ムルガン様

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今回の記事は、2013年秋に見た自分の夢とその数年前の現実の記憶が交錯するという、内容を追う上でやや紛らわしい構成になっている。
もちろんそれは私の能のなさによるが、こうした形でしか私は自分の中に根付いているインド世界から受けた影響の実際を、心理状態に即したものとして書き表すことが出来ないように感じている。
なので、今回の主題はそうした性質のものであることを予め断らせていただき、己れの至らなさを懺悔したいと思う。


夢。
e0296801_251326.jpg私はまたインドにいる。私は庇のついた屋台のような建物でインド人家族と歓談している。目の前には川が見えて、周囲は何処となく古い町並みに感じる。
私はたまたまの流れで簡単な読心術を家族の前で披露する。ヤマカンか状況を読んでか、自分でも判然としない感じで、しかしかなり具体的かつ正確にズバリ相手の行動や考えが読めてしまう、ということが私にはたまにある。
その家族の、そう若くもない知的障害者らしき娘が、片言のヒンディー語と英語で私に話し掛けて来る。

最初、ヒンディーの拙い私は娘とのやり取りがスムーズにいかなかったのだが、それでも段々意思疎通が可能になって来た。どうも彼女は私が先ほど家族の前で読心術を披露してから何か思うところがあってこちらを注視していたらしかった。そのことがあやふやな会話を通じてなんとなく伝わって来る。
そして彼女はシヴァがどうのこうのとしばらく不明瞭にごにょごにょ言った後で、唐突にムルガンダ、と言い出す。

もし、彼女が言おうとしたのが「ムルガンダ・クティ寺院」のことならば、それは仏陀が悟りを開いた後、最初の雨季を過ごしたとされる場所に建てられた、サールナートにある寺院のことだ。夢の中のその川がある古い町が仮にバラナシであればサールナートとは距離的にも近いし、おまけに私は仏教徒の多い日本人。彼女が話の引き合いに出しても不思議ではない。
しかし、私は咄嗟にムルガン神とスカンダをごちゃ混ぜにして言っているのだろう、と推測した。ムルガン神とスカンダは同一視されているからだ。そしてムルガン様はシヴァ神の息子。彼女の事前の発言とも符合する。

e0296801_01300242.jpgスカンダはヒンドゥー教の軍神で、戦争以外はあまり考えていない上、女性すら近付けず、自分の神殿に女性が入ることすら拒む。カウマーリまたはデーヴァセナという妻・パートナーがいる場合もある。
ムルガンとは「神聖な子供」という意味で、元々はドラヴィダ系民衆が信仰する土着的な山の神だった。現在も南インドのタミルナードゥ州などで盛んに信仰されている。無類の強さを誇る山の児童神だ。
何の変哲もない子供の姿をしているため、油断してやられてしまう悪魔も多い、というのがこの神様の基本設定。ムルガンは孔雀を連れていることが多く、そのためスカンダと同一視される。

「ムルガン?」
私が彼女にそう確認すると、彼女は我が意を得たり、といった感じで同意してうなづく。そして急に滑舌が明瞭になってきて驚くべき発言をし出す。
「お前は今、ムルガンと共に旅をしている。そして、それを彼は楽しんでいる。お前は今『ダブル』だ。」
衝撃的だった。夢を見ている私は一人でガーンとなっているわけだ。
実は私は、12年ほど前からそのムルガン神という南インド土着の神様に纏わる様々なエピソードを体験して来ていた。


タミルの山にはムルガン神の立派な寺院があり、民間の宗教画にはよく山の上に立つムルガンの姿が描かれる。
12年前、スリランカ南部のウナワトゥナという沿岸の町を訪問した際に、突如夢枕にムルガン神に立たれるということがあった。彼は一言も言葉を発しないのだが、私の夢の中のいろんな場面に何の脈絡もない感じで闖入してきては佇んでいる。
その感じがなんとも名状し難い面白みと魅力、インパクトがあったので、以来、急激にその児童神に親近感を覚え出し、アイドルのポスターを買い漁るファンの如く行く先々で彼の神様ステッカーやポスターを集め出すように。
尚且つなぜか私自身が、道行く南インドの現地人に「ムルガン、ムルガン」と騒がれるという珍妙な出来事が度々続いた。
それで自己暗示にかかるほど自分が単純な性質であるとも思っていなかったのだが、どういうわけだか時々自分にムルガン神が乗り移ってきたような変な感覚に襲われることまで起こってきてやや当惑。道行く人になぜ私のことをムルガンと呼ぶのか直接理由を尋ねてみたこともあるのだが、どうも一昔前に普及していたムルガンのポスターの風貌と私がそっくりであるというのが主たる原因のようだった。
それで徐々に好奇心を抑えられなくなってきて、気が付けばとうとう南インド各地のムルガン寺院を巡礼し始めるまでに。

e0296801_01452496.jpgそこまでの行動に至ったのも数々の偶発的な出来事に促された結果であって、どうにも奇妙な具合だった。
例えばマドゥライの軽食屋でたまたま知り合った現地人から頼んでもいないのにムルガン寺院のある聖地までの行き方を懇切丁寧に教えられて、最初はいきなり初対面の相手に聞いた情報だし、互いの会話自体も片言の英語しか話せない現地人と、タミル語の話せない図々しい来訪者である私との間でなされたあやふやなものだったのでリスクを鑑み尻込みしていたのだが、相手があまりに邪心のない素朴そうな感じで、ニコニコ微笑みながら神の御告げの如く決然と勧めてくるので、何か強く心を動かされるものがあって思い切って行ってみると、そこでまた次の場所へ行く情報が向こうからやって来る、といった調子。

「え~、ウソでしょう?!」と目を丸くしてしまうような出来事の連続だった。
まあ、ただ、こういうのはインドにいくらか行ったことのある人ならば、誰しも多かれ少なかれ身に覚えのある種類の経験だとも思う。いろんな出来事が絶えず重層的につながっている日常、とでも言えば良いのだろうか。

ムルガン神信仰の総本山であるパラ二を訪問した際にもトントン拍子の展開だった。
感じるところがあって描いた自筆の絵を奉納しに行ったのだが、そのことを寺院の神官達に伝えたところ、どういうわけだか即ちょっとした騒ぎになって、なんと得体の知れない外国人である私が何時間と並んでいる他の参拝者の大行列を尻目に、御神体のある本殿まで直行で通されて参拝させてもらえるという厚遇を受けることに!そこは山丸ごと一つの大寺院の深奥であって、当然現地の一般参拝客でも入れない。

根がチキンな私は、石造りの荘厳な神殿の仄暗い奥へと連れて行かれる途中、内心、一瞬本気で走って逃げ出してしまおうかと考えたほどだ。今から振り返ると、何か得体の知れない事態に巻き込まれつつあることへの本能的恐怖だったのだと思う。
__でも、ダメだ。もう今さらどうしようもない。そんな冒涜行為が許されるはずもない。誰に対して?異国の神様に?この場所にいる周囲の人達に?自分自身のプライドに?
はっきりとは分からなかったのだが、とりあえずそれらすべてに該当してしまう気がした。覚悟を決めて臨むしかないようだった。しかし心臓の高鳴りは止むことがない。
そしてそんな私の期待を裏切らないかのように、あろうことか本殿の御神体の前にはロウソクの炎に照らし出された神憑りの神官がバキバキの眼つきでいて、その人物がまた物凄いのだ。
タミル語を解さない私には何を言われているのか明確に分からなかったのだが、それでもトランス状態の神官の抑揚のあるボディーランゲージと分かりやすいセンテンスの連呼はまさに言語の壁を乗り越える力があって、あれこそシャーマニックとでも呼べばいいのだろうか、神秘を肌で感じる体験だった。
ムルガン神がスリランカで私の夢枕に立ったことや、私がムルガンと呼ばれババジー(賢者・聖者)扱いされたこと、ヒマラヤでとある女神に会ってきたこと、私のそれまでの人生のあらましなどを彼がかなり具体的に次々言い当てているのがはっきり確認出来た上に、そもそもその祝祭的で猛烈な祝福の仕方は、もう理解どうのこうのを必要とする次元ですらなかったのだ!

も、もう降参です。煮るなり焼くなり好きにしてください!私は御神体の前にひれ伏した。
そして、頭上からザバザバと夥しい量の聖水を浴び、豪勢な花の首飾りを掛けられた私が本殿から表へ出ると、予定調和的な流れだが、スーパースターが登場したかのような凄い注目の的に。現地の人達から次々記念撮影をせがまれることになり、一列に並んで参拝客の団体様ご一行と写真を撮ったりして、なんだかよく分からなかった。

これはあなたが信じようが信じまいが全部実話である。


e0296801_146965.jpg夢の続きに戻る。
私がその知的障害者の女性を、途中からある種の神憑り的な人物として見做し出したのは、ここまでの過去の実体験の経緯説明によって理解してもらえると思う。パラ二で会った神官のような種類の人間の言葉として、私は彼女の発言を傾聴し出す。
ひょっとしたら「ムルガンダ」という言葉にも複合的な意味合いがあるのかも知れない。トランス状態や譫妄状態の人間が言葉を扱う時には、瞬時にそういう掛け言葉のようなひらめきを含んだ重層的な内容の会話をぽんぽん繰り広げてくる、ということがままあるからだ。
彼女は続けて言う。
「お前はやがて『ゲットー』に行くことになる。それをムルガン様も理解されている。」

ゲットーだって??
ゲットーと言えば元来はユダヤ教徒を強制隔離した一定の居住区をいうが、これを一般化して少数者集団が密集して居住する地区について用いられることもある。
アメリカで言えばスラム街(貧民街)というより、暴力や犯罪がはびこる危険地帯、といった意味合いの方が強い。現在のアメリカ人の平均寿命は大体79歳くらいとされているが、ゲットーの平均寿命は35歳程度だという話もある。
何にせよ不安に駆られる話ではある。だから彼女にその私が将来行くゲットーはどんな所なのかと聞いた。すると唐突に片言の日本語で返答が返ってきた。
「サッムイ〜(寒い)場所。」
そう言って彼女はふふふふふと笑った。

e0296801_1425438.jpg日本は私にとって十分北の国に感じる。況してや、その夢を見た季節はこれから落葉の季節になる頃だった。南インドに住まわれるムルガン様ならさぞや寒い土地と感じられることだろう。そもそも人類の祖先は元々熱帯地方のジャングルの中にいた猿なのだ。
ただ、自分が四季のある日本の環境に生まれ合わせたことを特別不運だったとも思ってはいない。人類は疫病や競合動物の多さから頭打ちだった故郷アフリカを出てユーラシア大陸へと進出する過程で新たなニッチ(生態的地位)を獲得して飛躍的に発展した存在なのだ。だからいくら南国趣味の私であっても、人類が今日世界中に住み広がっている現象自体を変なことだなどと言うほど野暮ではない。
さりとて今、私は自分にとっては結構「寒い場所」の大都会の片隅で、比較的この国のマイノリティの側に立って暮らしている、というのは紛れもない現実で、そこの部分を拡大解釈して言うならば確かに「ゲットーのような環境」にすでにいる、と言えなくもないし、「それをムルガン様も理解されている」というのなら、何か励まされないでもない。

なるほど、そうか。
何かいたずらっ子みたいな茶目っ気さえ感じる言い回しではないか。やはり夢に登場した彼女もあの児童神に仕える者だったのか、なんてアニミズム的思考で考えてみたりした。
しかし、私が帰国後に恋人との入籍・離婚・がん闘病と、なかなか壮絶な人生体験をしたのもまた事実である。

私が勝手にこうした夢を見たのであっても、児童神ムルガンに関わる出来事はインドでも毎回なぜか今回の夢と同じような、ユーモラスでトリックスター的なトーンで起きてきたのも事実で、だからこそ今でも時折このような形で夢を見るのかも知れない。
インド的なものが自身の人生の中に徐々に浸透してくると、個人差はあれど皆いくらか似通った文化的・精神的同化作用の体験をするとも思う。

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# by catalyticmonk | 2018-06-12 02:08 | インド生活 | Comments(1)

アブナイ世界の裏事情を少し

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インド北部にあるヒンドゥー教の聖地バラナシに、日本人バックパッカーの伝説的な安宿「久美子の家」がある。約40年前にインドに渡ったガンゴパダヤイ久美子さんが経営している。
最近は、日本人旅行者の減少で中国や韓国の青年も主要客だそうだ。
しかし、宿の人気者だった夫のシャンティさんは2017年の1月16日に死去していた。

日本人のバックパッカーの聖地だったかも知れないけど、私は27年前の1991年に行った時、シャンティさんに面接されて宿泊拒否されたんだよな。
シャンティさんに日本語でこう言われた。「あなた、ガンジャ(大麻)吸って何年になりますか?」

私はドラッグをやらない旅行者だった。だけれど、その前に初めてのインド旅行でマラリアに罹り、バラナシで一ヶ月死線を彷徨っていたのだった。
その若干19歳ながら幽鬼のように瘦せ衰え憔悴した私が、日本人宿の噂を耳にし、少しでも楽な環境で静養出来るように、と宿泊を試みたのがその時だった。

e0296801_11594994.jpgだから、私にとっては随分無慈悲で残酷な誤解だったのだが、もう時間が経ったからすべて話していいだろう。
インドを訪れる旅行者、特に貧乏旅行者は、その大半が大麻などの麻薬に手を出す。バラナシなどの聖地では合法で、政府公営のガンジャショップ(大麻販売店)があるくらいだったから違法でもなく、仕方ないと言えば仕方ない。
お祭りの日には警官が道端で大麻入りのヨーグルトジュースを飲んでいるような土地だったのだ。日本人がお祭りの日や正月などに神社の境内でお神酒を飲んでいるのとまったく変わらない性質の事柄だ。

しかし、合法・非合法の境目は微妙で、インドの中央政府的には公営店以外で一般大衆が外国人旅行者などに密売しているのを取り締まりたかった。
そこに外国人旅行者、分けても海外旅行慣れしていなくて不器用な若い日本人旅行者が集まる久美子ハウスは、宿泊した人から何度も聞いたが、中ではシャンティさんや久美子さん公認で堂々と大麻を吸っていたし、密売人との交渉・トラブル諸々で地元マフィアが支配するバラナシで他のインド人から目の敵にされ、何度も警察ががさ入れに入り、久美子さんも拘留されて、精神を病んでいたりしたそうだ。

だから、私がたまたま訪れた頃には、ちょっと嗜む程度ではない、危ない薬物中毒患者みたいな旅行者は面接で振り分けて宿泊拒否していたらしい。
繰り返すが、私は全くやらない人間で、重い伝染病に罹って異国の地で闘病して衰弱していたところ、その姿が怪しいジャンキーに見えてしまったという話だ。病人をそんな視点で解釈する事自体、如何にバラナシがそういうものに溢れているかの証左なのだったが。

しかし、おかげで私は若い時分に海外を放浪する中でいち早く母国日本人集団と離れ、他の地元の人々やインドなどを旅する西洋人旅行者の集団の中に飛び込む事が出来た。
なにしろ、特に疫病に罹って病気をして弱っている間に母国の人々のいない緊急事態に陥ったのだから、生き残ろうとする動物の本能が最大限に発揮された。特別な語学勉強など何もしていない無学な私が無国籍風な人種に飛躍する大きなきっかけになったのが、あの19歳の時のインド・バラナシでの闘病期間だった。

