紙一重
ネパールの首都カトマンドゥの某瞑想センターで、俺と俺のセンター内で同室のドイツ人がそこで赤痢になったのは2005年のことだった。同じ年に別のドイツ系ポーランド人の友人もそこでツツガムシ病になった。
自分とルームメイトはコース後すぐに発症したので、そこで感染したことは間違いない。ドイツ系ポーランド人の友人は10日間の瞑想コース中に容態急変、地元の病院に行っても原因が特定されず、飛行機でガールフレンドの住む日本にまで行き東京の病院でようやくツツガムシ病と判明した。
そのワールドワイドな瞑想センターのカトマンドゥ道場には、コース中にこれまた世界的有名人である高齢のセンター創始者自身も生徒の前に現れることもあったし、経験豊かな古参の大変風格ある指導者の先生方が多くいらっしゃったから、そのセンター施設そのものの風光明媚さも相まってとても評判の場所だった。
が、たて続いて自分自身と身近な知り合いが結構な伝染病を患ったのは事実だから、そうした一般的に参加者にとって魅力的な要素とは当然分けて見ていくべきだ。
俺とルームメイトの感染した病気は、アメーバ赤痢若しくは細菌性赤痢だった。
腸内にガスがたまり、痙攣性の腹痛。全身の倦怠感、悪寒を伴う高熱。長雨の続くカトマンドゥの安宿でがたがた震えながら悶絶することとなった。
大腸・直腸・肝臓に潰瘍を生じ、いちごゼリー状の粘液血便を一日数回~数十回する。量はあまり多くなく、粘液や膿状物に新鮮血が線状・点状に付着し精液臭がある。
俺の場合はまさに一日二十数回ほど膿粘血便が出て、毎日水を買いに外に出るのも冷や汗もので、十日間ほどは完全な絶食状態だった。一時は真剣に自分は死ぬんだろうか、とさえ思ったのだが、目の前にある病気の苦しさの方が先で不思議と恐怖心はまったくなかった。
回復後の俺はまさにガリガリで、二度と体験したいとは思わない。
治療方法としてはメトロニダゾール、テトラサイクリンなどを投与する。放って置くと慢性化し、再発しやすくなる。
通常は発症しても軽症だが、衰弱により死亡することもある。原虫が門脈を経由し肝臓に達し腸外アメーバ症を発症する。
感染源は回復期患者、サル、ネズミ、シストに汚染された飲食物などであり、感染経路はシストの経口感染。ハエ、ゴキブリによる機械的伝播も起こるそうだ。
コース直後に飛行機に乗ってバンコクへ行ったルームメイトはタイ到着直後に発症し、タイ訪問の直接の目的でもあった同瞑想センターのタイの某道場でコースを受ける予定をキャンセルして緊急入院、俺はというと三週間目くらいから薬局で処方された薬を飲んで治しただけだが、これはインド・ネパールの医療事情を書かないと理解できない話かも知れない。
インド・ネパールは病院などにはいけない貧困層が圧倒的多数なので、大多数のひとがただの薬局をすべての病気に対する頼りとしている。なので、薬局が簡単な問診と診断、薬の処方までしてくれるのだ。
俺も薬局でアメーバ赤痢と診断され、メトロニダゾール、テトラサイクリンなどを飲んだら事実それまでの猛烈な症状が徐々に収まり回復していった訳だ。恐るべし、ネパールの薬局。しかし、この「頼りになる薬屋さん」現象はその後インドでも度々経験することになる。
俺自身コース自体は良い経験だったし、別の多くの知り合いも同じセンターでコースを受け、大変歓喜極まる様子で語るのを幾度となく直接耳にした。しかし、俺たちのそうした感染症事件を語ると、「それはあなたたちのカルマが体の表に出たんじゃないの? センターのご飯も最高においしかったよ」などといった調子の反駁をされること度々だったので閉口した。
ところで、瞑想に関心を持ったことのない人に「瞑想」なんて言うと、何かとても精神的な、ある種気の持ちようのような次元の話のように想像する方もいるようだが、実際ある種の瞑想は生理学的なテクニックであり、身体感覚の上でも劇的な特異体験を呼び起こす。それが意識ならば意識状態を変え価値観に影響を与えるのはなおのことだ。
そうした事前には想像だにしなかった強烈な体験が、瞑想体験者の中でそれを与えてくれた技法や組織に対する熱烈な信奉・崇拝につながりやすい。
それらの出来事は2005年頃で、その後当地の瞑想センターに問題はなくなったかも知れない。
しかし刑務所から直接送られてくるネパール人受刑者のコース参加者を受け入れていたこともあり、不可測に何らかのウィルスが度々持ち込まれていた可能性も否定できない気がする。
そうした衛生問題に具体的に警鐘を鳴らそうとしたところ、前述のようなコミュニテーの壁にぶち当たり、俺自身が一ヶ月ほど赤痢の闘病で疲弊したこともありセンターそのものへ掛け合う前にネパールのビザ期間も終わり、出国せざるを得なかった。
さらに後に先述のポーランド人の友人の出来事を知るに至り、彼の件を周囲がなんて言っているかをネパールからインドに戻ってから俺は第三者として聞けたのだが、気の毒にも彼の病気もヒッピー然とした彼の「カルマのせい」であるという風評がほとんどだった。しかも本人がいないところでのコース経験者の意見は、彼の容体を気遣うどころかかなり非難めいた・しかし何故か軽やかな口調で論評しており、それを目の当たりにした自分は、
「こうしたことは公平な態度ではないし、人倫にもとる薄情さは、この一見善良な様子の人々になぜ引き起こされるのだろう?
