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服従させるための精神論の罠

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一生懸命過ぎると肩が凝り、柔軟性がなくなる。いい加減はちょうど良い加減だ。

武田信玄は「一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る」と言ったが、そういう根性論は自分で思っていればいい。
そう主張して他人に無理強いさせていたのでは、ブラック企業のパワハラ上司と変わらない。

そうやって誰かが唱えただけで電流が走ったみたいに金縛り状態になって、同調圧力に屈してしまう日本人を数多く見てきたが、私の価値観は完全にその価値体系の外側なので、奇妙に見えて仕方ない。
知恵を出すなら、誰かを上手く操るための詭弁ではなく、他人に無理強いさせない知恵が上等だと思っている。

愚痴る前に黙って逃げる算段をするのが賢明だが、逃げる訳にはいかないなら、一人で溜め込む必要はない。策がなくて困っていると周囲に正直に相談するのもまた知恵。

根性論や自己責任論でガチガチになっている日本人の頭。ずっと封建的な社会で、人々を権力者が従順に飼い慣らすための洗脳を長年続けてきたからだ。
頭は柔らかくなった方が、暮らしやすい世の中になると思う。
日本社会は、服従させるための精神論の罠に満ちた巨大な幻想発生装置だ。

面と向かって話しているうちに自分が言葉に窮してきて、ネクタイをキュッと締め直して、それとなく相手を威嚇して緊張させるとかいった心理ゲームの小技を、ある程度の規模以上の企業重役なんかは色々持っている。人間が凝縮しているんだな。
ところが、私はその意図には気付いても、本当にそういう価値観の外側なので、全く緊張しない。逆にクスッと鼻で笑ってしまう。

日本社会が巨大な幻想発生装置だという現実は、一度でも海外に出てしばらく暮らしてみれば、理屈抜きに明瞭に分かる。
ところが、日本からほとんど出た事のない一般人に、どんなに様々な言葉でこの事実を説明してみても、滅多に理解されない。社会環境から強力な洗脳を受けている証拠だ。
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by catalyticmonk | 2018-12-15 23:02 | 忘れ物 | Comments(0)

服従させるための精神論の罠

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一生懸命過ぎると肩が凝り、柔軟性がなくなる。いい加減はちょうど良い加減だ。

武田信玄は「一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る」と言ったが、そういう根性論は自分で思っていればいい。
そう主張して他人に無理強いさせていたのでは、ブラック企業のパワハラ上司と変わらない。

そうやって誰かが唱えただけで電流が走ったみたいに金縛り状態になって、同調圧力に屈してしまう日本人を数多く見てきたが、私の価値観は完全にその価値体系の外側なので、奇妙に見えて仕方ない。
知恵を出すなら、誰かを上手く操るための詭弁ではなく、他人に無理強いさせない知恵が上等だと思っている。

愚痴る前に黙って逃げる算段をするのが賢明だが、逃げる訳にはいかないなら、一人で溜め込む必要はない。策がなくて困っていると周囲に正直に相談するのもまた知恵。

根性論や自己責任論でガチガチになっている日本人の頭。ずっと封建的な社会で、人々を権力者が従順に飼い慣らすための洗脳を長年続けてきたからだ。
頭は柔らかくなった方が、暮らしやすい世の中になると思う。
日本社会は、服従させるための精神論の罠に満ちた巨大な幻想発生装置だ。

面と向かって話しているうちに自分が言葉に窮してきて、ネクタイをキュッと締め直して、それとなく相手を威嚇して緊張させるとかいった心理ゲームの小技を、ある程度の規模以上の企業重役なんかは色々持っている。人間が凝縮しているんだな。
ところが、私はその意図には気付いても、本当にそういう価値観の外側なので、全く緊張しない。逆にクスッと鼻で笑ってしまう。

日本社会が巨大な幻想発生装置だという現実は、一度でも海外に出てしばらく暮らしてみれば、理屈抜きに明瞭に分かる。
ところが、日本からほとんど出た事のない一般人に、どんなに様々な言葉でこの事実を説明してみても、滅多に理解されない。社会環境から強力な洗脳を受けている証拠だ。
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by catalyticmonk | 2018-12-15 23:02 | 忘れ物 | Comments(0)

超管理社会と人間性の屈折

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今どきの日本の若者が、恋愛に対して非常に草食系だ、という話をしていたのだけれど。

ザックリ言うと、昔は好きな女の子の部屋に夜中に忍び込んで、ってみんなやっていた訳だけど、それだと確かに女性が断り切れずに無理矢理、ってトラブルも後を絶たないから厳罰化されてきた訳だ。
女性を守る、という観点からは正論だし、そうだからこそ、じゃあ、どうなるか、って今の若い男の子を見ていると、みんな凄いオクテ。相思相愛の男女間の交流まで滞っている面もあるらしく、こんなに受け身じゃ、そりゃあどうしようもないだろう、とも感じるし。
オクテか、凄い女性をドライにものみたいに見ているか、両極端になってきちゃっているような。

そういう都市文明に社会が飲み込まれている加減がさらに一層進んだ社会風潮を痛感する。
いったい、どこに健全な人間関係の答えがあるのか。

今の中年以上の世代は、昔、自分達がバブリーな日本の経済繁栄期に青春を送ってきて、羽目を外し、馬鹿な事をやったなあ、と後悔したり反省する気持ちも大きいようだ。
ただ、反省が多いから、と言うのはある意味当然で、本来反省して少しずつ学ぶような種類の人間関係を、きょうびの若者は最初から一度も失敗するな、と厳しく締め付けられて育っているような面がある。極端な管理下に置かれて育てば草食動物化するのも分からないでもない。
だから、そこから逸脱すると、中間の落とし所がなくなって一気に無軌道になるから、何かが大きく間違っているのも確かなんだな。

その責任は、国内のいわゆるリベラル層や人権意識を謳った市民派の、柔軟性を欠いた教条主義的な道徳論にかなりの責任があると私は思っている。
保守もリベラルも、子供の成長をのびのびと見守って手助けする、みたいな柔軟な視点が、日本社会では薄いままなのだと感じる。頭が固いんだよ。
だから、私は保守でもリベラルでもない。

