ダラムサラの星空
2004年、日本では春先の頃、俺はインドのダラムサラの宿坊の屋上に上がって夜空の星を眺めていた。毎晩毎晩、何時間も眺めていた。
眼下に広がるヒマラヤ山脈の麓から広大なインド亜大陸の地平線へ延びている雄大な平野部の山谷と町々の夜の灯りの幻想性に加えて、人工衛星や流れ星の一つ一つが鮮明に見える宝石のような星々を、一人でいくらでも満喫できた。
眼下に広がるヒマラヤ山脈の麓から広大なインド亜大陸の地平線へ延びている雄大な平野部の山谷と町々の夜の灯りの幻想性に加えて、人工衛星や流れ星の一つ一つが鮮明に見える宝石のような星々を、一人でいくらでも満喫できた。
他の人々も時折は上がってきた。
宿坊に宿泊に来た巡礼客のチベット人や、同じチベット文化学校に通っているルームメイトの韓国人、チベット人の師匠に付いてタンカ絵師の修行をしている日本人女性、宿坊の食堂を経営するチベット人夫婦なども上がって、同じようにしばらく星々を眺めていった。自分ほど飽きずに一人で長時間星を眺めている人はいなかったけれど。
ダラムサラはよく停電した。
ただでさえ半分山の中で、周辺環境はと言えばこうだ。下のインド人の街であるロワー・ダラムサラからダライラマ法王の棲む尾根の上の町、アッパー・ダラムサラまで、山林の中を延びている一本の車道の周囲の斜面に亡命チベット人の集落や学校施設等が点在していて、ホタルなどが飛び交う場所が、特に月明りの暗い夜には停電時真っ暗闇になる。
他にすることがほとんどなくなるし、ひときわ夜空の星がクリアに見えるので、みんな真っ暗闇の中を蝋燭か懐中電灯を片手に屋上に上がってきた。
ダラムサラは、ロワー・ダラムサラからアッパー・ダラムサラ/マクロード・ガンジ、さらに上の遊牧民が定住した村落のエリアに至るまで、一つの区分の街でもかなり標高に高低差があって、1400メートルから2400メートル超くらい。
ダライラマ宮殿のあるマクロード・ガンジでちょうど森林限界の2000メートルくらいだったので、その先に上がると徐々に森がなくなって、牧草地帯にぼこぼこした岩が突き出ていて、沢や滝があり、家畜の山羊や牛、定住した元遊牧民の畑や集落がある、といった感じだった。
俺が当時最初にいたのはチベット亡命政府の各種官庁のあるガンチェン・キション周辺だったので、標高1800メートルくらいだっただろうか。
そこの文化学校に留学しに来て、周辺で借りれる部屋を探していたところ、同じように4月から文化学校に入るために部屋を探していた韓国人の元僧侶の若者が「じゃあ、一緒に探そう、二人の方が部屋も見つけやすいだろう」と路上で唐突に話しかけてきた。
会って5分でそんなことを言い出すものだから驚きはしたものの、部屋が見つかるまでアッパー・ダラムサラに旅行に来た若い韓国人旅行者の集団と引き合わせてくれて、彼らと同じ宿のドミトリーで3週間ほど共同生活。
彼らとタイ人僧侶、俺でトレッキングに行くなどして親しくなったので、そのままなし崩し的に共に部屋探しすることになった。
ドミトリーで一緒だった韓国人の若者たちはせいぜい1ヶ月前後のバックパッカーだったし、俺は当時まだ32歳ながらかなり悲壮な決意でインドに留学しに来ていたので浮ついた考えは持たないよう努めていたけれど、二つ隣のベッドの韓国人女性にいきなり仁王立ちで立ちはだかれて、右掌を上に広げて差し出されながら、"I want your heart."と言われたのは今では懐かしい思い出だ。
宿坊の部屋を見つけれたのは、これまた偶然の成り行き。
ガンチェン・キション近くの峠道で山野を目を細めながら眺めて恍惚とした表情でいる現地生活している風の日本人顔の若い女性がいた。こんなところに日本人の若い女性がいるはずないな、と思いつつも俺が話しかけてみるとやはり日本人で、タンカ絵師の修行をしているとのことだった。
こちらの事情を話すと、それなら私の住んでいる宿坊を紹介してあげるわ、と言って、あっさり決まったのだった。隣はチベット仏教の小さなお寺で、そこのお坊さんに家賃を払い借りた。
北インドは5月くらいが一番暑くて、6月・7月は徐々に雨季に入って行く。なので、この毎夜星空を眺めて夕涼みしていた時分は5~6月であったはずだ。昼間は蒸し暑いけれども、山間部なので当然夜は涼しい。シャツ1枚だったと思うけれど、天気の悪い日にはフリースのジャケットを羽織った。