そんな訳で、私は実のところインド絡みで自国民の有名人の裏話をたくさん知っている。
ただ、暴露する気は一切ない。それは、インドの歴史を知ったからだ。

インドでは古来宗教的にお酒がタブー視されていた。自然に自生している大麻や阿片などを民間で嗜好品として嗜んだり、宗教儀式に取り入れる、という事は長い歴史の中でされてきた。
しかし、西洋人がインドを侵略し支配するようになると、徐々に彼らの価値基準を強制するようになった。日本人がお酒を飲むように、嗜好品として民間で大麻を嗜む環境があったのが、力の強い異国の支配勢力の価値観によって制約を受けるようになり、代わりにタブー視されてきたアルコールが入ってくるようになった。

しかし、民間信仰の次元にまで浸透している様々な習慣は、インドの民衆すべてを西洋の一神教に改宗でもさせない限り完全には変更出来ない。
それで長い間、西洋の大国が国際政治をリードする中で玉虫色に黙認されてきた、という実態がある。

e0296801_12015503.jpg体と精神を蝕む、という観点からしたら、お酒も同じようなものだ。ただ、それぞれの文化の習慣と歴史が違ったというだけ。しかも、その中で、西洋の列強に侵略されたインドが、自国の文化を妥協するような形まで強いられてきた。
しかし、現在では「経済効果」の面で国際的に大手を振って商売に出来るアルコール産業と、色々な圧力を受ける文化とでは、受けられる社会的庇護も桁違いなので、インド中央政府の開発至上主義の方針と共に駆逐されているらしい。

そうした経緯を踏まえると、インドの環境の中でそうしたものに近付いた同国人を非難するのもおかしな事のように感じる。日本の基準をインドの中にまで持ち込んで「いい・悪い」と騒ぐのは、如何にも横暴な理屈だからだ。

ざっくり言えば、嗜好品はコーヒーでもお酒でも大麻でも阿片でも、すべて身体を少しずつ麻痺させて陶酔感を得ようとするものであり、その観点から言えば健康上は全部良くない。これが真実だ。
ただ、それでも人間は何かしらの息抜きをそれぞれの生活の中に取り込もうとする。それが行き過ぎるのはやはり何事も良くない、そういう話だ。

ただ、こういう事を堂々と言える人は少ない。事情を知っている人の大半が、自分達でも大麻などを嗜む人達だから、日本で言えないのだ。
私は全くやらない人間なので、敢えて微妙な現実でも語れる、というだけだ。嘘だと思うのなら私の毛髪を検査すればいい。私の髪の毛は長いので、何年も遡っていつ頃風邪薬を飲んで、手術時の麻酔薬を入れたかなどが詳細に分かるだろう。

取り敢えず記事のタイトルを「アブナイ世界の裏事情を少し」なんてつけてみたが、本当を言えば「アブナイ世界」が私達の慣れ親しんでいる世界の外側にある訳ではない。
実際、聞くと見るのじゃ大違い、という話の通りで、その場所に行って実情を知ると想像していた事と全然違った、という現実は多くて、世界が本当の意味で平等で公平になるには、今自分が知っている現実や習慣など取るに足らない程断片的なものなのだ、という認識が大切なのだと思う。
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# by catalyticmonk | 2018-06-12 00:57 | インド生活 | Comments(0)

神道とヒンドゥー教

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「日本の神道って女神が主神なのに、なぜ神道系の政治団体の人たちはあんなに女性蔑視の発言しているのか」という意見を聞いて思ったのだが。

まず神道の最高神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)、宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)の、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々・別天津神(ことあまつかみ)を云うので、彼らはいずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神)だ。

e0296801_00325556.jpgただ、国家神道は伊勢神宮が明治期に中心的地位を獲得したために、伊勢神宮主神の天照大神が国家神道の主神扱いされる趣を持ってしまった。
そして、伊勢神宮は、明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、すべての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされていて、戦後も、伊勢神宮が神社本庁の本宗とされている。

伊勢神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強く、現代でも内閣総理大臣及び農林水産大臣が年始に参拝することが慣例となっているなど、まさに神道と権力の癒着の根源はそこにあって、そうした俗世間的なカルト宗教であるからこそ、その主神が女神であっても、天皇家を中心とした権力主義が中核にあるので、女性の地位向上などには結びつかない、というところだと理解している。

日本の宗教界は江戸時代に世俗権力に整理されて、キリスト教への対抗として神道と仏教の二国教化政策が行われた。
思うんだが、そこで神道と仏教集団の社会的地位や経済的運営の安定が得られたと同時に、日本で本当の意味の宗教的精神性が骨抜きにされていった。明治政府の国家神道というカルト宗教が生まれ、それも太平洋戦争の敗北で実質終わるでしょう。そういった流れで、日本人は著しく精神的伝統の劣化した文化になっていると感じる。
そこの空白に支配的になっているのが、付和雷同で日和見的な事なかれ主義の世俗宗教「普通教」だ、という認識で私はいる。


e0296801_00490357.jpg私個人は母が幼少期にエホバの証人で、それとは関係なく自身で神を信じてきたのだが、自分が生まれ育った日本自体の精神的伝統の状況にも大きな疑問を抱いて、そこを俯瞰するためにインドまで留学して東洋思想を学びに行った。
あまりに私が反権威主義の頑固者過ぎてどこの集団とも着地点が見つからず、それを通して実質的に何かのポジションを得ることもなかったが、真に精神的な探求心は打算とは無縁なので、そういう路傍の石みたいな人生が時折存在するのも、これまた世の常だ。

インドでは仏教は衰退してほとんど一般社会に日常的影響を与えていないのだが、学校を辞めてから私が瞑想センターやヒンドゥー教の聖地巡礼をするなど精神的探検をしていた時分に感じたのは、ヒンドゥー教の寺院や聖地が、非常に日本の神社の雰囲気に似通っていたこと。

実際、ヒンドゥー教は神道と同じように天地の昔からそこにあって、教祖などはいなくて、多神教で、地域毎の土着の信仰が大小に発展し雑多にある。
それらを、取り敢えず西洋人が植民地支配にやって来た時に、イスラム教などの一神教と区別するために「インド人の宗教=ヒンドゥー教」と名付けただけの話だ。

ヒンドゥー教には、アジアの太古からの宗教精神が、神道のように国家権力に大規模に管理統制される事のないままに今日に残っている、といった印象を受けた。
故に、意外なまでの自分とヒンドゥー教世界の親和性の中に、自身の中に眠っている日本的な感性を再確認するような面があった。
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# by catalyticmonk | 2018-06-12 00:40 | 神道とヒンドゥー教 | Comments(0)

文化・生活環境と美意識の変動

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この間、代々木公園で開催されていたラオスフェスティバルで、ラオス人のコーヒー農場経営者のシーサイさんという方と知り合ったのだけれど、経営者と言うより看板娘かアイドルみたいな光りようで、正直驚いた。
だが、現地での出で立ちの写真を見たら、清々しいまでに別人。タイの農村部にでも普通にいる感じで、まさか煤けた顔に化粧をして綺麗な服を着させたらああなるとは、まず想像しない程のギャップだった。やっぱり女性は変身する生き物なんだなあ、と再認識。
逆に言えば日本人女性は西洋人にも人気だが、他のアジア人と比べてオシャレの威力で変わっている部分が大きいと思う。


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ネパールでポカラ盆地の農村部に行った時もカルチャーショックだったものだ。
物凄い若くて綺麗な女性が雨宿りしていた斜面の土をそのまま掘っただけの祠に来て、物々交換でバナナなんかくれるんだけど、その格好が衝撃的で。
ぼさぼさの髪に背中に背負った網篭、縄文時代の人みたいな衣服を着ているのだが、その服も顔も煤けていて裸足。
だけれど、その一枚の布しかない服の下には、若いアジア人の女性の肌があってスタイルもよく、ぶっちゃけ胸の谷間もモロ見え、そのぼさぼさの髪を縛って見えているうなじや精悍な感じの彫の深い美形の顔が、なんともエロティックだった。

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とにかく全部の設定が現代日本から来た私にはぶっ飛んでいて。
でも、ネパール内戦中で、周辺の山もマオイストが支配するエリアに入ると盗賊に遭うとか、そんな状況で、私自身も滞在中に細菌性赤痢になって寝込むなど、衛生状態も悪かったと思う。
当時のマオイスト達は......また思想云々以前の微妙な状態だったかも知れない。実際、内戦と言っても、要するに戦争状態だから、怪しい奴が突然自分達のエリアに入ってきたらぶっ殺すし、外国人で金持っていそうなら通行料金だ何だと言って盗賊の真似事もして資金源にする、一旦戦争になっちゃうとなんでもありなんだな、と思った。
だから、到底そんな浮かれた気持ちで徘徊出来る時期でもなかった。

日本の江戸時代の山村にでもタイムスリップしたかのような光景の人物が、目の前で生きていて、無造作な警戒心のない振るまいで外が土砂降りの中、狭い湿った土と草の匂いが充満する縦二メートルもない穴倉の狭い空間に一緒にいるのだ。呼吸の音まで聞こえてくる近さだった。あの圧倒されるような驚きを、どう言ったら伝え切れるものか。
警戒心がなかったのは、もう一人いたガイド役を買って出ていた地元人男性と顔見知りで、私が同じアジア人の顔だったからだろう。また、もし二人きりでも、籠に入れてある鎌でいくらでも自衛出来るくらいの自信はあったのではないか、あれだけワイルドな世界で暮らしている農民の女性なのだから。

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結局、人間はどこで生まれ、どんな成育環境と文化の中で暮らしているか次第で、見られ方、扱われ方が大きく変わる。
そのネパールの山村の女性も、もし同じ親でも日本の東京で生まれ育って、モデルにでもなったら、はっきり言ってとんでもなかったのではないか。だけれど、実際貧しいアジアの山奥の農民の娘で、着飾る事とも全く無縁の人生を送っているから、周りもなんとも思っていない。見向きもされていないのは、あの男性二人と狭い祠の中にいても全く動じていない様子から察するものがあった。

着飾っているから、変に性的に意識したり、警戒し合ったり、というテンションが高くなる、というのが現代の文明社会だと顕著にあるとも思う。
本来、着飾るのって、お祭りの時とか公式の特別な機会にドレスアップするくらいなものだったのだが、文明社会、分けても日本なんか特に、普段の生活からラフな格好はしないで着飾っているでしょ。それは、やっぱり不自然な状態ではあると思う。個性の自由というのはあるし、渋谷の街は、ああいうまた特殊な文化だから、そういう多様性の一つとして面白いんじゃないか、とは思っているけど。

e0296801_17594383.jpg本来の人のあり方を目の前に示されているような場面に、過去多少なりとも触れた私の視点で今の先進国日本の、特に東京なんかでの人間関係のピリピリ感を目にしていると、ナンセンス、の一語だ。
それこそインドの乞食の娘だって、顔だけ見たら日本のタレントで言えばローラみたいな顔の子供がゴロゴロいた。でも、乞食の子供だと思って誰も近寄りたがりもしないし、どうにかしてそれがピカピカに着飾らされると、急にまたみんなチヤホヤする。

「美」というのは性とつながっている点において、子孫繁栄・血統の問題とも根深く通底しているが、我々すべての人間の祖先だって、みんな猿みたいなところから出発して、今の自分に至るまでの何百万年もの間には、略奪・暴行・飢餓・極貧、一通りの修羅場は経験してきたはずだ。本当の意味で高貴な血筋なんてものはどこにもない。
その中でも、ふと気付くと聡明さを身に付け、人間らしい振る舞いをし、新たな文化を生み出して、また、その出で立ちに美を漂わせたりする。

命の輝きとありようそのものが、そうした自由で平等なもの。
文化・生活環境と美意識のありようなんて、そんな茫漠としたもの。
それが世界の現実だというのを、素朴なアジアの農村文化の空気が濃厚に発散されているラオスフェスティバルに行ったのをきっかけに、また改めて再認識したのだった。

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# by catalyticmonk | 2018-05-31 19:49 | 忘れ物 | Comments(0)

目的追求と和やかさの折り合い

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訳の分からんイカレポンチで軽薄な人種とはいるものだ。
私は遊びやボランティアじゃない時は、パワハラなんてせず迷わず最速で切る。
しかし、これをやりにくい世界もある。
付き合い、建て前、人手不足。別々の道を簡単に行けないしがらみも軋轢の温床。大概そこを抱えたままぐずぐずになる。

簡単に切れない理由は色々だ。
惚れちまった男がダメ人間とか、心に闇を持つ女性とか、本人が好きだと言っているものを、況してや子供もいたりして経済的問題もあるとか、他人が簡単に別れろとも言い難い。
市民運動も、人権とか弱者救済とかが建て前だと、明らかに困った人物が増える。どう考えても人格的におかしな奴でも、同じ意見に賛同している参加者だったり、通り一遍の事は一応の正論を唱えていたりすると、お前なんかあっち行け、とも表立って言いにくい。
でも、考えてみると、そういう世界は決まってドロドロする。

労働者の権利を守る、と言うと聞こえはいいが、実際に働かせてみたら、どう考えてもそいつがいると迷惑、としか言い様のない人間もたまにいる。簡単に切れない。すると、中で揉めたり、いじめやパワハラに発展しやすい。
何が本当にお互いのためなのか。いつも簡単には割り切れない部分だ。

なんなら、私こそ使えない不器用人間の見本だろう。だから、極力なんでも自分一人でやろうとして、人にお荷物扱いされまいと生きてきた。人に助けてもらうと、私の器量ではその義理を返したり、責任を果たす重圧があまりにも許容量オーバーで消耗してしまうので、こんなくらいなら最初から助けてもらわない方が楽だ、とある時から思うようになった。
自分も不器用な癖に、依頼心の強い調子のいい相手には冷淡なのは、そのためだろう。不器用者の同胞を助けるのはやぶさかでないが、小狡さでそれを補っている奴の面倒を見るほど暇でも余裕があるのでもない。

とにかく、優先すべき目的がある時には綺麗事なんて言っていられない。
でも、だからと言って、そこでギスギズし過ぎても不毛だし、多くの人の失望を生む。やはり、優しさは欲しい。
和やかさが意欲を喚起継続させる源だったりもする。

みんな、自分に余裕がある時には、そういう部分も寛容にやっていられるんだよな。
きつきつの競争が目の前にあるとそうは言っていられない。職人気質な世界がそうであるように、完成度を真剣に追求している世界が厳しくなるのも、ある程度は仕方ない事なんだ。

でも、世の中全部が、いつも逃げ場なくあくせくしていると、もう生きている事自体がつまらなくなる。だから、日本では自殺者が多い。いじめもまた多い。

ある程度、各々がその目的とする所を自由にやって、またいつもギリギリでない、ユルい逃げ場も傍らにある世界、そういうのが程よい調和の取れた世界で、「社会」という単位で動く時に目指していく地点な気がする。
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# by catalyticmonk | 2018-05-23 23:57 | 忘れ物 | Comments(0)

