もののはっきり言えない文化の弊害
日本人の生きにくい性格は、その場で話を解決させない、感情や考えを言えないことが一番の問題な気がする。
それが、無用な憶測や疑心暗鬼、ストレスを生み、根拠のない軋轢をこの社会の中で増やしている。
協調性の美徳が忖度や付和雷同といった変な方向に進んでいってしまっている風潮や文化・教育なままである点が、やはり大きな問題なのだと思う。
その場で話を解決させない、感情や考えを言えないから、そういったことを、別の場で盛り上げ同調させて、話を大きくしたり、ただの勘違いや愚痴みたいな話が社会問題になってしまったりする。
「小学生の女子みたいに、トイレに行くのも誰かと一緒で、一人で物事を考えないまま、行動しないまま大人になっているような社会だ」と俺に言った友人女性もいる。
みんな、それで空回りしたり徒労感を味わって、自殺率も高かったりするストレス社会で変だなとは感じているのだろう。
だけれど、なんだかいつまでたっても島国、井の中の蛙のような考え方が続いている。
イジメがなくならないのも、そんな狭い考え方で大人が子どもにちゃんと注意できなかったりするからなのではないのか。
もっと自分のやりたいように、周囲を気にしないで生きれたら楽なのに。
その辺をそれぞれの人が自身で掘り下げ整理して、行動や思考様式を根本から解放する余地はあると思う。
「人権問題」や「公共社会の公平性」に敏感なはずの人々も、大半は文化的な錯覚の内側に飲まれている。
自分の価値基準や好みと違うもの全てを否定的に捉えて正当化する変な風潮が異常発達している印象を受ける。
例えば自慢話や押しつけがましい教える行為をしたがる、と問題視される「マウンティング」。
そういうのは、男性優位の傾向が顕著で人権後進社会の日本ではたくさんあったと思うし、公平でないものは平等にしたいし、失礼なものは失礼と言い、また互いの意識差を話し合って解決していかなければならない。
でも、そういうのでも、何かおかしな方向に話がねじれがちだ。
たまたま会話の潤滑油としてその人が自分の持ちネタの話題をしただけの時でも、「私はあの人にマウンティングされた」なんて過敏に反応して毒づいてしまうような種類の人間が散見される。
また、話題や興味の対象が違って相手の知らないことだったりした場合に、それを一々自慢だとか、マウンティングだとか悪意に捉えてしまう人もいるので、どちらの方が意地悪で攻撃的なのか、と訝しく感じることもある。
そのあたりを論理的に整理して問い質してみると、「私が」不快に感じたことなら、すべて被害実態がある、「相手がどういうつもりだったか」は人権問題に関係ない、被害実態に対する見識があなたは甘過ぎる、等々の唖然とするような物凄く歪んだ言説が出てきたりする。
悪意のない相手にまで主観的な都合の正義を押し付けている部分に対して、「仕方ない」で済ませていたら、「人権」なんて他人に主張する根拠や正当性を失ってしまって、ただの抑圧や脅迫行為の武器になるだけだ。
ばっさり「自分が不快に感じたことなら、すべて被害実態がある、相手がどういうつもりだったか、は人権問題に関係ない」と言って切り捨ててしまうと、また別の差別や偏見が再生産されるのだし、論理的に矛盾している。
気にするべきところでユルくて、明らかに必要ないところで疑心暗鬼に過剰になっている、という現象が、普通の会話なんかの次元でもよくある。
例えばマウンティングや痴漢、その他諸々の人権侵害が起きた場面で、その場で自分が本当に不快だったり、不愉快だったりしたら、実のところ、日本以外のほとんどの国で、当たり前のこととして年齢や性別関係なく声に出して気持ちを伝えられる。また、分からないことに対しハッキリさせようとする。
そういうのは、程度の差はあれど、韓国人でも中国人でもロシア人でもインド人でも、アメリカ人や、アメリカよりは伝統文化の影響もあるヨーロッパ人でも大概はそうだ。
いくらお互いに気持ちを察し合う気配りの精神が発達している文化だからと言って、察し合えるのはある程度似た者同士の間だけだ。
だから、どうしても自分たちと違う者の多様性の排除、主張する力の弱い者への冷遇、といったところに向かってしまう。
人間は言葉がなければ分からない。
言っても分かり合えないこともたくさんあるけれど、その違いを冷静に見極めて、事前に無用な軋轢を減らしていくより他ない。
気持ちや考えを相手に直接伝え合える文化や教育をベースにしていくべきなのだと思う。
by catalyticmonk
| 2019-12-03 21:54
| 意思疎通
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