だから、日本人はそういう固定観念の束縛から解放されるべくインドに行け、と主張する旅人系の人もよくいる。
私はインドは好きだし、住んでもいたけれど、人に勧めるのは、ちょっと微妙だ。だって、向こうの社会にある程度慣れてしまうと、帰国してから大変になる現実を知っている。環境にギャップがあり過ぎて、個人で程よく適応するハードルが高くなるんだ。

インドも広くていろんな社会問題や要素があって、一口にはなんとも言えないしね。
ただ、命の輝きと言うか、そういう人間が生きている生命力のもっと根源に近づいて物事を感じる体験は出来て、それが人の人生観を変える。
インドにしばらく行って日本へ戻ってくると、ブームとかステイタスとか、何を狭い社会の幻想の中でいびつな考えに染まってるの、って見え方になるからね。
向こうの方が、一個の命として自然な生活があるだけで、実は特殊なようで特殊じゃない。

日本でもアメリカでも、かなり特殊な文化的な色眼鏡が濃厚についた上での社会で、みんなそこから自分の人生を眺めているから、なかなか生き物としてのフラットで自然体な実感の部分に足をつけられない気の毒さみたいなものが見え隠れする。

インドも民主主義社会としては未成熟だし、伝統社会の障壁も大きいけれど、アメリカや日本みたいに強大な管理社会に生命が管理され過ぎていない、青空の下にすぐに裸一貫で突き抜けて行けるような、生命にとっての自由度が残されている。そこが大きな違いだと思う。

ま、人類の文明は基本都市文明なので、その在り方が問題だと思うけどね。都市と物資供給源である地域が主従の関係であるような搾取構造の歪みが大きい。
都市も地方も、互いが共存共栄のリボゾームの関係にある、という認識に正しく立った視点の文明でないと歪む、という事なのだと捉えている。
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by catalyticmonk | 2018-12-10 23:32 | 忘れ物 | Comments(0)

人はそれぞれの背景ごとに違うし、絶対的な優劣などない。

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自分が楽しめる要素よりムカつく要素が多ければ、環境を変える思案のし時だ。
物凄く大変そうな事でも乗り越えられる時と、大したハードルじゃなさそうなのに病んでしまう分水嶺はそういうところにある、と私は考えている。
その人の中にお金とか仲間とか教養とか、どれだけのタメがあるかで、耐えられる内容もそれぞれ重み厚みが変わってくる。

人間は、日常的な事だとなんでも慣れて、大した事に感じなくなる。
だけれど、それが日々ストレス値の方が喜びより絶対的に大きいと、気付いた時には癌になっていたり、心を病んでいたり、やばい真似をする人格の人間になってしまっていたりする。

日本人はとかく事なかれ主義が強いので、この傾向に拍車を掛けがち。だからうつ病も増える。
あの人はこんな大変な苦労も根性でやり遂げた、お前が新しい仕事を覚える苦労なんて大した事ない、そうやって相手の辛い思いを飲み込ませるが、これこそ一番のストレスの元。

そりゃあ、慣れていればいろんな事がどんどん出来て、不慣れなら単純な事でも器用にこなすのが大変なのは当たり前さ。
その苦労を乗り越えてこその成長だ、というのは事実だけれども、そこに人それぞれの背景ごとの個人差がある事を忘れてはいけない。

育ちが良くて勉強もスポーツも出来て、って奴もいるだろう。あれは、そうなるだけのタメがその人にあったから、自分の能力を伸ばす機会が十分にあっただけだ。
両親や家族に愛され、家庭の経済事情は豊かで、だから自信を持って色々な事を習得出来た人間と、無教養で貧乏で忙しくて、ものもまともにゆっくり考えている時間がない人物では話はまるで同じじゃあないんだ。

家族にも不幸があって、自分が成人する前から兄弟の母親代わりで、今度自身が病気になったらまともに看病してくれる人もいない、それでも暮らしのために無理して働きに来ている者に、仕事でついうっかりミスをしたからと言って、その恵まれた有能なボンボンと比べて、お前は根性が足りない、努力が足りない、人間の器とはこういうものだ、と得意げに説教するのでは罪だ。

その逆もまた真実でね。頑張れる動機が十分にある者にとっては、毎日いろんなトラブルがあっても、それも込みでその生活をなんとか続けていこう、と自然と思えるし、小さなストレスを一個一個潰して消していけば完璧な訳でもない。
ただ、一個のトラブルが衝撃的過ぎる温室育ちみたいな人間には、やっぱり泣き出しちゃうくらい負担な場合もあるみたいだ。
そこら辺は慣れて鈍感になっている側がもっと気を付けなきゃダメなんだな、と反省もする。時々、そこも立ち止まってよく考えないとね。

俺が一番正しいんだ、じゃ、やっぱり人迷惑なんだよ。
いろんな感じ方や背景の人がいるんだから、そこで百点満点の対応がいつも出来る人なんていない。自分も失敗する、間違える事がある、と分かった上で謙虚に考えていかないと上手くないんだな。

人はそれぞれの背景ごとに違うし、絶対的な優劣などない。
誰かをこき下ろして脅して無理強いするのではなくて、それぞれの人が自信を持って明るく楽しく生きられるために、互いを認め合って幸せを大きくしていけるよう、如何に工夫していくかという現実的な課題が、日々の中にあるだけだ。
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by catalyticmonk | 2018-12-06 00:37 | 忘れ物 | Comments(0)

議論と寛容

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例えばさ、排外主義的な主張の政治団体や宗教を信じていて、格差社会を推し進めたり、LGBTやシングルマザー、障害者、外国人、犯罪者の子供とかいった人達が生きていくのに困るような、決して人に優しいとは言えない強者の論理の社会風潮や政策をどんどん推進してしまうような人でも、個人的には娘に優しいいいパパで、飲む機会があって話すと気さくで、自分と趣味も合って、とっても付き合いやすい好感度の高い人だとかって、そういう事は現実にたくさんあるんだよ。

でも、だからその人を受け止めて仲良くやっていくために、自分が大切だと思っている意見も言わない、そっちの方が協調性があって大人な態度なんだ、っていう捉え方の混乱を、日本人の多くはずっとしている。