誰もが特別な存在だ。

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彼らは事実を知らないだけなので怒らない。そんな、こちらの体験をまた長々繰り返し説明するのも疲れるだけ。
彼らの気持ちや発想を想像して、自分自身の感情的な悔しさを抑える、という事を覚えないと不毛なのだと学んできている。
ただ、そういう事実関係を知らない人間が、安易にこちらの困る個人情報を厄介な相手に提供してしまう可能性があったり、やはり早合点や思い込みで行動する人物は現実問題として非常に困る事が多いのだが。
だから、自分自身で用心してケアするしかない。何かにつけて人と違う境遇だと孤独なのはそういうところ。

平凡な、人と同じ境遇であったなら、人と同じ事を喜び悲しんで思いを共有し合い、気持ちのうさを晴らすのも簡単な人生だっただろう。
困った時に恐怖や緊張感に満たされながら自分一人で解決策を模索しなくても良かっただろう。
つまらない誤解を数多く人から受けないで生きられただろう。
もっと楽しく笑う事の多い人生で、友や仲間を得る事もずっと簡単だっただろう。
もっと悪夢にうなされないで、安らかな気持ちで眠られる日々が送れた事だろう。

でも、こういう人生だったから、私には自分自身で考え抜き、困った出来事をその場で処理する能力が身に付いた。頭の回転も遅いし、人一倍不器用でも、そうするしかなかったので、ユニークな工夫や能力を開発する事にもなった。
何より、自分とは違う相手を安易に敵視しないで角度を変えて眺める柔軟性と、弱い者いじめをしない性格が身に付いた。基本は、そんな温厚でも、立派な人柄でもないんだが、弱っている人は助けたい、という感情が自然と湧いた。
これが、私の持っている人生の財産だ。

誰もが、特別な存在だ。しかし、自分自身で自分が特別な存在だ、と心底信じられないと、他の者が特別である事を実感出来ない。そうやって生きている世界が陳腐で精彩の欠けたものになっていく。
自分や自分達だけが特別だと思っている人間は了見が狭く、だからこそ陳腐だ。
きっと生きている間に私が人並みな幸福を味わう日は来ない。でも、死ぬ時には神が私を見放す訳がないのを、私自身が他の誰より知っている。
私が自信と誇りを失わないで生き延びて来られたのは、まさに神を信じているからだ。
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# by catalyticmonk | 2018-05-16 01:50 | 忘れ物 | Comments(0)

正直、準備はまだ出来ていない。

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まず、癌や免疫不全の病気、突然死する人が多過ぎるんだけど、これ、一体全体どうなってんのさ、本当に。
でも、もう病気になってしまった人に関してはそれどころですらないよね。

別に自分の身を儚んでいるのでもなくて、身の回りで病気する人は多いからさ。
自分の時はどうしていたんだろう、どうしてもらえれば嬉しかっただろう、って自然と考えるんだけど、実体験としては最後のところでは神に委ねよう、って祈りの気持ちだけで、後は治療と目の前にある身体的な苦痛を日々乗り切る事しか頭になかったな。

でも、そこはあまり人に直接言えない次元だしね。別に私はどこかの宗教団体に属しているのでもなく、普通に子供の頃から神様を信じているだけだし。
いいんだよ、別にそこは。一人一人の人間がいざと言う時に希望や癒し救いを感じられる社会環境であれば、社会の大半が仏教でも無神論でも有神論でも問題なくて、後は最終的に個々人の思想信条と信仰の自由があるだけだから。

でも、この社会では、精神的な文化が実質的にほとんど機能していない。
どんなにお金持ちで地位や名誉を持っている人でも、いざ自分の命が弱った時に、いきなり急に何の心の支えもなくなって、家族がいる人でもみんなが右往左往する。
日本は物質的にこそ豊かで文明先進国とされているけど、そういう生死に関わる一番肝心要なところに、何の準備も出来ていない変な世界なんだな、って自分が病気してから改めて凄く実感した。

結局はなんか一番最後に行った病院が、純粋に最先端治療に特化した機関ながら、医療行為にお金儲けだけではない確固たる情熱と、患者への真摯な思いやりが医療スタッフ全員から感じられる優秀なプロ集団だったから、私自身はそういう現実的な技術と巡り合わせの運の強さで命拾いしたんだけどね。

一つ言えるのは、信頼出来る医療機関だと、患者も痛みに耐えて頑張って治療しよう、と前向きに思えるから、余計に治りやすいと思う。
だから、妥協しないで信頼出来る医療機関を探す努力はした方がいいし、結局人は、人から与えられる励ましや優しさが、困難に直面した際に生き抜くための一番の意欲の源になるんだ。そこは永遠の真実だろうね。

いや、私なんて励ましてくれる家族も恋人もいないものだから、ナースが天使に見えちゃって、見えちゃって。
回診に女医さんが来ると大喜びで、凄い激痛なのにベッドから跳ね起きて声も弾んだりして、「あ、ゆっくりで大丈夫ですよ」とか言われちゃって(実話)、宥められている犬みたいだったよ。そんな言葉にすら喜んでいたから、どうしようもないね。
だから、構ってくれる人のいる病院から退院して一人暮らしの家に帰るのは、好きな音楽をゆっくり聴ける、という事以外は嬉しくなかったかな。
でも、大真面目な話が、そういう自分から救いを求めていく図太さも快復を早める重要な鍵な気がする。

取り敢えず私自身は当面助かったんだけど、他の病気の人を見ると、たまたま自分は運良く助かっただけで、あの時に解決出来なかった問題はたくさん今もなおこの社会の中で続いているんだな、それを残された時間の中で少しでもモアベターな答えを探さなきゃいけない、って他人事でもなく身につまされるんだな。
一度でも大病を患ったら、同じ事を感じる人は多いんじゃないかなあ。

私はまだそういう部分での心の準備は出来ていない。だけれど、それは私一人や、病気している人達個人個人の心の問題だけではなくて、原理的に考えてもこの社会全体の命の現実に対して準備出来ていない部分であり、課題と捉えるべきなんじゃないか、って思うんだよね。

誰もがいずれ必ず直面する問題を全部個人個人に丸投げしている社会って、社会として秩序立てる権限の根拠を放棄していると言うか、実質破綻している気がする。
生きている間の権力とか、お金儲け、束の間の享楽に我を忘れ過ぎて自分で自分の首を絞めている放蕩者、そんな社会になっているからこそ、多くの人が健康を弱らせたり、生涯の終わりに近付いた時に、夢の国から厄介者払いされるような形になるのではないのか。

原子力発電所は、もう爆発してしまった。
私達は汚染後の世界で生きている。
だけれど、未だに政府は原発を廃炉にすると言わない。これが放蕩者に支配された夢の国の現実だ。

でも、誰にとっても生きている命は限りがあって、壊れやすいもので、元気に放蕩の限りを尽くしていられる者の幸せだけを考えていればいいはずもないんだよ。一部の人間の放蕩のために、多くの命が追い詰められる社会なんて、なおのことおかしいからね。

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# by catalyticmonk | 2018-05-16 01:36 | 希望社会 | Comments(0)

ナンパ

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私は昔から自分はナンパをしない、と言っているのに、それってナンパじゃん、とよく言われる見解の相違について。
私は何かの目的で誰かと無理に仲良くなろうとはあまりしないし、そうしなければならない時はあるが、それを本心としては好まないので、ナンパなんてする訳がないのだ。

ただ、誰であっても、極力分け隔てなく気さくに接しようとはしているので、逆に異性にでも実に気軽に話し掛ける。それが、ある種私のポリシーでもある。
それで話してみたら結果的にウマが合う事も当然あっただけの話だ。
また、広義に解釈した場合の「ナンパ」にも同様の弊害が付いてきやすく、これが相手が異性でなく、高名な人であったり、何らかの地位・資産を持つ人物であった場合にも、色々と邪推されやすくて非常に面倒臭い。
後になって相手から私が最初から口説きに来たと認識していた、と聞かされた事も。

私は虐待家庭で育った影響が大で、人から「支配」される事、また誰かに自分が媚びる事が大嫌いだ。
自分がその相手に媚びを売っていると認識されるという事は、相手の意識の中である種の優位性が関係の始まりに意識される。
私にはそれがどうにも我慢ならないので、地位のある人や、他の人が羨むような美女と親しくなっても自分から距離を置く、というパターンは少なくない。私的には「冗談ではない、こっちはそんな誰かに媚びようとする人間ではない!」という感じなのだ。たまたま仲良くなった相手が有名人だったり、或いは前科者であっても、その人自身と人間同士としてフラットに関わりたい。
ここが私が気難しくてひねくれている、と見なされる、或いはそれ以上に真意が誤解される大定番の方程式なんだが、改めるつもりは全くない。

私からすると、なんと世の多くが浅ましく権威主義的で、何かの地位や権力にすがり媚びる連中の多い事か、と感じている。
名誉とか対人関係でない、お金やあまり主観的でない事柄が目的の場合には、私でもドライに割り切って、世渡りの技術やサバイバルの必然性から、そういう価値を利用する場合も当然ある。
しかし、どこまでいっても、それを自分自身の内面的な価値としては全く重んじていない。魂は売らないのだ。そこに、自分の生きる尊厳を支える誇りがある。

ところが、それがその人のステイタスだったり、自他の優劣を計る物差しだったり本気でしている人が日本社会ではやたら多く常態化していて、人々がそこに臆面もないから呆れている。
媚びへつらう事や、媚びへつらわれる事に自分の価値があるなんて、私には考えられない事だ。誰かを信頼し愛し合う事よりも、そんなものが重要な人生なんて寂しいではないか。

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# by catalyticmonk | 2018-05-12 18:01 | 人間の尊厳 | Comments(0)

自然体と『なりきりさん』

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物凄く社交的と思われていたり、感じの悪い奴、と理由らしい理由もなく思われているのを人伝えに知ったりする機会が昔から多くて、この落差の激しさは何か、と言ったら、自分では歴然としている。

人見知りはしない方なのだが、最初に話し掛けてみて会話が続かなかったら、そのまま身近にいても何年もほとんど喋らない、という事が私にはよくある。
同様に、親しかった人でも相手が何故かよそよそしくなるとそのまま疎遠になったりして、「何かあったのか?」と他人から思われたりする。
要するに、取り敢えずは自分のありのままのスタイルで誰にでも話し掛けられるのだが、それ以上、無理に努力して人に近付くのが嫌いなだけだ。自分が乗る気じゃないのに、無理矢理話し掛けると、毎回酷くぎくしゃくするし、どうも自然体の自分ででしか他人とスムーズに話せない。

現実には取り繕ってでも話さなければいけない機会は多いのだが、本来的にはそういうのを望んでいないし、そういう技量を競い合うような場は意識してなるべく避ける。
ところが、そんな基準だから、よく対人関係が自分の意図しない要素に左右される。
地位や立場とは恐ろしい。人間の実像を余計に見えなくする。時にそれはブラックジョークである。

世の中に、最初の印象と実際に知り合ってみてからの印象が全然違う、と言われている人はちょくちょくいるが、それは裏表の顔や何通りもの仮面を持っているタイプだったり、単に気分屋だったり、といった原因の他に、私と同種の人間もかなり含まれていると思う。
性格的に努力やポーズで器用に社交辞令の体裁が作れないタイプの人間というものは一定数いる。

しかし、私はそうした人々が優秀な営業成績を挙げたり、凄腕の詐欺師である事があるのを知っている。
彼らは、自分を上手く自己催眠に掛けて意識誘導する術を人生のどこかの時点で学んだのだ。だから、うそ発見器でも見抜けないうそをつく人種とは、実はこの手の人種だ。
計算づくの演技は、ある程度慣れてくると簡単に見破れるものだ。しかし、本人がそうなり切っている演技は、なかなか簡単に演技と見破れない。

小手先の器用さではなく、サバイバルするための必然性に駆られて編み出した能力であって悪意もない場合が多いように思うのだが、どうも動機と、その開発された能力の用途はいろんなバリエーションが存在するようだ。
境界性人格障害などのある種の人格障害者は無意識でそれを連発するので、本当に怖い。

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# by catalyticmonk | 2018-05-12 17:47 | 意思疎通 | Comments(0)

社会心理として捉えた場合の日本的衆愚

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あなたがもし、この社会にモヤモヤした閉塞感を感じ取っていて、しかもその解決策が既存の政治運動的な動きの中ではほとんど見当たらないのように思うところがあったなら、この文章を読んでみて欲しい。何か共感するものがあるかも知れない。
でも、政治的な提案はここにはない。日常感じている閉塞感の心理的な実際の姿さえもけむに巻かれて見通せなくなっているような現実への、ささやかな抵抗として、いくらかの暴露を試みているだけだ。

私達は様々な主義主張・思想信条の以前に、個人としてありのままに世界を眺める自由と尊厳を持っている、というのが近代民主主義社会の大前提であるはずだが、どうもそこの部分さえこの日本社会はいろんな理由付けをしては素直に認めてくれないような、非常に屈折した部分があると感じる。
だが、それでははじめの一歩が公明正大に始まらないではないか。そういった種類のフラストレーションを十分に言葉には出来ないで抱えている人は、実はとても多いようだ。

e0296801_22532223.jpg私は、この社会には保守とかリベラルとか、政治的なテーマ以前の大きな思考停止のパターンがあると思っている。それは一種の反知性主義であり、ポピュリズムの中でも特に悪質な衆愚が蔓延っている、とずっと痛感していて、それが故の政治の機能停止を招いている部分は小さくないと確信している。
それらの核となる人間心理学的な現実の姿とその要素は、政治的に個別の問題を見ていくよりは実はずっとシンプルだ。

まず歴然とした弊害は、いわゆる教条主義と呼ばれる要素。思い込みや決め付けが激しく、自分の基準と違う他者を厳格に裁き、非難・攻撃する、というものだ。こうした風潮は当然ながら不寛容で、息の詰まる社会の空気を生み出す。
次に、その教条主義的な態度を強化し、後押ししてしまっている一連の姿勢にも顕著な特徴がある。
高尚な理念を掲げる割には細部を個別の事例に合わせて冷静に見る事が出来ず、一度振り上げた拳を簡単に下げられない。一つのベクトルで暴走するヒステリックさと頑固・強情・傲慢。そうした姿勢だ。

後者には大きく見ていくつかの要因のパターンがあると感じる。

一つには集団主義。それ故の個の確立が未熟な社会風土。
周りの仲間と勢いに乗って一斉に同じ方向で騒ぐ文化に慣れていて、そのためによく考えていないという場合。これは熱心な宗教や政党の信者・信奉者によくありがち。
日本社会全体が、自分は普通なんだ、普通でいたい、と信じて願う、ある意味で「普通教」という大衆宗教の信者なのかも知れない。

二つ目は権威主義。社会にある一定の権威、自分の所属する地域共同体であったり、家族が長年社会から付与されてきた栄誉やステイタス、職場の伝統や尊敬する上司の考え、テレビや新聞、雑誌等の有名メディアの発する論調・情報を無批判に信じ込み過ぎている等、やはりそういった理由から自主的に冷静に目の前の事を個別に判断出来なくなっていたりする。