韓国人のルームメイトのキーフンは元僧侶だった。ちょうど30歳くらいだったかな。けれども韓国の仏教界の堕落に落胆して真の仏教を求めてダラムサラまで来たということだった。真面目な堅物だったけれど、人間臭いユーモラスな一面もあった。
またかの地はダライラマ法王のお膝元ということもあって、チベット仏教のみならず国際的な仏教界の学術センターだった。
先述の一緒にトレッキングしたタイ人の僧侶以外にも、インドネシアやベトナム、ラオス、モンゴル、カザフスタン、ロシアのシベリア地方遊牧民族の仏教徒、他にも数多くのチベット仏教シンパの西洋人などが滞在していて、世界中からそれらの機関で勉学するために、または仏教修行する目的でやって来ていた。
ドミトリーで一緒だった韓国人の若者たちはせいぜい1ヶ月前後のバックパッカーだったし、俺は当時まだ32歳ながらかなり悲壮な決意でインドに留学しに来ていたので浮ついた考えは持たないよう努めていたけれど、二つ隣のベッドの韓国人女性にいきなり仁王立ちで立ちはだかれて、右掌を上に広げて差し出されながら、"I want your heart."と言われたのは今では懐かしい思い出だ。
宿坊の部屋を見つけれたのは、これまた偶然の成り行き。
ガンチェン・キション近くの峠道で山野を目を細めながら眺めて恍惚とした表情でいる現地生活している風の日本人顔の若い女性がいた。こんなところに日本人の若い女性がいるはずないな、と思いつつも俺が話しかけてみるとやはり日本人で、タンカ絵師の修行をしているとのことだった。
こちらの事情を話すと、それなら私の住んでいる宿坊を紹介してあげるわ、と言って、あっさり決まったのだった。隣はチベット仏教の小さなお寺で、そこのお坊さんに家賃を払い借りた。
北インドは5月くらいが一番暑くて、6月・7月は徐々に雨季に入って行く。なので、この毎夜星空を眺めて夕涼みしていた時分は5~6月であったはずだ。昼間は蒸し暑いけれども、山間部なので当然夜は涼しい。シャツ1枚だったと思うけれど、天気の悪い日にはフリースのジャケットを羽織った。
韓国人のルームメイトのキーフンは元僧侶だった。ちょうど30歳くらいだったかな。けれども韓国の仏教界の堕落に落胆して真の仏教を求めてダラムサラまで来たということだった。真面目な堅物だったけれど、人間臭いユーモラスな一面もあった。
またかの地はダライラマ法王のお膝元ということもあって、チベット仏教のみならず国際的な仏教界の学術センターだった。
先述の一緒にトレッキングしたタイ人の僧侶以外にも、インドネシアやベトナム、ラオス、モンゴル、カザフスタン、ロシアのシベリア地方遊牧民族の仏教徒、他にも数多くのチベット仏教シンパの西洋人などが滞在していて、世界中からそれらの機関で勉学するために、または仏教修行する目的でやって来ていた。
俺はとりあえずの留学理由としてライトに文化学校を選んだので、結構不思議な気分だった。人間の深層心理というものに強い関心があったので、是非瞑想というものを学んでみたい、という漠然とした目的の足掛かりにするために、東京にある日本チベット文化研究所に紹介状を書いてもらって留学しに来たのだった。
トレッキング以降仲良くなったタイ人僧侶3名はマクロード・ガンジに滞在していた。
数キロ先の俺達が住むガンチェン・キション近くの宿坊にも一人で山道を歩いて遊びに来てくれるなど、特に親しくなった中年僧侶は、主にダラムサラに滞在しながらパーリ語の古代仏教経典の調査・研究をしていた。落ち着いた物腰ながらなんとも独特なユーモラスさがあって、とても気さくな人物だった。
だけれど、かなり高い地位の方だったようで、タイ王室の王子がお供を連れてやって来たりしていて、それでもまた彼が飄々ととぼけた雰囲気で対応しているのが実に面白かった。俺も誘われてごく普通に会食したり周辺を一緒に散策したけれども、恭しく付き従うお供の男性がいるのがどうにも奇妙な感覚だった。
自分のように、宗教的に熱心な動機があるのでもないという点ではユルい目的でやって来ていた留学生は他にもちらほらいた。
で、いつの間にか学校にもあまり来ないようになったな、と思ったら、ある日上のマクロード・ガンジの路上にアクセサリー売りのイケメンの若いチベット人男性の横にニコニコしながら座っている。数週間で学校を辞め、マクロード・ガンジに知り合いができたからとかなんとか言って宿坊を出て行った。