マイノリティーが全部一緒だとは全く思わないよ。当然ね。
でも、「マイノリティーの側の立場を意識するあまり相手を受け止められないと、それも思いやりのある態度ではない」という、優し過ぎる解釈を日本人てする傾向があるのね。

相手を受け止められない、と言うか、相手が他人の生存の権利や感性の自由を土足で踏みにじったり、しかもそれに対して無自覚で権威主義的でもある時は、「いい人だから」って次元で受け入れていたら差別や文化的偏見がなくならないんだ。
そういう次元のところをね、この社会に暮らす人々はもう少し落ち着いて見つめ直した方がいい。

言う事は言って、でも自分とは意見が違うからって、その人を人間的に悪魔みたいに思わない事、これが本当の寛容性だし、強い立場の人ばかりがどんどん得をして弱い立場の人達がさらに困っていかないための、もっと深い視点に立った優しさや公平性だと思うんだ。

誰しも自分が共感出来る範囲の人達のためなら、そこで簡単に表面的な空気や印象に流されないで踏ん張るんだと思う。
私にとって重要な部分、表現や感性の自由を軽んじる態度や勘違いには、曖昧に言葉を濁さないで言うべきところを言う、というのと同じようにね。

人それぞれ、自分にとって身近な問題に粘っていかないと、同じビルの建物にあんまり賛同しない意見の政党議員の事務所があっても近所付き合いくらいするだろうし、人間的に緩く仲良くやっていきたい部分は誰しもあるから、何もかも事なかれ主義になって逆に弱肉強食の世界だけが変わらずに進んでいってしまう。

そこなんだよね。私はいつもこういう考え方の話をする時に、自分とその人の関係だ、と思って言ってない。
その人との関係は、まさに空気とかが重んじられる事柄だから、それよりも筋を通して話すと、って部分の話なんだ。
日本人はその個人間の関係と、主義主張を出し合って議論をするディベートをきちんと区別出来ない、そもそもディベート自体も上手に出来ない、って日本を知る西洋人の知人から繰り返し聞いてきている。

だから、周りのムードに合わせて調和する事が正義なんだ、って思い込み過ぎていて、自分の意見と他人の意見を正々堂々と述べ合いながら、議論して合議していく、という民主主義の最初の一歩になかなか辿り着けない。
議論と寛容の狭間にある混乱が、日本社会という一個の強力な幻覚発生装置に浸かっていると見えにくくなるポイントだ。
その沼から抜けて自由になろう。
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by catalyticmonk | 2018-10-01 00:24 | 忘れ物 | Comments(0)

トラウマを乗り越えることについて③:各段階の救済アプローチ

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でも、世の中、男女差別とか、虐待とか色々あるが、そういうかなり頻繁にある問題の要素の一個が地に足の着いた形でしっかり世に理解されていないと、どんな社会問題のテーマも実際の真偽が定かでなくなる。
結構、そういうことって多い気がしている。
今の社会の常識に安住していても始まらないのだ。
そのままでは、まるで古代ローマ人が昔、女性は感情の生き物だから、妻は叩けば叩くほどしつけられる、なんて言語道断な女性観を持っていたのと同じ、世の5%の人はLGBTとして生まれてくるのに、80年代まで精神障害扱いだったのと同じ。
必要な理解が十分にないことによる「野蛮」な混乱が起こり続けてしまう。

とにかく、人間の無知は一個一個紐解いて明らかにしていくしかない。
例えば自分の祖母の時代だったら、愛知県濃尾平野の農村部での大正時代や昭和初期の話という事になるだろうが、双子が生まれたら鬼子だ、と呼んで、片方の子の鼻を産婆が摘まんで殺していたそうだ。
実際には口減らしだったのだろうが、そういう行為にも漠然とした迷信や思い込みで深く考えないで済ますようにしてきた。
別にボーダーだけの問題ではない、当然。でも、目につくところから、着実にそういうことを減らしていかなければ、人間の無知による差別や抑圧、誰かへの虐待、ということもなくならない。

私は、やはり虐待家庭で生まれたから、そうした家族問題が自分の人生のテーマだ。
逆に、私の実体験からはピンとこない種類の虐待も存在するのを、4人もの子育てをされているベテランお母さんから聞いたりもしている。あまり、虐待に思われない形でこれ以上ない虐待は、「萎えさせる」でしょう、と。
親の子供に対する過干渉で、あれこれ「良かれと思って」手を回し、アドバイス、時に叱咤激励して、人生の舵を乗っとること。
母子がサシで暮らしてたら、ほとんどこうなる、とその方は言われた。そこら辺は私には正直実際どうなのか分からない次元の話だ。

昔の人は、妻を叩きまくって鬱にして従順な風にしたり、間引きをして食いぶちを減らしたり、まあなんと野蛮なことか!と大概の現代人なら認識すると思うが、今だって形を変えた野蛮なことは起こっているのだ。
学校教育だって、ある種類の学習入力の仕方をする子どもにばかり有利な教育システムだと思う。
成績が悪い、運動が出来ない、友達の輪に入れないなど、今なら、LD、知的障害、などの言葉が生まれたが、以前は、いつも叱られ、いじめられ、蔑まれる身分だった。性的少数者も同じく。

もっといろんな教え方で、指導できるようになれば、たくさんの人が希望を持てるようになるのは当然の道理だろう。
また、いろんな方々の家族史を伺っていると感じるのは、人間は人生に戦争が絡むと、どの家族史も流転の人生となって、発達障害と一般人の差異どころではなくなるのだろうな、という強い印象。団塊ジュニア世代である私が、周囲の人の混乱した家族史の出発点に太平洋戦争が絡んでいる点を薄っすらとでも確認出来る、ギリギリ最後の世代かも知れない。
もちろん、後年、平和な時代になって来てからは、それぞれの自分の家族がどんな精神構造の在り方であるか、というのは重要なテーマになってくると思うのだが、何より避けなければいけないのは戦争だ、といろんな方々の家族史を伺っていても感じる。
そうした意味でも、社会構造そのものに目を向けていくのは、ミクロ、マクロ様々な段階で、やはり大切なことだと思う。