三つ目は、抑圧の多い社会環境における個々人の内面的な社会不安や、その反応としての被害妄想的な反応の増殖。このパターンの要因。
その人が孤独であったり、社会の底辺にいて常に大きな不満を抱えているなどすると、何らかの批判・攻撃対象を探す癖がつきやすくなる。また、全然関係のない話でもそれが自分や自分の仲間・同胞への攻撃や批判・差別なのではないか、と絶えず被害妄想気味になる。

三つ目は上述の社会的な歪みが全部のし掛かり濃縮された形の害毒となるので、一層深刻だ。
また、そうした人はそもそも道理よりも自身を守りたいという動機の方が強かったりするので、余計にたちが悪くなる。自身の主張が的外れであった場合、今度はそれを物事の性質の問題に広げて守備範囲を拡大し、泥沼かつ建設性のない議論、或いは単なるバッシングを続ける。

e0296801_22545167.jpgざっくり言えば、日本的な衆愚は「集団主義」「権威主義」「被害妄想」の三大要素を軸に構成されている印象が強いが、これらの三つの要素は濃密な相関性がある。

①個の確立が未熟な社会風土が群衆心理の暴走しやすい状況を作り、
②その付和雷同の風潮は当然権威主義に靡きやすい空気も生み、
③権威主義的な傲慢な振る舞いの蔓延は個々の民衆の不満を抑圧して、それが内在化した劣等感も助長するので、被害妄想的な反応の多い社会にもなる。

社会は政治的に社会全体の仕組みや制度を変えると、文化や大衆の意識がそれに従い一気に改革・前進され得る。しかし同時に、政治的なテーマ以前の衆愚、唱えている大義名分以前の黒い思惑があまりにも大きいと、公平な判断や様々な立場に配慮した政治運動も難しくなって、上に立つ立場の集団や個人のエゴに従って次の腐敗が始まる。

十分な知性と判断力、社会的公平性や福利を考える人物であっても、そのような観点と失望感から、現実の政治運動とは距離を置いている、という人を私は何人も知っている。
結局は具体的な行動が必要なのだが、彼らが疎んじている弊害の実際も知っているので、思いは複雑だ。

この文章を書いた動機は、政治的なメッセージと言うよりも、日本社会に顕著な社会心理としての衆愚について、私が日頃から引っ掛かっている部分を考察してみたくなって書いたものだ。
しかし、それでもやはり政治の停滞解消は、政治運動だけがトップダウン方式で成就出来るものでもなく、文化の質的向上も同時進行で求められていく必要性がある、というところは自ずと意識に浮かんでくる。
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# by catalyticmonk | 2018-05-10 23:00 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

旅の糧(7)

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この話の後、時系列で書くなら二度目のロサンゼルスでの思い出も色々書かなきゃいけないんだけど、まあ、それはまた長くなるから、とにかくこの時期の後で日本に帰国したらどうだったか、を久しぶりに少しだけ書いてみる。

e0296801_18380468.jpgここまでに書いてきた「旅の糧」シリーズ(全体:https://catalytic.exblog.jp/i21/)は、18~19歳の頃の話だ。だから、本当に小さな子供みたいだったな。特に大柄な西洋人に囲まれていると自分でもそんな気分になっていたね。
ところが日本へ帰ってくると、もう一人で2年も放浪した後だから日本人の同世代が幼く見えちゃって、私は元々特別童顔なんだが周囲の大人にも25歳か27歳くらいに思われて、変な感じだったなあ。

例えば、20歳で東京に居つくでしょ。もう最初から標準語が話せているんだけど、それは東京で覚えたんじゃない。海外でたまに会う日本人との会話から吸収したもので、普通に地方出身の若い子が東京に憧れて出てきた、なんて感覚もないんだよ。そこが日本の海外の窓口だったから、まだ向こうで会った友達のつながりもあったんで、日本だとここしかない、みたいな感じだった。田舎に行くと、それこそ化石みたいに古い固まった世界があるように感じて、一瞬でこりゃダメだ、と当時の私は思った。

それで、今度は東京で同世代の美大生の若者たちと仲良くなったりするんだけど、それは彼らが同世代の集団の中では一番自由で、感性的にも進んでいて、会話が合ったので、そうすると向こうが勝手にこちらを同類と認識して遊びに誘ってくれたから。

でも、やっぱり滅茶苦茶子供に感じちゃうんだよ。普通の日本社会の大衆文化的な流行とか通念に染まっていないだけ、ずっと付き合いやすかったんだけど、なんだか子供みたいなコンプレックスを持っていて会話が急に理性的・論理的でない進行をしたり、感情的な拗ね方や人前で泣き出すなんて事があった。
そういう部分は、もう異国の地で一人で生きていなきゃいけなかったから、20歳の頃の私には全くなかったんだな。いや、今よりもサバイバルのために気を張らなきゃ、っていう思いが標準設定で根付いていて気が強かったかも知れない。

気が強い、という意識すらないんだけど、日本へ帰国して同年代の若い子を相手にしていると、気付くとそんな形になっている場合が多かった。やはり、日本人の積極的に自分の意思表示をしない、必要と思えば本気で問題に立ち向かわなければいけないシビアなシチュエーションを滅多に体験しない環境が、日本人特有の幼さを形成している印象があった。

ロックバンドやってるぜ、って同世代の若者でもね、やっぱり日本の平和な社会の中で大学進学で上京したり、社会のステイタスや既定路線の文化に従って友達と競い合ったり、冗談言い合ったり、女の子を口説こうとしていたりして、そういう中でのちょっと突っ張っている態度だったり、カッコつけている感じだったから、別にこちらに張り合う気がなくても、そこが自然に透けて見えてきちゃって。
そうすると何も言わないでも若くて繊細で、特にアートとか音楽とか志している感性の鋭い若者には怖いものがあったみたいで、そういう事を何度も言われた。その意味が何か、具体的に見えてくるのはもっと後年で、当時は周囲の反応で理解出来ない事だらけだったけどね。

だから、子供から大人への過渡期が、私の場合は丸々日本文化の文脈が欠落していて、そこら辺が日本人的な感覚で見た場合に等身大の人間像が掴みにくい正体不明な印象を与える雰囲気につながった気もする。
私の事を何か分かりやすいイメージで捉える人もいるんだけど、聞いてみると何か随分思い込みで知らない部分を想像で埋めているものだから、モンスターか人格者か、流石にそれはないんじゃないの、と私が感じるような極端な毀誉褒貶に分かれやすい。
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# by catalyticmonk | 2018-05-10 00:02 | 旅の糧 | Comments(0)

保守層にもリベラル層にもある男女観の硬直

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男でも女でも、家事の苦手なタイプっていると思うんだな。
ま、自分だったら狭い範囲の事はきちんとやるけどさ。でも、義務です、って、あれやれこれやれ、と言われたら苦痛だから、それを女性に求める気もない。

ところが、それを女の癖にやれないのかとか、男でも家事が出来ないとパワハラだ、と必要以上に周囲が圧力かけるのって、それ自体が狭い男女観に基づく社会の押し付けだって。
別に家事が全然ダメな女の子と付き合った時もあったけど、何も文句言わなかったよ。それが当然と考えていたし。
彼女が家庭的な才能がない、と後ろめたく思う必要は全くないんだ、というところは繰り返し言っていたな。でも、少しくしゃくしゃ過ぎて自分とは違う方向の発達障害なんだな、というのは感じたから、一緒に暮らしたいとは思わなかったし、偏食がヤバそうだったから、もう少し改善する余地があるんじゃないの、とは感じていたけど。

家事とか、事務的作業を一定の許容量以上には出来ない、って性質の人間はいるからさ。そういう人達に恋愛するな、結婚するな、と言っているに等しい極論をよく聞くんだけど、結構それって、発達障害の実態を知っている人間からしたら、モロに障害者差別なんだよ。

男女が交際していて、必ずしも生活を共にしなければいけない訳でもないし、一緒に暮らしていても自分の事は自分でやればいいんだ。子供が出来たら、そこは伴侶間だけの問題じゃないから共同作業が必須だろうし。
ところが相対的に生活力のある女性が多いのも傾向としては圧倒的事実で、また社会の雇用機会とか賃金とか男女で格差も継続しているでしょ。そうした諸々が固定観念につながっていく。

その既存の男女不平等につながる固定観念に抗おうとする人達の多くも、大概はそこしか見ていないし、そこばかり優先したがるから、今度は人の性質や個性、発達障害といった要素は無視した極論を主張しがちで、色々な形のマイノリティーを無自覚に差別・抑圧していく。
だから極端な保守も、極端なリベラルも、今の日本社会である形としては私は共感出来ないし、していない。

和やかな社会になればいいな、と思う。でも、そこに至るには乗り越えなければいけない障壁がいくつもあって、事なかれ主義でもいけない。
ただ、そこを強引な勢いだけで突破しようとしても新たな差別や人を踏みにじる思い込みが生まれてしまうから、個人個人が現実に即して考え判断対応していく柔軟性や主体性がもっと必要なんだと思うな。
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# by catalyticmonk | 2018-04-14 00:23 | 性の分断 | Comments(0)

真面目な話はただの下世話なペテンだと信じたい大衆意識

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デモ参加者は、皆お金を貰ってやっているエキストラだという説、私の知る限りの印象では、世間で非常にポピュラーだ。
まず、デモと彼ら一般人の世界、情報源に隔たりがある。そうすると、なんで俺達はそんなに知らないのかな、みたいな奇妙な感じがするらしくて、その隙間に「あれはただの下世話なペテンなんだ」という説がよく馴染むらしい。あ、それなら分かる、と。

そんな胡散臭い話は相手にしなくていい。
好きなアイドルやスポーツチームが、大手企業の広告とともにたくさんの娯楽を運んできてくれる俺達の生きている世界は、ステイタスを感じているこの高級時計や車、オーディオ、グッチの鞄と、それらに憧れている自分の価値基準と共に揺らぐことはなくて、今日と同じような日常が明日からも続いていくんだ...…みたいなところなんだな。

暮らしに不満を抱いている人は大勢いるけれど、だからと言って、それに答えを出す新しい価値観を急には用意出来ないし、自分でゼロから模索するなんて考えもつかない。やった事がないから不安なばかりだ。
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ガールフレンドにこんなプレゼントをして喜ばすんだとか、俺のファッションは何々系じゃなくてこういうオシャレを極めている通なんだとか、あの吉本の芸人の笑いのセンスが自分のツボなんだとか、そういう今ある自分の価値判断基準がどっぷり既存の文化の中に根付いているから、そんな社会の仕組みを根底から問い質すような大きな選択はしたくないんだ。

多少の不満はあっても、それはコミュニケーションスキルで乗り切ればいい。愚痴を言って、自分よりも不器用な奴を笑い飛ばして、面白おかしく日々を送る工夫が大切なんだ、と本気で信じている。
いや、それが出来ない奴は「メンヘル」や「社会不適合者」なんだと、幼い頃から親や学校、周囲の大人達と社会からも教えられてきたじゃないか。それをなんで今さら疑わなければならないんだ?

一旦、全部の用意された社会文化の中の価値基準を棚上げにして、自分自身で様々なテーマに向き合って考えるなんて重荷過ぎるし、面倒臭いから、そんなものは必要ないんだ、という感覚で居続けたようだ。

私自身は、自分がずっと社会のマイノリティーであり異端者だ、という自覚があったから、逆にそういう感覚がよく分からない部分があったんだが、人権とか社会問題なんて仰々しい響きのものには特に興味を持ってもいない、ごく普通の日本人の人達の考えをすっとぼけて根掘り葉掘り聞き出していくと、見えてくる実像はそのあたりだったりする。
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# by catalyticmonk | 2018-04-14 00:03 | 忘れ物 | Comments(0)

精神論の意義と限界、その功罪について

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ま、男女問わず、自分の方が上に立って話を締めようとする人はいるもんだ。
で、なんで上に立とうかとするかと言ったら些細な思い込みが発端だったりするんだな。
ここで分かっていても下手に出られる人は温厚、分かっていなくて素直に乗せられてしまう人は僕扱いされていく。

最近、人間同士の実際の争いやいがみ合いの元は、現実的にはかなりそういう次元にあると感じ出している。
人権意識、男女平等、暴力反対、色々な道理や主張があるけれど、根っこのところは、自分とは違う他人の言葉や行動、性質への不理解、という要素が大きい。

e0296801_00494185.jpgだから、今も昔も、ちょっと不器用な子供は学校でいじめの対象だし、その社会で少数グループに位置する集団は迫害や蔑視の標的にされる。
そして、ここが見落とされがちな重要ファクターなんだけど、どんな思想信条、出自、所属集団、年齢性別の区別なく、負けず嫌いな人は思い込みで攻撃を仕掛け出してしまいやすい、という事。

夫婦喧嘩が絶えないのも男女の性質差という巨大な不理解の火種があるからだし、差別や迫害を受けていた個人や集団が憎まれ続けやすいのも、その出自や立場が少数グループであるが故に、世間との理解の溝が存在しているからだ。また、迫害されてきた側も、迫害を受けてきたが故の強い思い込みから、悪意のない相手にまで牙を剥くから嫌われる、という悪循環があったりする。


ユダヤ人が何故迫害されてきたか、と言ったら、現実の彼らをしばらく観察して見たら、よく理解出来ると思う。
彼らの押しの強さは相当なものだ。絶対に負けたくない、損をしたくない、という強固な意志が満ち溢れていて、だからこそ少数グループでも多くの才能と経済的成功者を生み出してきたのだろう。また、だからこそヨーロッパ人がユダヤ民族に辟易している実態も、過去からの文化的偏見である以上に現在進行形で継続している。
だけれど、そもそも彼らが何故そういう集団になったかと言ったら、やはり特殊な宗教観を持つ少数民族として、長年世界中に散らばって商売して生き延びてきたから、という必然性も大きいのだと思う。

でも、一方では、何も苦労していないけれど、わがままに育っていて、負けず嫌いで思い込みが激しい、なんてタイプもそもそも世の中に多い。これではどんな立派なお題目を唱えても平和な世界にならない訳だ、と納得するところもある。

一個だけ共通性があるのは、自分とは違う他者への不理解故の横暴だ。
その解決策は、何か決められた一つの正義を絶対視する事ではない。自分とは異なる他者、外側の世界に対して、相手側の多様性を認める事と寛容でおおらかな態度を取る事が本質的な解決策だ。
それには個々人と社会の全体が、文化や教育、個人的意志によって、意識改革されていく事が大切なのだ、という結論に毎回私は行き着く。


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根本的なところを一個言うと、勝とうと思う競争心が争いを招くのだ、という主張を、抑圧されたくない、侮辱・迫害されたくないと思う人々の希望と同列で語ってしまうと間違いだ、ということ。
ここは凄く重要だ。もちろん、性質的には通底している話なのだが、それをどの場面で、どういった意味合いで使うかが肝心なのだと思う。

