言っているものを、況してや子供もいたりして経済的問題もあるとか、他人が簡単に別れろとも言い難い。
市民運動も、人権とか弱者救済とかが建て前だと、明らかに困った人物が増える。どう考えても人格的におかしな奴でも、同じ意見に賛同している参加者だったり、通り一遍の事は一応の正論を唱えていたりすると、お前なんかあっち行け、とも表立って言いにくい。
でも、考えてみると、そういう世界は決まってドロドロする。

労働者の権利を守る、と言うと聞こえはいいが、実際に働かせてみたら、どう考えてもそいつがいると迷惑、としか言い様のない人間もたまにいる。簡単に切れない。すると、中で揉めたり、いじめやパワハラに発展しやすい。
何が本当にお互いのためなのか。いつも簡単には割り切れない部分だ。

なんなら、私こそ使えない不器用人間の見本だろう。だから、極力なんでも自分一人でやろうとして、人にお荷物扱いされまいと生きてきた。人に助けてもらうと、私の器量ではその義理を返したり、責任を果たす重圧があまりにも許容量オーバーで消耗してしまうので、こんなくらいなら最初から助けてもらわない方が楽だ、とある時から思うようになった。
自分も不器用な癖に、依頼心の強い調子のいい相手には冷淡なのは、そのためだろう。不器用者の同胞を助けるのはやぶさかでないが、小狡さでそれを補っている奴の面倒を見るほど暇でも余裕があるのでもない。

とにかく、優先すべき目的がある時には綺麗事なんて言っていられない。
でも、だからと言って、そこでギスギズし過ぎても不毛だし、多くの人の失望を生む。やはり、優しさは欲しい。
和やかさが意欲を喚起継続させる源だったりもする。

みんな、自分に余裕がある時には、そういう部分も寛容にやっていられるんだよな。
きつきつの競争が目の前にあるとそうは言っていられない。職人気質な世界がそうであるように、完成度を真剣に追求している世界が厳しくなるのも、ある程度は仕方ない事なんだ。

でも、世の中全部が、いつも逃げ場なくあくせくしていると、もう生きている事自体がつまらなくなる。だから、日本では自殺者が多い。いじめもまた多い。

ある程度、各々がその目的とする所を自由にやって、またいつもギリギリでない、ユルい逃げ場も傍らにある世界、そういうのが程よい調和の取れた世界で、「社会」という単位で動く時に目指していく地点な気がする。
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# by catalyticmonk | 2018-05-23 23:57 | 忘れ物 | Comments(0)

誰もが特別な存在だ。

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彼らは事実を知らないだけなので怒らない。そんな、こちらの体験をまた長々繰り返し説明するのも疲れるだけ。
彼らの気持ちや発想を想像して、自分自身の感情的な悔しさを抑える、という事を覚えないと不毛なのだと学んできている。
ただ、そういう事実関係を知らない人間が、安易にこちらの困る個人情報を厄介な相手に提供してしまう可能性があったり、やはり早合点や思い込みで行動する人物は現実問題として非常に困る事が多いのだが。
だから、自分自身で用心してケアするしかない。何かにつけて人と違う境遇だと孤独なのはそういうところ。

平凡な、人と同じ境遇であったなら、人と同じ事を喜び悲しんで思いを共有し合い、気持ちのうさを晴らすのも簡単な人生だっただろう。
困った時に恐怖や緊張感に満たされながら自分一人で解決策を模索しなくても良かっただろう。
つまらない誤解を数多く人から受けないで生きられただろう。
もっと楽しく笑う事の多い人生で、友や仲間を得る事もずっと簡単だっただろう。
もっと悪夢にうなされないで、安らかな気持ちで眠られる日々が送れた事だろう。

でも、こういう人生だったから、私には自分自身で考え抜き、困った出来事をその場で処理する能力が身に付いた。頭の回転も遅いし、人一倍不器用でも、そうするしかなかったので、ユニークな工夫や能力を開発する事にもなった。
何より、自分とは違う相手を安易に敵視しないで角度を変えて眺める柔軟性と、弱い者いじめをしない性格が身に付いた。基本は、そんな温厚でも、立派な人柄でもないんだが、弱っている人は助けたい、という感情が自然と湧いた。
これが、私の持っている人生の財産だ。