それと、自分の子供の頃の不幸自慢は精神衛生上も悪いし、愚痴っているだけにも聞こえやすいので、理解出来る内容でこうした様々な実話を聞いておくと、社会的に対応する場合により熱を冷まして冷静に眺める余地が生まれる。
自分自身の現実からガチガチに縛られたところから、もう少し角度を変えて見れるようにもなってくるのだ。

しかしまたトラウマからの救済という次元では、やはり個人の内面の在り方になってくるとも思う。当事者も自分の過去をネタとして使うと、もうそれが済んだ過去の出来事で今は全然表立って問題になっていないことでも、またそれが心の現実として再現されてしまう部分がある。


社会問題を扱う時には、具体的な実話が説得力を持つが、他人の話であってもその扱いや距離の取り方みたいなものは難しいと思われる。
辛い思いがある場所には、濃い情念も渦巻くから、そうした感情の勢いというのは人を大きく吞み込みやすいものだ。
自分自身が、情念の外側に出れるような軽やかさをどこかで身につけないと堂々巡りにもなり兼ねない。
それは差別や人権問題、貧困問題を扱っている団体自体が、ともすれば毒々しくなりやすい理由とも関係していると感じている。

私も過去として持っているものは濃い口なので(笑)、その分、実は案外、修羅場や嫌な感情からポンと飛躍する能力もそれなりに身につけている部分もある。
私は虐待ネグレクトの家庭が人生の出発点だった。誰かと大喧嘩したり、何か重大なトラブルが継続している最中であっても、そんな修羅場の多い人生なら合間合間に精一杯気分転換したり楽しみたくなるものだ。
関係のない場面まで重い気分を引きずるよりも、一旦はギアチェンジ。その加減が結構激しいので、他の人には理解不能な部分もあるらしい。

一般の人は、苦しい時には苦しい、楽しい時には楽しい、と気分が全体的に変化していく頻度がもっと高いようなのだが、私の場合はいろんな喜怒哀楽を並行で抱えつつ、ちょっとずつ消化していかないと、怒りや悲しみの感情だけでも、馬鹿騒ぎだけでも身がもたない、というような感覚が子供の頃から支配的だった。心が脆い分、ストレスに対してもっと自分をどこか外側から観察している部分を確保しておきたい、という気持ちが強かったんだと思う。
健康管理に関してもそうだ。持病に苦しんで悶絶している同じ日の数時間後には楽しく笑って、体が許せば美味しいものをバクバク食べる図々しさ、これが私なりに身につけたサバイバルのコツだった。


だけれど、ベースが結局重いし、また、真剣に扱わなければいけないテーマも多い。
でも、そういうのを理性の上では合理的に対応しているつもりでも、深層心理としてはなかなか真に五感と情念の外側に逃れ難いものだ。
どこかで深く思いがとらわれていて、ぐーっと凝縮するような感情が内にあると、心を病まなくても早くにガンになったり、健康を壊しやすくもなる。そういうのも絶対あると思っている。

全共闘世代の活動家など、経過を聞いていると後にガンになるなど重い病気になって亡くなっている人が異様に多い。彼らの思想信条の是非はさておき、やはり追い詰められて過酷な人生だったのだと想像する。
だが、自分の思いに偽っていて安穏に快楽だけ貪ろうとしても、人間はすっきり生きれない。そういう綱渡りが人生なのだろう。

それこそ巡り合わせや運次第でも左右される、誰しも完璧にはこなし切れない、だけれどみんながそうしたバランスの中で生きている、そういうことなんだと折にふれて自覚して、自己の軌道修正をすることも大切だと感じる。
で、結局何が心と体を蝕むトラウマから人間を解放するのか、と言ったら、一つには穏やかな暮らしをしたり、恋をしたり美味しいものを食べるなどして、嫌なことを忘れて自分の人生を楽しむことだろう。

しかし、それでさえ拭い去れないものこそが本当のトラウマだったりもする。
そうした場合には、やはり邪心を捨てて何かに一生懸命になることが大切だと思う。五感や記憶、感情によって深く心の奥底に刻み込まれたしこりの外側に出る行為、どれだけ軽やかに飛躍できるかが重要になってくる。
山登りやスポーツを通してもスカッと出来るかも知れない。でも、それは徹底してやらなければならない。祈りのようなものでなければならない。
祈り、という感覚は、本来、現世利益的な願望のためにする加持祈祷の類いではなくて、そういう人間をしがらみやしこりの外側へ意識を飛躍させる精神性全般を指した、人間にとって普遍的なある感覚を示しているのだと私は感じる。

by catalyticmonk | 2018-09-30 23:08 | 忘れ物 | Comments(0)

トラウマを乗り越えることについて②:機能不全家族と人格障害

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ここで一旦「ボーダー」、境界性人格障害として知られている概念について説明してみようと思う。
現代社会では、各場面において頻繁に関連してくる要素であるのに、未だに十分に認識が社会知識として共有され切れていない問題だと思うからだ。結構、そういうのは、普通に知らない人に話すと「悪口」みたいに捉えられかねないから、知っている人でも口にしないでしまっていることが多いよう。
だからこそ注意が必要なのだ、現実にはたくさんあるはずなので、そういう人たちと関わることによって自殺したりうつ病になる人さえいる。
共有知として必要とされることの一つなんだと思う。ボーダー自体は思想信条・環境・場所の別に関係なく、どこにでもいる。

心を病んでいる相手だと、理屈じゃなくて感情ばかりだったり、それが変に人を操る才能を発揮させたり、というのもある。それがままボーダーや他の人格障害の人たちだったりする。
ボーダーの経験は、手のひらを返された身になってみないと分からないところがある。
それまで、こんな人がいるのか?!と思うほど魅力的かつ、自分に力を与えてくれたりするのですっかり巻き込まれて、手のひらを返された人が、周りの人に助けを求めたとしても、信じてもらえないことがあったり、非難されている自分が悪かったのかも?なんてお人好しにも思ってしまう。

元々大昔から人間にある症状だったらしいが、発展途上国の方が少なく、文明社会ほど増える傾向にある、と言われている。
先進国になる程ボーダーの発生率が増えるという統計データがあって、統合失調症や普通の発達障害とも違う要素があるようだ。社会環境因に左右されやすいのだろう。