まあ、まずそこは東洋哲学的には定番なんだ。負けを意識する競争心があるから勝とうとする。勝ち負けなど存在しないのに、人間は愚かだ、というようなところを平和主義の基礎として東洋社会では長年語ってきた。
しかし、程度問題だ。日本の学校でいじめられている児童の訴えを聞いても学校側が度の過ぎた協調性や自己努力を期待して、結果、陰惨ないじめが放置され、いたいけな子供の自殺が起きてしまう背景にある大人側の観点も、大概はそこと密接にリンクしている。

差別されたり、学校でいじめられている相手に、あなたが怒らなければいい、みんなと仲良くなれるよう努力しないのがダメなんです、そこで上手くやるのがコミュニケーション・スキルです、と言って、パワハラや民族差別、弱いものいじめをする加害者には何も言わないで、長いものに巻かれろ、強い者に従順に従えと、結局、苦境にある立場の側にだけ忍耐を強いる、という社会文化的な伝統が広くアジア文化にはあった。

東洋的な受け身の平和思想は、支配者にとって都合のいい自己責任論や、儒教的な上意下達の精神風土を培ってきてしまったのも明白な事実だ。
そこは、本来の宗教家や思想家が唱えてきたものはもっと深い別のものだったかも知れない。しかし、そうだったところで、それが薄められた形で社会に広まっていった時に、どういう社会的土壌を実際に作り、長い歴史が営まれてきたか、という現実の持つ絶大な影響力は無視出来る問題ではない。

私は仏陀の伝説で、彼が悟りを開いた後(私個人は神を信じる人間で、そもそもそういう価値観を受け入れていないが)、人間に教えを説くのを躊躇していた、という逸話に関して寓話的に夢想するところがある。
仏陀に先を見通す能力が実際にあったとすれば、ひょっとしたら、彼は自分が教えを説いても人間社会に何千年と巻き起こるねじれを予見して、そうした行動に出る価値に疑問を抱いたのではないか。しかし、それでも大局的な判断として布教を開始したのではないか。

また、迫害されてきた側の人間がキツい、というのもほぼほぼ真実で、西洋哲学的な懐疑精神と、東洋的な精神論は、やはりどちらも現実に即して程度問題で計っていくしかない性質の事柄だと思う。
所詮は人間が、それぞれの主観に応じて理屈付けただけなんだ。
しかし、それでも人間は意志や気力によって生きるし、理想を思い描いて努力するので、理想は必須なんだというパラドックスが人間精神の根底にはある。
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# by catalyticmonk | 2018-04-02 00:55 | Comments(0)

朱に交わればマジ卍

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「焼肉屋の店員の女性、何故か大概美人」とか、なるほど、面白いなあ、と思っても、品位が下がるので私はここでは話題にしない。
朱に交われば赤くなる。

昔、大阪の事務所のボスが下品過ぎて、ついつい品のない発言をサービス精神で言ってしまう癖が身に付き、随分損した。それが勘違いだと気付くのに数年かかった。関西人相手だと、そっちの方が人付き合いも上手くいったしね。

まあ、でも、人間、何故か下品めに振る舞っていた方が攻撃されにくくなるし、気まずい思いや傷付く機会も減る気がする。
繊細で清らかな人間は苦しみ悩むのが世の中の仕組みなんだよな、何故か世界中で。

そうでない土地もたまにある。
そういう場所を私は延々と絶賛する。
だけど、ずっとは住んでいられなかったり、住んでいるのにほとんど帰られない、とか、まあ、そんな場所だけで世界は回っていないから必然的にそうなるんだな。
人のいい田舎で育った人が都会に出てくると心を病む事も多いから、人間は桃源郷に篭ってばかりもいられないんだ。南インドのケーララとかの善良な人々に馴染むと、その後はしばらくどこに行ってもストレスフルだった。そこには一定の法則性がある。

私自身は凄く感受性の強い繊細な部分と、図太くてふてぶてしい鈍感な部分がない交ぜになった、どっち付かずの中途半端な凡人だと思う。育ちも良くない。
ただ、いつもそういう自分なりの自然体に忠実であろうとしている。柄に合わない真似をすると人並み以下の能力しか発揮出来ないと自覚しているからだ。
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# by catalyticmonk | 2018-04-02 00:31 | 忘れ物 | Comments(0)

家畜は嫌だ

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花見の季節が到来し、東京都内でもそこ彼処で酒宴が繰り広げられている。
若い子は無防備だ、特に田舎から進学、就職で東京に出てきたばかりの若い子は。
そのからくりが上京後数年経って20代前半くらいで分かってくると、上手く騙して餌食にしようとする連中が大勢出てくる。

色々やった後で気付くから、偉ぶって若い子に言うのも気が引ける。だけれど、そこを自分の失敗談込みの、上から目線じゃない切り口で諭す人は、説教臭いとかウザいとか煙たがられても、やはりいないとダメだと思う。
でも、価値観が急速に変わるものだから、大人が自信をなくしている時代な気もする。
社会のモラル水準の低下はそうして起きている。多くの人と共有出来る規範が薄れつつある。

e0296801_07415517.jpgこの状況への不安や不満の反動として、封建社会的だったり復古調な言説・振る舞いへの期待感も拡大した。
未だにネトウヨみたいな感じの連中がゴロゴロいるから、そういう連中が自信をなくすくらいに、官僚や政界、メディア等々の腐敗構造が暴かれていかないと、また表面的な看板の付け替えだけでブームが終わる。

しかも、ハードルは安倍政権の前より上がっている。
何年も前から弱肉強食の強者の論理で当然、みたいな連中がすでに普通に居過ぎるくらいではあった。
なので、今度は脱原発デモ絡みで知り合った過激派みたいな連中の話が意外にまともで、取り敢えずふんふんと聞いていたら某セクトにしばらく追いかけられる、というのが311直後の私だった(笑)。でも、2011年頃なんて、今よりはずっとましだったんだ。
何が違ったか、と言ったら、もっと政治的な発言を避ける人間が多かった。だから、その分、ネトウヨ的な考えでタレントが公然と韓国批判したり、おっさんが飲み会の席で新自由主義的な強者の論理の政治うんちくを語る、なんて姿がまだしも少なかった。


森友問題関連で行なわれた佐川氏の証人喚問が3月27日にあったが、そこでの自民党議員・丸川珠代の質問の気持ち悪さが評判になっている。
でも、昔の彼女はあそこまで胡散臭いキャラクターでもなかった気がする。
何が彼女を変えたのか。もちろん、国会議員として長年与党を担う自民党という巨大な権力文化に触れたせいだ。

人間の心理や、それらの集合としての文化は、それを支える権力や影響力の大小で、人に与える強度を変える。
傍目にはおぞましい発言も、国会議員になって巨大な一種の与党文化の中に組み込まれると、それが絶大な力を発揮するので、厚顔無恥に振る舞えるように後押しされるのだと思う。

e0296801_07460817.jpgだから私は、現行の制度と環境の中でモアベターな選択はしなければならないとは思うものの、基本的にこのようなポピュリズムとコマーシャリズムが支配する社会で、スター視されるもののすべてを警戒している。それは効果的な媚薬だが、そのために猛毒を体内に取り込むような行為に他ならない。
ずっとその方法に期待していては、やがて確実に腐敗に行き着くものだ。社会的動物である人間にとって、虚栄心はいつでも美味しい餌になる。

大衆の側でもそういう原則があまりに忘れ去られ、希薄化している状況の上に、自民党の長期支配がある。
一度も大衆側からの主体的な市民革命が起きていない社会なので、未だに封建的な文化風土が払拭されていないせいでもある。
自民党が嫌だ、という事は、それを改めたいんだ、という部分が一つの忘れてはならない軸である気がする。
仮に安倍政権が終わっても次の偶像に喜んですがりついていきそうな人々ばかりだが、私は家畜になりたくないし、自ら喜んで家畜の役割を果たす人々と一緒に屠殺場に送られたくもない。

それでいいと言うのなら、民主主義など要らない。永遠に王政でいいはずだ。
情報操作によって、国民に評判のいい王室を印象付けていけばいい。しかし、それでは権力の暴走を防げない。主体性のない形で社会の規範を求めても、誰かに支配されるだけだ。
誰かに与えられる規範ではなく、互いに相談し合って決めていける自由が欲しいし、恐怖や強制によって管理されるより建設的な協力に基づく信頼を人間は求めている。
恐怖による支配や強制が社会の持つ中心的役割だとしたら、そんなつまらないもの、守っていたくない、と思う人間が増えていくのは自然だろう。世界は自分だけ上手くズルをして得しようとする連中と、こんなゲームをいつまでもやっていられるか、と暴走する人間で溢れて、どんどん不幸になっていく一方だ。

それが嫌だから、希望を社会にも見出したいから、人間社会は民主主義という困難な理想の実験に足を踏み出した。
そこを広げていくのはこの世界に生きる一人一人の思い以外に何があるのだろう。規範意識の低下と迷走、政治の機能停止、そこを解決に近付けていく道は、そういう次元で全部つながっている気がする。
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# by catalyticmonk | 2018-03-29 00:15 | 希望社会 | Comments(0)

有名人オーラ

麻生太郎でもホリエモンでも、直接会った人は物凄く素晴らしい人だった、って言うんだな。
ただ、彼らくらいの有名人になると、その考えをいろんな場で発言しているから、会って好印象かどうかは分からなくても、やはり自分的には賛同出来る相手ではない、と判断出来る。

ところが彼らは実際にそれなりの地位を持っていて、当然評価する人も現に多い訳だ。地位なりのコミュニケーションスキルを持っている場合も多い。それと人気や地位があると、それが人間的な中身はどうかと思うような人物にまである種の大物オーラを与えるみたいで、何か凄みが出てくるんだな。
ダライラマ法王と会った時なんて、神社か神殿の中みたいな神々しい空気が向こうからのしのし歩いてくる感じがして、びっくりした。人々の尊敬する想いがそういうものを個人に実際に与えるんだと思う。

ダライラマは立派な考えと人格の方だと思うけど、だから基本、評判のいい相手と関わる時ほどそれなりの覚悟が必要になる。
既にその人を評価している人から紹介されて出会って、結果的に自分が違うなあ、と思っても、圧倒的な数の人から自分が知った事実や感想を否定されるし、なんだかんだしがらみ的に言いたくても言えなくなる場合が多い。
その上、紹介してくれた人は最初から相手の信奉者だから、まず簡単には理解も助けもしてくれなくて、なんとか説得してもその人をそれなりの失望や葛藤に巻き込んだりする。地位や名声、権力って恐ろしいんだ。
結構、そういうので何度も強烈な体験をしているので、慎重にはなった。

人間同士がフラットに出会う、というのは本当に大きくて、実際に誰かの紹介があった訳でも、横の鳴り物入りのしがらみがあるのでもない形で有力者に出会うと、ポンと仲良くなれたりする。
そこは人間対人間だからね。
大概、周囲の人に知られるとこちらが熱心な信奉者なんだろうとか勝手に思い込まれるから知られない方がベターなんだけど、こっちは相手をただの等身大の人間としてしか見ていないから、そんなのもお構い無しになる面があって、良かれ悪しかれ、自分の思った通りに相手に反応しやすい。やはり誰かから紹介されて始まる関係よりはずっと楽になる。

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# by catalyticmonk | 2018-03-23 00:13 | 皆影響され翻弄される | Comments(0)

文章と共にある私の精神生活

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私は会話も好きだが、どうせならその時自分が感じたり考えた事を記録に残しておきたい。そっちの方が考えや発想が深まるし熟成されると知っているから、そういう習性なんだ。
目の前にアウトプットする相手がいるかどうかの問題ではない。
外に出す分には会話でしか話せない内容も多いし、未整理な内容をリアルタイムで誰かと共有するのも楽しいけど、ややそういうのだけだとしっくり来ない感がある。

多分、考える速度が人より遅いから、会話だけだと自分の思いが定まらないままに流れていっちゃうタイプなんだな。つまり、文章を書く行為が私の精神生活の生命線なんだ。

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# by catalyticmonk | 2018-03-21 20:41 | 忘れ物 | Comments(0)

何が有益な知識や判断の規準か

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今日は春分の日だが、冷たい雪が降った。しかし、それこそ次の季節を迎える前の休日に、屋内で大切な人とじっくり向き合う時間の口実になるかも知れない。
ヒマラヤでも雨が降ると山道を歩いて遠くには行けなくなるので、そこにたまたま居合わせた人とじっくり語り合ったものだ。
ただ、あまりに選択の余地がないので、正直、私は息が詰まって辟易する事も多かった。なので、私のインドでの楽しい記憶は南インドに集中している。

ところが同時に山暮らしはムラ社会と個人主義の両方の要素が混在している不思議な面があった。
親しい仲間や家族、恋人同士と都会生活とは別の形でプライベートな時間と空間を確保出来る部分もあったのだ。瞑想センターにこもる、なんてオプションもある。
山の村人自身にもテリトリー意識が強くて、他人のプライバシーを土足で踏みにじるものではない、という暗黙の了解が色濃くあるようだった。
インドの聖者がやたらみんな昔からヒマラヤにこもってきたのも、こうした環境が修行に向いていたからなのだろうな、と実感したものだ。

神秘的で、手に負えないほどの荘厳な雰囲気が充満した世界、それがヒマラヤだ。エロティックな出来事も大小あった訳だが、山でのそれは、何かねっとりしたオーラを放っていて、やはり南国の開放感の中での人間関係とまるで違った。


そういった環境因を度外視して構造的に他人との距離感について言うなら、まず私なら基本、自分に向かって一対一で言われている事ならなるべく聴こうと努める。しかし、そもそも興味のない事を強引に聞かされたりする状況だと厳しい、というのがある。

私は学校が大嫌いな子供だったので、他人が自分に興味のない話をして、それを強制的に聞かされる、というのが嫌いだ。
しかし、学校の勉強は今の社会で自分が生きていくために知識や考え方が役に立ったり、資格や学歴が利いてくる場合もある。つまり、他者に何かの情報知識を推奨する上で肝心なのは、それが相手側に有用かどうか、だ。

興味のある人物、特定の相手の話なら積極的に聞くのか、と問われたら、そこも相当怪しい。
若い頃、好きな女の子に話し掛けられた時の事を思い出しても、単純にその子の顔を間近で見ていられるのが嬉しくて聞いているふりをしていただけの部分がかなりあった。浅ましいもんだ。

要は情報の内容に興味を持てるかどうか次第だ。
イメージ作り、つかみのネタ、ブランディング、話の構成を短くやるか長くやるか、その話題をどの相手・場所・媒体で出すか、そういったところが広告宣伝でも重要になってくるではないか。
話の上手い人はそこが器用な人で、その点で言ったら私も全然得意ではないんだが、個人間の会話でもそれは大いに影響してくる。

どんな話も活かし方次第だったりはする。そこを強調して自己努力、自己責任に帰する場合が東洋の精神的文化風土には色濃い。
だけれど同時に、西洋的な懐疑精神の重要性も私は主張したい。そもそも選択権が当人にないと、他者が功利目的に基づいて「それが有益だ」と吹聴して心理操作を仕掛けてきても、一切避けられなくなる。全部を受け入れていたらその人の自由がなくなり、独善的な押し付けがあるばかりだ。
公平に考えるなら当事者に選択権があるのだが、子供のように、まだ先を見通せない相手の判断をどこまで尊重するか、といった問題もまたデリケートな部分だと思う。懐疑精神を尊重しつつも、そこのバランスを取るしかない。

