日本文化の特異性とネオテニー的性格について

http://www.systemicsarchive.com/ja/a/japanology.html
この永井俊哉氏の日本人におけるネオテニー(幼生の特徴を残したまま成体になること)論は鋭い分析で秀逸。しかし同時に、論考の先に提示しようとしている方向付けや解決策のようなものにはかなり疑問を感じたのも事実です。
以下にその抜粋を列挙してみます。引用文の並び順は、論旨の流れがつながりやすいように私が恣意的に並べた点を最初に断らせてもらいます。人の見解は当然様々です。よって私が無作法に恣意的であると見做される可能性も十分あり得るので、そうした疑念を抱かれた場合にはリンク先を直接参照してもらえればと思います。
「1980年代に、日本人は、欧米人が発明した製品の精巧な小型版を作り、世界の市場を席巻した。李御寧によると、初めて世界的にヒットした日本発の輸出品は、折りたたみ式の扇子だったそうだ。だから、先進国の製品を見て、それを縮めて模倣し、輸出するという伝統は、平安時代からあったことになる。このように、日本人は、先進国が作った物のミニチュアを作ることに熱心なのだが、これもまた、きわめて幼児的な現象である。幼児は、大人がしていることを見ては、『…ごっこ』という遊び心で、そのミニチュアを作りたがるからだ。」

「幼児的であることは、必ずしも悪いことばかりではない。世界的にヒットした小型製品や、世界的に高く評価されているアニメや漫画を作り出すことができるのは、日本人の幼児性のおかげである。しかし、政治や外交や安全保障の分野では、幼児的であることは、致命的な短所である。」
「どの文化でも、家族という集団は、利益追求のための機能的集団(ゲゼルシャフト)ではなくて、愛の共同体(ゲマインシャフト)である。ただ、多くの文化では、子供たちは、ゲマインシャフトから追い出されて、ゲゼルシャフトの中で大人として成熟していくのに対して、日本人は、いつまでもゲマインシャフトの温情主義的なぬくもりの中に留まろうとする。戦前の日本政府は、国“家”を、天皇を家長とする家族に喩えた。戦後、国家のイデオロギーが崩壊すると、日本人は、会社に家庭的なゲマインシャフトを求めた。そして、人見知りする幼児のように、日本人は、共同体内部では親密な人間関係を築きながら、よそ者に対しては、引っ込み思案な態度を示す。」
「周りが色白のお嬢さんばかりなら、一人だけガングロ・ヤマンバでいることは恥ずかしいことだし、周りが不良少女ばかりならば、一人だけ良い子ぶりっ子でいることは恥ずかしい。このように、恥は、鏡像的な他者との相対的な関係で決まる、浮き上がることを恐れる感情に過ぎない。」
「これに対して、罪は、超越的で普遍的な規範に違反したときの意識である。罪の文化の人は、もし自分が正しいことをしていると確信しているならば、周囲から笑われても、恥ずかしいとは思わずに、むしろ周囲が無知なのだと考える。日本人には、唯一神から与えられた、超越的で普遍的な規範はない。だから、しばしば主義主張に節操がない。かつて鬼畜米英を叫んでいた日本人が、一転して親米的になったのを見て、マッカーサーは、日本人の精神年齢が12歳だと言ったが、このように、罪の文化から見れば、恥の文化は幼児的に見える。アリストテレスも、『ニコマコス倫理学』の中で、恥は『若年者にふさわしい感情』だと書いている。」
鋭い分析に圧倒されます。
「ミニチュアを作りたがる」志向を日本人が持っているという指摘は私自身にも見覚えがあり、はっとさせられます。「日本人が『小さな箱』の中に入りたがるのは、胎内回帰願望の現れである」という部分も、森好きの私の心性のある側面を言い当てている気がしますし。
やはり自分が西洋人よりネオテニーな美的感覚というものを強く持っているという自覚もあるし、それに大体、結構アジア的なゲマインシャフトに親近感を感じるほうです。なので、そこの部分で自分の考えをまず明確にしておこうと思います。