こんな風に新たな偏見を持った集団を生み出すためにやったコースだったと言うのか。
それほどまでに何かを理想化したいこいつらの中にこそ大きな不安や自信のなさがあるんじゃないの?」
等々と思わざるを得なかった。
俺もインドとネパールでその瞑想センターの共同体の中に一年間ほどいたのだが、雰囲気や事情は地域や時期、そしてもちろん体験する個人ごとにもまちまちのようだった。
その上での、あくまで俺一個人の体験談なのだけれども、身近にたて続いてウィルス性感染が起こった事実が、最後までそれが門下生の間で「普通に生活してても赤痢だ肝炎だってそこらじゅうで感染する機会のあるインドやネパールにいるのだから」、そんなエピソードは取るに足らないという強引な理屈まで用いて済まされていった経緯は、今でも非常に危惧すべき出来事の未解決体験として記憶に残っている。
たとえインド周辺国の衛生事情が元来悪くウィルスが巷にあふれているにしろ、センターの中に入ったら一定期間参加者はそこから出れないし、赤子のように無防備な状態で身を預けるのだから、それを仕方ないことのように言って看過するのは次元の違う話だということくらい分別のある大人ならば分かるはずだ。
それがコミュニティー内でどうしても「その人間のカルマが表面化するということはフィジカルにはそういうものだ」とか、「そのようなことを意識するあなたの世界観の投影が問題を作り出していることに気付くべきです」などといった観念論や個人攻撃に極めて速やかに結び付けられ、転化されていき、もっともらしく集団内で正当化される過程を目の当たりにして、俺は瞑想技法により得られた経験そのものは非常に素晴らしいものだったにも関わらず、そうしたサークルと次第に距離を置くようになっていく。
非常に苦渋の選択だったが、俺はいつでも付和雷同を嫌う人間なのだった。
考えても見て欲しい。いったい医療面など現実的な問題にさえ一切他からの批判や疑念を受け付けない集団とは、どのような自浄作用や責任ある管理能力を持ち得るものなのだろうか??
日本でのオウム真理教や他のカルト宗教、さらには仲間に自己総括を強いては粛清していった連合赤軍などの全共闘世代の過激派と奇異なほど類似した姿がすぐ目の前にある気がした。しかし、それはそんな特別な場所や人間に限って起こる現象ではないのかも知れない。
自分の理想像や希望的観測を現実認識と混同することこそ、あらゆる偏見や愚行の源であり、事実をありのままに受け入れその場その場で判断していく勇気こそ難しくとも本当の知恵というものなのではないだろうか?
しかしまた、俺も含め、それがなかなか出来ないのが人間というものなのかも知れない。
つまりオウムや連合赤軍なども実は我々と紙一重の隣人のような存在なのではないか?
だからこそ自分は過ちを犯さないなんて思い込むべきではないと俺は思う。
人間は本能の壊れた生き物であるから本能が自分の行動を自動的に導いてくれるということはなく、すべての物事を一瞬一瞬の自身の判断・責任によって選択していくしかない存在であり、だからこそ誰も完全無欠などではない。
何かの過ちを自分は絶対犯すはずのない他人事のように思い込むのは結局無理な相談であって、日々切磋琢磨して生き続けていくことこそ大切なのだと自戒しつつ俺は考える。
by catalyticmonk
| 2023-12-03 01:44
| 瞑想センター
|
Comments(0)