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資本主義社会では、構造上、お金儲けに繋がる事が直接有用である場合は多い。
だけれど、では毎日パソコンの画面でマネーゲームに興じて成功するようなスキルを身に付けれたり、数字上の銀行の預金残高が増えていく結果につながれば必ず幸福なのか。その人は本当は南国で家族と幸せに暮らすのが性に合っていたかも知れない。
こういうスキルを身に付けておくとあなたは将来お金儲けが出来て有用ですよ、と言って親の一方的な価値観、成功哲学を押し付けるのもそこら辺で玉虫色の話になる。

何が成功につながる情報や知識なのか、という問題だけでなく、何がその人の望む好ましい人間関係や人生なのか、といった部分も肝心な中身だ。
いくら億万長者の経営者や裕福な家庭の子息と結婚しても、その結婚相手が好きでなかったらそれでも幸せなのか、という話と同次元でもある。それでもお金があれば後はいいように操縦するから構わない、という人もいるだろう。しかし、それと同様の規準を万人に求められるはずもない。

一見お金や利益につながらないように見えても、その人と共にいる事が自分にとって楽しく幸福だ、という場合もある。私はその事が分からない人は不幸だと思う。
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# by catalyticmonk | 2018-03-21 20:30 | 忘れ物 | Comments(0)

その人自身の命が輝くための自由

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とにかく仲の良い者同士をやっかむ連中って必ず出てくるものだからさ。でも、仲の良いのが一番活気やアイデアも出てくるんだしね。

そういう組み合わせほど絶対アンチが出るし、確かにそういうのについていけない人も出てくるんだけど、それ自体が特に悪どいタッグじゃなければ、どうこう言うべきものでもないし、本来、本人たちが言われても悩む必要はない。
そういうのが外から潰されたり圧迫されなければいいな、と思うね。

自由を愛する者の輝きと、それをいろんな正義を唱えて管理主義的・全体主義的な過干渉や抑圧・支配で潰そうとする連中の軋轢って、実は自分にとって一番核心的なテーマだと最近気が付いてきた。あらゆる政治的な主張、イデオロギー、宗教、人種、国家、地域社会諸々の枠組みを超えてね。

貧乏していてお金が入れば、目先の不自由が減るのでワクワクするけど、それだってお金自体が重要な訳じゃない。お金を追い掛けて不自由になったり、自分が他人の自由を奪う立場になったり、ってのでは本末転倒で馬鹿げている。

大切なものはお金じゃない。誰か他の人が唱える正義でもない。
一人一人の命が輝く事だ。

社会単位ではお互いの命が無用な争いでいつも逼迫していたら勿体ないから、話し合って折り合いをつける必要も出てくるだけでね。それ以上の永遠絶対な正義なんてものもない。
生きている輝きの根っこにはいつも自由が息吹いているものさ。
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# by catalyticmonk | 2018-03-10 03:23 | 忘れ物 | Comments(0)

ヒステリックな管理社会というやつ

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なんか、日本てセコセコしているなあ、って、いつも思っている。ありとあらゆる事が細かいし、気にするからますます問題が増えていく無駄骨感が、もうブラックジョークの次元で。

ドイツ人の友達がエジプトのカイロの宿にいた時の話をしてくれた。
なにせカイロだから、外は当然猛烈に暑い。で、だからホテルのシャワールームにお湯をひねるところのあるいい方の宿だったみたいだけど、向こうの事だからそれが壊れていたみたいなんだ。
エジプトやインドじゃなくてメキシコくらいでも、そんな事はよくある。で、実際、必要性も低いからすぐに直していなかった訳だ。

そこの宿にはドイツ人もイギリス人もフランス人も、いろんな国の旅行者が泊まっていたけれど、誰も文句も言わなかった。なのに日本人客だけが「お湯が出ない!」って大騒ぎしていたんだって。
どうも使えるはずのものが使えないなら苦情を言って当然、という感覚だったみたいで、その要求に対して従業員が面倒がるものだからキレて揉めたらしい。

「日本人とは、どんなに暑い時でもホットシャワーを欲しがる人々だ」と、そのドイツ人の友人は他に数名いたヨーロッパ人の前で厳かに宣言した。もちろん、皮肉で言っていたんだ。
でも、そういうトーンで日本人が海外で笑い者にされている事って多いんだよ。

確かに日本の宿泊施設だったら、そういうので問題視されたりするよね。宿以外でも、飲食店やすべてのサービス業に対して、日本人はお客様は神様です、みたいな感じで几帳面に完璧に対応しようとする。
でも、そんな国、日本だけなんだって。
大概は欧米でもずっとルーズだし、仕事命で責任感バリバリで、私生活まで犠牲にして滅私奉公するのが当然、みたいな厳しい労働水準を求められるの、こんな極端なのは日本だけ。
だから経済大国にもなったけど、目一杯生き辛い。客の立場になると自分が普段からそういうのをさせられているから、意味のない次元までふんぞり返ってクレイマーになりまくる。

日本だとパンチラがどうのとか微妙な事に変態じみた騒動が頻発するけど、今インド時代の写真を見返しても、インドじゃ年中半裸だからね。服は一応着ているけど、隙間を隠すとか、下着が見えたら恥ずかしがるとか、そんな事は一切ない世界だった。男女問わずその辺で野小便していたりするんだもん。一々、そんなもの眺めて興奮しないよ。

そこにいた白人も含めた女の子の着替え方でも本当に大胆で、のぞきだってしようと思えばいくらでも可能な環境な訳だけど、ああいう風にクシャクシャな環境だとさ、なんか、そこにそんなに意識を集中させられないんじゃないかな。
日本みたいにきちんと管理されていて破綻の少ない環境だと、かえって雑音の少ない分、微妙なものに興味や意識を集中させやすくなるのだと思う。

ストレスまみれになりながら頑張ってよく管理された社会を築いてもさ、そういう社会の方が変質者を大量生産する。もう、だから、日本のそういう基準にはついていけない気分だね。
無理して合わせたって、結局はいい方向に向かわないんだもの。この国の中で意識高い系とか左翼系とされている人達もほぼ大体そっち側だから、もう失望を通り越しちゃって。
もっとユルい社会の方がみんな幸せなんだよ。
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# by catalyticmonk | 2018-02-21 00:17 | 忘れ物 | Comments(0)

派手な方達の余生というもの

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インドの瞑想センターとか元植民地の萎びたリゾート地って、なんか凄い人生の果ての人がちょくちょくいる。一緒にいる連中が普通じゃないからさ、ホラでもないと分かる。

向こう、モンスーンで豪雨のヒマラヤ山中の村で、ヨーロピアンのマフィアと一緒に映画『マトリックス』とか観ていたよ。ま、朴訥としたアジア的な村にはかなり場違いな、要塞みたいな建物だったけど。
雨が降ってちゃ山の中は遠くに気軽に行けないからさ、そういう事情があるから、結構あり得ないような人物と懇意になったりするんだよね、山の中の暮らしって。

e0296801_00375373.jpgインドに来て一年目には、チベット文化学校に留学生で来た自分の周りは真面目な人種ばかりで、彼らは見るからに別世界の住人だった。ところが、二年目、三年目には長期滞在外国人社会の横のつながりがどんどん膨らんでいくから、気が付いたら長年の友みたいな扱いで。
それって自分にハクが付いたとかじゃなくて、それだけ彼らが孤独で狭い世界で生きていたからだと考えている。

ヒマラヤは冬には雪で閉ざされて、学校施設も、主だった商業施設も閉鎖されてしまう。だから、長期滞在組は冬には南インドに大挙して移動するんだな。それで、インド中で、山でもデリーでも南インドでも年単位で顔を合わせているとさ、それだけでもう絶大な信頼を得るんだよ、長期在留外国人同士って。
もう、どんな部類の人間かは関係なくなるね。ただ、人間対人間同士の付き合いになる。
スロベニア人の仙人みたいなヨガマスターが、南インドではロシアンマフィアと一緒に会食していたりする。シュールな生活だった。好む好まない以前に、そういう事に無頓着にならないと、やっていられない世界だったんだ。

でも、その時思ったのは、今、自分はとんでもない体験をしているけど、これは「リアル・ワールド」じゃないんだ、ってこと。
リタイアした後の世界で凄い人間に会っていてもさ。表側の世界があった上で存在する裏側の特殊な異境で、ここで展開する出会いや人間劇は全部ある種表の世界の「おまけ」なんだ、って。

若い頃には放浪生活も送っていたから、旅人の人生にも面白さと、それを共有する社会の薄さに対する物寂しさの両方がつきものだってよく知っているけど、アウトローやアウトサイダーのリタイア後の人生もそれに似ているんだ、って思った。

かつてニューエイジ文化で一世を風靡したオピニオンリーダーの、ブームが去った後の余生とか、韓国人作家の隠遁生活とか、そんなのも身近につるんでいたから生々しく見たけど、別にそんな体験は一切口外出来ない。だから、いくら貴重な体験でも意味がないと言えば意味がない。

実際、自分が日本でコミュニケート・ライターもしていた、と言ったら、コミュニケート・ライターの意味がよく分からなかったみたいで、一人のイタリアン・マフィアのボスからは危険視されて、奥さんが日本人のギリシャ人が一生懸命弁護してくれて助かったものの、彼は最後までこちらを警戒している風だった。

e0296801_00441884.jpgだから、今でも具体的な話はほとんど口外しないんだ。将来的に書く気もない。
前に、帰国してからSNSを始めたら海外からハッキングされまくった時期があって、今でもなんかモヤモヤはしている。当時はつながっている友人は海外の友達ばかりだったけれど、今は逆に海外の相手とSNSではあまりつながらないようにしているのはそういう事情だ。
普通に真面目ないい人達もたくさんいたけれど、まあ、怪しい世界の連中の方が数多くて、別にこちらはアウトローの人生に憧れている訳でもなかったから。

自分が大きな流れの中の断片的な存在でしかなくて、それに翻弄され飲み込まれていて主体的には十分に抵抗出来ない、と感じると、どんなゴージャスな体験も、お金や地位も、砂を噛むみたいに味気なくなってしまうものなんだ。
そこでも自分自身の人生を主体的に自己実現出来ているのなら、どこのどんな場所だっていいと思うんだけどね。

でも、派手めな人生を送ってきた人々の、現役引退後の暮らしぶり、って、どうにも悲哀に満ち満ちていて、とにかく本人が今いる場所を本気で地に足をつけていい場所と思っているか、納得して流動的に動いているという自覚があるかしないと辛くなるのだと思う。

クソみたいな国でも今自分の生まれた国に戻ってきているのって、人間関係や経済問題の成り行きとか健康問題も大きかったけど、そういうのも理由の一つにあるな。
自分自身を生きる、これが重要なことさ。
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# by catalyticmonk | 2018-02-21 00:14 | インド生活 | Comments(0)

最高の体験は最高だ

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競争よりもっと中身を取りたいよね。
この世には最高な体験てたくさんあるよ。美味しい食べ物があって、酒を飲めば楽しいし、美しい自然に溢れている。音楽を聴けば気持ちよくて、最高な異性との出会いだってある。体を動かしていい汗をかけば爽快だし、自分のアイデアを形にしていく興奮も堪らない。

それぞれにその人に合うものが違うんだけど、適度にそういう果実を人生に織り込んでいけば、最高の体験は最高だからさ、金とか権力とか意地のための競争とか、そういう実体のないものに窮々としなくなるはずなんだよ。

どんなに真面目な事を考えていたって、満たされていない人の求める事は欠乏感に溢れているから、結局どこかで要らない不自由さや競争が入り込んでくる。
これはいいとか悪いとかの問題じゃない。自然の道理としてそうなる事なんだ。だから、現実的にそれぞれがそこを埋め合わせる工夫をするしかない。

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いい家に住む、好きな服を着る、といった事も幸せのうちだとは思うんだけど、住環境が快適だとかオシャレ出来る喜びといった内実以上に、物欲というハードウェアの方が重視されてしまう、というのも本質的でない部分に振り回されやすくなる要因。

それを追い掛けているうちに感覚的に満たされない人生になってしまったら本末転倒なんだよ。
物質ではなく、感覚的・精神的に満たされている、という事が一番の幸せなんだよね。
物欲はあっていいけれど、中身のない空疎な、ある種自分自身への呪縛としての競争心みたいな化け物に惑わされないようにしないと、内実としての幸福感がどんどん遠退いて行ってしまう。

その根本に内面的に満たされている安心感みたいなものがないと、お金や権力や競争心といったものに囚われて、札束とか金塊とか不動産とか、本質的でない部分にばかり固執していく事になる。
それは魔物だし、実際そういう魔物に心も世の中の仕組みも乗っ取られ過ぎている時代なんだ。
本質を思い出す事が、それをしっかり味わう事が、今の時代に大切だし、個々人の幸福感を高めるのだと思う。
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# by catalyticmonk | 2018-02-16 20:28 | 忘れ物 | Comments(0)

SNSは社会を退化させるのか

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Facebook本社のある当のアメリカでは、結構Facebook離れが進行中らしい。
日本の若者も、最近はSNSはLINEやInstagram主流になってきているな、というのは感じていた。

確かに時期によってSNSの流行り廃りはあると思う。
私も最初は海外の友人に勧められてFacebookを始めて、それは10年くらい前だった。そのアカウントはアカウント乗っ取りもあって一度消して、日本で流行りだしたので、また復活させたという流れだった。

アメリカではFacebookのニュースや情報は、まずフェイクニュースだと思っている人が多い、と知人情報。
仕事や学業などにも影響を与えてしまうようなので、Facebookの利用率が低下してきたと言う。日本とは逆に、高校生くらいの若い年代は別かも知れないが、と。

元々、SNSでの投稿でのコメントやメールだけでの会話は、声や表情を見ていない分、かなり神経も遣う。
最近のアメリカのサンディエゴ州立大学での大規模調査で、SNSを使用する10代の子供達の幸福感がどんどん低くなっているという調査結果が出た。


スマートフォンが子供世代に与えた影響は?