人格障害でもボーダーは女性の方が多く、男性はホルモンの関係もあって自己愛性パーソナリティ障害として発現しやすいそうだ。
ただ、半分は社会環境因子だろう。男は威張ったりわがままになって発散、みたいな。自己愛の男性は女性をさぞかし泣かしていると思われる。
先述の通り、ボーダーの人は、女子に多く見られて、また必ずしも一生続く症状ではなく、年齢とともに治っていく傾向にあるので、年代別に見ると、日本人女性の20代の9%がそうだとされる統計もある。

匿名の話としてしか書きようがないのだが、私の知人教師曰くボーダーの関わったと思われる事件として、男の若い先生がボーダーの女生徒の餌食になった出来事があったと言う。
私の直接の知人教師は女性の方なのだが、その方自身もボーダーと思われる若しくはそういう診断を受けた生徒にかなり振り回された体験を持っておられるようだった。

大体、ちょっと優しい先生が餌食になると言う。
はじめから、親しげに近づいてきて、「先生みたいな人、はじめて!ステキ!ステキ!」とか、始まる、と。
世界で二人だけ!みたいな接近の仕方をされ、女子生徒の家庭が不和だったので、金八先生よろしくうちにおいてやったそうだ。
そうしたら、何か、その子のイメージから外れたことがあったらしく、警察ならまだよかったのだが、某写真週刊誌に女子生徒は垂れ込んでしまった。
で、顔を隠し撮りされ、即記事になり、大問題に。

警察に連れていかれるも、証拠が一切ナイ。実際、なんの関係もなかったそう。
なのに、テレビ週刊紙は大騒ぎで、卑猥なことをした教師として、知れ渡ってしまったというのが、教師同士の仲間である知人女性教師の弁ではあった。
学校で、女子生徒のボーダーが男の先生を手のひら返しすると、友達に悪い噂を流されたり、被害妄想を周りの先生に吹き込まれたりと、可哀相なことになってしまう現場を多々目撃してきたと言う。マスコミにたれ込んだ彼女のようなスゴい例もあるけれど、過去の学校では、中小規模のトラブルがかなりあった、と。
「最初、可愛げに振る舞うので、グッと来ちゃうんですね。でも、そういう子こそ、危険なんですね」
私は成人のボーダーしか知らないが、高校生だったらそうなるのだろうな、と思わないでもない話だった。

女性差別や児童虐待の問題も大きい社会なので、逆にこうした別の要素が隠れてしまって、様々な混乱が生じている面はあると思われる。表面だけのセンセーショナルさだけで注目してしまうと、そういうことで周囲を操る才能に長けているのがまさにボーダーだ。
状況はよく分かる。ちょっとお人よしの人が引っかかる。女性同士の友人関係でも一緒。

あと、境界性人格障害の専門書は何冊も読んだが、ボーダーの女性は、独特な魅力があるそうだ。庇護を求めようとする気持ちが人間をそういう方向に発達させるのか。
「そう!そうなんです!本能的と言うか、生まれつきと言うか、魅力に吸い込まれちゃうのね。私を見てー!っていうオーラを出してくる!」と知人教師。
だから、生々しい話になって恐縮だが、ボーダーの女性に依存のターゲットにされた男性は結構すぐに深い関係になってしまう。
そういうのが機能不全家族の再生産ともつながっているらしく、アダルトチルドレンはボーダーに注目されて、不幸な家庭環境の再現をしやすいらしい。
子供時代にアダルトチルドレンだった人はボーダーにとってすごく気持ちを汲んでくれるし、ボーダーの側でも自分がどうして欲しいか、リクエストの出し方も上手くて、巻き込まれてしまう。ずっとそれが続けばいいのだが。
寄生虫と、吸い付かれた虫の家族になりやすい。

要求される無理難題をクリアし続ける愛情溢れる人物がいればいいが、個人的には、ある種の麻薬めいた魅力を放つ女性にはどれだけおだてられても近付かない、それしか分からない。
なんと言うか、目のあわせかたが普通と違う印象がある。じっと見つめてくる。
で、またそういう女性に限って結構注目を浴びる場所にいる。

ああ、みんな、大丈夫かなあ、と眺めていると、案の定大丈夫じゃない。事前に忠告しようにも人心を掴む才能のある人たちだから、下手に言っても理解されるどころか、自分が逆恨みされるくらいの可能性も高いだろう。
だから、黙って見ているしかない場合が多くて、かなり歯がゆい。
一度、孤独感に陥ったボーダーの人は、何を言っても、してあげても、裏に裏に取る。それは見捨てられ不安の強い境界性人格障害の大きな特徴の一つだ。

「子どもが不安になるのは、父親より、母親がポイントになるんじゃないかなあ。
安定して、愛を送ってくれる母か、それに代わる人がいれば、子どもはとりあえず安心して育つように思います。
仕事上の経験に照らしても、お母さんが子どもに愛情を注ぎ、かつ、客観的に見られる方なら、わりとひねくれない感じですね。
逆に、母親がちょっと、の場合は子どもの方が親を見切って独立の道を進めたら大丈夫ですが、孤独感を強く感じがちかな」

やはり、経済競争最優先の社会では、そのままでは人間の横のつながりが希薄になり、核家族化も進むから、ボーダーが先進国ほど増加する傾向を示しているのも、現代文明の問題点と非常にリンクしていると考える。

でも、あの人はボーダーかなあ、と薄々気付く人は同性の女性でも多いそうだ。
とにかくそういうのはボーダーの被害を身を以て体験した人でないと簡単には理解できない事柄なので悪口のように聞こえがちで、なかなか人に言えないし、明らかに病院でボーダーの診断を受けた女性でも、その前からの様子見ていると結構人気者だったりする。
だから、余計に言えないし、関わっただけ自分が危うくなる訳だ。

たまに正論と証拠でがっちり対抗すれば巻き返せたりもするが、ボーダーの餌食は次から次へと出るし、みんな、過ぎたことはすぐ忘れるから簡単ではない。
一度や二度巻き返すより、常時人を魔法にかける能力、まあ、人を操る、という時点で支配みたいに人の尊厳を踏みにじる行為だからやはり根本的に良くないと思うのだが、とにかくそういう悪い方法でも常時人を操る才能を発揮し続けている人間の暴走を、現実世界の中で止めるのは至難の業だ。
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by catalyticmonk | 2018-09-29 00:12 | 忘れ物 | Comments(0)