俺のルームメイトは真顔で俺にこう聞いた。「彼女は、一体全体何のためにここに来たんだと思う?」
俺もその言葉に笑ったけれど、キーフンは真摯な求道者だった。仏教徒以外の宗教や共産主義者は悪魔のように言うので、リベラルな価値観の自分からすると随分と了見が狭いように感じてしまって徐々に意見が合わなくなり、また、「ここにあるのはツーリズムだけで、本物の仏教がないから」と言って、ブータンの横のインド側にある、やはりチベット仏教寺院の多いダージリンへと旅立っていった。
他にもイスラム教徒だけれどもチベット医学を学ぶためにやって来たという、顔は日本人の下町のおじさんなのに目の色の青いカザフスタン人や、ロシア領内に住むブリヤート人のモンゴル仏教徒の女性などといった、ロシア語が話せるアジア人顔のグループ、というのもいて、これがまた俺にはやたら親近感・好感を感じる何かがあった。
あちらの方面の人と俺には何かと相性の合うところがある。
でも、やはりあの頃の俺はかなり切ない気持ちでもあった。世捨て人のような気分で留学に来ていたからだ。
宿坊の屋上で何時間も星を一人で眺めながらも、「自分もあの星粒になりたい」なんて意味不明なことを32歳の男が本気で考えていた。可能なものなら瞑想を学んで人間的な苦悩から逃れたい、というような願望もあった。
そうした俺の思いを察してか、ある晩には屋上に同じように星を眺めに上がってきた宿坊の食堂のチベット人のお母さんから、「キポ?」と聞かれた。
「キポ」とはチベット語で幸せの意味。俺は最後まで大してチベット語を覚えなかったのだけれど、母性たっぷりの女性に「幸せ?」と聞かれたわけだ。
正直、まるで幸せじゃなかったし、でも、そう感じている自分も消したい、というひそかな願望を持っていたから、そう問われて言葉に詰まってしまった。
彼女は中国のチベット侵略によってインドに亡命してきたチベット人だ。祖国に帰れなくなった人だ。旦那さんと小さな子供たちと暮らしているにせよ、彼女の苦労に比べたら俺の経験してきたことなんてなんだって言うんだ。
彼女は、俺の横に腰かけて、一緒に星を眺めながらチベットの夜空はもっとクリーンでもっと凄い星の輝きで、それを見つめて瞑想しただけで解脱することも可能なほどなんだ、と話してくれた。
俺が「自分は解脱して仏になるんだ」なんて考えでいなかったことは確かだけれど、とにかく答えのない苦しみから解放されたい、とは願っていたと思う。
そこまで思い詰めていた理由をどこから話したらいいものか。虐待ネグレクトの家庭で育った幼児期からずっと続いている特殊な個人的物語すべてが理由だったとも言えるし、簡単には言えない。
でも、今は答えを求めているわけじゃない。
今日は俺は何も語っていない。だらだらと自分の話を書き連ねただけで、どうせなら過去の情景描写もいくらかして、何かを語っているふりをしてみただけだ。
でも、生きていて必ずしもすべての目的が分かったり、予定調和的にすっきり解決される答えがあるわけでもない。
それでもすべてが自分の人生だ。なんとか愛し肯定したい。
結論もない人生のありのままを、少しでも愛せるように書く行為があってもいいはずだと思う。
トレッキング以降仲良くなったタイ人僧侶3名はマクロード・ガンジに滞在していた。
数キロ先の俺達が住むガンチェン・キション近くの宿坊にも一人で山道を歩いて遊びに来てくれるなど、特に親しくなった中年僧侶は、主にダラムサラに滞在しながらパーリ語の古代仏教経典の調査・研究をしていた。落ち着いた物腰ながらなんとも独特なユーモラスさがあって、とても気さくな人物だった。
だけれど、かなり高い地位の方だったようで、タイ王室の王子がお供を連れてやって来たりしていて、それでもまた彼が飄々ととぼけた雰囲気で対応しているのが実に面白かった。俺も誘われてごく普通に会食したり周辺を一緒に散策したけれども、恭しく付き従うお供の男性がいるのがどうにも奇妙な感覚だった。
自分のように、宗教的に熱心な動機があるのでもないという点ではユルい目的でやって来ていた留学生は他にもちらほらいた。