〈毎年1,100万人の若者を対象に行っている調査の中で、私は、十代の若者の態度と振る舞いに変化があることに気が付いた。十代の若者の時間の使い方が、2010年あたりから前の世代と違ったものになり始めていた。そして、2012年あたりには、彼らの精神的満足感に急激な変化が見られ始めた。これらを総合して考えると、世代の境は1995年辺りにあり、この新しいポスト・ミレニアル世代は既に大学にいることになる。

このような若者(ティーンエイジャーや若い大人たち)に共通することが一つある。それは、彼らは少年時代と思春期をスマートフォンの普及に伴い過ごしてきたということだ。〉

〈2015年の調査によると、アメリカの十代の3分の2はiPhoneを所有しているという。このことから、私はこの新しい世代をiGen世代と呼ぶことにした。〉

〈何がiGen世代を特別にしているのだろうか?スマートフォンを持って成長することは、彼らの生活の大部分に影響をもたらした。私が著書の為に行った大規模な調査によると、一日に6時間も彼らはインターネットを使ったり、友達にメールを打ったり、SNS上で過ごしており、他のことに使う時間が制限されている。

この影響は、昔は誰しもが大好きだった、友達と遊ぶ時間にも影響している。パーティーに行くことにおいても、買い物を楽しむことにおいても、映画を見ることにおいても、あてもなくドライブすることにおいても、iGen世代の青年たちはミレニアル世代に比べて非常に消極的である。

iGen世代がミレニアル世代と異なっている点はもう一つある。鬱状態、不安感、孤独感は2012年以降大幅に増加傾向にあり、幸福度は下がっている。

十代の自殺率は、臨床レベルの鬱を患う十代の数と共に、50%以上も上昇しているのだ。〉

〈さらにiGen世代は、他の世代が十代だった頃に比べて、本、雑誌や新聞を読む量がとても少ない。毎年行われる将来モニター調査(Monitoring the Future)によると、自主的に本や雑誌をほぼ毎日読む高校三年生は1980年に60%だったが、2015年には16%まで落ちたという。SAT(Scholastic Assessment Test アメリカの大学進学適性試験)の読解の点が2005年から14点も下がっているのも、その結果かも知れない。大学教員が私に教えてくれたところによると、学生は長い文章を読むのにより苦戦するようになり、課題の教科書をほぼ読んでこないという。〉

〈誤解のないように述べておくと、一日1時間以内の節度のあるスマートフォンとSNS利用はメンタルヘルスに影響がみられない。しかしながら、ほとんどの十代(と大人)はそれよりももっと長くスマートフォンを使っている。

驚くべきことに、iGen世代にインタビューをとったところ、彼らはスマートフォンで友達とコミュニケーションをとることよりも、友達と会って話すことのほうが好きだと答えた。昔は友達と遊びすぎることが、親の悩みの種だった。友達と遊ぶのは、子どもの気を散らすし、悪影響があるし、時間の無駄だった。

今はそれがiGen世代にとって一番欠けているものかもしれない。〉
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また、アメリカの社会問題として、他者と比べたり、そういうSNS上でのリア充な人の投稿や写真を見て、嫉妬などからネガティブな気持ちになって、自殺や拒食、過食症にまでなる10代の子供が増えているそうだ。

ただ、どのみち、もうみんなあまり電話で連絡し合わなくなってきていて、現代社会で何かしら用件を伝える時の連絡網の第一はSNSになってきている。そこはもう後戻りしないだろう。
そして反面では、FacebookなどのSNSに心を救われた、と言う人もいる。

ある、Facebookを通して社会問題に関心の高い人々と多くつながりを持てたらしい知人は次のように述べていた。
「だって、ここでは、電車の遅延に対しても、飛び込み自殺するところまで追い詰められていた人を非難するって、どれだけ社会が疲弊してて、人を悼む感覚が麻痺してるんだろうと嘆く人の方が大半で。実社会で、それまで見聞きしていた人なんか『迷惑なクソ野郎』『早く死ねばいいのにね』と言う人しかいない状況だった。以前の一般社会にいた頃は、人はどれだけ無神経で冷酷で心なんか絶対開けない人ばかりかって思っていたから」と。

幅広い意見を物理的に目の前にある日常以外の外の世界から、しかも自分の意思である程度探し出せる、という点もSNSのそれまでの時代にはなかった大きな利点かも知れない。
また、現実だけの付き合いだったら、お互いそんな深い所まで知る事はなかっただろうな、と思うような、密度の濃い対話が時折発生するのも事実だ。文章表現でしか練り上げられない内容、若しくは会話ではなかなか語る機会のない思いというものは存在する訳で、そこの各人の自己表現そのものは否定すべきものではないし、その機会をSNSが拡大させた側面もあるのだろう。

ただ同時に、文章でこそ、会話以上に細かい考えの襞まで知れる相手もいる一方で、直接会って一杯飲んで会話するとよく分かるのに、文章を通してだとディテールを表現する事も理解する事も今一つ苦手らしくて混線するだけ、という相手もいる。
だから、文章を通したコミュニケーション手段は相手を選ばないと効率が良くない、というのも一面の真実だとは思う。


日本だと中高年の、ある程度ITを扱う層は、特にFBやTwitterを利用しているようだ。
それに関する記事には以下のようなものがある。

シニアが利用しているSNS上位は「Facebook、Twitter」、利用状況Facebookは「近況投稿」Twitterは「閲覧のみ」が最多

シニアの生活意識調査:ソニー生命調べ

そして、次の記事が日本のシニア世代のFacebook優位傾向について、なかなか面白い分析を述べている。

なぜシニア世代は「Facebook」を好むのか? その理由に思わず納得

〈シニア世代はもちろん写真も大切ですが、やはり文字を使って自分の状況や思いを語りたい、知らせたいという思いが強いのです。だから、誰だかわからない匿名やニックネームでの利用は論外です。写真がメインのInstagramも同様です。
また、若いうちは、今日、どこでどうしたということを投稿して、多くの「いいね!」を稼ぐ一過性の評価で満足かもしれませんが、シニアの場合は、記録性を求めます。その事柄とのかかわり、それへの思い、関連する知識や経験(つまり蘊蓄)などを語る一種の自己表現手段として利用している面もあるのです。〉

〈確かに、Facebookのシニア世代の投稿では、文字数が多い傾向があります。自身のブログに誘導する人もいますが、なかには、写真はなしで、延々と近況や思いを語る長文投稿も少なくありません。

そんなものを誰が読むのかと思うかもしれませんが、その人は、どのくらい自分の言いたいことを表現できたかに重きを置いているのであって、読まれるかどうかはそれほど気にしていないかもしれないのです。〉


まあ、私自身も元からブログを書いているので、Facebookはその延長、及びブログ記事の予行演習という側面がある。まさに「一種の自己表現手段として利用している」訳だ。

だから、直接SNS上で拡散性がなくても、そこで文章表現でしか練り上げられない内容、若しくは会話ではなかなか語る機会のない思いをまとめ上げる練習になればいい、という感覚はある。
つまり、SNS上の記録性はさほど期待していないけれども、その前段階くらいの意識で、そこに一から十まで全部自分一人の頭の中で練り上げるのでない程良いリアクションも得られればいい、といったところか。

だから、私のように文章表現が元から自己表現の一角を占めている人間にとっては、必ずしもマイナスな話ばかりでもない。
SNSがあろうがなかろうが、文章を結局書いてきたから、それを日常的に小出しにする窓口は確かに増えた訳だ。
インドに住んでいた頃など、まだSNSは何も利用していなくて、膨大な量の手記を一人で書き溜めていたが、SNSがあれば、ああした雑記も少しずつ流す機会はあった事だろう。
ただ、やはり文章を通した議論やコミュニケーションのやり取りというもの自体の厄介さ、面倒臭さは非常に感じている。


とどのつまり整理して考えるに、情報発信や連絡ツールとしての利便性そのものが問題なのではない。
他の本来あるべきリアルなコミュニケーションの機会を減らしてまで、代替のコミュニケーション手段として増幅させてしまうと、人間の社会生活や幸福度にとって有害なのがSNSではあって、そこに誘導させていく催眠力のようなものこそが、現代社会でSNSが発揮してしまっている最大の危険性であり、課題点なのではないだろうか。
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# by catalyticmonk | 2018-02-09 00:52 | 高度情報化社会とSNSに感ずる諸々 | Comments(0)

ワクワクして生きること

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せっかく生きているんだからね、どうせなら何かにワクワクして生きた方がいい。
でも変わらぬ日々に倦んで、それを悩みとして打ち明ける人がいる。
良かったね、と言う。未来に希望を持つには自分の不満も直視出来た方がいい。

ただ耐えて我慢する方向だと自分が何を望んでいるかすら見えなくなる。
人間は希望で生きる。生きるって事は、希望を失わない事と自分を信じる事で命の輝きを保つものだ、と個人的に捉えている。

私は育ち方の影響もあってどうも今一つ人に頼ったり甘えたりが出来ない人なんだけど、でも、悩みを打ち明けられる人って強いと思うんだね。
それで、いろんな人の意見を聞いて、自分でも色々考えているうちに自分自身の考えも固まってくるし、そうすると自分で自分が信じられるようになる。

この、「自分を信じる」って事が重要なんだと思うんだ。自分を信じて、自分自身が自分の人生の主役であり舵取り役だ、となると、そこに解放感と希望が勝手に湧いてくるものなんだよね。
誰か他人から与えられたほんの少しの安定と、快楽なんて、モヤモヤしているし、どんどん感動がなくなってシニカルで怠惰な方向に行くんだと思う。

別に悩んだって、もがき苦しんだっていいのさ。誰しも上手くはいかない事はある。自分一人の力でどうしようもない事もある。
でも、それで絶望するか、自分の心を偽って「これでいいんだ」なんて思い込まない限り、その人の心は絶えず未来に開かれているし、そうすれば必ずいつかきっと、また次の最高の瞬間が訪れるんだって。


若者がますます強い閉塞感を抱えて生きているらしい事が分かってきて、改めて色々考えさせられるんだけど、まず、日本人の昔からある美徳って、「忍耐」と「謙遜」と「協調性」だったりするじゃん。

それも、ある時点のある場合には正しい節度や道理を表してはいるんだけど、現実問題、人間が困難にぶち当たった時に、
「現状で我慢しろ」
「お前の悩みなんて大したことない」
という、目に見えない形でその人の個性や希望を押し殺す重圧となって働いてしまいがちなんだな。
多様性よりも社会に従属させる事が重要とされていると言うか、現状維持による社会秩序確保、というのを過度に個人に求めてしまう文化なんだ。

だから、そこで強烈に歪んでしまう人が多いんだと思う。
その自分自身の人生を抑圧しながら生きている不満を、別の相手に違う形でぶつけたりするから、これだけ弱いものいじめの社会だし、屈折した欲求不満解消的な文化が多いんだろうね。

少なくとも何かが自分の望みと違ってすぐには納得出来ない、だから不満なんだ、葛藤があるんだ、ってなる事自体は恥ずかしいものではないし、ネガティブな衝動でもない。
それを通して自分が信じられるようになっていければいいだけだ。悩んだり軌道修正しながらでも揺らがない自分自身の中の自立した芯みたいなものは宝物だから。

その自分なりの自立した心の自由さで、いろんな面白味や感動を世界の中に見つけていって、少しずつでも明日にワクワクしていられる火種をつなげていければ、それでいいのさ。

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# by catalyticmonk | 2018-01-31 19:28 | 忘れ物 | Comments(0)

日本人の差別意識

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先日、専修大学の長谷川宏教授が「そもそも日本は『差別をなくす』=『障がい者用設備をつくる』+『差別用語狩り』というものすごく浅い理解で、「差別」の本質について真剣に考えた経験がある人が圧倒的に少ない」「『差別をしない』=『差別用語を使わない』みたいな極端に浅い『差別をなくそう』みたいなのが日本には蔓延していて、本質をまったく考えないその思考停止ぶりにいつもイライラする」などと仰られていた。
私が日頃から感じているところと全く同じで、とても共感した。

それはどういう事か。

例えば、誰しも何かしら差別的な待遇、屈辱感を味わった経験からそれを撥ね退けようとして、そのような気持ちが何かの動機になる、という事は往々にしてあると思う。逆境こそ人を強くする、というのは真実で、そうやって奮起する事自体はとても前向きで健全な行為だと思う。

だけれど、体躯が小さい事で軽んじられる人もいれば、体が大きい事がコンプレックスで苦しんできた人もいる。女性だからと侮られて悔しかった人もいれば、男の子なのに女の子みたいな顔つきだ、趣味が男の子らしくない、といった理由でいじめられていた人もいる。

だから、自分の尊厳が軽んじられ侮辱されてきた部分に対して怒り、それをきっかけとして何かの動機を得るのは全然おかしくないし、勇気も要る事だけれども、自分が悔しかった原因と正反対のものを即攻撃的に扱うのは、悪循環にしかならない。

日本人は差別問題の本質として、中身は何であれ自分とは違う他者の多様性や尊厳を尊重する事が大切だ、という点、社会的道義性はそこで対等に関わる事によって獲得される、という根本に思考がなかなか追いついていかない。

貧乏だから擦り切れた袖のシャツを着ている人を無様だとクスクス笑う人も差別的だけれども、「貧乏」=「正義」のはずもない。
「脱原発」とか何か共通の目的があって、たまたま生まれた家が裕福だった人が、一人で貧しい育ちの集団に紛れ込んできた時に、「お嬢様ぶりやがって」だの「話し方がイラつく」だの、低レベルかつ感情的な理由で邪険に扱ったとしたら、それもまた立派な差別だ。

差別を問題にするのであれば、そういった場合に考えた方がいい。自分もまた同じように偏見や思い込みで相手の尊厳を踏みにじり、関係のない第三者に対して侮辱行為をしているに他ならないんだ、と。
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# by catalyticmonk | 2018-01-30 23:48 | 人権 | Comments(0)

「清貧」とは、「極貧」じゃない

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2018年1月28日に、自立生活サポートセンター・もやいとエキタス主催で「生活保護引き下げるな新宿アルタ前街宣」が開催された。

もやい事務局長の加藤歩さんや立憲民主党代表代行の長妻昭議員、日本共産党・小池晃参議院議員、エキタスのメンバー、ジャーナリストの安田浩一さん、作家・活動家の雨宮処凛さん、自由党・山本太郎参議院議員等々、多くの登壇者。

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e0296801_18545334.jpgちなみに、ちょうど山本太郎議員の演説中にどんどん日が暮れて行き、暗くなり、演説する山本氏の唇も紫色に変色しているのが分かった。
私も寒いから途中で帰ろうかと思ったくらい。
言われていた内容は多岐にわたっていたが、何気に生活保護受給者女性のスピーチが一番印象に残った。なので、閉会後に少し話し掛ける。

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簡単に個人的感想だけ書くと、清貧とか言うけれど、貧乏が一番心の毒だと感じる。冬場に暖房費削ったり、女性が最低限の身だしなみさえ十分に出来なかったり、食費を削る、風呂なしで暮らしシャワーもたまにしか浴びれない等々。
それよりは借金でも、忙しくても、まず今なんとか人間らしい暮らしが出来ればずっとマシ、と私なら思ってしまう。

でも、それがマシだ、となって、現実的な選択肢を狭められ、怯えるように仕事に追われなきゃいけない人が大勢いる社会で、大企業が内部留保貯めまくりとか、法人税を減税して消費税を上げるとか、それもよっぽどおかしい。

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あくせく金ばかり追い求めるよりは清貧でももっと精神的に満足出来る生活を、という言い分も分かるんだけど。でも、そこで言われている「清貧」とは、「極貧」じゃない。
で、年金だけでは暮らせなかったり、そうした収入もない老人、障がい者や病気を抱えている人達などが生活保護を頼る訳だが、これまで税金を国に納めてきた人達が、いざ困ったら、なかなか社会保障は受けられないし、生活保護費もどんどん下げられていく。

山本議員が「企業に使い潰されて、中曽根、小泉・竹中、そして安倍政権と自民党が段階的にそういう状況をつくってきて、その上に生活保護を切り下げる」「政治を監視してください」「ないところから取るな!あるところから取れ!」みたいな事を言っていたけれど、いや、本当にそうなんだよ。