誰もが、特別な存在だ。しかし、自分自身で自分が特別な存在だ、と心底信じられないと、他の者が特別である事を実感出来ない。そうやって生きている世界が陳腐で精彩の欠けたものになっていく。
自分や自分達だけが特別だと思っている人間は了見が狭く、だからこそ陳腐だ。
きっと生きている間に私が人並みな幸福を味わう日は来ない。でも、死ぬ時には神が私を見放す訳がないのを、私自身が他の誰より知っている。
私が自信と誇りを失わないで生き延びて来られたのは、まさに神を信じているからだ。
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# by catalyticmonk | 2018-05-16 01:50 | 忘れ物 | Comments(0)

正直、準備はまだ出来ていない。

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まず、癌や免疫不全の病気、突然死する人が多過ぎるんだけど、これ、一体全体どうなってんのさ、本当に。
でも、もう病気になってしまった人に関してはそれどころですらないよね。

別に自分の身を儚んでいるのでもなくて、身の回りで病気する人は多いからさ。
自分の時はどうしていたんだろう、どうしてもらえれば嬉しかっただろう、って自然と考えるんだけど、実体験としては最後のところでは神に委ねよう、って祈りの気持ちだけで、後は治療と目の前にある身体的な苦痛を日々乗り切る事しか頭になかったな。

でも、そこはあまり人に直接言えない次元だしね。別に私はどこかの宗教団体に属しているのでもなく、普通に子供の頃から神様を信じているだけだし。
いいんだよ、別にそこは。一人一人の人間がいざと言う時に希望や癒し救いを感じられる社会環境であれば、社会の大半が仏教でも無神論でも有神論でも問題なくて、後は最終的に個々人の思想信条と信仰の自由があるだけだから。

でも、この社会では、精神的な文化が実質的にほとんど機能していない。
どんなにお金持ちで地位や名誉を持っている人でも、いざ自分の命が弱った時に、いきなり急に何の心の支えもなくなって、家族がいる人でもみんなが右往左往する。
日本は物質的にこそ豊かで文明先進国とされているけど、そういう生死に関わる一番肝心要なところに、何の準備も出来ていない変な世界なんだな、って自分が病気してから改めて凄く実感した。

結局はなんか一番最後に行った病院が、純粋に最先端治療に特化した機関ながら、医療行為にお金儲けだけではない確固たる情熱と、患者への真摯な思いやりが医療スタッフ全員から感じられる優秀なプロ集団だったから、私自身はそういう現実的な技術と巡り合わせの運の強さで命拾いしたんだけどね。

一つ言えるのは、信頼出来る医療機関だと、患者も痛みに耐えて頑張って治療しよう、と前向きに思えるから、余計に治りやすいと思う。
だから、妥協しないで信頼出来る医療機関を探す努力はした方がいいし、結局人は、人から与えられる励ましや優しさが、困難に直面した際に生き抜くための一番の意欲の源になるんだ。そこは永遠の真実だろうね。

いや、私なんて励ましてくれる家族も恋人もいないものだから、ナースが天使に見えちゃって、見えちゃって。
回診に女医さんが来ると大喜びで、凄い激痛なのにベッドから跳ね起きて声も弾んだりして、「あ、ゆっくりで大丈夫ですよ」とか言われちゃって(実話)、宥められている犬みたいだったよ。そんな言葉にすら喜んでいたから、どうしようもないね。
だから、構ってくれる人のいる病院から退院して一人暮らしの家に帰るのは、好きな音楽をゆっくり聴ける、という事以外は嬉しくなかったかな。
でも、大真面目な話が、そういう自分から救いを求めていく図太さも快復を早める重要な鍵な気がする。

取り敢えず私自身は当面助かったんだけど、他の病気の人を見ると、たまたま自分は運良く助かっただけで、あの時に解決出来なかった問題はたくさん今もなおこの社会の中で続いているんだな、それを残された時間の中で少しでもモアベターな答えを探さなきゃいけない、って他人事でもなく身につまされるんだな。
一度でも大病を患ったら、同じ事を感じる人は多いんじゃないかなあ。