華僑系の家族で石鹸会社を自身で経営しているという、やはり30代のインドネシア人女性とも学校の前の道端で知り合い、彼女も部屋を探しているというので、今度は俺が宿坊を紹介することに。
ところが彼女がまたなんか雰囲気がまるで違っていた。部屋からはCDだかラジオだかから明るいポップスの調べとアロマな香りが流れてきて、チベット人の巡礼客や学僧なども泊まりに来る宿坊に南国の人らしく異空間を作り出していた。
韓国人のルームメイトと部屋に招かれて行ってみると室内が布や花などで色鮮やかかつ爽やかに飾り付けられており、そこの中だけ完全に南国状態。ヒマラヤ山麓の亡命チベット人集落の真っただ中に、たった一人で大した自己文化再生能力だ、と驚いた。
で、いつの間にか学校にもあまり来ないようになったな、と思ったら、ある日上のマクロード・ガンジの路上にアクセサリー売りのイケメンの若いチベット人男性の横にニコニコしながら座っている。数週間で学校を辞め、マクロード・ガンジに知り合いができたからとかなんとか言って宿坊を出て行った。
俺のルームメイトは真顔で俺にこう聞いた。「彼女は、一体全体何のためにここに来たんだと思う?」
俺もその言葉に笑ったけれど、キーフンは真摯な求道者だった。仏教徒以外の宗教や共産主義者は悪魔のように言うので、リベラルな価値観の自分からすると随分と了見が狭いように感じてしまって徐々に意見が合わなくなり、また、「ここにあるのはツーリズムだけで、本物の仏教がないから」と言って、ブータンの横のインド側にある、やはりチベット仏教寺院の多いダージリンへと旅立っていった。
他にもイスラム教徒だけれどもチベット医学を学ぶためにやって来たという、顔は日本人の下町のおじさんなのに目の色の青いカザフスタン人や、ロシア領内に住むブリヤート人のモンゴル仏教徒の女性などといった、ロシア語が話せるアジア人顔のグループ、というのもいて、これがまた俺にはやたら親近感・好感を感じる何かがあった。
あちらの方面の人と俺には何かと相性の合うところがある。
宿坊の屋上で何時間も星を一人で眺めながらも、「自分もあの星粒になりたい」なんて意味不明なことを32歳の男が本気で考えていた。可能なものなら瞑想を学んで人間的な苦悩から逃れたい、というような願望もあった。
そうした俺の思いを察してか、ある晩には屋上に同じように星を眺めに上がってきた宿坊の食堂のチベット人のお母さんから、「キポ?」と聞かれた。
「キポ」とはチベット語で幸せの意味。俺は最後まで大してチベット語を覚えなかったのだけれど、母性たっぷりの女性に「幸せ?」と聞かれたわけだ。
正直、まるで幸せじゃなかったし、でも、そう感じている自分も消したい、というひそかな願望を持っていたから、そう問われて言葉に詰まってしまった。
彼女は中国のチベット侵略によってインドに亡命してきたチベット人だ。祖国に帰れなくなった人だ。旦那さんと小さな子供たちと暮らしているにせよ、彼女の苦労に比べたら俺の経験してきたことなんてなんだって言うんだ。
彼女は、俺の横に腰かけて、一緒に星を眺めながらチベットの夜空はもっとクリーンでもっと凄い星の輝きで、それを見つめて瞑想しただけで解脱することも可能なほどなんだ、と話してくれた。
俺が「自分は解脱して仏になるんだ」なんて考えでいなかったことは確かだけれど、とにかく答えのない苦しみから解放されたい、とは願っていたと思う。
そこまで思い詰めていた理由をどこから話したらいいものか。虐待ネグレクトの家庭で育った幼児期からずっと続いている特殊な個人的物語すべてが理由だったとも言えるし、簡単には言えない。
でも、今は答えを求めているわけじゃない。
今日は俺は何も語っていない。だらだらと自分の話を書き連ねただけで、どうせなら過去の情景描写もいくらかして、何かを語っているふりをしてみただけだ。
でも、生きていて必ずしもすべての目的が分かったり、予定調和的にすっきり解決される答えがあるわけでもない。
それでもすべてが自分の人生だ。なんとか愛し肯定したい。
結論もない人生のありのままを、少しでも愛せるように書く行為があってもいいはずだと思う。
by catalyticmonk
| 2023-12-03 02:53
| インド生活
|
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