大して苦労していない、本当の貧乏も知らない奴が何故か「清貧」みたいな理想を語る時がある。あれこそふざけるな!って思うな。
安倍内閣の連中が言う言説もよくそうなっているでしょ。
みんなが支え合って人間らしく生きていける国づくりをしましょう。そのためのしっかりとした代弁者を議会にもっと送ってもいきましょう。

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# by catalyticmonk | 2018-01-29 00:20 | 希望社会 | Comments(0)

すれ違いざまにキモいと言う若者

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すれ違いざまに「キモっ」…知らない人に容姿を批判された人


ああ、今の若者達、やっぱり頻繁にこういう事をしていたんだ。なんか他の人に聞くと「そんな事言われないよ」なんて返答が多いものだから、「自分だけなのか?」と余計に不愉快だったのだけれども。
すれ違いざまに若者にキモいと言われる、って検索してみたら出てくる、出てくる。「キモい」とか「キショい」とか、聞いただけでイラッとする言葉を言って過ぎ去っていくよね。








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「言ってくるのは複数人で、こっちがひとりのときが多い。ひとりではなにもできないけど、群れの中にいると調子に乗ってしまうのでしょう」(20代女性)

「『なんか用?』と声をかけたら、『い、いや…』とびっくりして逃げていきました。そんなにヘタレなら、最初から言うなって話」(20代男性)

まさにそんな感じ。
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「高収入ほど知らない人から容姿を批判されている」というデータも示されているけれど、それはもちろん私は違う。でも、案外こてこての工事現場の帰り道の服装の人達はそんな目にあまり遭わないのも実体験として知っている。
物凄く姑息な基準でやっている、まさに卑怯者の弱い者いじめ精神という事だ。

私のように相手に直接怒れる人間ならまだいい。大人げない、とよく言われるが、相手を呼び止めて「おい、君ら、今なんて言った?」と確認するくらいだから。そうすると次から怖がられるから、少なくとも同じ事はしばらくなくなる。

結構この話は今の時代の核心部分だと思っている。
なんでもかんでも管理社会化が進んで、過度に他人をバッシングしたり、責任追及して、おおらかさの欠けた閉塞感漂う嫌な時代になってきている。今の時代にこの国で暮らす人々、特にその中でも若い世代ほどガチガチに規則や監視の目に曝されているからこそ、一番誰からも確証持って追及されにくい形の陰湿な嫌がらせ方法を進化させてしまうのだろう。
その流れの中に人権派や頭の固い古い左翼みたいな人などもほとんど飲まれてしまっている。センスのいい人なら、ちょっともう従来とは違うアプローチを考えないとな、という疑問や危惧を抱き出しているはずだ。

いろんな記事を読んだり、自身でも見聞きし、感じ取っている世の空気を総合すると、やはり事態の深刻さを痛感する。決して浅い次元の昔ながらのありふれた定番を繰り返しているだけでもない。
それを学校内で同級生にやったり、知らない相手でも若くてデリケートなうちに道端で言われているうちに、それが引き金になってノイローゼになったり、うつ病になったり、持たなくてもいいコンプレックスを抱えたりしてしまう若者が大勢いるみたいじゃないか。
それが一番許せない。昔の自分が悔しかったいじめられっ子時代の記憶も思い出してね。

私は小学校3年生くらいからは腕白な部類になっていったから、本当のいじめられっ子は保育園時代から小学校低学年にかけてまでだが、それもいじめられたから仕方なく腕白になったんだ。
その記憶があるから、弱い者いじめは絶対にしなかったし、している奴がいると本気で怒った。

「すれ違いざまに悪口を言う醜い人々」という現象自体は、やはり昔からある世の常のようだが、今はコンパクトにハイコンテクストな言葉で「キモッ!」とか「キショい」と言って、よりお手軽かつ頻繁にそれが出来るような風潮になってきてしまった、という事なのではないか。
「ねえ、あの人、ヤバくない?」と普通のおとなしい子が大して悪びれる様子もなく言えてしまう環境になってきた、というね。

前の記事(『現代日本の若者事情とハイコンテクスト文化』http://catalytic.exblog.jp/26637232/)でも書いたけれど、次のように言っていたその年代の女の子がいたね。「塾やら通信教育やらと、教育にお金がかかる時代になり、経済の層が固定化されやすくなってしまった。そんな背景もあってか、親の期待する範囲内で親に無理がかからない程度のレベルで自分の人生の道筋を決める子が尊いと言われる世代なので、反骨心が弱い代わりに燻らせているものも多く、こんな特徴が出てくるのかな」、と。
もちろんいろんな個性の若者がいるし、複数の要素が絡み合っているんだろうけど、世で言われている「個性なくなんとなく無難に生きていければ良いみたいな若者」「反骨心が弱い従順な若者」という部分では、特にそんな感じかも知れない。

ぶっちゃけ、他人に「キモい」と言った人間は決闘を申し込んだのと同様と認める法律を作ってもらって、片っ端からぶん殴りたいんだけど。なんで赤の他人にそんな挑発受けて我慢してなきゃならないの。おかしいでしょ、それ。
家族思いの子が多い反面、友達から言われて一番不快な言葉が「個性的」だとか、ある意味最も私が嫌いな方向に進化してもいると言うか、腐り切ってんなあ、と思う面もある。

日本だとお笑い芸人の松本人志がひとを揶揄い笑いものにする行為を「いじり」だ、と呼んで、いじめや嫌がらせに類する行為への社会的抵抗感のハードルを下げた、という影響もあると思う。
そもそも全世界規模で家族や共同体が市場原理によって解体されていった事により、道徳がますます希薄化しているから、もっと根の深い問題な気もする。
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# by catalyticmonk | 2018-01-24 00:00 | 異端者を作り出し疎外する社会 | Comments(0)

現代日本の若者事情とハイコンテクスト文化

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誉めるのでも貶すでもなく、昭和46年生まれの私が10代20代に感じる世代差の率直な感覚。
まず、言葉の違い。「は?」がやたら多い。
「ぶっひゃっひゃひゃ、マジですか、それー!もう勘弁して下さいよ」「マジ、それキモくね?」「マジでそれヤバく感じるんだけど」などと「マジ」とか「キモい/キモッ」も多用する。

ただ、私の世代以降二極化が強まったヤンキー系とオタク文化系のどちらかの流れと文脈で相手を判断する傾向は、中間型が認識されつつも、さらにその溝と対立が深まっている様子。

全体的に、昔の若者より腰が低く、従順。同時に恐らく私や私と同世代か、それ以上の年代のイメージするような若者らしい純粋さが薄く、ひねくれていて、にも関わらず若くしておじさん・おばさん臭くもある。


その世代ごとに既存文化や前の世代への反骨精神と言うか、権威主義への反動と発散として、スラングや俗語がどんどん生まれてくる事自体はおかしな話だと思わない。
ただ、一つの言葉が状況によりけりで指す意味が細かく違い、会話もハイコンテクストなこと極まりない。
「マジ卍」なんて言葉もある。要するに「マジ」から派生したようだが、「卍卍」だと「マジ?マジ?」と似たニュアンスになって「やったー!」、「マジ卍」だと「マジでマジで?」を一歩進めた意味で「あり得ない」くらいの意味合いになったりするらしい。
「ありよりのなし」とか。「あり得なくはないけれど、多分違う」と言わないで省略して凝縮した意味合いでポンポン言うのが彼らなりの粋のようだ(参考:https://www.youtube.com/watch?time_continue=192&v=mRK6nERZi3A)。

最近では、大人が読んでもいじめと分からないような、字面の言葉とはまるで違う意味で言葉を使う「反語」なる手法まで出てきてそうだ。これは、直接その世代の女性から聞いた話だ。
悪意が特定しにくいいじめの手法がどんどん進化しているっぽいのは感じていた。
だけれど、上の世代の人にはそうとほとんど分からない。直接に接して、自分が当事者になってみて、ようやく「あれ?何この訳の分からない感じ??」となるのだが、当然、年上の世代にはそのスキルを全面的には使用しないのだろうし、少しだけ使われて訳が分からないままけむに巻かれる年長者が大半なんだな、となんとなく感じなくもなくて。
私のように反応が早い相手には「ヤバい」となってサッと引っ込めて終わるから、そこでは相当な世代間ギャップが出来つつあるんじゃないか。

なお悪いパターンが容易に想像つくのであって、本来、いじめを受けた子供をサポートする立場の学校の教師やケースワーカー、医師らといった大人が、浅い理解しかしなくて、事態を軽く見なしがちなんじゃないか、と現に今どきのいじめの事例をたまに聞いていても思っていたところ、先述の女性から次のような証言を得る。一個人の視点だろうが、私より若い当事者の世代に証言されると説得力があったのも事実だ。

「上の世代に対して猫を被るのも異常に上手い子が多い世代なので、問題の深刻さがなかなか他世代には分かりにくいのがまた余計に深刻」「鋭く人を見極める方が相手だと上手く戦法を変える術も持っているので、いじめ等を見抜かねばならない教育の現場が立ち行かなくなる理由も分かる」。

「結局、親とかなんかが、自分の子どもがそんなハイコンテクストなコミュニケーションの問題の中で生きている複雑な生命体だと認めたくないがために、問題を軽く認識しがちなのも理由かな、と思います。
まあ、誰だって自分の子どもには単純で素直であっけらかんとした想像通りの“子ども”でいてほしいですもんね」

「それから、河元さんのご投稿にあるヤンキー系とオタク系に関しては(注:最初はFacebook上に同内容で投稿し、そのレスポンスで得た内容がこれだ)、地域や家庭の経済レベルに直結して、より貧困層(ヤンキー系)と富裕層(オタク系)に二分化している世代でもある気がしています。
塾やら通信教育やらと、教育にお金がかかる時代になり、経済の層が固定化されやすくなってしまったためかも知れません。
そんな背景もあってか、親の期待する範囲内で親に無理がかからない程度のレベルで自分の人生の道筋を決める子が尊いと言われる世代なので、反骨心が弱い代わりに燻らせているものも多く、こんな特徴が出てくるのかな、と感じます」


私が暮らしているエリア・府中を見ていると、家庭が中小の工事会社を経営していたり、管理職的な立場の人が親でそんなに貧乏でもない子供や大人、という設定の中間層が今でも多い。府中でお金を持っている人達もそれを地域社会に還元しようという気持ちが伝統的に強いので、柔軟性の高い庶民文化が保たれていると言うか。そうした事もあってか、文化的にも二極化されていない面を感じる。
でも、それは例外中の例外なパターンなのかも知れない。やはり府中にも経済差による二極化傾向は見え隠れしている気もする。

実際言われてみれば、渋谷のアパレル関係でド派手な格好の若者が案外貧乏だったりして、彼らの少なくない者が成金主義的な憧れを持っているのも、そこの反動と関連がありそうだ。
やはり、経済環境とヤンキー文化・オタク文化の二極化がかなり同期している部分は大きいのかも知れない。
そうだとすると、やはり政治的に社会の経済格差をなくしていく事と、人権教育、有機的な地域のつながり・交流、その辺が解決の鍵なのか。
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# by catalyticmonk | 2018-01-17 22:12 | ハイコンテクスト文化 | Comments(0)

ドロシー嬢を破滅させた銀幕魔界の話

映画「オズの魔法使」の3つの「ウソ」からわかるテクニカラーの歴史

1974年の「ゴッドファーザーPART2」の製作を最後に、Technicolorのプリント施設が閉鎖され、テクニカラーの時代が幕を閉じることとなった、って。そんな後までテクニカラーの時代があったんだなあ。

それはさておき、映画「オズの魔法使」でドロシーを演じた若き日のジュディ・ガーランドはまさに私のど真ん中で、それを語るいい機会なので、勝手に語り出す。
彼女くらい清純なイメージと乖離した破滅的な人生も珍しい。改めて調べてみてクラクラした。

「オズの魔法使」は、子供の頃はテレビでたまに再放送されていてもあまり興味が湧かなかった気がする。興味を持った理由は単純で、高校生の時にロック・バンドのレインボーのライブ盤のオープニングでドロシー嬢の声のサンプリングが使われており、それが数秒間なのに天使のように可愛らしく印象的で、映像を観たらもっと可愛いのでぶっ飛んだ、という流れだ。
でも往年のロックを一通りチェックした世代の男性なら、案外そういう人も珍しくないのではないか。

私は普通に音源で聴いたのが最初だが、そのレインボーのライブ映像があった。動画の26秒目くらいからジュディ・ガーランド演じるドロシー嬢の魔法のように魅力的な声のサンプリング音声が流れ出す。

オズの魔法使(The Wizard of Oz) - Part 1

ジュディ・ガーランドの人生は、もう戦前・戦後のアメリカのハリウッド映画界の乱れっぷりを濃縮反映したような猛烈なものだ。
娘の同じく女優であり歌手のライザ・ミネリによると、「母はハリウッドに殺された」のだそうで、13歳から薬漬けにされた美少女は徐々に精神を病み、FBIにもマークされるほどの薬物中毒に陥り、1969年、遂には睡眠薬の過剰摂取にてこの世を去る。

10代の娘にダイエットさせようと当時合法だった覚醒剤を勧めたり、そもそも1935年に大手映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約する時にも、プロデューサーのアーサー・フリードが当時13歳のジュディと性的関係を持っていたため、他の候補者を蹴って契約を結んだとか、もう無茶苦茶で(https://matome.naver.jp/odai/2141958289562043101)、娘を持つ親なら絶対に近付けてはいけない世界の典型な気がする。
今はそうでもない場合もあるのかも知れないが、芸術文化・音楽・芸能業界は古今東西問わず昔から乱れている方が通常運行だったよう。それにしてもハリウッドは酷過ぎる。

肝心の「オズの魔法使」の制作時の逸話も悪魔的。
ガーランドの元夫シド・ラフト氏が回想録「Judy and I: My Life with Judy Garland」の中で、ガーランドは性的嫌がらせを受けていたと告白している。
「オズの魔法使」で、ドロシーを黄色のレンガ道に案内するマンチキンを演じた俳優たち数人が、当時10代のガーランドに性的嫌がらせをしたと、ラフト氏は本の中で訴えている。見事に夢をぶち壊してくれるじゃないか。

雑誌『ピープル』の特集には、「彼らはセットの中で、ジュディのドレスの中に手を入れたんです。彼女の人生は台なしになってしまいました…マンチキンの男たちは40歳かそれ以上でした」と記されている。
「彼らは自分たちがとても小さいので、何も罪を問われないと思っていたんです」
本人も「彼らは毎晩襲ってきましたよ」と告白していた(http://www.huffingtonpost.jp/2017/02/09/judy-garland_n_14650996.html)。

なんと言うか、邪悪な世界そのもの、といった感じだ。それにぐしゃぐしゃに潰された波乱の人生。
それでも、こんなに魅力的な「オズの魔法使」でのジュディ・ガーランド。
薄幸にして劇的流転の人生の代表例と言うか。可愛い娘は虚飾の世界に入れると大変なことになるかも知れない。
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# by catalyticmonk | 2018-01-17 21:33 | ハリウッド | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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