私はまだそういう部分での心の準備は出来ていない。だけれど、それは私一人や、病気している人達個人個人の心の問題だけではなくて、原理的に考えてもこの社会全体の命の現実に対して準備出来ていない部分であり、課題と捉えるべきなんじゃないか、って思うんだよね。

誰もがいずれ必ず直面する問題を全部個人個人に丸投げしている社会って、社会として秩序立てる権限の根拠を放棄していると言うか、実質破綻している気がする。
生きている間の権力とか、お金儲け、束の間の享楽に我を忘れ過ぎて自分で自分の首を絞めている放蕩者、そんな社会になっているからこそ、多くの人が健康を弱らせたり、生涯の終わりに近付いた時に、夢の国から厄介者払いされるような形になるのではないのか。

原子力発電所は、もう爆発してしまった。
私達は汚染後の世界で生きている。
だけれど、未だに政府は原発を廃炉にすると言わない。これが放蕩者に支配された夢の国の現実だ。

でも、誰にとっても生きている命は限りがあって、壊れやすいもので、元気に放蕩の限りを尽くしていられる者の幸せだけを考えていればいいはずもないんだよ。一部の人間の放蕩のために、多くの命が追い詰められる社会なんて、なおのことおかしいからね。

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# by catalyticmonk | 2018-05-16 01:36 | 希望社会 | Comments(0)

ナンパ

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私は昔から自分はナンパをしない、と言っているのに、それってナンパじゃん、とよく言われる見解の相違について。
私は何かの目的で誰かと無理に仲良くなろうとはあまりしないし、そうしなければならない時はあるが、それを本心としては好まないので、ナンパなんてする訳がないのだ。

ただ、誰であっても、極力分け隔てなく気さくに接しようとはしているので、逆に異性にでも実に気軽に話し掛ける。それが、ある種私のポリシーでもある。
それで話してみたら結果的にウマが合う事も当然あっただけの話だ。
また、広義に解釈した場合の「ナンパ」にも同様の弊害が付いてきやすく、これが相手が異性でなく、高名な人であったり、何らかの地位・資産を持つ人物であった場合にも、色々と邪推されやすくて非常に面倒臭い。
後になって相手から私が最初から口説きに来たと認識していた、と聞かされた事も。

私は虐待家庭で育った影響が大で、人から「支配」される事、また誰かに自分が媚びる事が大嫌いだ。
自分がその相手に媚びを売っていると認識されるという事は、相手の意識の中である種の優位性が関係の始まりに意識される。
私にはそれがどうにも我慢ならないので、地位のある人や、他の人が羨むような美女と親しくなっても自分から距離を置く、というパターンは少なくない。私的には「冗談ではない、こっちはそんな誰かに媚びようとする人間ではない!」という感じなのだ。たまたま仲良くなった相手が有名人だったり、或いは前科者であっても、その人自身と人間同士としてフラットに関わりたい。
ここが私が気難しくてひねくれている、と見なされる、或いはそれ以上に真意が誤解される大定番の方程式なんだが、改めるつもりは全くない。

私からすると、なんと世の多くが浅ましく権威主義的で、何かの地位や権力にすがり媚びる連中の多い事か、と感じている。
名誉とか対人関係でない、お金やあまり主観的でない事柄が目的の場合には、私でもドライに割り切って、世渡りの技術やサバイバルの必然性から、そういう価値を利用する場合も当然ある。
しかし、どこまでいっても、それを自分自身の内面的な価値としては全く重んじていない。魂は売らないのだ。そこに、自分の生きる尊厳を支える誇りがある。

ところが、それがその人のステイタスだったり、自他の優劣を計る物差しだったり本気でしている人が日本社会ではやたら多く常態化していて、人々がそこに臆面もないから呆れている。
媚びへつらう事や、媚びへつらわれる事に自分の価値があるなんて、私には考えられない事だ。誰かを信頼し愛し合う事よりも、そんなものが重要な人生なんて寂しいではないか。

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# by catalyticmonk | 2018-05-12 18:01 | 人間の尊厳 | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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