トラウマを乗り越えることついて①:学校社会での貧困の連鎖

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知人の高校教師から話を伺っていたりすると、今の格差社会はますます安定してきているな、と思う。まさしく貧困の連鎖と階級社会の進行が教育の現場でも感じられるよう。
東京の私立に通える圏内では、よく知られた通り、裕福なうちの子達はお受験してどんどん公立から抜けてしまうという状況がある。
参考書を買ってきて、とかいった類の話でも、進学校なら何冊も買える家庭が主だが、偏差値の低い高校は生徒から苦情が出たり、ということがごく普通にあるようだ。
修学旅行に経済的に行けない子も毎年いるとのこと。

リアルに食べ物がない子は、お弁当がサバ缶と白ご飯だったり、1リットルの甘い飲み物だったりすると言う。
「男子で無頓着なこともあるのですけど」と仰っていたが、実際、私の中高生の時の食事もそんなものだったから、話を聞いていて意外な感じはしなかった。
私の時は、学校でパンを買うのだけれど、お金があまりないから育ち盛りの子供には全然足りなくて、教室でお弁当箱を広げて机を合わせて囲み合いながら談笑する他の生徒に言葉にできないほどの嫉妬を覚えつつ、一人で自転車置き場やプールの脇などへ行って時間をやり過ごしたものだ。

退学した一人は、親が教科書代以外は一切、高校関係のお金は出さない方針だったそうで、学力も低いのに、1年からがっつりアルバイトを入れたらお金に目が眩んで、単位を落として退学した、しかし、こういう子は毎年のようにいる、などという話を聞いていても他人事の気分ではなかった。
私も卒業はしたけれど、お金がなくてどうしようもないから、プレス工場やソニーの仕分けバイトなどをずっとして、終いには夜勤でフルに働いて学校で昼間寝る、という生活になっていたからだ。

理想としては偏差値と経済は関係ないと思いたいけれども、受験のために塾通いの必要があったり、今は関係あるように作られてしまっている感じがあって、中学校の先生が露骨に塾に通ってお金を使ってください、と親に話す現実がある、という説明だった。

学力が低い女子高の先生が、入学式の日に、「君たちは、40人で入学したのだから、ちゃんと40人で卒業しなさいよ。減ったり増えたりしないこと!」と、話したそうで、これがまた、冗談じゃ済まされないのだと。

現実として、裕福でない家庭の子に早くに妊娠して学校を中退するケースが増える傾向にはあるそう。
「高校で妊娠してしまう子の親もまた、10代の親だったことが多くて、ばあちゃん若いのは良いことだけど、子どもの素行にしっかりとした見方を示せない事が目立ちます」
そう知人教師は言った。

数年前も、子どもが産まれるからと周りが止めるのも聞かずに退学して、出産、ほどなくして離婚。
それでも子供と共に実家に身を寄せられたら良かったのだけれども、そうはいかなかった様子だったと。
「ちょっとボーダーなんでしょうね。母も娘も。あ、母もシングルマザーです」

by catalyticmonk | 2018-09-28 22:39 | 忘れ物 | Comments(0)

エホバの証人

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あの信者の大半がとても善良で真面目なことは確か。
ただ、教義や組織の体質が、というところでカルト宗教視されているのだと思うから、本当はそれを言ったらアウトなものは他の宗教団体や政党組織も含め色々多い気がする。

私の幼少期、母がエホバの証人だった。
で、私の幼なじみのかよちゃんのお母さんに勧めて熱心な信者にしてしまい、それが原因で先方のお父さんと不仲になって離婚する、という事件があった。確かその前にかよちゃんのお母さんがバイク事故を起こして、入院した際に、エホバの証人の教義の問題から輸血拒否をして騒動になる、という出来事もあったように記憶している。

かよちゃんと、「かよママ」と呼ばれていた彼女のお母さんは、同い年のかよちゃんが小学校に入る前によその町に引っ越して行った。だけれど、私の母はというと、自分はさっさとやめていて、そういう騒ぎも「よその家のことだから」と冷淡なもので、そこらへんもやっぱり訳が分からない感じだった。
エホバの証人を信じていてもバプテスマの儀式を受けるまでは、聖書を研究している「研究生」と呼ばれる。母は研究生のうちにやめていて、バプステマは受けていない。

かよちゃんは哺乳瓶を抱えながら二人で床をゴロゴロ転げ回っていたような、物心ついて以来の一番の仲良しだった。保育園に入って気弱な私が地元の粗野なクソガキどもにいじめられているといつも飛んできて庇ってくれるような子だったから、その子が消えた経過に対して母が非常に薄情であることを子供ながらに強く恨んだ。

元々、近所にエホバの証人のコミューンがあって、母は膠原病という難病だったから、田舎の若者特有の浅い気持ちで近寄っただけなのかも知れない。母は後年、私が中学生くらいの時に聞いたら、「終末思想というものを信じていた」「病気である自分が救われたいという、藁をもすがる気持ちで引き寄せられていた」と端的に語っていた。

エホバの証人の信者は、とにかく「ハルマゲドン」を信じている。
創始者によって1914年に起きると予言されていて、その年にたまたま第一次世界大戦が起き、信者が拡大した。

ハルマゲドンが起こると、地球が崩壊し、その後、信者らが生き残る。エホバの証人の教えに反対した人たちは生き残れないから、毎週、地域を訪問して、「世の人」に生き残るチャンスを与えるため、彼らを救うために勧誘する、という理屈。
教祖はおらず、信者の集いという建前なので、正式名称が「ものみの塔聖書冊子協会」と言う。だから、みんなが「聖書研究者」と呼ばれている。

だから、私にとってエホバの証人と聞くと、教義の良し悪しの解釈は信仰上の問題として脇に置いたとしても、現実、入信すると家族関係が壊れかねないほどエキセントリックな宗教で、また逆に極端に問題のある家庭や、人間的にどうかと思うような行動をする人種も引き寄せる何かがあるもの、という印象は残っている。