もし万が一にでも、永井氏がそうした日本人の美点をも単に「幼児的」として切り捨てるようなつもりであるならば、それは経済開発至上主義による無謀な環境破壊・地域文化抹殺にも似た乱暴さを連れてきてしまう思想になるでしょう。ですから、その点は是非とも留意が必要です。
また、私は氏の日本ネオテニー国家論の分析の進め方自体にも若干の違和感があるのです。理屈でどうと言うより私の体験知として実感していることと距離を感じる側面もあります。日本がネオテニー的であるということ以上に、永井氏の論旨には前提として日本が極めて甘い、ある意味で優しい社会であるかのように語っているように感じる部分があって、そこが私個人の在外体験での感覚と食い違って感じられます。
永井俊哉氏の日本人論は鋭く傾聴に値する卓見を多く含んでいると感じますが、日本人の独自性、特異性を「幼児性ゆえに特殊であるように見えるだけ」と言い切ってしまうところにはやや無理と極端さを感じざるを得ません。私の読解力のなさなのかも知れないのですが、とにかく氏の論調を私のように感じてしまう人も少なからずいるはずです。
そのような「理解」、若しくは「誤読」を私以外の他の誰かもしたとして、その上で氏の論に促されたつもりになって、ネオテニー社会の弊害を「大人になること」で克服していくべき、と彼が説くところを具体的に実行して行こうとした場合には、とてもおかしなことになるに違いありません。
まず自身が所属する社会の中の矛盾点や機能不全性を個別の問題ごとに検討するよりも、単に「幼児性」に帰する直線性によって解釈しようとする態度は、必然的に人間を柔軟性に欠いた政治観に導くでしょう。
そうした柔軟性に乏しい現実解釈の態度がもたらす影響の集合的推進力・方向性というものは、「大人になるんだ」、「ゲマインシャフトの温情主義的なぬくもり」から脱して利益追求のための機能的集団の中で大人として成熟していくんだ、人見知りする幼児のようによそ者に対しては引っ込み思案な態度を示す段階から成長するんだ、等々と言いながら、実際にはさらに粗野で幼稚な排外主義的なナショナリズムやファシズムを招きやすいものです。
結果、政治や外交や安全保障の分野でも国際的に孤立したり、国内でも能力至上主義的な競争を社会の中で激化させて、国民の精神的健全性が損なわれたり、荒廃した社会秩序をもたらす事態につながる一助にさえなりかねません。氏の真意がどの辺にあるにせよ、そうした詭弁に利用されてしまう危険性だって否定出来ないはずです。
私は自分がインドやアメリカ等で暮らした経験に比して日本がそんな生きやすい社会だと感じていないのです。事実、日本の人口10万人あたりの自殺者数は先進国の中では韓国に次いで第二位です。
物質的な豊かさや衛生面、治安面での水準の高さが、イコールでぬるま湯のような安楽な社会を作り出すわけではありません。
例えば、日本では「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人の割合は日本が38%で、世界中で断トツだそうです。日米以外の国におけるこの値は、どこも8%~10%くらい。
このことについて経済評論家の波頭亮氏は、
「イギリスでもフランスでもドイツでも、中国でもインドでもブラジルでも同様で、洋の東西、南北を問わない。経済水準が高かろうが低かろうが、文化や宗教や政治体制がいかようであろうが、大きな差はない。」
「つまり“人”が社会を営む中で、自分の力だけでは生活することすらできない人を見捨てるべきではない、助けてあげなければならないと感じる人が9割くらいいるのが“人間社会の相場”なのである。」
「にもかかわらず日本では、助けてあげる必要はないと判断する人の割合が約4割にも達している。日本は、“人の心”か“社会の仕組み”かのどちらかが明らかに健全/正常ではないと言わざるを得ない。」(http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20111114/223822/?rt=nocnt)
と語っています。

日本文化が幼児的である理由を永井氏は、「母なる自然が人間に優しくしてくれる」自然環境要因と、隷属経験が低い歴史的な要因に帰していますが、それらを現在の日本人の特異性のすべてとしてしまうのはさすがに極論です。
現時点での政治の制度や仕組みといった、文化・歴史に直接依拠しない要素も多大なはずで、世の中にはそうした浅いレベルの偶発性やギャンブル性によって不可測に変化し得うる流動性・柔軟性も絶えず大きく存在するものだ、と私は見做しています。
そこがまた不確定な未来への希望でもあると思うのです。
日本文化のネオテニー的性格は西洋社会から見ても特徴的に感じられている点ですが、それが日本社会・日本人の特異性を決定付けている、という見解は間違いです。特に、日本社会のねじれ部分の軸をそこに見るのと見誤る物事の判断が大きくなる気がするので、私はこの文章を書きました。そこの部分は個人の人格における個性のようなもの、といったくらいのニュアンスの独自性と見做したほうが妥当だと私は考えます。
例えば日本のオタク文化がなくなるような国内環境にすれば日本社会の閉塞性がなくなるでしょうか?そんなことはないと思うのです。私はネトウヨとオタク文化がクロスしている場面が多い実態に対してはあまりよい印象を持っていないし、日本社会の閉塞性とオタク文化がリンクしているように感じられる面は確かにあるのですが、オタク文化が日本の閉塞性を生み出しているわけではありません。日本の閉塞性が次第に是正されれば、その進行度合いに従って大衆文化も自然に姿を変えていくだけのことでしょう。
日本社会の変革に大衆文化が大きく邪魔をする場合があるとすれば、それはむしろヤンキー文化でしょう。ヤンキー文化の「気合主義」と「反知性主義」こそ真に脅威です。精神科医で評論家の斎藤環氏や思想家の内田樹氏が言うように、「気合主義」と「反知性主義」は容易にエリートに利用されてしまうのです。(参考:http://toyokeizai.net/articles/-/13068?page=2 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37682?page=3)
ネオテニー的性格と文化が日本社会・日本人の特異性を決定付けるほどの影響力を持ちようがないことは、ヤンキー文化が持つ社会性との比較だけでも十分に理解出来ます。ヤンキーすらネオテニー的であると解釈しようとすればいくらでも出来るでしょうが、それはもうネオテニー的性格のスタンダードからは外れるモデルのはずです。
ヤンキー文化そのものについては、すでに斉藤・内田両氏が的確に聡明な意見を語っているように感じるので、私がわざわざ拙文を書くまでもないのかも知れませんが、いずれまた感ずるところがあれば別途書こうと思います。

by catalyticmonk
| 2014-02-26 00:56
| ネオテニー論
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