はぐれ者
一人一人の人間を「社会に貢献できていないのではないか」という負い目にがんじがらめにして行く社会。いつも強迫観念に怯えながら生きていく人生。そこだよな、この社会の闇の当体は。
それが、この社会を他人への思いやりの低い低福祉社会にしているし、競争社会だからそうなっているとも言える。
そこで、みんなが「俺は、私は、こんなに立派な人間なんだ、こんなに社会に貢献しているんだ」と陰に陽にアピールしたがって、フリーキーにあたふたするのが大人社会のデフォルト。
俺はそういうのを見ていると生理的な嫌悪感を感じて、気持ち悪くて仕方ない。
そう、俺が立派にならなきゃ、なんて強迫観念からは自由だったのは、虐待ネグレクトの家庭環境で育って、最初から大人や社会を妄信する根拠がなかったからさ。
褒めてくれる親でもなかったから、頑張らないと失うかも知れない愛情への期待なんてものもなかったんだ。
その代わりに、自由や誰にも媚びない誇りみたいなものが、俺の人生の中では重要だった。暴力と精神的嗜虐性で、他人を屈服支配したがる父親が、俺の子ども時代から奪った安らぎや個人としての尊厳を、もう二度と誰の手にも渡さない、という思いで生きてきた。
いや、人間なんだから仲間は必ず必要だよ。一人で生きる、なんて、言っているほど言行不一致の矛盾が増えてしまう。人間は、誰か何かの助けを借りてしか生きていけないんだからね。
ただ、相手の顔色を窺いながらビクビクしているような関係だったら、いつまで経っても本当に心打ち解けた間柄にはなれない。
自分がありのままに生きた時にこそ、自分と同じような境遇や思いを抱えながら歯を食いしばって生きている他人の存在を発見するんだ。
その時には「相手にどう思われたいか」じゃなくて、自分の内側から自然に相手に対する親しみとか、なんとか助けてあげたい、って気持ちが勝手に湧いてくる。
そして、そうやって他者との間で生み出される感情が、自分自身の人生を豊かで喜び深いものにして行く。
みんな、立派な人間にならなきゃいけない、なんて強迫観念は一旦全部取っ払って自由になった上で、真に自分のために生きられたらいいのだと思う。
社会や家族が、あなたが自分で身動きが取れなくなるほどの重圧を掛けて来る存在だったなら、その時は少しくらい勇気を出してわがままに、不良になっていいよ。自分の人生を呪うより、自分の人生に感謝できる生き方に、自らの人生を作り変えていくべきなんだ。
俺の中からこういう言葉が出てくる理由は、一つには引きこもり男性が衰弱死するニュース記事を読んだからでもあるし、個人的にも大きな動機がある。
もう一つ大きな動機は、「社会に貢献できていないのではないか」という負い目にがんじがらめになって、いつも強迫観念に怯えながら生きていて、そこから自由になろうともがいて心を深く病んでしまったような存在に人生の中で繰り返し出会ってきたからなんだ。
だけれど俺には最初からないんだよ、親や家族からインプットされた期待に応えなければいけない、という強迫観念が。綺麗さっぱり、最初からないの。
だから、そこの部分でもがき苦しむ人間が、若い頃ほど何をやっているんだ、と焦れったく感じちゃってさ。こっちも血も涙もないロボットか悪魔みたいに言われて、少なからず傷付いちゃったりね。
多少中身が見えてきても、「冗談じゃない、そんなのだったら俺の方がもっと何もなかったぜ!」と苛立ってしまうくらいだった。なんでこの俺が、そんなお前らのウジウジした思いに付き合わなきゃなんないんだ! ってね。
そういう風にギャップがあり過ぎて寄り添いようがなかったので、中には彼らから最悪な裏切られ方をする出来事もいくつか体験した。いろんな事情の魂が、いろんな掛け合わせで出逢うのが人生だ。
でも、あいつらもまた、自分自身が心の鎧から自由になるために、さらなる旅を続けなければならない必然が、その時その場それぞれにあった、ということなのだろう。
住む家がなくて困っていた奴を居候させていたら金を持ち逃げされたこともあるし、病気の時に共に暮らしていた女性に男作って蒸発された経験もある。
「だから、それでいいんだよ」と、きついパンチを食らった後で、ゆっくり立ち上がりながら、中には本当に何年も掛かって立ち直りながら、俺は考えた訳さ。
お前がありのままになれるところまで、自由にやりなよ。
俺とお前で、それを実現するための道のりが今は違うだけさ。
だけど、俺も幸せに生きるために頑張るから、お前も頑張れよ、と。
同じ時間と空間を共有している間は、お前がお前自身の望みでない重圧のためにおかしくなっているんだったら、それはおかしいだろ、とはっきり言わせてもらう。
でも、とにかく何もしないで潰れてしまうなんてつまらないことはないから、好きにしなよ。恨んじゃいないし、もっと俺もお前もお互いに幸せに生きるためにもがこうぜ、頑張ろうぜ、そういう思いなんだ。
誰か他の人々が決めた正しさに従わず生きることを、世間では「不良」「はぐれ者」と呼ぶ。
でも、俗に言われている「利己的生き方」というのは、実は浅はかで自他共に幸せになれない生き方を指しているに過ぎない。
より深く生きたなら、それはいくらか今ある世界の良識や固定観念に反しているのかも知れないけれど、そんなのは本質じゃないから気にしなくていいのさ。自発的により幸せに生きようと模索しないことほど命を腐らせることもない。
およそこの世に生まれ落ちたすべての命に課せられた義務は、自らが幸せになることだ。
by catalyticmonk
| 2019-12-23 21:33
| 忘れ物
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