30代になってから留学して数年を過ごしたインドでは、大阪出身のエホバの証人のコミューンで育った若者と出会った。彼は私が32歳くらいの頃に会った時、まだ21歳くらいだった気がするけれども、ドレッドヘア姿ながらすでに30代くらいの大人に感じられた。
彼は15歳の時にエホバの信仰を取るか、家を出て行くか、どちらか選ぶように言われて、家を出て行くことを選び、鳶職などをしてお金を稼いでインドに来た、と言っていた。
私の所属していた瞑想センターにもコース受講しに来たし、その後も、カルフォルニアのヒッピーコミューンっぽい集団と自転車でメキシコ旅行したり、タイ式マッサージ師としてイスラエルで活動していたり、とまさに世界中を飛び回っている様子だった。

エホバの証人では、信者同士のことを「兄弟姉妹」と呼ぶ。
兄弟姉妹で集まって毎週集会を行い聖書の勉強をしたり、「奉仕」と呼ばれる布教活動を行ったりする。争いや政治参加が禁止されている。
エホバの証人の「エホバ」は、全知全能の神ヤハウェのことを指す。エホバという神以外は崇拝してはいけないとされ、教えの出典はすべて聖書。エホバの証人とは、つまり「エホバが正しいと証明する人」という意味。イエス・キリストはその息子であり、代弁者である。
いずれ来るハルマゲドン、世界の終末の後に楽園がやってくるから、その楽園に行けるよう現世ではエホバの教えに従って生きましょう、という教え。

留学する以前にも海外放浪をしていた時期のあった私は、サルベーション・アーミーとかYMCAを安い旅先の宿泊場所として利用する機会は多かったし、そもそもロサンゼルスでは教会のホームレス支援ボランティアにも参加したりしたから、当然宗教のことは聞かれた。
幼い頃に母がJehovah's Witnessesに入信していた、でも今私自身は特にどこの宗教にも属していない、という説明をすると、みんなが100%私はクリスチャンである、と認識するらしくて、正直若い頃は戸惑った。

「神を信じているか」と聞かれればその答えは当時もyesだったのだけれども、なんとなく本物の宗教団体に所属している人たちのいる前、しかもそういう勉強会などで相手の受け取り方も含めて考えたら簡単に「信じています」なんて安易に答えていいものか返答に窮するところがあった。
そこら辺の考えがまだ整理がついていなかったので、「分からない」と答えると、みんな血相を変えて私の体に文字通り数人がかりですり寄ってきて、表情を見ると本気で心配して我がことのように動揺さえしているのが伝わってきた。
励ますように熱心に「信仰を復活」させようと説得しようとしてくるのが、なんだか悪いけれども困るのを通り越して苦笑したい気分だった。

それくらい、信心が一般社会にない世界の中でも特殊な環境に日本人はいて、自分もその環境なりの下地だった、というところなのだけど、多分、社会関係的に宗教を帰属する先として求めていたなら、それで誘われるがまま何かに入信したのだと想像する。
ところが虐待を受けながら育った私は、逆に自分の中で神との対峙を幼い頃からしてきていたので、だからこそ何かに教化され難い性質を持っていたのだと今なら分かる。
神的な体験を妨げるのが宗教団体や組織の中の権威である面も否めないと思う。しがらみ意識や知的理解をちょっと脇に置いた方が、内的な発火を妨げないで集中が促される側面がある。

母が研究生のままやめたので、私は地域訪問にも行かなかったが、王国会館と呼ばれる場所で緩く幼児向けの彼ら風「聖書教育」は受けさせられていた。
また小学校に入る前のことなので次の点も関係なかったが、エホバの証人では「偶像崇拝」が禁じられているので、国歌、校歌を歌ってはいけないそうだ。

とにかく「聖書原理主義」だから、色々なタブーが多い。
輸血は禁止。
争うことも禁止なので、もちろん運動会も参加してもいけない。
誕生を祝うことも禁じられているし、異教の行事への参加も禁止されているので、ひな祭りや七夕などの季節のパーティ、誕生会も不参加。キリストの誕生日のお祝いであるクリスマスもダメ、と言うエキセントリックさだ。

私が子供時代に誕生日を祝ってもらっていなかったことの原点は、母のネグレクト体質もあったが、やはりエホバの証人の影響もあったのかも知れない。
また、私は物心ついた時から一貫して球技全般やトランプゲーム、ギャンブルといった類の競争に一切興味が湧かず、案外、人生最初期の刷り込みは作用しているのかも知れない。

入信し洗礼を受けた人には、腐敗した現実社会が嫌いで強い厭世観を持つ人が多い。エホバの証人の世界は、争いや政治的苦悩もなくて、納得して所属している人にとっては、ある意味、楽園のような場所だ。
エホバの教えを知っている自分達が賢くて、反対している人は教えを知らない可哀想な人達だと本気で思っている。

だから善意で勧誘する訳だけれど、熱心に奉仕活動をするには普通には働けない。奉仕は平日にもあって正社員には難しいので、就職しない人が多い。だから、パートやアルバイトで生活費を稼ぐ人が多い。

ただ、うちの親は「兄弟姉妹」に馴染むには、あまりにも規格外の人間だったからこそやめたのかも知れない。
素行不良の癖に、元ヒッピーで胡散臭いオカルトな話に惹かれやすい父が最初に関心を持ち、母に教えたら病身だった彼女が救いを求めて一時期ハマっていた、というそれだけだったのだと思う。

今は、エホバの証人も二世が多い、とこの間渋谷駅前で布教活動している方に聞いたら言っていた。
コミュニケーション能力があって日本人的な意味での協調性も高いと、エホバの証人の共同体内で関係を作って、ある意味幸せに生きていってしまうのかも知れない。
みんな肯定してくれるし、居場所になる。
しかし、「世の人」と何かと違いを感じて、自分達が正しいと信じている自縛があるからこそ、余計に窮屈なものを感じつつ生きている様子は、脱会した信者からも伝わってきた。
恋愛も、信者の間だけで、外部の人との恋愛は許されないそうだ。デートにも親がついていくとか。二人きりになって聖書の教えに反する婚前性交渉をしたりする事がないように気を付けているからだ。

また、母が入信していた頃、私はよくベルトなど鞭状のもので生尻を打たれた。父親は元来粗暴な人物で、感情の赴くまま暴力を振るう人間のクズだったが、母はそうでもなかったので、突然そういう激しい行動を取るのがショッキングだった。
最近になって知ったが、エホバの証人は聖書原理主義なので、これまた聖書に「子供の躾けには鞭で打つ」と書いてあるので、特に自分達の子供が教義に背くような発言をすると鞭か鞭状のもので生の尻を叩くそうだ。
聖書が書かれた時と現代の違いという時代考証も出来ない彼らの頑迷な考え方は、鞭ではなくて無知だ、と私的には感じる。

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by catalyticmonk | 2018-08-16 23:02 | 忘れ物 | Comments(0)

信頼と絆の根

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①豊かさ・便利さと助け合いの希薄化

結局、身の安全に直接関わる部分を相手に委ねる体験が強い信頼を生む。
夢見心地にさせたり趣味で意気投合するのも親しくなる手だが、それだけの関係は脆い。簡単に崩れる。
相手を有頂天にさせるような言葉を言えて、何かの芸に秀でていて尊敬崇拝される事があっても、あなた自身にとって、その人がどういう振る舞いなのか、というところが最終的に人間関係の質を決める。

だから、日常的に協力し合って行動する時間の長い職場恋愛はどうしても多くなるし、それだと後からドロドロすると言うなら趣味でスキューバダイビングとか登山とかね、そういうのはいくらか健全かも知れない。
ただ、日本って、総体的に安全で物質的にも豊かだから、インドみたいに日常的に災害や交通事故、停電、病気等々で互いに助け合わなければならない出来事が頻発する社会より、かえって人間関係が希薄になりがちな傾向が強まるんだな、というのも私は感じている。

インドでは停電したり、バスが定時刻より早く出発してしまったり、途方に暮れる不意のトラブルは多かったが、その不満を分かち合え、親密に知恵を捻り出し合う相手が大勢いる日常は、愚痴が多かった割に現代日本より幸福であったのではないか、と思わされる事度々である。
生きている実感や充実感も、間違いなくそうした日常の方が濃密に存在していた印象は否めない。

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②身を託すハードルと絆の源泉

あと、人間が相手を信頼する気持ちは、必ずしも相互に対等ではない。
自分が相手を本当に困っている時に助けていたりすると、相手からは絶大な信頼を得るのだけれど、同時に、何故か自ら信頼している相手を裏切ってしまう人間もいるんだな。
どういう事かと言うと、何が相手にとって許しがたい行為なのか、その基準が人それぞれ違うからでもあるのだと思う。

ある種の人はお金にルーズだとか、相手のメンツを潰すとか、浮気するとか、そういうのが致命的な信頼喪失になると十分な自覚なしにやって、結果見限られるのだけど、自分では相手に助けてもらった時の気持ちが忘れられなくて未練がましくなる、なんてパターンもあるようだ。

e0296801_12280729.jpgいくら相手に慕われたところで、こちらの身の危険につながる無責任・利己的な行為を何度も繰り返すような人物だったりしたら、その相手を口で「許す」と言うのと、実際に自分の身の周りの人間にまで迷惑が及ぶかも知れない人物を「信頼する」と言うのでは、また次元が変わってくる訳だ。
信頼が身の安全と深くつながっている源泉はそこだ。そして、信頼し、相手と安心して協力関係を築けるから、そこに絆も生まれてくる。

また、恵まれた境遇が他者に身を託すハードルを上げてしまう側面もある。
お金でほとんどの問題を解決出来てしまう立場の人は、音楽や芸能のファンになるとか、趣味の交流面などでは自由に楽しんでいける余地が増える訳だけれど、それ以上の本質的な信頼関係を他人と作りにくい。
だから、かえって孤独な人が多いのだと思う。必要に迫られない限りは、誰しも身の安全を他人に軽々しく託したくならないものだしね。
でも、いつもギリギリのところで暮らしている庶民は、身の安全を他者に委ねるのを躊躇していられない場面も増える。

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③「人間」という生き物の器と多様性

私だって自分と考えが近いとか、いい人そうだ、というのよりも、がん闘病している最中に積極的に助けようとしてくれた相手には、未だに扱いが他の相手と段違いでリスペクトだ。一目置いているどころか、五目くらい置いている。

逆に、私には親子の信頼関係というものが分からない。お世辞にもノーマルな家庭環境で育ったとは言い難く、半分養育してくれた祖父母にすら、本当に困っている時に田舎の旧家のしきたりとかの方が優先され、全幅の信頼とは言い難い心の距離があるままだったから、人間の信頼感情を家族関係からは十分に学べなかった。
でも、そういう信頼と感謝の気持ちが、いい家族関係の人にはたくさんあるのだろうな、と思ったりはする。

e0296801_12350127.jpg自分が一般的な家庭環境に育った人の感覚が分からないし、人生経験上もスムーズに生きてこられた訳ではないので、こうした事柄に関心が高い。
多くの人がなんとなく疑問も持たずにこんなものだろう、と信じている安定した前提がないので、観察し掘り下げる事でしか外の世界との溝が少しも埋まらないし、あまりにも不可解なままだと交流する意欲自体失ってしまいかねないと言うか。

ただ、いろんな種類の文化や人間を見ていると、他人や社会に対する何かしらの確信なり実感・手掛かりが生まれてくる面がある。
多様な社会と人のありさまから、より一層それぞれの性質が明瞭になってくる部分もあるし、こんなに違っても「人間」という生き物の器には、これだけの共通点があるんだ、とそれまで雲をつかむようだった自分の人間性への欠落感が補われて自信がついてくる部分も大きかった。

私の場合、それは主に異国社会に触れる事によって生まれてきた見識だったが、地域・国毎の習慣や文化差といった次元にだけある話でもない。
単にその社会の中で個々の人間が、自分と社会との間にその人なりのスタンスを確立していく次元とも重なる話なので、結局すべての人に大なり小なり起きてくるプロセスなのだとも感じる。
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by catalyticmonk | 2018-08-16 12:36 | 忘れ物 | Comments(0)


溢れ出る部分を勝手にやっています。異端者のあなた、多分私はあなたの味方か仲間です。 河元玲太朗


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